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2019年01月12日

オロモウツのサッカー史(正月十日)



 サッカー史とは言っても、系統立てて歴史を語るのではなく、シグマ・オロモウツの創立百周年のニュースを、シグマのサイトで読んでいて気づいたクラブの歴史についてのコーナーの記事を読んで知った昔の話をいくつか書きたてるだけである。ということで、いつものように雑多な話が、脈絡もなく並ぶことになる。

 シグマ・オロモウツの本拠地とするスタジアムの名称は、「アンドルーフ」スタジアムである。「アンドルーフ」は、「Ander」という人名から作られた所有を表す形なので、アンデルという有名なサッカー選手がいて、その人の名前にちなんで名づけられたものだと思っていた。アイスホッケーのスタジアムで選手の名前をつけたのがあったはずだし。
 残念ながら、この思い込みは誤りで、アンデルというのは、オロモウツのサッカーの最初の大スポンサーの名前だった。第一次チェコスロバキア共和国時代にASOというデパート(でいいのかな)を経営していたのがヨゼフ・アンデルで、オロモウツにサッカーを根付かせるために、チームのスポンサーとなることを決め、当時としては画期的なスタジアムを建設したのだという。2年の歳月をかけて1940年に完成したスタジアムを本拠地にしたチームの名前はASOオロモウツ。ASOは「Anděl」「syn(息子)」「Olomouc」という三つの言葉の頭文字を並べたものらしい。
 当時のスタジアムの収容人数は20000人で、この数は現在の収容人数の12500人よりずっと大きい。鉄筋コンクリートで建設された観客席は、残っていれば現在でも使用に耐えたのではないかというが、第二次世界大戦末期に撤退するドイツ軍によって破壊されてしまった。終戦後再建されたのは木造の観客席で、1976年まで使用されたという。

 ASOオロモウツは、1912年に創設されたクラブで、ASOがスポンサーについたのが1937年。1940年には初めて行なわれたチェコカップで優勝している。ただし、ウィキペディアによれば初年度はスパルタ、スラビアなどの強豪チームは参加していないらしい。1941年から1944年の3シーズンは、ボヘミア・モラビア保護領の1部リーグに参戦し、戦後も1946/47の1シーズンだけ1部リーグに出場したが、あっさり降格して以後は低迷し、1949年にはチームが消滅している。
 おそらく、1948年に共産党が政権を握った後の国有化でASO自体が国有化され、ブルジョワに支援されていたASOオロモウツは見せしめのために解体されたのだろう。旧市街からアンドル・スタジアムに向かう途中の大通の角に、ASOというロゴの入った白い建物があったような気がする。ウィキペディアで確認したら、あれはASOの事務所と倉庫の入った建物だったらしい。ASOの店舗は取り壊されてプリオールが建てられたというから、ガレリエ・モリツのあるところである。

 主を失ったスタジアムは、1950年にミール(平和)・スタジアムと名前を代え、1955年までは、軍のチームであるクシーダ・ブラスティ(祖国の翼)・オロモウツが本拠地として使っていたようだ。1部リーグに参戦したのは1953と54の2シーズンだけで、軍のクラブの例に倣ってドゥクラと名前を変えて、後にフラデツ・クラーロベーに移転してしまったという。このクシーダ・ブラスティが降格して以来、1982年にシグマが昇格するまで、オロモウツに1部のチームは存在しなかったのだから、サッカーが盛んな土地ではなかったのだろう。
 スタジアムのほうは、サボイ・ゾラ・オロモウツというチームが短期間使用したあとは、1969年にシグマ・オロモウツが引っ越してくるまで放置されていたらしい。その後1977年に古いスタジアムの解体と新しいスタジアムの建設が始まり現在に至るってサッカーよりはスタジアムの歴史になってしまった。
2019年1月10日22時15分。




今回主に参考にしたのはここ。
https://www.sigmafotbal.cz/historie/historie-hrist/









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olomoučan
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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