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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年09月03日

苦悩の根源と解決の道

苦悩の根源と解決の道とは
人間が幸せを求めていながら幸せになれない原因は何か、

そしてその解決は、ということです。


この苦悩の根源を仏教の言葉で言うと無明の闇ということです。
この無明の闇のことを別の名前でいうと疑情という。
阿弥陀仏の本願を疑う心。
本願の内容は無明の闇を破るということ。
本願がはっきりしていないということは無明の闇が破れていない。
無明の闇が破れたら大安心、大満足の信楽の心に生まれ変わる。
これを信心ともいう。
本願まことであったと知らされた時に無明の闇が破れる。
本願まこととはっきりしない心を無明の闇といいます。
他にも、
・疑網
・本願疑惑心
・自力の迷情
ともいう。

 

無明の闇をぶち破るのは本願力でしかやぶれない。
それなのに自分の力でなんとか敗れると、弥陀の本願を信じきれない心。
これを自力の迷情といいます。

 

今度の試験勉強で友達がかならず教えてくれると約束した。
でも自分でもやろう、他の人にも聞こう。
あなたにお任せとか言っていて、他の人にも頼んでいる。
これはその人の気分を害する。

 

阿弥陀仏の本願に任せきれない。
自分の力で何とかしようという心を自力の迷情という。
ある女性があなたのことをたよりにしている、他の男は見えない。
こういっていたので「よっしゃまかせとけ、僕しか君を幸せにできる人はいない」といった。

先輩に喜んで、そのことを打ち明けると同じことをその女性から言われていた。
別の先輩も言われていた。
なんだ自分だけじゃないのか、むかつくなあの女。

 

よい種まきをして助かろうとか、他の諸仏に向いて足しにしようとか。
阿弥陀仏の本願だけでは足りない、お任せしきれない。

本願によって無明の闇を破っていただいた時に本願の力でなければ
無明の闇を破ることができなかったと知らされる。
苦悩の根源は無明の闇であり、ぶち破る力が他力、破れた時に日本晴れの心になる。

これが苦悩の根源と解決の道。

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posted by 陽葵 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月02日

華厳宗の梅尾の明恵のさとりが崩れた件

梅尾の明恵という人。
華厳宗
法然上人と同じ時代。
法然上人にたてついた男。

 

聖浄廃立のできていない人には、大変な人気。
大変に気をはりつめていた、と言われていたのですね。

 

雑炊が好物で。
それを知った弟子が、明恵の所へ、とびきり美味しい雑炊を作った。
一口入れた所、眉がぴくぴくっと動いて、

サンをすーっと指でこすって、ホコリを雑炊に入れて食べた。

 

掃除っていうのが、非常に重要で、ちょっとでもホコリがあってはならない
弟子達は、お師匠さまに、やられる〜、と思っていた。

そうじゃないそうじゃない。

 

あまりにも美味しかったので、食した瞬間に、
もっと食べたい、執着の心が、むらむらっと出てきたから、

味を落として執着を起こさないようにしたのだ。
それくらいぴりぴりだった。

 

念珠ってありますよね。
数珠は煩悩を表したもので、

正式なものは108ある。

 

折りたたんでつかっている。
地べたに放り投げるなんて、もっての他。
歩いていた時に、ふっとした事で、落としてしまった。

 

ところが、ぴりぴりに気をはっているのですから、右手で落と
したのを、左手で、すっと地面すれすれで拾い上げた。
ところが、すれすれの所でキャッチした時に、よかったー、あぁよかったーと思った。
その心によって、明恵が今まで悟ってきた悟りはがらがらがらっと崩れ去ってしまった。
さとりを開くことがいかに大変か、が知らされます。

煩悩のビデオはこちら
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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月01日

三心一心問答の解説

阿弥陀仏という仏様は、
この世の全ての人を、信楽という、大安心大満足の
心に生まれ変わらせてみせる。

至心信楽欲生我国といいまして、
この世の全ての人達を、三つの心にしてみせる、
と誓われた。

本願の三心の願、と言ったりするのですね。
ところが、阿弥陀仏は、三心を誓われていますが、
これは、信楽に救うという意味で、合すれば信楽の一心なり。

天親菩薩によって明らかにされた。
三心一心問答というのがあります。

 

問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。

何をもっての故に論主一心というや。

答う。愚鈍の衆生をして解了し易からしめんが為なり。

弥陀如来三心を発したまうと雖も、涅槃の真因はただ信心を以てす。

この故に論主、三を合して一とせるか。

教行信証信巻)

 

 

問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。

阿弥陀如来の本願文には、この世の全ての人を至心信楽欲生我国。
至心の心にしてみせる。
至心とは、まことの心。
信楽の心にしてみせる。
欲生我国の心にしてみせる。
欲生我国とは、我が国に生まれられるという心で、
極楽行き間違いない、と定まる心、にしてみせる、
と約束されていますが、

