新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2017年08月21日
接頭辞の迷宮一(八月十八日)
これから何回かにわたって、具体的なチェコ語の接頭辞について説明を加えていく。これまた読者を選ぶ話になるけれども、時折軽い話もはさみながら、まじめな話でも軽いけど、何回か書いてみようと思う。これがチェコ語の勉強をしている人の役に立つかな? 自分でも懐疑的になってしまうなあ。とまれ、かくまれ、何回続くかもわからないし、頭注で放置してしまう可能性もあるけど始めよう。
よく使われる接頭辞としては、「do」「od」「při」「před」「u」「po」など前置詞としても使われるものが多いが、「pře」「vy」のように前置詞としては存在しないものもある。前置詞として使われるものであっても、前置詞としての意味と接頭辞として意味が必ずしも一致するわけではない。何でそうなるといいたくなるものもある。
まずは、「při」から行ってみよう。前置詞としては、「〜の際/に際して」という意味で使われるのだが、接頭辞としては「付け加える」という意味を付け加える。前の分の末尾の「付け加える」なんて、チェコ語の「přidat」がそのまま使えてしまう。すでに存在するものに追加する形で何かをすることを表すのである。
建設するという意味の「stavět」につけると、すでに存在する建物に追加される部分を建てるということになるし、「přidělat」は、すでにいくつか制作した後に、追加で作ることを表す。「přibýt」は、ちょっと日本語にすると変だけど、追加で存在するということから、増えるという意味になる。塩を振って味をつけることを「solit」というが、「přisolit」は、すでに塩味のするものに、塩を追加するということになる。
だから、理論的には、追加で教える「přiučit」、追加で働く「připracovat」、追加で食べる「přijíst」、追加で飲む「připít」なんて動詞があってもおかしくないのである。このうちのすべてがここに書いた意味で使えるかどうかは知らないし、「připít」は、残念ながら乾杯するという意味だけど、あれこれ試してみるのは楽しい。
そして、「つなげる」という意味の「pojit」につけて「připojit」にしたときの意味を考えると、主と従の関係にある二つのものがあって、従の側が主のほうに向かう動きを「při」で表していることが見えてくる。同じレベルのものを二つつなぐのであれば、「připojit」ではなく、「spojit」になるのである。だから鉄道などで町と町をつなぐ場合には、「spojit」を使うが、コンピューターをインターネットにつなぐ場合などには、「připojit」を使う。
「přidat」などの場合にも、すでに存在しているものが主で、従にあたる追加されるものがそれに向かっていくことで、「付け加える」という意味になると考えることができる。「着陸する」という意味の「přistát」も、主である地球に、従である飛行機が向っていくわけだし。そうすると、「připít」が乾杯の意味を持つのも、主となるものが儀式というか、お祝いであって、そこに従として自分の祝う気持ちを寄せるために飲むと考えればいいのだろうか。お酒を飲むことを寄せていくでは意味不明だしなあ。
この解釈を広げると、「přijít」が、日本語の「行く/来る」という意味になるのもある程度理解しやすくなる。理解しなくても覚えてしまえばそれまでなのだけど、教科書で読んだり先生に教えられたりするだけでなく、自分でも帰納的に理論めいたものを作り出して、それを演繹して使ってみるのは、すべてが正しいなんてことにはならないにしても、結構重要なことである。
とまれ、「přijít」は、目的地を主として、動作主を従として考えれば、目的地に向かう動きを表すことが、「při」で表現されているのだと理解できる。チェコ語では目的地が主、言い換えれば基準となってそちらに近づくのが「přijít」なので、日本語の「行く」「来る」とは完全に重ならないのである。
日本語の場合には、目的地ではなく動作主が基準となっているから、チェコ語では「přijít」で表すような場合でも、「私が目的地(そっち)に行く」となり、「お前が目的地(こっち)に来る」となるのである。日本人にとっては、チェコ語を使う際にはどちらも一つの言葉ですむから楽なのだが、チェコ人が日本語を使うときに、日本語でのこの区別をしっかり身につけるのは難しいらしい。
接頭辞の「při」を使った動詞で、解釈が難しいのが、「přivřít」である。これは開いているドアや窓をちょっと閉めるときに使うのだが、主としての建物に、従としてのドアを近づけると考えるのがいいのだろうか。ただ、他の「přijít」も「přistát」も従にあたるものが主にあたるものに接するところまで行くわけだから、完全に閉めない「přivřít」の解釈としてふさわしいのかどうか自信がない。もう一つは、追加で閉めるという解釈で、ドアや窓は開けてあっても、存在するというだけである程度空間を閉ざしているわけだから、その閉まり度を追加すると考えるのだけど、これもこじつけすぎだよなあ。
それからこの接頭辞の「při」は、名詞につくものもあって、「příjmení」は名前に追加する名字のことで、「příchutí」は追加された味を表していると書いて、「při」ではなくて、「pří」と長母音になっていることに気づいてしまった。同じものと考えていいのだろうか。師匠に質問した記憶はあるのだけど、答えを覚えていない。
とまれ、これが、我が接頭辞「při」に対する解釈である。
8月19日23時。
2017年08月20日
接頭辞の迷宮序(八月十七日)
この前、日本から来られたコメンスキー研究者の先生とお話をしていたときに、動詞の完了態と不完了態の区別がなかなか感覚としてつかめないとぼやいておられた。頭で理論的なことは理解できていても、それを実際に使うときに混乱してしまうというのは、語学を学ぶ際には避けられない問題の一つである。その場では、自分の感覚を言葉で説明したのだけど、うまく説明できたとも思えない。この手の感覚的なことは、母語でさえ言葉にするのが難しいのである。外国語となると、自分が適切に使えているかどうかがわからないこともあって、さらに大変である。
そういえば、最近、チェコ語をネタにした文章を書いていない。ただ完了態と不完了態の区別を完全に説明するのは難しいので、ちょっと違う話にさせてもらう。以下、多分チェコ語を知らない人には意味不明の文章になることが予想され、いやチェコ語ができる人にも意味不明になるかもしれないので、事前にお詫びをしておく。
