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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年08月31日

阿弥陀仏の2つの救い

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、

龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、

臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。教行信証

 

親鸞聖人は二つの金剛心を教えておられます。
はじめの金剛心は、自力の修行で尺取り虫のようにあがっていく。
三僧祇百大劫かかるといわれる。

41段目の初地にはある特徴がある。
ここまではせっかく悟りを開いてもちょっと気を緩めると崩れてしまう。
退転位という。


禅宗達磨の目を見てみると、怖い目をしている、けれどどこか澄んでいる。
ともすれば緩んでしまいそうな自分の心をにらんでいるんだと教えられる。

一番仏の悟りに近いところまで来ているのが弥勒菩薩

ここまでも大変だけど、仏の悟りを開くには56億7千万年かかる。

それに対して、念仏の衆生は阿弥陀仏の本願力によって
一念で金剛心を頂き、死んだら極楽浄土にいって仏に生まれる。

阿弥陀仏によって一念で授かるものだから、
弥勒菩薩は56億7千万年かかるけれど
私達は臨終一念の夕になれる。

同じことをいわれた和讃。

 

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし

(正像末和讃)

 

阿弥陀仏の願力によって二つの救いがある。
生きているこの世で一念で不体失にして、
臨終一念の夕弥陀同体のさとりを開く。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月30日

雑修とは

雑修も自力の心。

本当は自力の心だけでも良いが、雑行雑修と分けられている。
雑修とは阿弥陀仏に向かって五正行を実践する。

五正行を実践して助かろうとする心。

 

五正行とは

読誦正行

観察正行

礼拝正行

称名正行

讃嘆供養正行。

 

行いは善ですからやらねば信仰は進みません。

この五正行はやらなければ信仰は進みませんが心がけが
悪いから雑修と嫌われ捨てよと言われる。

 

始めは法話会場でおつとめがあるときだけとか、

朝だけとか、そう言うところを通ったと思います。
人が見ておろうが見ておるまいがおつとめする。

これは素晴らしい。

 

信仰が進めばせずにおれなくなってくる。

正信偈御文章の拝読。

阿弥陀仏とその極楽浄土を思い浮かべ礼拝、称名、

またお誘いせずにおれない。

お仏花お水もかえずにおれない。

 

その時出てくるのがこれだけしているから後生の一大事助かるだろう。

自分のやった善を当て力にして後生の一大事の解決をしようとする。

 

その心が悪いと言われる。これも何故悪いかは思えないと思います。

良いじゃないかと思います。

それは縦の線までは悪かったとは思えません。

行いは善だからやらねば信仰進みませんが、

心がけが悪いから雑修と嫌われ捨てよと言われる。

 

五正行をやるなと言うことではない。

悪い心がけ自力を捨てよと言われる。
一念で、雑修と嫌われ捨てよと言われていたのが、御恩報謝の行となる。

行いは変わりませんが心がガラッと変わりますから。

自力の心を雑行雑修と分けておっしゃる。

この諸々の雑行雑修自力の心。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月29日

雑行の本当の意味

雑行には、五雑行といわれるものと諸善万行とがある。

 

雑行の本義は諸善万行。

親鸞聖人ならではのところ。

五雑行は既に七高僧が明らかにされた。

七高僧が明らかにできなかったのが

諸善万行、雑行の本義。

 

親鸞聖人の教えの独擅場。

親鸞聖人ならではのところ。

まず五雑行を形で実行できたもの、

阿弥陀仏一仏に向いた人に次ぎ問題になってくるのがこれ。

頭だけでも後生の一大事の解決は阿弥陀仏しかできないと知らされると

阿弥陀仏に向かう。

 

諸善万行の善。

諸善とはもろもろの善。

万行とは万の善。

仏教の根幹は因果の道理。因果応報

仏教の教えの根であり幹。

一切経を何処読んでも因果の道理から離れた教えはない。

悪を恐れ、善に向かえ、と、どの経典にも教えられている

 

必ず仏教が判れば判るほど罪福を信じる心。

進まずにおれなくなる。

そう言う人に教えられるのが次。

 