 

何をもっての故に論主一心というや。

天親菩薩は、一心にまとめられた、それはどうしてなんですか。
親鸞聖人、
自問自答しておられる。

 

答う。愚鈍の衆生をして解了し易からしめんが為なり。

弥陀如来三心を発したまうと雖も、涅槃の真因はただ信心を以てす。

信心正因の根拠。

 

阿弥陀仏が、私達を助けようとされる、
広大な御心を表したものが本願の三心と言われるもので、
その阿弥陀仏の御心を私達に間違いなく、頂かせる為に、
天親菩薩が、一心と教えられた。

 

そのように、天親菩薩が、

信楽の一心に救うのが阿弥陀仏のお約束だぞ、
と教えられたのを、今度は、曇鸞大師という人が、
信とは、苦悩の根元である無明の闇を破り、楽とは弥陀の願いを衆生の上に満足する。
浄土論というのを解釈せられたのが曇鸞大師の浄土論註。

 

その中に、苦悩の根元をぶち破って、
阿弥陀仏の願いを衆生の上に満たしてやりたい、という事が信楽の楽だぞ、
と教えられている。

親鸞聖人、苦悩の根元である無明の闇がぶち破られた時、
苦しみ悩みの人生が、大安心の人生になる、
そしてまた、教行信証総序
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり、の御文で破闇。
難思の弘誓は難度海を度する大船、の御文で満願。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月31日

阿弥陀仏の2つの救い

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、

龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、

臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。教行信証

 

親鸞聖人は二つの金剛心を教えておられます。
はじめの金剛心は、自力の修行で尺取り虫のようにあがっていく。
三僧祇百大劫かかるといわれる。

41段目の初地にはある特徴がある。
ここまではせっかく悟りを開いてもちょっと気を緩めると崩れてしまう。
退転位という。


禅宗達磨の目を見てみると、怖い目をしている、けれどどこか澄んでいる。
ともすれば緩んでしまいそうな自分の心をにらんでいるんだと教えられる。

一番仏の悟りに近いところまで来ているのが弥勒菩薩

ここまでも大変だけど、仏の悟りを開くには56億7千万年かかる。

それに対して、念仏の衆生は阿弥陀仏の本願力によって
一念で金剛心を頂き、死んだら極楽浄土にいって仏に生まれる。

阿弥陀仏によって一念で授かるものだから、
弥勒菩薩は56億7千万年かかるけれど
私達は臨終一念の夕になれる。

同じことをいわれた和讃。

 

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし

(正像末和讃)

 

阿弥陀仏の願力によって二つの救いがある。
生きているこの世で一念で不体失にして、
臨終一念の夕弥陀同体のさとりを開く。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月30日

雑修とは

雑修も自力の心。

本当は自力の心だけでも良いが、雑行雑修と分けられている。
雑修とは阿弥陀仏に向かって五正行を実践する。

五正行を実践して助かろうとする心。

 

五正行とは

読誦正行

観察正行

礼拝正行

称名正行

讃嘆供養正行。

 

行いは善ですからやらねば信仰は進みません。

この五正行はやらなければ信仰は進みませんが心がけが
悪いから雑修と嫌われ捨てよと言われる。

 

始めは法話会場でおつとめがあるときだけとか、

朝だけとか、そう言うところを通ったと思います。
人が見ておろうが見ておるまいがおつとめする。

これは素晴らしい。

 

信仰が進めばせずにおれなくなってくる。

正信偈御文章の拝読。

阿弥陀仏とその極楽浄土を思い浮かべ礼拝、称名、

またお誘いせずにおれない。

お仏花お水もかえずにおれない。

 

その時出てくるのがこれだけしているから後生の一大事助かるだろう。

自分のやった善を当て力にして後生の一大事の解決をしようとする。

 

その心が悪いと言われる。これも何故悪いかは思えないと思います。

良いじゃないかと思います。

それは縦の線までは悪かったとは思えません。

行いは善だからやらねば信仰進みませんが、

心がけが悪いから雑修と嫌われ捨てよと言われる。

 

五正行をやるなと言うことではない。

悪い心がけ自力を捨てよと言われる。
一念で、雑修と嫌われ捨てよと言われていたのが、御恩報謝の行となる。

行いは変わりませんが心がガラッと変わりますから。

自力の心を雑行雑修と分けておっしゃる。

この諸々の雑行雑修自力の心。

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2017年08月29日

雑行の本当の意味

雑行には、五雑行といわれるものと諸善万行とがある。

 

雑行の本義は諸善万行。

親鸞聖人ならではのところ。

五雑行は既に七高僧が明らかにされた。

七高僧が明らかにできなかったのが

諸善万行、雑行の本義。

 