さて、この動詞の完了態と不完了態というのは、日本人がチェコ語を勉強し、ある程度文法事項を身につけた後でも、実際に使うときに悩まされる問題の一つである。完了態は日本語で動詞の現在形を使うような場面で使用し、不完了態は「ている」形を使うような場面で使用するといえば言えるけれども、日本語での使い分けもそれほど厳密なわけではないので、それをもとに外国語を使用するのは無理である。
チェコ語では、これから起こること、これからすることを表現するのに二つの方法がある。一つは、動詞の完了態の現在変化を使う方法で、もう一つは、不完了態の動詞に動詞「být」の未来を表す形を付けて使う方法である。違いを挙げるとすれば、完了態を使うとその動作が何らかの意味で最後までなされることを意味するのに対して、不完了態を使うと動作がなされること自体が重要で最後までやるかどうかには重点が置かれないところにある。また、今からすぐにやるという時には、完了態が使われることが多く、ちょっと時間をおいてからの場合には不完了態の未来が多いと言ってもいいかもしれない。とはいえ、動詞によっては、今からすることを不完了態の現在変化で表すこともあるので、やってらんねえなんて思うこともある。
ただ、確実にしてはいけないことは、動詞「být」の未来を表す形と完了態の動詞を同時に使うことである。動作の完了を意識しつつ、その動作が完了するのがかなり先のことである場合に、ついつい完了態の未来形などという存在しない形を使ってしまっていたのだけど、最近は毎日チェコ語で生活しているおかげか間違えなくなっている。
チェコ語の動詞には、完了態と不完了態がペアをなしているものが多く、両方まとめて覚えることが求められる。辞書なんかでも一括して掲示されているほどである。大抵は、「与える」という意味の「dát(完了態)」「dávat(不完了態)」のように形が似ているので、おぼえやすいことが多いのだが、中には「取る」という意味の「vzít(完了態)」「brát(不完了態)」なんていう「v」と「b」の発音の区別がつかない日本人に対する嫌がらせとも思えるような組み合わせもある。
これなど完了態の「vzít」が、なかなか使えるようにならなかった。わかっちゃいるんだけど、とっさに出てこなかったんだよなあ。「vzít」が、一人称単数で「vezmu」になるなんて、反則だろう。まあ、「brát」も「beru」で原形をとどめていないという点では大差ないんだけどさ。
この基本となる完了態と不完了態の組み合わせを覚えておくことは、実際に使うときには間違えることがあるにしても、非常に大切である。チェコ語では動詞に接頭辞を付けて微妙に異なる意味の新しい動詞を作り出すことが多いのだが、完了態か不完了態ともにつけることができ、元の動詞に基づいて完了態か不完了態かが決まるのである。
簡単な例を挙げておけば、与えるに「pře」を付けると「předat(完了態)」「předávat(不完了態)」ということになる。意味としてはどちらも「手渡す」ということになる。「převzít(完了態)」「přebrat(不完了態)」は逆に「受け取る」という意味になる。もちろん意味の範囲は日本語の動詞のそれとは微妙に異なるので、別の意味で使われることもあるわけだけど。
それから、不完了態しかない動詞にも接頭辞はつけられる。一番よく例に挙げられるのが、「(歩いて)行く」という意味の「jít」であるが、接頭辞を付けて「přejít」にすると、「(道を反対側に)渡る」という意味の完了態の動詞が出来上がる。さらに、「jít」の部分を「chodit」が形を変えた「cházet」に代えて、「přecházet」にすると不完了態の出来上がりである。
外国人にとっては、接頭辞を付けた形の完了態、不完了態のほうが区別しやすい面もあるので、こちらから基になった動詞の完了態、不完了態を判別するという手もあるかもしれない。そして、同じ接頭辞が使われる動詞にはある程度共通の意味が追加されるので、接頭辞自体の意味を知っておくと、見たことのない新しい動詞でも、何とか意味が推測できることもある。大外れになることもあるし、使ってみたらおお笑いされることもあるんだけど、そういうのも語学の醍醐味ってやつである。あえて間違うことを楽しむ姿勢ってのは、語学には欠かせないと思うのである。
本題の接頭辞の話には入れなかったけれども、以下続くと思う。
8月18日17時。
2017年08月19日
オストラバ!!!観光?(八月十六日)
オストラバの中央駅は、今は知らず、十年ほど前まで毎週一回通っていたころは、空虚な建物であった。典型的な社会主義時代の建築物で町の発展とともに鉄道による交通量が増えることを前提に設計されたのだろう。入り口を入った一階はそれほどでもないが、二階にあがると大人数を収容できるような広い空間がある。天井が高くて気持ちのいい場所ではあるのだが、窓際にしか椅子が置かれておらず、人もまばらにもいないことが多く、特に冬場などは寒々しさを感じることさえあった。
中央駅の駅前の一帯は、かつての都市計画の残滓が残っている一帯で、例の建築番組「シュムナー・ムニェスタ」でも取り上げられてた。90年代に撮影されたこの番組で見た改修されずに放置されていた建物の数々は、2000年代に入ってからも、ほとんど変わっていなかったけれども、あれから十年以上の歳月を経て少しは改修が進んでいるのだろうか。あの頃は、建築途中で放置された建物なんてものあったなあ。
駅前から町の中心のほうに向かうトラムに乗っていると、左手に炭鉱の跡が見えてくる、インドジフという名称の炭鉱は、1930年代の世界恐慌の時代に採炭自体はやめてしまったらしいが、上部に滑車がついているように見える塔は、戦後文化財に指定されて、保存されている。その下や隣のインドジフとかかれた建物の中に、観光の対象となるような施設が入っているのかどうかは知らない。この炭鉱の塔は走行するトラムや車の中から眺めるだけで十分である。
炭鉱といえば、オストラバには、炭鉱の博物館がある。中央駅からは裏側でオドラ川の北岸になり、トラムからバスに乗り換えていく必要があって、交通の便がいいとは言えないのだが、オストラバといえば炭鉱だと考えると足を運ぶのも悪くないかもしれない。
上には、町の中心と書いたが、オストラバ在住でモラビアをまたにかけて活躍している日本人によると、オストラバには町の中心、いわゆるチェコ語のツェントルムはないらしい。確かに日本人がヨーロッパの都市と聞いて想像するような、中世を思い起こさせる町並みも、歩きづらい石畳の公園も、町の中心には存在しない。
