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2019年01月04日

失われしもの3宗教の話(正月二日)



 三つ目と四つ目は、16世紀にスイスやドイツから追放されてチェコにやってきたハバーニというキリスト教の一派ハバーニのお話。キリスト教という宗教の排他性、独善性、他宗教や他宗派に対する非寛容性などは、いくら当のキリスト教が否定しようと、現在でも紛れもない事実だが、近代以前は現代とは比べ物にならないほどひどかった。
 14世紀のイギリスのウィクリフから始まったキリスト教の改革運動においては、チェコのヤン・フス、ドイツのルター、スイスのカルビンなどの改革者が有名だが、スイスのチューリヒで改革運動を始めた人物にツビングリがいる。世俗の権威も宗教的な権威も否定して聖書に戻ることを強く主張したツビングリの支持者たちは、カトリックからだけでなくルター派などのプロテスタントからも迫害を受けていたという。このツビングリ派でチェコに逃げてきて一時期定住を許されていた一派を、チェコ語でハバーニと呼ぶのである。

 ツビングリ派のキリスト教は、スイスだけでなくドイツにも支持を広げていたらしいのだが、16世紀に起こった農民の反乱、いわゆるドイツ農民戦争との関係を問われ、追放処分を受けた。逃げてきた先がフス派戦争の余燼で宗教的にも経済的にも、政治的にも混乱していたチェコだったのだが、ハプスブルク家のフェルディナンド1世がボヘミアの王位を獲得すると、チェコからも追放の命令が出されてしまう。
 ただ、王のお膝もとのボヘミアでは追放が実行されたが、モラビアでは貴族たちの反対もあって追放令はうやむやにされ、居住し続けることが許されたという。特にミクロフを領有していたリヒテンシュテイン家は、ハバーニ派のキリスト教を庇護し、子弟の教育まで任せていたらしい。他にもフス派の兄弟団の庇護者として知られるジェロティーン家の領地などに、一番多い時期で3万人前後のハバーニが住んでいたらしい。

 ハバーニ派の人たちも、他のキリスト教の宗派に負けず劣らず排他的で、自分たちだけの居住地を作り上げ、そこで能力に応じた共同生活、一種の共産主義的な生活を営んでいたらしい。ただ、居住の許可を得るために、領主に対しては多額の税金を支払うことを求められ、その額は、同時期にユダヤ人が払わされていたものよりも高い場合もあったという。領主の側としても、そのぐらいのメリットがなければ、国王の命令を無視することはできなかったのだろう。
 ハバーニ派が財源としていたのは、自分たちで生産した手工業品で、同業者組合に加入している手工業者たちの製品よりも廉価で品質も高かったことから、都市の住人達からも迫害を受けることになったという。

 ハバーニ派の人たちがモラビアを離れなければらなくなった原因は、ボヘミアのフス派の貴族たちが、ハプスブルク家に対して暴発したビーラー・ホラの戦いに敗れたことだった。その結果、モラビアの貴族たちも、領内に異端とされたハバーニ派をかくまうことはできなくなり、多くは東のスロバキア、さらにはハンガリーへと移住していった。
 残念ながら、移住先の人たちともやがて軋轢を起し、長く定住することはできず、さらに東に、ルーマニアを経てロシアに移住した。最終的にハバーニ派の人たちが安住の地を見つけたのは、海を越えたカナダとアメリカだったらしい。ヨーロッパ内での定住がうまく行かなかったのは、宗教的な問題はもちろんだが、ハバーニ派の組織が長きの弾圧を受けて変容し、指導者の中に過度の蓄財に走る人が出たからだとも言う。
 当初はツビングリの主張の通り、聖書、とくに新約聖書に基づいた生活を営んでいたというから、なぜか日本でも名前だけは有名なアーミッシュの人たちと同じような集団だったのだろう。現在アメリカとカナダに住んでいるハバーニ派の人たちは、独自の共同体を作って聖書に基づいた生活している点では、500年前と変わらないらしいが、手工業はやめて農業に従事しているらしい。ただ、その農業に最新のテクノロジーを使っているというのだけど、それが聖書に基づいた生活と矛盾しないのかちょっと疑問である。

 とまれ、キリスト教内の改革運動の引き起こした悲劇は、カトリックの側も、非カトリックの側も、別な言い方をすれば迫害する側もされる側も排他的で、一部を除けば相手の話を聞かなかったところに原因があるのではないかなんてことを、ハバーニ派についての雑誌の記事を読んで考えてしまったのである。うーん、現在の世界中を覆っている、相手の話を聞かずに自分の主張しかしないという「議論」の源流はキリスト教にあったのか。
 フス派戦争の時代、ハバーニ派の時代に、例外的に反対陣営との間で常に妥協点を探して話し合いを続けていたのが、モラビアのジェロティーン家だというから、親ゼマンと反ゼマン、親バビシュと反バビシュで完全に二分されたチェコの両陣営の間に立って、チェコの国民を再び一つにまとめるような存在はモラビアから出てくるに違いない。ということで、次に大統領になるべきは、モラビアで生まれ育った人物だと断言しておく。

 今回は、参考にした雑誌が手元になかったこともあって、これまで以上にオリジナルからの逸脱が激しいけど、年末にこんなことを書いたのだよ。
2019年1月2日17時15分。




 さて、この本にハバーニは出てくるのだろうか。

ツヴィングリ―改革派教会の遺産と負債 (出村彰宗教改革論集)








タグ:キリスト教
posted by olomoučan at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ
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