親鸞聖人の教えの独擅場。

親鸞聖人ならではのところ。

まず五雑行を形で実行できたもの、

阿弥陀仏一仏に向いた人に次ぎ問題になってくるのがこれ。

頭だけでも後生の一大事の解決は阿弥陀仏しかできないと知らされると

阿弥陀仏に向かう。

 

諸善万行の善。

諸善とはもろもろの善。

万行とは万の善。

仏教の根幹は因果の道理。因果応報

仏教の教えの根であり幹。

一切経を何処読んでも因果の道理から離れた教えはない。

悪を恐れ、善に向かえ、と、どの経典にも教えられている

 

必ず仏教が判れば判るほど罪福を信じる心。

進まずにおれなくなる。

そう言う人に教えられるのが次。

 

諸善万行とは善です。

悪いものではもちろんありません。

具体的には六度万行。

六度万行を実践し、後生の一大事助かろうと修善、

修善を当て力にする心を自力という。

 

自力の心でやっている諸善万行を雑行と言います。

これはですね、行いは善だから励まねばならないのは当然です。

しかし心がけが悪いから雑行と嫌われ捨てよと言われる。

 

諸善万行の場合は行いそのものは善ですから

信前信後大いに励むのは当然であります。

因果の道理知らされた者はね。

しかし問題は心が悪い。

心がけが悪いから雑行と嫌われ捨てよと言われる

 

信前は雑行です。

信後は自力の心が廃った一念で、それまで雑行と言われていた諸善万行は御恩報謝となる。

体は変わらない。救われるまでは雑行、救われた後は御恩報謝の行と言います。

言い方が変わる。

 

これが悪いのは行いそのものはいいが、心がけ。

自分のやった善を当て力にしてそれをさし向けて助かろうとする。

疑情であり無明の闇。この違い。

五雑行と諸善万行。

 

雑行を捨てなければ絶対に後生の一大事の解決はできません。

この心を知るには後生の一大事が判らないと絶対に判らない。

後生の一大事助かろうとして行う、善を雑行雑修と教えられますから。

 

後生の一大事が抜けたら絶対に仏教は分からないということ。

何度も確認しなければならない。

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タグ:阿弥陀仏
posted by 陽葵 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月28日

獲信の最短距離

蓮如上人は親鸞聖人の御教えを正確に
そのまま手垢を付けず教えられた方。

 

我々の信心決定、獲信の最短距離を教えられた方。
御文章は獲信の最短距離が明らかにされているが、

500年立っているので理解が難しい。

御文章の話を理解するのは日本人でさえも大変。

 

ではどうしたらいいか。

 

聖人一流章と白骨の章、領解文

この三つを徹底的に話をすればよい。

聖人一流章白骨の章、領解文。

これが分かれば仏教が分かるという内容です。

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2017年08月27日

後生の一大事

私達が生きている目的は後生の一大事の解決一つ。
後生というと先のことと思っている。
「後の世と聞けば遠きに似たれども 知らずや今日もその日なるらん」
100%確実にやってくる。我々の都合とは無関係。
正月であろうと、誕生日であろうと、関係なくやってくる。
白骨の御文を書かれた背景として、結婚式当日花嫁がなくなった。
年末に書いた年賀状で、亡くなった人から着くことがある。
白骨の御文では、老少不定とある。
誕生日と同じように、一人一人に命日がある。

家族に葬式や法事をしてもらうときがやってくる。

 

無常をみつめなさいと教えられる。

無常観。
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
無常を無常と見つめていくことが、本当の幸せを求める第一歩となる。
一体本当の幸せはどこにあるんだろう。裏切らない幸せはどこにあるのか。
二河白道の譬では、こちらの岸、此岸には何もなかったということ。
それが白道を進む原動力になる。
その一大事があるにも関わらず、此岸で毒蛇と知らずにかまれて苦しんでいる人ばかり。

被害に遭っている人ばかり。
この後生の一大事を解決して、無碍の一道に出ることが人生の目的。

これは聴聞の一本道。心の風景が変わっていく。
 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月26日

三信と三不信のちがい

今日親鸞聖人の明らかにされた

浄土真宗のおしえは、

阿弥陀仏の本願によって無明の闇が破れて

大安心大満足の決勝点があるという教えだが、

自分が体験したことがない、

仏教の学問もおろそかという本願寺の布教使は、
いつとはなしに、風邪をひいたように、米俵がどうと、

たとえを作り出して、教えている。

 

こういうものに対して、真実の信心は定まるものなんだと、

こういうふうに信心決定というが、

ちなみに信心決定というのは親鸞聖人の教え以外にはない。

 