それでも一応マサリク広場のあるあたりを街の、モラフスカー・オストラバの中心と言っていよさそうだ。この広場、以前改修工事を中国企業に発注したら、敷石の張替えに品質の悪すぎる材料が使われ、改修後一年もたたないうちに再度改修が必要になったというニュースがあったような気がする。
オストラバでは、市街の周囲を走る高速道路も、施工者の手抜き、もしくは使用した資材の質の低さのために、完成後過ぎに路面が波打ってしまって高速道路でありながら市内と同じような速度制限が必要になってしまったなんてところがある。周辺諸国の中でも高速道路の建設費がダントツで高いというのに。こちらは中国企業ではなかったけれども、中国企業に高速道路の建設を任せて失敗したポーランドのことは笑えないのである。
とまれ、このマサリク広場に、緑色の高い塔のそびえる新市庁舎(ノバー・ラドニツェ)があれば、もう少し中心ぽくなるのだろうけど、残念ながらちょっと離れたところにあるので、知らないと行きにくい。昔オストラバの街中で仕事したときには、知っていたけど行かなかったし。あそこは塔に上るのと、中の古いタイプの止まらないドアのないエレベータに乗るぐらいしか見どころはないし。塔からの見晴らしはともかくエレベーターのほうは、プラハのルツェルナでも乗れるから、あえて行かなくてもいい。
このモラフスカー・オストラバの中心から、オストラビツェ川にかかる橋を渡るとスレスカ・オストラバなのだけど、こちらもあまり大したものはない。一応お城があって、最近は改修も済んでいろいろなイベントに使われているようである。モラフスカー・オストラバの市庁舎が、ノバーと呼ばれていることを考えると、こちらに古い市庁舎があるのかもしれない。かつてはバニーク・オストラバがバザリのスタジアムを本拠地にしていたのでサッカーファンなら橋を渡る意味があったかもしれないけれども、今はモラビア側のビートコビツェで試合をしているし。
ビートコビツェは、モラフスカー・オストラバの南にある工業の町で、現在のオストラバでは一番の観光名所かも知れない。巨大な閉鎖された製鉄所が残っており、一部改修を受けた上で一般に公開されている。毎年七月にオストラバで行われる音楽の祭典カラーズ・オブ・オストラバもこの製鉄所の跡地を使って行われるし、オストラバの国際陸上大会に毎年のように出場してくれるウサイン・ボルトに敬意を表して名付けられたボルトタワーなんてものもある。
中に入らなくても、車で道を通るだけでも、遠目から製鉄所の全体も見られるし、パイプラインが道の上を通っているのも見られてなかなかに楽しい。この巨大さに大きいことがいいことだった過去の時代を懐かしむべきなのか、無駄な巨大さだと共産主義時代の経済政策をあざ笑うのがいいのか、複雑な気分になってしまう。
もう一つ、オストラバで忘れてはいけない場所があった。人によってはこここそオストラバ最大の観光スポットだというかもしれない。モラフスカー・オストラバのストドルニーである。鉄道の駅もあるけれどもトラムを使ったほうが便利であろう。
ストドルニーは、「スト(100)」と「ドゥール(鉱山)」からできた言葉で、この地区にある飲み屋を鉱山の坑道に見立てて、それが100もあるということからつけられた名前である。日本の百軒横丁みたいな名前の起源だと思えばいい。さすがに百はないけれども、チェコの中では飲み屋がたくさん集中している場所だと言って間違いはない。
件の日本人は、毎週ストドルニーに通うためだけに、住居をストドルニーに構えていた。ちょっと長い休みになるとここで飲むためだけにポーランドから観光客が押し寄せてくるらしい。昔初めてオストラバで仕事をしたときに、日本から来た人を案内したことがあるんだけど、コクソブナ(コークス製作所)ってお店は今でもあるのかな。
オストラバはもともと炭鉱の町で、後には製鉄の町になったんだけど、炭鉱労働者も製鉄労働者もお酒を大量に飲むというところから、今では飲み屋の町になったのであった。こんなこと書いたらオストラバの人に怒られるかな。
8月18日12時。
2017年08月18日
オストラバ!!!、あるいは境界上の町(八月十五日)
チェコ第三の大都市でモラビアとシレジアの歴史的な境界に発展したこの町は、いつの頃からか名称の末尾に「!!!」をつけたものを、ロゴとして使い始めた。サッカーのバニーク・オストラバのユニフォームの前面に「!!!」と入っているのも、オストラバの町がスポンサーとして支援していることを示しているのである。
さて、モラビアとシレジアの境界というのがわかりにくいかもしれないので、もう少し詳しく説明してみよう。オロモウツからオストラバに向かう鉄道に乗ってフラニツェ・ナ・モラビェのあたりまでは、モラバ川の支流のベチバ川の流域なのだが、フラニツェを過ぎるとすぐにオドラ川(オーデル川)の流域に入る。ちなみにこのモラバ川とオドラ川の流域を分ける分水嶺は、ヨーロッパで最も低い分水嶺になるのだという。
このオドラ川が最初のモラビアとシレジアの境界である。オドラ川よりも南側がモラビアで、北側がシレジアになる。鉄道では、フラニツェの次の特急の停車駅スフドル・ナド・オドロウの手前で、オドラ川を越えるので、そこからシレジア領内を走ることになる。ストゥデーンカを経てオストラバ市内に入るのだが、オストラバ・スビノフの駅まではシレジアである。ただしこのスビノフのあたりは、後にオストラバに併合された地域なので、本来のスレスカー・オストラバではない。
スビノフを出ると、すぐにオドラ川を越えるから、モラビアに戻ってきたことになる。鉄道の駅で言えば、中央駅はモラビアにあるのである。そこからさらにボフミーンのほうに向かうと、オドラ川の支流のオストラビツェ川を越えることになるが、このオストラビツェ川が次のモラビアとシレジアの境界である。オストラビツェ川の東岸を上流のほうに向かったところにあるのが、本来のシレジアのオストラバ、スレスカー・オストラバということになる。
つまり北東に流れるオドラ川と北に流れるオストラビツェ川にはさまれた部分はモラビアで、オストラバの中でもモラフスカー・オストラバは、モラビア領がシレジア領に突き出した角の先端部分に当たるわけである。
二つのオストラバを合併させて一つの大きなオストラバを作り出そうという考えは、第一共和国時代の1920年代に誕生したらしいが、実現したのはナチスの占領時代のことで、ボヘミア・モラビア保護領下にあったモラフスカー・オストラバと、ドイツに併合されたズデーテンランドのスレスカー・オストラバと他のいくつかの町が合併して今のオストラバに近い大きな町が誕生したのだという。その大オストラバともいうべき町が、ドイツ領になったのか保護領の町になったのか気になるところである。
