2019年01月08日
チェコの貴族2メッテルニヒ(正月六日)
貴族に関する事典をぺらぺらめくっていたら、意外な貴族家の名前、チェコではなく、ハプスブルク家のオーストリアと結びつく形で覚えている名前が出てきて、意外な思いをした。考えてみれば、今日のチェコの領域は、1918年までは、数百年にわたってハプスブルク家の支配下にあったのだから、オーストリアの貴族がチェコに所領を持っていたのは不思議でもなんでもないのだけど、なかなか実感を持って理解できておらず、ことあるごとにはっとさせられる。
三十年戦争で活躍したワレンシュタイン将軍、チェコ語だとアルブレフト・ズ・バルトシュテイナ(Albrecht z Valdštejna)がボヘミアの人だというのはチェコに来る前から知っていたが、傭兵隊長なんて言葉で世界史の教科書に登場したので、フリートラント侯爵として、イチーンを中心とした領地を有していたことを知ったときには、驚きを禁じえなかった。森雅裕のベートーベンシリーズで名前だけ登場したキンスキーやロプコビツがボヘミアの貴族であることも、チェコに来てから知ったが、この人たちは特に世界史上に残る活躍をしたというわけではない。
今回事典をめくっていて最初に目に飛び込んできたのが、会議は踊ると揶揄されたウィーン会議を主催したオーストリアの外相で後の宰相メッテルニヒの名前である。本来ドイツの貴族であったメッテルニヒ家は、三十年戦争に際してワレンシュタイン将軍の下で指揮官として活躍して現在のチェコ国内に所領のキンジュバルト伯爵領を得たらしい。
西ボヘミアのキンジュバルト伯爵領を領有することを許されたのは17世紀前半だが、メッテルニヒ家の人々は城址しかなかったキンジュバルトに城館を建築はしたものの、あまり滞在することはなく、北ドイツの領地からたまに出てくる程度だったらしい。それが、18世紀の終わりに普仏戦争でプロシアが負けた結果、メッテルニヒ家は、北ドイツのライン川流域に有していた領地をすべて失い、キンジュバルトが重要な拠点となったようだ。
また、西ボヘミアのプルゼニュの近くのプラシ(Plasy)という町には、教会を改築したメッテルニヒ家の墓所が残っていて、メッテルニヒ宰相を含めて二十二人の棺が納められていたらしい。この手の貴族の墓所に対して共産党政権はかなりひどいことをしたというから、この棺が現在も無事なのかどうかは知らないけど、世界史の授業でも覚えるのが必須だったメッテルニヒの墓地がチェコにあるなんて、ちょっと感動ものである。
メッテルニヒ家の墓所がプラシにあるのは、ナポレオン戦争後の1827年に、戦費の負担によって空になったチェコの国庫を満たすために、プラシにあった修道院の所領がその建物も含めてメッテルニヒ家に売却されたことによる。メッテルニヒはその修道院の建物をチェコにおける邸宅として利用していて、近くの教会を改築して墓所にしたということだろうか。
もともと北ドイツに所領があって、ハプスブルク家との縁はそれほどなかった貴族家出身のメッテルニヒは、ハプスブルク家のオーストリアでは外様扱いを受けていたらしいが、マリア・テレジア時代の宰相を出したカウニッツ家と縁を結ぶことで、オーストリアの政界で重きを成すようになる。このカウニッツ家も実は、チェコと縁のある、メッテルニヒ家以上に縁のある貴族家なのである。これについては、長くなったので稿を改める。
メッテルニヒ家の所領だったキンジュバルトは、西ボヘミアのカルロビ・バリやマリアーンスケー・ラーズニェなどの温泉地の集まるところにある。町としてはラーズニェ・キンジュバルトで、マリアーンスケー・ラーズニェからヘプに向かう鉄道の隣の駅である。ただし駅から町は結構はなれているし、城館もまた駅からも町からも1キロほど離れたところにあるのだけど。墓所のあるプラシは、プルゼニュから北、ホモウトフ、モストの方に向かう鉄道沿いにある。
どちらもオロモウツから行くのは大変だけど、プルゼニュからなら簡単に行けそうなので、歴史好き、ハプスブルク好きの人にはお勧めの穴場かもしれない。
2019年1月7日9時。
キンジュバルトには、1930年代にスペインで革命が起こった際に退位させられたスペイン王が亡命先として滞在していたことがあるらしい。
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