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2019年01月11日
日本IWC脱退2(正月九日)
捕鯨問題について別の面から考えてみよう。
今回日本はIWCを脱退して商業捕鯨を再開するというのだが、同時にIWCの枠内で行ってきた調査捕鯨は停止するらしい。その結果、捕鯨が行われるのは日本近海ということになり、頭数も調査捕鯨とほぼ変わらない数になりそうである。
そこで疑問なのが、年間数百頭の捕鯨で商業的に成り立つのかどうかということである。これまでは、調査捕鯨ということで採算は度外視で捕鯨を行なっていたはずだが、商業捕鯨となるとそういうわけにも行くまい。政府から補助金が出ることは予想できるが、ある程度の採算性がなければ長期的に捕鯨を続けていくことは難しいだろう。
IWCによる捕鯨の禁止は、かつて日本に存在した鯨肉を食べる文化を、一部を除いて破壊した。1980年ぐらいまでは、小学校の給食にも鯨肉が登場することがあったし、鯨のベーコンなんて食材を見かけることもままあったが、90年代になると鯨肉は普通に流通するものではなくなり、食べるためには、特別なレストランに出かけて大枚はたくしかなくなっていた。
鯨肉が流通しないのが当然になって久しい現在では、食べたことのない人の方が多くなっているのではないだろうか。あと十年、二十年もすれば、鯨肉を食べたことがあるのは、高齢者だけということになり、伝統的な捕鯨の行なわれていた地域では鯨肉を食べる習慣も残り続けるだろうが、需要も先細りしていく一方だろう。
これもまた政府が商業捕鯨の再開を決定した理由の一つになっているのかもしれない。鯨肉の味を知っている、鯨肉にノスタルジーを感じる世代がまだ健在なうちに再開しておかないと、環境保護団体の原理主義に思想汚染された日本人、マスコミ関係者も増えている以上、取り返しのつかないことになりかねない。
確か縄文時代から食料にされてきた鯨が日本で食べられなくなるというのは、食文化の喪失である。その喪失の原因が外国のごり押しというのだから、日本人はもっと怒っていい。反捕鯨派は、鯨肉が食べられるようになったのは戦後の食糧難の時代だとか言うけれども、それは大々的に捕鯨が行われ鯨肉が大量に流通するようになったのが、戦後だという話であって、鯨肉を食べる習慣自体ははるか昔から続いているのである。
土井全二郎氏の『最近捕鯨白書』(丸善ライブラリー)と、小松正之氏の『くじらは食べていい!』(宝島社新書)を読んで思うのは、最近流行のフェイク・ニュースとか、ヘイトスピーチってのは実は反捕鯨団体が、環境保護団体が日本に対して大々的に行ったのが、その嚆矢だったのではないのかということである。政治家が有権者のご機嫌取りをするポピュリズムもそうだなあ。ポピュリズムが民主主義の終わりだというのなら、それは80年代の反捕鯨政策に始まったと言えそうだ。
それに、この捕鯨の問題が完全に感情の問題になってしまっていて、そこには科学的のカの字もなければ理性のリの字もないことも問題である。日本やアイスランド、ノルウェーなどの伝統的な捕鯨国にとっては、かたくなに自らの正義を疑わず、感情的な主張をやめない反捕鯨派との議論は苦痛以外の何物でもなかったに違いない。捕鯨反対派の議論は宗教の狂信者との議論を思い起こさせる。
そう考えると、環境保護や反捕鯨というのは、キリスト教への信仰を失い、共産主義を崩壊させた欧米にとっては新たな宗教と化していると言ってもいいのかもしれない。そう考えれば、他国の食文化を破壊して平然としている傲慢さも理解できる。アジア、アフリカ、アメリカの現地文化をほぼ壊滅に追いやったキリスト教の宣教師どもと思考レベルが同じなのだ。
そうか、オーストラリアやニュージーランドが、魔女狩りめいた狂信ぶりで、かたくなに捕鯨に反対するのは、原住民を虐殺した過去の原罪に対する贖罪のために、鯨をトーテムにしたトーテミズムに走ったと考えればいいのか。いずれにしても、ヨーロッパ的な宗教は世界の迷惑でしかない。最近民主主義も宗教化しつつある嫌いがあるからなあ。
うーん、全くうまくまとまらなかった。
2019年1月9日24時15分。