オストラバと同様に境界線上にある町を紹介しておくと、まずオストラバからはオトラビツェ川の上流に当たるフリーデク・ミーステクがある。オストラビツェ川の東岸つまりシレジアにできたフリーデクと、川を挟んで西岸のモラビアにできたミーステクが、保護領時代の1943年合併して出来上がったのがこの町である。
だから、オストラバの中央駅からフリーデク・ミーステクのほうに南下していく鉄道も、オストラビツェ川の西を走っている間はモラビアで、川を渡って東岸に移るとシレジアを走ることになるのである。フリーデク・ミーステクの駅はフリーデクにあるし。
これをややこしいとは言う勿れ。まだこの鉄道は、同じ国の中の別の歴史的領地の境界を出入りしていただけだから、そんなに大きな問題はなかったのだ。北ボヘミアや西ボヘミアには、ドイツとチェコの国境を出入りしながら走っている路線もある。チェコがEUに加盟し、シェンゲン圏に入ったことで、チェコスロバキア第一共和国が成立する前の鉄道が敷設されたころの目的を果たせるようになったというところだろうか。
それから、以前博物館で、モラフスカー・オストラバとスレスカー・オストラバについて質問したときに、一つの町が二つの領土に分かれる例として挙げられたチェスキー・チェシーンの場合は、反対でもともと、ポーランド側のチェシーンと合わせてチェシーンという一つの町だったのが、第一次世界大戦後のチェコスロバキア独立に際して、ポーランド領とチェコスロバキア領に分割されたために誕生した町である。国境として設定されたオルシェ川より北側はポーランド領のチェシーンで、南側はチェコスロバキア領のチェスキー・チェシーンということにされたのである。
だから、チェスキー・クルムロフや、チェスカー・トシェボバーにつく形容詞チェスキーは、ボヘミア、チェコ語でチェヒの領内にある町であることを示しているけれども、チェスキー・チェシーンのチェスキーは、ボヘミアではなくチェコスロバキアの町であることを示しているということになる。ややこしい話である。
もう一つのチェコ国内の歴史的境界、ボヘミアとモラビアの境界線上にあるのが、以前もちょっと触れたことがあるが、イフラバである。イフラバの町はオストラバなどとは違って、境界の両側ではなく、モラビア側にだけ広がっている。言ってみれば、ボヘミアからモラビアに入るための門、もしくは玄関に当たるのがイフラバの町だったのである。
とはいえ、イフラバは銀の採掘によって発展した町なので、実は、銀の鉱脈が境界のモラビア側にしかなかったというのが、モラビア側に町ができた理由なのかもしれない。イフラバといえば、グスタフ・マーラーの出身地が近くにあるはずなのだが、ボヘミアだったのだろうか、モラビアだったのだろうか。
国境の両側に広がった町は、探せば他にも出てくるだろう。その町が、もともと一つだったのが分断されたのか、最初から両側に町が広がったのか、さまざまな歴史的な経緯があることが予想される。ヨーロッパでは、国民国家というものが誕生して領邦の境界よりも、国境というものが重要視されるようになってからでも、何度も国境線の変更が行なわれているのだ。ここに挙げたチェコの町よりもさらに複雑な歴史を経た町もあるに違いない。それはもう我が手には負えないと言うことで今日はここまで。
オストラバだけの話じゃなくなったから、副題つけとこ。
8月16日22時。
2017年08月17日
コメンスキーの夜(八月十四日)
H先生とS先生に
チェコ語のサマースクールに参加されているコメンスキー研究者のS先生と、先月末にお酒を飲みに行ったときに、せっかくだからチェコのコメンスキー研究者のH先生を囲む会もしたいねという話になったので、連絡を取ってみたら、是非会いたいと仰ってくれて、サマースクールの最終週、最後のテストの邪魔にならないようにということで、月曜日に夕食にいくことになった。
H先生は、オロモウツとプシェロフの真ん中にある町に住んでいて、電車でオロモウツに出てこられる。オロモウツの旧市街の惨状を考えると、街の中心で待ち合わせるよりも駅で待ち合わせる方がいいだろう。ということで駅からあまり遠くないレストランを探すことにした。
結局、以前オロモウツ在住の日本人の集まりがあったモラバ川沿いのM3という反地下のお店を選んだのだけど、ここ昔、そう十五年ほど前にチェコ語を勉強していた頃によく通っていたお店で、あのころはダーシェンカという名前の薄暗い感じのお店だった。飲めたビールはコゼルだったかな。
今では改装されてこぎれいな感じのお店になっていて、ビールもピルスナーはピルスナーでも、ケグという容器に入った物ではなく、最近流行の熟成用のタンクからそのまま注ぐビールが飲めるようになっている。
四時半ごろに駅で待ち合わせをして、10分ほど歩いてお店に入る。半年振りにお目にかかるH先生は、ちょっとやせられたような印象だった。膵臓の病気で病院に通っているらしく、最近肉が食べられなくなって困っているんだよと仰っていた。医者に禁止されているわけではなく、病気のせいで味覚が変わってしまったらしい。
我々が心配するようなことを言うと、人間てのは何かの原因で死ぬものなんだからと笑い飛ばされる。共産主義の時代に弾圧を撥ね退けて自らの信念を押し通して生きてきた人の強さというものを見たような気がした。あと五年は生きたいと仰るのは、弱気なのではなく、自分自身を客観的に見つめての実感なのだろう。五年などと言わずと口に出しかけたが、言ってはいけないような気がして、言葉にできなかった。
食事しながらのお話は、例によって刺激に満ちて楽しい時間だったのだけど、最大の驚きは、H先生が、我がチェコ語の師匠の旦那と知り合いだったことだ。我が師とは再婚だったのだが、最初の奥さんとその子供のほうをよく知っているらしい。子供たちがフィギュアスケートの練習をしているのを待っている間に、一緒にビールを飲んでいたんだなんてことを教えてくれた。世の中ってのは狭いもんだねえ。
ビールといえば、先生は若い頃に、一度ビールを飲みすぎて大変なめにあって以来、ビールは少ししか飲めなくなったと仰る。同じような理由でグリオトカも駄目らしいから、ポーランド人のポノルカは、先生には合わなさそうだ。それはともかく、お酒の飲みすぎで辛い目にあったから、自分自身の飲める量がわかっていて、酔っ払うことはないのだという。それを、「家畜のように飲むというんだ」と先生は説明してくれたんだけど、それっていいのか?
