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2021年01月03日

聖ボイチェフ2(十二月卅一日)



 前回ボイチェフ=アダルベルト(アルベルト)が成り立つことを確認した際には、チェコ語のウィキペディアで聖ボイチェフのことを調べたりはしなかったのだが、今回確認したら、日本語版にも「プラハのアダルベルト」で立項されていた。それなら普通の百科事典にも出ているのではないかとジャパンナレッジでも検索してみた。
 数ある辞典、事典のうち、聖ボイチェフが見出し項目として立てられているのは、『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)、『世界人名大辞典』(岩波書店)の三つで、『日本大百科全書』は「アダルベルト」、『世界大百科事典』は「ボイチェフ」、『世界人名大辞典』は「アダルベルト(プラハの)」という見出しの立て方をしている。つまり、日本でも全く無名の存在というわけではないようだ。生没年に関して、没年は三つの事典とも、997年で一致しているが、生年は、「955年ごろ」とする『日本大百科全書』に対して、他の二つは「956年ごろ」としている。大差はないか。

 とまれ、『日本大百科全書』の記述を基に、チェコ史側からの解説を加えてみようと思う。最初に「ボヘミア貴族スラブニク家出身の聖職者」と書かれているのだが、10世紀後半のボヘミアにおいて、君主権を確立しようとしていたプシェミスル家と争いを続け、最終的には996年に族滅されたスラブニーク家の出身であることが、この一見聖職者である聖ボイチェフが、世俗の権力争いと無縁ではなかった原因となっている。
 次に「983年プラハ司教となり」とあっさり書かれているが、プラハに司教座が設置されたのは975年のことで、ボイチェフは第二代目のプラハ司教なのである。ボヘミアを支配していたプシェミスル家はすでに大モラバの庇護の基にあった9世紀後半にはキリスト教に帰依していた。9世紀末には大モラバの、ビザンチンのキリスト教を離れて、東フランクの、ローマのキリスト教に鞍替えし、ボヘミアはマインツの司教の管轄とされていた。

 本拠地に、つまりプラハに司教座を設置したいというプシェミスル家の宿願を達成したのはボレスラフ2世で、初代のプラハ司教に就任したのはザクセン出身のデトマル(もしくはティエトマル)だった。デトマルは、マグデブルグで修行した後、プラハに移り、ボレスラフ2世に仕えていたようだ。その没後二代目のプラハ司教となったのが聖ボイチェフなのである。
 聖ボイチェフが選ばれたのは、デトマルと同じくマグデブルグで学んだとか、同じベネディクト会に属していたとかいう事情もあっただろうが、プシェミスル家の権力の伸長を望まない勢力の工作があった可能性も高い。スラブニーク家と対立していたプシェミスル家のボレスラフ2世が、聖ボイチェフの司教就任を望んだとは思えないし、この司教就任がプシェミスル家とスラブニーク家の対立を激化させたであろうことも容易に想像できる。

 それが『日本大百科全書』に記される「有力な貴族勢力と対立し、988年辞してローマ近傍の修道院に入った」事情なのだろうが、「992年教皇ヨハネス15世により再度プラハへ派遣され」ることになる。これがチェコの政情を不安定化させたことは間違いなく、995年のスラブニーク家の族滅事件の直接の原因のひとつになったと考えて問題はあるまい。聖ボイチェフ自身は、前年の994年に「同地での布教を困難とみて、ハンガリー、ついでポーランド、プロイセンへ移り、宣教した」おかげで無事だったが、スラブニーク家で生き残ったのは、もう一人だけだったらしい。
 スラブニーク家の生き残りは、ポーランドの庇護の下に入るのだが、当時ポーランドの君主となっていたのは、プシェミスル家のボレスラフ1世の孫で、ボレスラフ2世の甥に当たるボレスワフ1世だった。国内情勢を安定させ国外に勢力を拡大したボレスラフ2世の死後、息子達が権力争いを繰り広げる中、ボレスワフ1世は、スラブニーク家の生き残りをつれてボヘミアに侵攻するなど介入を繰り返し、11世紀初頭には一度はチェコの君主の座につくのである。

 話を戻そう。ポーランドに移った聖ボイチェフは、異教徒だったプロシア人への布教を試み、その途上で異教の禁忌を犯したことをとがめられて殺されてしまう。それが997年のことで、その二年後の999年には、列聖を受けている。同年には、奇しくもスラブニーク家の族滅を行ったボレスラフ2世が没しており、この列聖にも政治的な意図が読み取れそうな気がする。
 聖ボイチェフの遺骸はポーランドのボレスワフ1世によってグニェズノに葬られ、そのおかげもあってか、列聖の翌年である1000年に、この地に大司教座が設置されることになる。チェコを混乱させたスラブニーク家の聖ボイチェフを世俗的にも宗教的にもうまく利用して、地位を高めることに成功したのが、ボレスワフ1世だったということになろうか。

 その事実が許せなかったのか、ボレスラフ2世の孫でプシェミスル家第二の盛期を築いたブジェティスラフ1世は、ポーランドに侵攻しグニェズノを占領することに成功すると、聖ボイチェフの遺骸をプラハに持ち帰ってしまうのである。そして、その遺骸は、チェコ最初の聖人であるプシェミスル家の聖バーツラフが葬られているプラハ城内の聖ビート教会に葬られることになる。敵対した貴族家の出身とはいえ、チェコの聖人はチェコにという考えがあったのか、ポーランドの宗教的な地位を貶める目的があったのか、その辺はよくわからない。

 以上が、すでに書いたことも含めて、聖ボイチェフを中心としてみたチェコの歴史ということになる。大晦日にキリスト教関係者の話。聖ボイチェフを列聖したのが時の教皇であるシルベストル2世だからいいということにしよう。
2021年1月1日20時。












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