諸善万行とは善です。

悪いものではもちろんありません。

具体的には六度万行。

六度万行を実践し、後生の一大事助かろうと修善、

修善を当て力にする心を自力という。

 

自力の心でやっている諸善万行を雑行と言います。

これはですね、行いは善だから励まねばならないのは当然です。

しかし心がけが悪いから雑行と嫌われ捨てよと言われる。

 

諸善万行の場合は行いそのものは善ですから

信前信後大いに励むのは当然であります。

因果の道理知らされた者はね。

しかし問題は心が悪い。

心がけが悪いから雑行と嫌われ捨てよと言われる

 

信前は雑行です。

信後は自力の心が廃った一念で、それまで雑行と言われていた諸善万行は御恩報謝となる。

体は変わらない。救われるまでは雑行、救われた後は御恩報謝の行と言います。

言い方が変わる。

 

これが悪いのは行いそのものはいいが、心がけ。

自分のやった善を当て力にしてそれをさし向けて助かろうとする。

疑情であり無明の闇。この違い。

五雑行と諸善万行。

 

雑行を捨てなければ絶対に後生の一大事の解決はできません。

この心を知るには後生の一大事が判らないと絶対に判らない。

後生の一大事助かろうとして行う、善を雑行雑修と教えられますから。

 

後生の一大事が抜けたら絶対に仏教は分からないということ。

何度も確認しなければならない。

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タグ:阿弥陀仏
posted by 陽葵 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月28日

獲信の最短距離

蓮如上人は親鸞聖人の御教えを正確に
そのまま手垢を付けず教えられた方。

 

我々の信心決定、獲信の最短距離を教えられた方。
御文章は獲信の最短距離が明らかにされているが、

500年立っているので理解が難しい。

御文章の話を理解するのは日本人でさえも大変。

 

ではどうしたらいいか。

 

聖人一流章と白骨の章、領解文

この三つを徹底的に話をすればよい。

聖人一流章白骨の章、領解文。

これが分かれば仏教が分かるという内容です。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月27日

後生の一大事

私達が生きている目的は後生の一大事の解決一つ。
後生というと先のことと思っている。
「後の世と聞けば遠きに似たれども 知らずや今日もその日なるらん」
100%確実にやってくる。我々の都合とは無関係。
正月であろうと、誕生日であろうと、関係なくやってくる。
白骨の御文を書かれた背景として、結婚式当日花嫁がなくなった。
年末に書いた年賀状で、亡くなった人から着くことがある。
白骨の御文では、老少不定とある。
誕生日と同じように、一人一人に命日がある。

家族に葬式や法事をしてもらうときがやってくる。

 

無常をみつめなさいと教えられる。

無常観。
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
無常を無常と見つめていくことが、本当の幸せを求める第一歩となる。
一体本当の幸せはどこにあるんだろう。裏切らない幸せはどこにあるのか。
二河白道の譬では、こちらの岸、此岸には何もなかったということ。
それが白道を進む原動力になる。
その一大事があるにも関わらず、此岸で毒蛇と知らずにかまれて苦しんでいる人ばかり。

被害に遭っている人ばかり。
この後生の一大事を解決して、無碍の一道に出ることが人生の目的。

これは聴聞の一本道。心の風景が変わっていく。
 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月26日

三信と三不信のちがい

今日親鸞聖人の明らかにされた

浄土真宗のおしえは、

阿弥陀仏の本願によって無明の闇が破れて

大安心大満足の決勝点があるという教えだが、

自分が体験したことがない、

仏教の学問もおろそかという本願寺の布教使は、
いつとはなしに、風邪をひいたように、米俵がどうと、

たとえを作り出して、教えている。

 

こういうものに対して、真実の信心は定まるものなんだと、

こういうふうに信心決定というが、

ちなみに信心決定というのは親鸞聖人の教え以外にはない。

 