日本語でも牛飲馬食とか言うように、「家畜のように飲む」というのは、大量に飲むことを言うのだと思っていた。そう言ったら先生は、家畜は自分が飲める量がわかっていて、それ以上飲まないんだ。それが正しいお酒の飲みかたなんだと仰る。いやはや、どこの国でも酒飲みってのは、度し難いものなのだなあと思って嬉しくなってしまった。
そしてコメンスキーのお酒の飲みかたも同様で、決して飲んだくれたり、酔っ払っておだをあげたりしていたわけではないのだというのだけど、ハンガリー滞在中に一日何リットルものワインを提供されていた人だよ。当時のワインは今のワインほど強くなかったらしいから、コメンスキーには適量だったということなのだろうか。
やはり、H先生も、コメンスキーと同様に、お酒が好きなモラビア人なのだなあというのを改めて確認できて、同じく酒好きとしては、コメンスキーについての話のために集まったはずなのに、半分ぐらいはお酒の話、コメンスキーと関係なくはなかったけど、に終始してしまって、申し訳ないとは思いつつ、喜びは隠せない。まあS先生も、お酒もお酒の話も嫌いではないようなので、許してくださるだろう。
体調があまりよくなさそうなH先生を長々と引き止めても申し訳ないので、食事が終わってすぐに店を出た。次の日が奥さんの名前の日で花を買いにいくという先生について、我々も花屋さんまで同行した。そして、S先生の発案で、食事代を出していただいた代わりに、我々からもお花を差し上げることに成功した。これまで、H先生には頂くばかりでお礼をできていなかったのが、今回初めて形のあるお礼をすることができた。ありがたいことである。
その後、駅で再会を約してお別れした。こちらがH先生の乗る電車を見送るのではなく、先生がこちらの乗ったトラムを見送ってくださった。S先生はまた来年の春にいらっしゃるので、そのときは、またコメンスキーの宴の企画を立てずばなるまい。今から楽しみである。
そのあとS先生とは、もう一杯ビールを飲みに別のお店に入ったのだけど、そのとき思いついたねたは、これから書いていくことにする。
8月16日11時。
この夜の一時は、まさに「心の楽園」であった。翌朝は「地上の迷宮」に逆戻りしたんだけどさ。8月16日追記。
2017年08月16日
ゼマン大統領を囲む人々2(八月十三日)
ゼマン大統領の大統領府で、悪い意味でよく知られているのは、ミナーシュ氏だけではない。広報官のオフチャーチェク氏も、負けず劣らず大人気である。他人さまのファッションに文句をつけられるほどのセンスがあるわけではないけど、この人が身につける個性的な眼鏡はともかく、ネクタイにはときどき唖然とさせられてしまう。
ハベル大統領とクラウス大統領の広報官は、ここまで印象を残していないと思うのだけど、ハベル大統領に関しては、最後の時期、チェコ語がまだあまりできない状態で、テレビでニュースを毎日見ていたというわけでもないので、有名な広報官がいたのかもしれない。クラウス氏の広報官が、ニュースの中心になったことはないんじゃないかと思う。
オフチャーチェク氏が有名なのは、詭弁とも言うべき方法で、ゼマン大統領の言動を正当化して人を唖然とさせるからである。ちょっと地下鉄サリン事件のときのオウムの広報官を思い起こさせるかもしれない。あの人も、「ああいえばじょうゆう」とかなんとか言われていたよなあ。オフチャーチェク氏はあそこまで饒舌ではないか。
今回のバビシュ氏の件に関しても、大統領の言葉なのか、広報官としての意見なのかいまいちよくわからないのだけど、ゼマン大統領に対する攻撃であると言っている。ちょっと待て、最近バビシュ氏とゼマン大統領が親密な関係なのは、よくわかっているけど、バビシュ氏への攻撃がそのままゼマン氏への攻撃を意味するというのはいくら何でも短絡し過ぎである。
そしたら、ゼマン大統領が、秋の総選挙の後は、何があっても第一党となった政党の党首を首相として指名し組閣させると言い出した。これは、世論調査の結果から現時点ではANOが勝つことが予想されていることを考えると、バビシュ氏を首相に指名すると言っているに等しい。大領領選挙での再選のためにバビシュ氏としっかり手を組むことに決めたらしい。
これに対して、ソボトカ首相は。バビシュ首相の誕生を阻止するためには、選挙で社会民主党が勝つしかなく、社会民主党が勝利してゼマン大統領が歯軋りしながらザオラーレク氏を首相に指名するのを楽しみにしているとか言っていた。なんかピントがずれているような気がするが、ゼマン大統領とソボトカ首相の関係が修復不能なところまできているのは明らかである。大統領が2003年の大統領選挙での裏切りを忘れていないように、首相も前回の総選挙の後、大統領がハシェク氏を首相に指名しようと画策したことを忘れていないのだろう。
市民民主党の批判、いや恨み言は、2013年夏の出来事に直結する。あのときは、ネチャス内閣が総辞職したあと、市民民主党では新たに党首に選出されたニェムツォバー氏に首班指名が降りるように要請したのだが、ゼマン大統領はそれを拒否し、お友達のルスノク氏に暫定内閣を組織するように指名したのだった。
その大統領主導の暫定内閣は、国会で承認を得ることができず、結局解散総選挙という流れをたどったのだが、そのとき大統領が市民民主党の党首に組閣命令を出さなかった理由が、今回のバビシュ氏のように刑事事件として立件される可能性があるからというものだったらしい。犯罪性があるかもしれないと言われていたのは、辞任したネチャス氏であって、新たに党首に就任したニェムツォバー氏ではなかったというのにである。
そんな前例を持ち出しての批判にも、あのときとは状況が違うとか言って自らを正当化するのかゼマン大統領で、それを支援するためにあれこれわけのわからない論理を駆使するのがオフチャーチェク氏なのである。そして、最近の蜜月振りを見るとバビシュ氏もゼマン大統領の取り巻きの一員となったと言ってもいいかもしれない。
とまれ、このまま行くと、刑事事件で起訴された総理大臣なんてことになりかねないのである。起訴されても、国会議員としての資格を失うことはないはずだから、被告として現職の総理大臣が裁判に出るなんてことにもなるのかな。それはいかにもチェコ的でちょっと見てみたい気がする。ただなあ、バビシュ首相に、ゼマン大統領ってのは最悪の組み合わせなんだよなあ。どちらかかったぽでも阻止してくれないものだろうか。
8月15日22時。
2017年08月15日
コウノトリの巣続編(八月十二日)
秋の下院の総選挙も間近に控えているうえに、夏休みであまり機能していない国会に対して、警察が国会議員を刑事事件の捜査の対象にする許可を求めたというニュースが流れた。対象となっているのは、秋の選挙で勝つのが現時点では確実視されているANOの党首で元財相のバビシュ氏と、ANOの副党首でバビシュ氏の片腕とも言うべきファルティーネク氏である。
