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2017年08月12日

2002年洪水の思い出(八月九日)



 2002年の洪水が起こったとき、たしか三回目のチェコ語のサマースクールに参加しているところだった。まだ大学の寮に住んでいて、テレビで毎日ニュースを見るような生活はしていなかったので、どんな激しい雨が降っているのかは確認できなかったけれども、毎日買っていた新聞の記事で読む限り、それほど降水量が多いわけでもないのにと不思議な気がしたのは覚えている。
 師匠は授業中に1997年のモラビアの大洪水の際にどのぐらい水が上がってきたかとか、どんな被害があったとかいう話をしてくれた。ただ、モラビアの側でそれほど激しい雨が降っていたわけでもなかったので、どこか他人事のように感じていた。

 洪水が引いた後の新聞では、洪水で被害が出たことを知らないままチェコにやってきた観光客たちが、途方に暮れている写真がしばしば載せられていた。一番記憶に残っているのは、プラハを除けばチェコ最大の観光地になってしまったチェスキー・クルムロフが、あそこはブルタバ川が旧市街を囲むように蛇行しているので、洪水で大きな被害を受けたのだが、それを知らずに、復旧された鉄道を使ったのか、訪れた観光客が街の惨状に声を無くして立ち竦むさまが収められた写真である。
 カメラとガイドブックを手にしたアジア系の観光客は、当時はまだ韓国でのプラハブームも、中国人の金満化も始まっていなかったので、日本人だったに違いない。城のほうは高台にあるのでそれほど大きな被害は出ていなかったと記憶するが、閉鎖されていなかったかどうかの確信はない。

 現在であれば、ネットを使ったり、観光案内所や鉄道の駅などで広報したりして、洪水の被害が出た地域に、それを知らない観光客がやってくるのを防ぐすべはあるのだろうけど、当時はそこまでの体制はできていなかったし、洪水後の復旧で情報を拡散するどころではなかったのだろう。いや、ボヘミアで洪水が起こって大きな被害が出ていることは、世界中に知られていたわけだから、それからわずか一週間、二週間後にやってくる観光客がいるとも思わなかったのかもしれない。こういう災害が起こると、直接被害は受けていなくてもホテルなんかにはキャンセルの波が押し寄せるものだしさ。
 貧乏性の日本人としては、せっかくヨーロッパまで、チェコまで来たんだから、だめもとで行って見ようなんて気持ちも理解できなくはないんだけど、だめもとでどうにかなるような被害ではなかったのだ。むしろチェスキー・クルムロフまでたどり着けたのが奇跡的だったといってもいい。

 それから、当時オロモウツでチェコ語の勉強をしていたもう一人の日本人が、ビザの延長手続きのために請求したチェコの無犯罪証明書が洪水のために届かなかったのを覚えている。今は、各地の郵便局にあるチェックポイントという公式の書類をあれこれ発行してくれる場所に行けば、すぐに手に入る無犯罪証明書も、当時は市庁舎の公証人役場か、検察の支局の建物に出向いて申請し、一週間ほど郵送されてくるのを待たなければならなかった。申請書はプラハの担当部署に送られ、そこで処理さてたものが郵送で返送されてきていたのだ。
 だから、ビザの延長の申請をする場合には、余裕を持って無犯罪証明書の請求をしておく必要があったのだ。友人も十分以上の時間の余裕を持って申請していたのだが、プラハで処理される時期にちょうど洪水が起こってしまって、待てども待てども手元に届かず、洪水のどさくさで申請書がなくなってしまったと判断せざるを得なかった。そう判断したときには、再度請求したのではビザの申請に間に合わない時期になってしまっていた。請求したところで、プラハの担当部署が機能している補償もなかったし。

 友人はビザの延長の申請も、新規の申請も諦め、ビザなし滞在の期限が切れる三ヶ月に一回、チェコの外に出て再入国するという生活を始めた。当時はまだEUにもシェンゲン圏にも入る前のいい時代だったのだよ。厳密に計算すると90日を一日越えていても、見逃してもらえたと言っていたこともあるし、最初は出国して一泊してから再入国していたけど、最後のほうはその日のうちに戻ってきたなんてこともあったんじゃなかったかな。結局そんな生活を一年ぐらい続けたところで、日本に帰国し、それ以来会っていないんだけど
 シェンゲン圏に入って以来、出国のスタンプをもらうためには遠くまで出かけなければならなくなり、ビザなしの滞在も一度外に出れば、リセットされてまた90日滞在できるという便利なものではなくなり、直前の180日のうち90日までは滞在できるという不便でよくわからないものになってしまった。

 1989年のビロード革命のきっかけとなった学生デモを組織した当時の学生活動家が、国会議員になっていて、この洪水の際に醜態をさらしたというのもあった。洪水でプラハ市内の自宅が壊滅的な被害を受けたのだが、保険に入っていなかったらしい。それで、国会の演説で延々自分の窮状を訴えて、国費による救済を求めて顰蹙を買っていた。
 革命家的な資質のある人間は現実の政治家には向かないということだな。いや、全うな生活能力が欠如しているのが革命家というものなのだ。日本でも学生活動家の成れの果てなんてこんなもんだろうし。

 知り合いの中には、2002年の洪水の際にプラハに滞在していて、ホテルを移らされたとか、帰国の飛行機に乗れるのか心配だったとか言う人もいるのだが、モラビアにいた人間には、直接の影響はほとんどなく、覚えているのもしょうもないことばかりである。
8月10日22時。





posted by olomoučan at 06:22| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ
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