決定という言葉自体が決勝点がある、完成がある、

ということを言われた言葉。

だから、私が仏法聞いても信心決定ができそうもないとか、

死ぬまでできそうもない、こういうふうに思う人は信心決定の意味から分かってない。

自分の力でない、本願力で一念で定まるもの。

 

ではその信心決定という決勝点を突破する前とあとでどう変わるのかということを

親鸞聖人は道綽禅師が教えられたことを通して教えられた。

皆さんが仏教の学問、教学聖典というものを勉強すると、

三信と三不信のちがいを道綽禅師は懇ろに教えられたという事が、

三不三信け慇懃。

 

三信三不信はどなたの教えであると曇鸞大師

高僧和讃の中で曇鸞和讃が最も多い、

親鸞聖人が鸞の字をもらわれるほど、

ものすごく尊敬された方。

 

曇鸞大師がこういうことを教えてくださったということで

不如実修行といえること
鸞師釈してのたまわく
一者信心あつからず
若存若亡するゆえに

 

二者信心一ならず
決定なきゆえなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまう

 

といわれて、まこと信心決定した人の信心は正しい信心というが、

阿弥陀仏の本願によってえさしめられた信心ということで

他力の信心という。

 

弥陀の本願聞信した一念で、阿弥陀仏からたまわる信心。

そう言う信心が他力の信心で、

その他力の信心の特徴に、淳心、一心、相続心という

3つがあると教えられたのが、三信。

 

弥陀の本願まことという決勝点を突破したら、

このような特徴の有る他力の信心が得られる。

 

しかし、まだ突破していない人は、

自分の過去の能力や経験や、才能で、こういうものだと考えたり、

いつとはなしと思ったり、自力の信心に腰をかけている。

 

この他力信心を知らない人の特徴は、

不淳、不一、不相続、ということで

他力の信心と自力の信心の特徴をもともとは
曇鸞大師が教えたものである。

 

こういうと、曇鸞大師がもともと教えられたものを

親鸞聖人は正信偈に道綽禅師の教説として教えられているが、

これはどう言うことかという事を質問した人があった。

 

それについては

親鸞聖人が道綽禅師がどう言う
ことを教えられた方かということについて教えられた

道綽和讃が七首ある。

 

鸞師のおしえをうけつたえ
綽和尚はもろともに
在此起心立行は
此是自力とさだめたり

 

道綽禅師は曇鸞大師の教えを受け継がれて、

曇鸞大師が教えられた自力信心と
他力信心の違い目を、もっと丁寧に教えられた。

 

もともとは曇鸞大師が三信三不信で教えられたが、
その教えを道綽禅師が受け継がれて丁寧に教えられた
と正信偈に親鸞聖人は書かれている。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(54) | TrackBack(0) | 信心

2017年08月25日

どうして阿弥陀仏は南無阿弥陀仏の名号をつくられたのか

どうして阿弥陀仏南無阿弥陀仏の名号をつくられたのか?

 

親鸞聖人は教行信証に仏意はかりがたしと言われている。
阿弥陀仏の御心は我々凡夫で計り知れない。想像ができない。
しかし阿弥陀仏がどのような業労でこの名号を完成してくださったのか
考えてみるとと仰られて

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、

 穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」

一切の人は善人はひとりもいないから。

 

丸太棒にすがってはうらぎられ、

丸太棒や板切れにどれだけすがっても苦しみ悩みなくなりませんよ。

不安がたえない世界ですよ。

しかし、どれだけいってもわからない。

それで丸太棒や板切れにしかむかえない。
それで阿弥陀仏は五劫思惟の願をたてられ、兆載永劫の修業をなされた。

それを親鸞聖人は大悲の願船といわれている。
その阿弥陀仏のつくられた大船はどういうねらいでつくられたのか。

「如来至心〜廻施したまり」

 

南無阿弥陀仏の名号を与えることが目的

 

如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり

(正像末和讃)


「首」とは目的ということ。
与えるということを目的として阿弥陀仏は作られたんですよ。
廻向とは与えること。

与えることを目的として南無阿弥陀仏の名号をつくって下された。

ですから阿弥陀仏の仏像は、立っておられる。
仏様は座像といってすわった形の仏様が多い。
立像、衆生再度にいそがしくて座っている暇がない阿弥陀仏の御心。

お医者さんにも往診と宅診があるでしょ。
「先生かぜでなおしてもらえませんか」

と普通お医者さんに行ける人は病状が軽い人。

お願いすることができる。

しかしもっと病状がひどい場合はでかけていくことができない。

そんな患者はお医者さんのほうからいかなければならない。

これが往診。

 

阿弥陀仏は往診の仏様。
十方衆生はまことの心かけられもない。

ですから、船のほうから近付いてくださって、

しかも一念で乗せて下れれる。

阿弥陀仏はなんとかしてその名号をうけとってくれよと、

ご苦労してくださっている。

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