チェコの国会議員は、日本と同様不逮捕特権を有している。いや、以前は日本のものよりも遥に大きな特権だった。何せ、以前は一度国会議員になってしまえば、一生この特権に守られて警察の捜査の対象にならなかったのだから。現在は任期中という限定がついているはずである。ただ、任期中であっても、所属する議院、下院か上院の賛成があれば、警察は刑事事件として立件することができる。
ただし、数年前に、社会民主党の国会議員兼中央ボヘミア地方の知事だったラート氏が、賄賂として手に入れた多額の現金を所持しているところを警察に拘束された場合には、逃亡を防ぐためか警察は身柄を押さえた上で、国会に捜査の許可を求めていた。ラート氏も警察の留置所から国会の審議に出席して長々と演説をして、自分を捜査の対象にする許可を与えるように求めていた。
それを考えると、チェコの場合には不逮捕特権というよりは、逮捕されても刑事事件として送検されない特権なのかもしれない。いずれにしても、国会の審議で捜査の対象する許可が出れば、場合によっては刑事犯として起訴されることになる点では変らない。ラート氏も政敵の陰謀だから、警察の捜査が自分の無罪を明かしてくれるはずだとか何とかありえないことを主張していたなあ。
それで、今回警察がこの権利を使って、バビシュ氏を捜査の対象にすることを求めたのだが、時期が悪いとしか言いようがない。一つは、すでに選挙戦が始まっているといってもいい秋の総選挙に影響を与える可能性が大きいことである。以前も書いたことがあるが、チェコの警察、検察のいいところは、政治家に対して手心を加えることなく捜査の対象にし、ときに逮捕にまでいたるところである。反対に悪いところは、その政治家への捜査が、しばしば政治的なものになってしまうところである。今回も、ANOを勝たせたくない勢力の手が動いていることが疑われそうなタイミングである。
それから、この許可は、現在では議院の任期ごとに必要となっているらしく、今許可が出たとしても、秋の総選挙の後、バビシュ氏が当選するのは確実なので、改めて許可を取る必要があるらしい。二度手間になることを考えると、選挙の結果が出た後で請求したほうがましだっただろう。選挙までの短い時間で大したことができるとも思えないし。
警察が刑事事件として立件したいといっているのが、以前も書いた半分バビシュ氏の住居として使われているらしい「コウノトリの巣(チャピー・フニーズド)」という農場のような施設に関する疑惑である。2008年にEUの助成金をもらってほとんど廃墟と化していたかつての農場を改装し始めたというこの施設は、名前からして北京オリンピックのメイン会場となった「鳥の巣(プタチー・フニーズド)」を模している。
改修にかかった二億コルナのうち、五千万コルナをEUの助成金でまかなったらしいのだが、その助成金が対象としていたのは、中小企業だけだった。バビシュ氏は、助成金を得るためだけに、身内の名義でペーパーカンパニーを設立し、会計処理が終わった時点で、補助金の対象外だったアグロフェルトに買収させることで、本来は獲得できなかった助成金を詐取したという疑いがもたれている。
疑い自体は以前から存在したのだし、手口も明らかだったのだから、それが犯罪に当たるのかどうかは、自明のことだったのではないのか。疑惑が表に出た時点で警察が動かなかったということは、犯罪とまでは言い切れなかったからではないのだろうか。だから、このタイミングで国会に許可を求めるというのは、何か意味があるはずである。刑事事件として立件するだけの新たな証拠を掴んだのか、選挙前の政策捜査なのかは。時間が明らかにすることになろう。明らかにならないかもしれないけれども。
バビシュ氏は例によって、警察を傘下に収める内務省の大臣のホバネツ氏と、天敵カロウセク氏の仕掛けたバビシュつぶしの陰謀だと主張しているけれども、疑惑自体は自業自得というべきものなのだから、説得力はあまりない。
結局、バビシュ氏側も、反バビシュ氏側も、どちらも信用できないというのが、正直なところである。世論調査の結果で、ANOが一番の地位を維持し続けているのは、どんなにバビシュ氏が批判されても、批判する側も同じ程度には信用できないことで、支持率があまり変化しないのではないかと考えている。
助成金に関する問題があちこちで発覚して逮捕者を大量に出しているのは、EUの助成金のシステムそのものに問題があるからだろう。EUの助成金コーディネーターとか、コンサルタントなんて胡散臭い職業が存在できるほどなのだから。
8月13日22時。
2017年08月14日
ゼマン大統領を囲む人々1(八月十一日)
このテーマで真っ先に挙げなければいけないのは、大統領府の長を務めているミナーシュ氏であろう。チェコの大統領は、アメリカやロシアなどの強い権力持つタイプではなく、どちらかというとドイツに近いもので、政治的な権限はさほど大きくない。国会議員の中から総理大臣になるべき人物を選んで、組閣させることはできるが、慣例として、第一党の党首が指名されるものだし、それ以外の人物が指名されるのは、連立交渉に失敗した場合に限られる。その首相も国会で承認を受けなければいけないわけであるし。
だから、本来大統領が、政局に影響を与えるということはないはずだし、あってはいけないのだけど、現在のチェコの大統領の存在感は、その権限以上に大きいものになっている。それには、初代のハベル大統領がビロード革命の立役者で、二代目のクラウス大統領が、ビロード革命直後からに2000年代初頭のチェコの政治を主導してきた人物であるという事情が関係している。現在のゼマン大統領が、最後のこの手の政治的に大物の大統領になりそうである。
ただ、ゼマン大統領の存在感が大きいのは、前任者二人と比べて、憲法で規定されている大統領の権限を越えるような行動が多いことによる。本人の見解では、国会議員による間接選挙ではなく、国民の直接投票によって選ばれた大統領の権限が、これまでの大統領より大きくなるのは当然だというのだが、それに賛成するチェコ人はそれほど多くない。
来年の選挙に向けて立候補を表明している候補者の顔ぶれを見ても、将来大統領になりたいなんてことを言っている人物たちを見ても、小物感は否めないので、仮に大統領の権限が多少強化されたとしても、ゼマン大統領ほどの存在感を持つ大統領はしばらく出てきそうもない。
そんなゼマン大統領の大統領府で存在感を発揮しているのは、大統領本人だけではない。大統領の面倒を見るのが仕事の大統領府なんてものを、意識することはゼマン大統領が就任するまでは滅多になかった。シュバルツェンベルク氏がハベル大統領の大統領府の長を務めていたことはよく知られているが、それはむしろその後大臣になったり、大統領候補になったりしたことによる。クラウス大統領のときに誰がこの役職を務めていたかなんて知りもしないし。
