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2017年08月29日

チェコとスロバキア(八月廿六日)



 チェコとスロバキアの現代史において、8月というのはこと多き月である。ひとつには、高揚する「プラハの春」と、それに対するワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキア侵攻が起こり、もう一つは、1992年、ビロード革命後三年を経て後、チェコスロバキアの分裂が決定した月でもある。

 当時のチェコスロバキアは、チェコとスロバキアという二つの国からなる連邦国家として存在していた。これは確か「プラハの春」の後の所謂正常化の時代に、スロバキア出身のフサーク大統領の主導で実現したのだったと思う。スロバキア人にしてみれば、1918年の第一共和国独立時のマサリク大統領の約束がついに実現されたということになるのだろうか。
 それがビロード革命後の民主化の中で、両国の利害が一致しなくなり、急進的な経済改革を求めるチェコ側にたいするスロバキア側の反発もあって、1992年7月にはスロバキアの議会で連邦の解消と独立を求める決議がなされた。ここまでは、多分、ちゃんと必要な政治的な手続きを経た上での分離への手続きだったのだと思う。それがスロバキア側からの一方的なものであったにしても。

 その後、連邦のバーツラフ・ハベル大統領が辞任し、8月の下旬に入って、チェコの(連邦政府のではない)首相だったバーツラフ・クラウス氏と、スロバキアの首相だったブラディミール・メチアル氏の間で条件交渉が始まる。二人の間ではすでに7月初めの交渉で分離自体については合意に達していたらしい。問題はこの交渉が、連邦政府を排して、チェコ側とスロバキア側だけで、しかも当事者二人だけの秘密会談で進められたことである。
 チェコとスロバキアが分離したのは、ある意味歴史的な必然だったのだと当時のことを評価する人たちでも、その分離の進め方に対しては強く批判する人たちが多い。それは、二人の首相の密談ですべてが決められてしまったという部分が大きいのだろう。連邦政府をカヤの外に置いてのチェコ首相とスロバキア首相の合意が、当時の法制的にどんな意味を持てたのかも気になるけれども、この二人の会談で、分離の条件が合意され、署名がなされたことでチェコとスロバキアの分離独立は確定した。合意に達したのが今からちょうど25年前の1992年8月26日のことで、二つの独立した共和国としてのスタートは翌1993年1月1日であった。

 この二人の秘密交渉が行われたのが、ブルノの世界遺産になってしまったトゥーゲントハット邸である。この建築物が、確かに近代建築の傑作であるのはその通りだろうけれども、このチェコとスロバキアの分離に関する会談が行われたという歴史的な事実が存在しなかった場合に、世界遺産として認定されたかどうかは確信を持てない。
 このトゥーゲントハット邸の庭の木陰で、多分休憩時間にだろうけれども、テーブルについて談笑するクラウス氏とメチアル氏の姿が撮影され、その写真がしばしばこのときの交渉を象徴するものとして使われている。写真をさがしてリンクしようと思ったのだけど、ちょっと急ぎでは見つけられなかった。

 クラウス氏は、その後独立したチェコ共和国の初代首相となり、90年代から2000年代にかけてのチェコ政界を主導していくのは周知のことである。強引なまでの民営化と、友人知人への優遇には批判も集まるし、現在のチェコ人の資産家の大半は、クラウス氏の考え出したクーポン式民営化を活用、ときに悪用して資産を築いた人たちである。
 メチアル氏のほうも、スロバキア共和国の首相として政界に君臨したが、民主化されたスロバキアの政界の負の面を象徴する人物だと考えられている。一番大きな問題は、首相在任時に、コバーチ大統領の息子を軍の情報部に命じて誘拐させようとしたという疑惑である。この疑惑は、その後の大統領選挙で大統領が選出されず再投票が行われることになり、大統領不在が不在となった時期に首相として大統領の権限を代行していたメチアル氏が、この事件の関係者全てに恩赦を与え警察の捜査を停止させてしまったことで、闇に葬られてしまった。今でもこの事件の再捜査を求めた動きはあるようだが、実現は難しそうである。
 チェコ側でもスロバキア側でも、毀誉褒貶のある二人の人物によって主導されたチェコとスロバキアの分離は、結果だけは悪くなかったというのが現在の評価だろうか。個人的には、ユーゴスラビアと並んで、チェコスロバキアという国名には思い入れがあるのだけど、分離してしまったから思い入れがあるのか、こちらが思い入れがあるような国は最初から分離への傾向をはらんでいたのか、悩ましいところである。
8月27日18時。







posted by olomoučan at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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