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2017年08月18日

オストラバ!!!、あるいは境界上の町(八月十五日)



 チェコ第三の大都市でモラビアとシレジアの歴史的な境界に発展したこの町は、いつの頃からか名称の末尾に「!!!」をつけたものを、ロゴとして使い始めた。サッカーのバニーク・オストラバのユニフォームの前面に「!!!」と入っているのも、オストラバの町がスポンサーとして支援していることを示しているのである。
 さて、モラビアとシレジアの境界というのがわかりにくいかもしれないので、もう少し詳しく説明してみよう。オロモウツからオストラバに向かう鉄道に乗ってフラニツェ・ナ・モラビェのあたりまでは、モラバ川の支流のベチバ川の流域なのだが、フラニツェを過ぎるとすぐにオドラ川(オーデル川)の流域に入る。ちなみにこのモラバ川とオドラ川の流域を分ける分水嶺は、ヨーロッパで最も低い分水嶺になるのだという。

 このオドラ川が最初のモラビアとシレジアの境界である。オドラ川よりも南側がモラビアで、北側がシレジアになる。鉄道では、フラニツェの次の特急の停車駅スフドル・ナド・オドロウの手前で、オドラ川を越えるので、そこからシレジア領内を走ることになる。ストゥデーンカを経てオストラバ市内に入るのだが、オストラバ・スビノフの駅まではシレジアである。ただしこのスビノフのあたりは、後にオストラバに併合された地域なので、本来のスレスカー・オストラバではない。
 スビノフを出ると、すぐにオドラ川を越えるから、モラビアに戻ってきたことになる。鉄道の駅で言えば、中央駅はモラビアにあるのである。そこからさらにボフミーンのほうに向かうと、オドラ川の支流のオストラビツェ川を越えることになるが、このオストラビツェ川が次のモラビアとシレジアの境界である。オストラビツェ川の東岸を上流のほうに向かったところにあるのが、本来のシレジアのオストラバ、スレスカー・オストラバということになる。
 つまり北東に流れるオドラ川と北に流れるオストラビツェ川にはさまれた部分はモラビアで、オストラバの中でもモラフスカー・オストラバは、モラビア領がシレジア領に突き出した角の先端部分に当たるわけである。

 二つのオストラバを合併させて一つの大きなオストラバを作り出そうという考えは、第一共和国時代の1920年代に誕生したらしいが、実現したのはナチスの占領時代のことで、ボヘミア・モラビア保護領下にあったモラフスカー・オストラバと、ドイツに併合されたズデーテンランドのスレスカー・オストラバと他のいくつかの町が合併して今のオストラバに近い大きな町が誕生したのだという。その大オストラバともいうべき町が、ドイツ領になったのか保護領の町になったのか気になるところである。

 オストラバと同様に境界線上にある町を紹介しておくと、まずオストラバからはオトラビツェ川の上流に当たるフリーデク・ミーステクがある。オストラビツェ川の東岸つまりシレジアにできたフリーデクと、川を挟んで西岸のモラビアにできたミーステクが、保護領時代の1943年合併して出来上がったのがこの町である。
 だから、オストラバの中央駅からフリーデク・ミーステクのほうに南下していく鉄道も、オストラビツェ川の西を走っている間はモラビアで、川を渡って東岸に移るとシレジアを走ることになるのである。フリーデク・ミーステクの駅はフリーデクにあるし。
 これをややこしいとは言う勿れ。まだこの鉄道は、同じ国の中の別の歴史的領地の境界を出入りしていただけだから、そんなに大きな問題はなかったのだ。北ボヘミアや西ボヘミアには、ドイツとチェコの国境を出入りしながら走っている路線もある。チェコがEUに加盟し、シェンゲン圏に入ったことで、チェコスロバキア第一共和国が成立する前の鉄道が敷設されたころの目的を果たせるようになったというところだろうか。

 それから、以前博物館で、モラフスカー・オストラバとスレスカー・オストラバについて質問したときに、一つの町が二つの領土に分かれる例として挙げられたチェスキー・チェシーンの場合は、反対でもともと、ポーランド側のチェシーンと合わせてチェシーンという一つの町だったのが、第一次世界大戦後のチェコスロバキア独立に際して、ポーランド領とチェコスロバキア領に分割されたために誕生した町である。国境として設定されたオルシェ川より北側はポーランド領のチェシーンで、南側はチェコスロバキア領のチェスキー・チェシーンということにされたのである。
 だから、チェスキー・クルムロフや、チェスカー・トシェボバーにつく形容詞チェスキーは、ボヘミア、チェコ語でチェヒの領内にある町であることを示しているけれども、チェスキー・チェシーンのチェスキーは、ボヘミアではなくチェコスロバキアの町であることを示しているということになる。ややこしい話である。

 もう一つのチェコ国内の歴史的境界、ボヘミアとモラビアの境界線上にあるのが、以前もちょっと触れたことがあるが、イフラバである。イフラバの町はオストラバなどとは違って、境界の両側ではなく、モラビア側にだけ広がっている。言ってみれば、ボヘミアからモラビアに入るための門、もしくは玄関に当たるのがイフラバの町だったのである。
 とはいえ、イフラバは銀の採掘によって発展した町なので、実は、銀の鉱脈が境界のモラビア側にしかなかったというのが、モラビア側に町ができた理由なのかもしれない。イフラバといえば、グスタフ・マーラーの出身地が近くにあるはずなのだが、ボヘミアだったのだろうか、モラビアだったのだろうか。

 国境の両側に広がった町は、探せば他にも出てくるだろう。その町が、もともと一つだったのが分断されたのか、最初から両側に町が広がったのか、さまざまな歴史的な経緯があることが予想される。ヨーロッパでは、国民国家というものが誕生して領邦の境界よりも、国境というものが重要視されるようになってからでも、何度も国境線の変更が行なわれているのだ。ここに挙げたチェコの町よりもさらに複雑な歴史を経た町もあるに違いない。それはもう我が手には負えないと言うことで今日はここまで。

 オストラバだけの話じゃなくなったから、副題つけとこ。
8月16日22時。






posted by olomoučan at 05:34| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ
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