それが、ゼマン大統領の大統領府の長を務めるミナーシュ氏は、特に悪い意味でよく知られている。最初に問題になったのが、最高軍事機密に触れるための権利を取れなかったという話だっただろうか。NATOのサミットがあった際に、大統領とともに出席したわけだが、その権利がなかったために、会議から排除されたんだったかな。その権利は自国の軍の情報部が、申請者を調査して適切だと認められれば得られるものらしいのだけど、ミナーシュ氏に関しては申請はしたものの、サミットまでに許可が下りず、その後も許可が折りないと言うのが問題になっていたような記憶がある。
この権利が何を規準に認定されるのかというのはいまいちよくわからないのだけど、チェコの歴史を考えると、共産主義の時代に秘密警察の協力者ではなかったことの証明なんかが必要になってくるのだろうかと想像している。この件は、まあミナーシュ氏本人のせいとは言い切れないから、そこまで批判の対象にはなっていなかった。
二年ほど前だっただろうか、ゼマン大統領の言動に不満を抱いたストホベンという名前の行動的芸術家集団が、改修中のプラハ城の屋根に登り、掲揚されていた国旗を取り外して、代わりに巨大な男性用の下着のトランクスを掲揚するという行動を起こしたことがある。ゼマン大統領には、国旗よりも汚れた下着がふさわしいという批判の意味をこめた行動だったらしい。
この事件自体も、警備体制はどうだったんだとか、登るのに利用された工事用の足場の管理はどうなっていたのかなどあれこれ問題を引き起こしていたが、一番強く批判されたのが、この事件が起こったとき、ミナーシュ氏が自分の地元の南モラビアのある村の人たちを、プラハ城の大統領官邸に招待して、普通の人は入れないようなところまで見せて回っていたという事実だった。この遠足に来た一団の存在が、大統領官邸に関係のない見知らぬ芸術家連中が入り込んでも気づけなかった原因のひとつだったらしい。
その後、プラハ城にはテロ対策と称して、入り口で飛行機に乗るときと同様の手荷物検査が行なわれるようになった。導入当初は長い行列が出てきている様子がニュースで伝えられていたから、今でも多くの人がプラハ城見学のために、行列を作っているのだろうと思っていたら、手荷物検査を嫌ってプラハ城に見学に来る人の数が激減しているらしい。城の前に広場も閑散としていて、小遣い稼ぎに楽器を弾いていた連中も稼ぎの悪さに別な場所に移ってしまったという。
プラハ城を見学しようとして人の多さにうんざりして諦めた人には、今がチャンスかもしれない。ゼマン氏以外の大統領が誕生したら廃止されるのは決定的だというし、手荷物検査のわずらわしさを気にしないのであれば、人ごみに酔うなんてこともなくのんびり自分のペースで見学できるはずである。そして、そのことをミナーシュ氏に感謝しなければいけない。
何でもこの手荷物検査の導入は、ゼマン大統領が強い批判にさらされたミナーシュ氏をかばうために導入を決めたものだという。入場者を制限することと、ソトホベンのようなよからぬことを考えてプラハ城のエリアに入ろうとする連中を排除することが目的になっているらしい。その意味で現在、見学者が減っているのは、望む所なのだろう。
それから、ミナーシュ氏がジョギングするからという理由で、一般公開が停止された鹿の堀なんて名前の場所もあるらしい。ミナーシュ氏が危険にさらされるのを防ぐのが目的なのか、ジョギング姿がメディアに登場するのを防ぐのが目的なのか、判断の難しいところである。
8月12日23時。
2017年08月13日
チェック・サイクリング・トゥール2017(八月十日)
仕事帰りにテレジア門の近くを通ったら、ナチスに焼き討ちされたシナゴーグの跡地の駐車場に、黒塗りのバスとトラックが停まっているのに気づいた。この炎天下に真っ黒とは、熱を吸収して中は暑いに違いないなんてことを考えながら眺めていたら、自転車チームのバスと機材を運ぶトラックだった。チェコ人、スロバキア人を数多く擁するドイツのチーム、ボラ・ハンズグローエである。金持ちチームの一つだから、外が真っ黒でもバスの中は冷房がしっかり効いて快適なのだろう。
最近すっかり忘れていたのだが、オロモウツ地方を舞台に開催されれるチェコ最大の自転車のステージレースが行われる時期が近づいていた。今年の春ぐらいまでは、しばしば情報を求めて大会のHPを覗いていたのだが、全く情報の更新が行なわれなかったので、いつの間にか見なくなっていたのだ。
去年はUCIのワールドツアーのチームが二つ来ていたから、今年はボラとどこが来るんだろうと期待して、久しぶりにHPを確認したら、残念ながら二年ぶり出場のボラだけだった。それだけでなく、去年の感じだと毎年出場しそうだった日本のアイサン・レーシング・チームも今年は出場しないようである。ちょっと残念。
出場チームは、去年同様全部で18で、去年から継続して出ているチームは、7チームのようである。名前が変更になってわからないのもあるかもしれないけど、半分以下ということか。ヨーロッパのチームが中心で、一番多いのは、イタリアとオーストリアの3チーム。地元チェコは去年から数を減らしてポーランドと同じ2チームしか出ていない。
一番遠くから来ているのは、カザフスタンのチームで、これってアジアのチームになるのかな。それともサッカーと同じでヨーロッパ扱い? 去年遠くアメリカから出場したチームは、日本のアイサンと同じで出場していない。このチームも長期的に出場するようなことをいっていたような気がするのだけどなあ。
ボラが来るということは、チェコのタイムトライアルのエース、ヤン・バールタと、ロードレースのエースの一人レオポルト・ケーニクが来るということだろうと予想したのだが、バールタは来るけど、ケーニクは、ジロもツールもブエルタも棒に振る原因となった膝の状態がよくならないために欠場を余儀なくされたらしい。その代わりと言ってはなんだけど、サガンが来る。サガンはサガンでも世界的なスーパースター(トリックスターと呼びたくなるけど)のペテルではなくて、お兄ちゃんのユライ・サガンである。
正直な話、出場選手の中で、名前を聞いたことがあるのは、ボラのバールタとサガン、ポーランドのCCCスプランディのチェコ人選手ヒルトぐらいで、誰が優勝候補になるのかもよくわからない。できればチェコ人のバールタかヒルトに勝ってほしいところだけど、二つ出ているチェコチームの無名の選手の中から優勝者が出てもいい。
チェック・サイクリング・トゥールの初日は、チーム・タイムトライアルと決まっている。去年はフリーデク・ミーステクで行なわれたが、今年はいつものウニチョフに戻って約19kmのコースで行なわれた。ボラが圧倒的な優勝候補だったのだけど、勝ったのはチェコの自転車会社アウトルのチームだった。2位のボラとの差はわずか3秒以下、3位は6秒差でCCCスプランディ、この三チームの中から総合優勝が出るかな。
二日目は、オロモウツからオパバを経てフリーデク・ミーステクへ向かう200キロ超のステージ。今年が初登場かもしれない。三日目は恒例のモヘルニツェからシュテルンベルクに向かって、エツェ・ホモのヒル・クライミングコースを三回登るステージ、最終日はオロモウツからシュテルンベルクなどを経てドラニに向かい、ドラニの周回コースを九周するステージである。
一昨年は最終日が中継されたのだけど、去年はオリンピックのせいで中継されなかった。今年はまた中継されるだろうと期待していたのだけど、現在ロンドンで開催中の陸上の世界選手権にチェコテレビのスポーツチャンネルの放送枠を取られて、今年も中継はないようだ。競歩に負けてしまったのである。
サッカーのチェコリーグの試合などはチェコテレビ第二で、特別に放送枠を取って中継されるのだけど、チェコ国内最大とはいえ、世界的にはまったく無名の自転車のステージレースを、そこまでして中継するわけにもいかないのだろう。人員も陸上の世界選手権に取られているだろうしね。ところで、去年のアイサンチームの出場を、日本で報じたスポーツ・メディアはあったのだろうか。
8月11日22時。
2017年08月12日
2002年洪水の思い出(八月九日)
2002年の洪水が起こったとき、たしか三回目のチェコ語のサマースクールに参加しているところだった。まだ大学の寮に住んでいて、テレビで毎日ニュースを見るような生活はしていなかったので、どんな激しい雨が降っているのかは確認できなかったけれども、毎日買っていた新聞の記事で読む限り、それほど降水量が多いわけでもないのにと不思議な気がしたのは覚えている。
師匠は授業中に1997年のモラビアの大洪水の際にどのぐらい水が上がってきたかとか、どんな被害があったとかいう話をしてくれた。ただ、モラビアの側でそれほど激しい雨が降っていたわけでもなかったので、どこか他人事のように感じていた。
洪水が引いた後の新聞では、洪水で被害が出たことを知らないままチェコにやってきた観光客たちが、途方に暮れている写真がしばしば載せられていた。一番記憶に残っているのは、プラハを除けばチェコ最大の観光地になってしまったチェスキー・クルムロフが、あそこはブルタバ川が旧市街を囲むように蛇行しているので、洪水で大きな被害を受けたのだが、それを知らずに、復旧された鉄道を使ったのか、訪れた観光客が街の惨状に声を無くして立ち竦むさまが収められた写真である。
カメラとガイドブックを手にしたアジア系の観光客は、当時はまだ韓国でのプラハブームも、中国人の金満化も始まっていなかったので、日本人だったに違いない。城のほうは高台にあるのでそれほど大きな被害は出ていなかったと記憶するが、閉鎖されていなかったかどうかの確信はない。
現在であれば、ネットを使ったり、観光案内所や鉄道の駅などで広報したりして、洪水の被害が出た地域に、それを知らない観光客がやってくるのを防ぐすべはあるのだろうけど、当時はそこまでの体制はできていなかったし、洪水後の復旧で情報を拡散するどころではなかったのだろう。いや、ボヘミアで洪水が起こって大きな被害が出ていることは、世界中に知られていたわけだから、それからわずか一週間、二週間後にやってくる観光客がいるとも思わなかったのかもしれない。こういう災害が起こると、直接被害は受けていなくてもホテルなんかにはキャンセルの波が押し寄せるものだしさ。
貧乏性の日本人としては、せっかくヨーロッパまで、チェコまで来たんだから、だめもとで行って見ようなんて気持ちも理解できなくはないんだけど、だめもとでどうにかなるような被害ではなかったのだ。むしろチェスキー・クルムロフまでたどり着けたのが奇跡的だったといってもいい。
それから、当時オロモウツでチェコ語の勉強をしていたもう一人の日本人が、ビザの延長手続きのために請求したチェコの無犯罪証明書が洪水のために届かなかったのを覚えている。今は、各地の郵便局にあるチェックポイントという公式の書類をあれこれ発行してくれる場所に行けば、すぐに手に入る無犯罪証明書も、当時は市庁舎の公証人役場か、検察の支局の建物に出向いて申請し、一週間ほど郵送されてくるのを待たなければならなかった。申請書はプラハの担当部署に送られ、そこで処理さてたものが郵送で返送されてきていたのだ。
だから、ビザの延長の申請をする場合には、余裕を持って無犯罪証明書の請求をしておく必要があったのだ。友人も十分以上の時間の余裕を持って申請していたのだが、プラハで処理される時期にちょうど洪水が起こってしまって、待てども待てども手元に届かず、洪水のどさくさで申請書がなくなってしまったと判断せざるを得なかった。そう判断したときには、再度請求したのではビザの申請に間に合わない時期になってしまっていた。請求したところで、プラハの担当部署が機能している補償もなかったし。
友人はビザの延長の申請も、新規の申請も諦め、ビザなし滞在の期限が切れる三ヶ月に一回、チェコの外に出て再入国するという生活を始めた。当時はまだEUにもシェンゲン圏にも入る前のいい時代だったのだよ。厳密に計算すると90日を一日越えていても、見逃してもらえたと言っていたこともあるし、最初は出国して一泊してから再入国していたけど、最後のほうはその日のうちに戻ってきたなんてこともあったんじゃなかったかな。結局そんな生活を一年ぐらい続けたところで、日本に帰国し、それ以来会っていないんだけど
シェンゲン圏に入って以来、出国のスタンプをもらうためには遠くまで出かけなければならなくなり、ビザなしの滞在も一度外に出れば、リセットされてまた90日滞在できるという便利なものではなくなり、直前の180日のうち90日までは滞在できるという不便でよくわからないものになってしまった。
1989年のビロード革命のきっかけとなった学生デモを組織した当時の学生活動家が、国会議員になっていて、この洪水の際に醜態をさらしたというのもあった。洪水でプラハ市内の自宅が壊滅的な被害を受けたのだが、保険に入っていなかったらしい。それで、国会の演説で延々自分の窮状を訴えて、国費による救済を求めて顰蹙を買っていた。
革命家的な資質のある人間は現実の政治家には向かないということだな。いや、全うな生活能力が欠如しているのが革命家というものなのだ。日本でも学生活動家の成れの果てなんてこんなもんだろうし。
知り合いの中には、2002年の洪水の際にプラハに滞在していて、ホテルを移らされたとか、帰国の飛行機に乗れるのか心配だったとか言う人もいるのだが、モラビアにいた人間には、直接の影響はほとんどなく、覚えているのもしょうもないことばかりである。
8月10日22時。