決定という言葉自体が決勝点がある、完成がある、

ということを言われた言葉。

だから、私が仏法聞いても信心決定ができそうもないとか、

死ぬまでできそうもない、こういうふうに思う人は信心決定の意味から分かってない。

自分の力でない、本願力で一念で定まるもの。

 

ではその信心決定という決勝点を突破する前とあとでどう変わるのかということを

親鸞聖人は道綽禅師が教えられたことを通して教えられた。

皆さんが仏教の学問、教学聖典というものを勉強すると、

三信と三不信のちがいを道綽禅師は懇ろに教えられたという事が、

三不三信け慇懃。

 

三信三不信はどなたの教えであると曇鸞大師

高僧和讃の中で曇鸞和讃が最も多い、

親鸞聖人が鸞の字をもらわれるほど、

ものすごく尊敬された方。

 

曇鸞大師がこういうことを教えてくださったということで

不如実修行といえること
鸞師釈してのたまわく
一者信心あつからず
若存若亡するゆえに

 

二者信心一ならず
決定なきゆえなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまう

 

といわれて、まこと信心決定した人の信心は正しい信心というが、

阿弥陀仏の本願によってえさしめられた信心ということで

他力の信心という。

 

弥陀の本願聞信した一念で、阿弥陀仏からたまわる信心。

そう言う信心が他力の信心で、

その他力の信心の特徴に、淳心、一心、相続心という

3つがあると教えられたのが、三信。

 

弥陀の本願まことという決勝点を突破したら、

このような特徴の有る他力の信心が得られる。

 

しかし、まだ突破していない人は、

自分の過去の能力や経験や、才能で、こういうものだと考えたり、

いつとはなしと思ったり、自力の信心に腰をかけている。

 

この他力信心を知らない人の特徴は、

不淳、不一、不相続、ということで

他力の信心と自力の信心の特徴をもともとは
曇鸞大師が教えたものである。

 

こういうと、曇鸞大師がもともと教えられたものを

親鸞聖人は正信偈に道綽禅師の教説として教えられているが、

これはどう言うことかという事を質問した人があった。

 

それについては

親鸞聖人が道綽禅師がどう言う
ことを教えられた方かということについて教えられた

道綽和讃が七首ある。

 

鸞師のおしえをうけつたえ
綽和尚はもろともに
在此起心立行は
此是自力とさだめたり

 

道綽禅師は曇鸞大師の教えを受け継がれて、

曇鸞大師が教えられた自力信心と
他力信心の違い目を、もっと丁寧に教えられた。

 

もともとは曇鸞大師が三信三不信で教えられたが、
その教えを道綽禅師が受け継がれて丁寧に教えられた
と正信偈に親鸞聖人は書かれている。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(54) | TrackBack(0) | 信心

2017年08月25日

どうして阿弥陀仏は南無阿弥陀仏の名号をつくられたのか

どうして阿弥陀仏南無阿弥陀仏の名号をつくられたのか?

 

親鸞聖人は教行信証に仏意はかりがたしと言われている。
阿弥陀仏の御心は我々凡夫で計り知れない。想像ができない。
しかし阿弥陀仏がどのような業労でこの名号を完成してくださったのか
考えてみるとと仰られて

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、

 穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」

一切の人は善人はひとりもいないから。

 

丸太棒にすがってはうらぎられ、

丸太棒や板切れにどれだけすがっても苦しみ悩みなくなりませんよ。

不安がたえない世界ですよ。

しかし、どれだけいってもわからない。

それで丸太棒や板切れにしかむかえない。
それで阿弥陀仏は五劫思惟の願をたてられ、兆載永劫の修業をなされた。

それを親鸞聖人は大悲の願船といわれている。
その阿弥陀仏のつくられた大船はどういうねらいでつくられたのか。

「如来至心〜廻施したまり」

 

南無阿弥陀仏の名号を与えることが目的

 

如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり

(正像末和讃)


「首」とは目的ということ。
与えるということを目的として阿弥陀仏は作られたんですよ。
廻向とは与えること。

与えることを目的として南無阿弥陀仏の名号をつくって下された。

ですから阿弥陀仏の仏像は、立っておられる。
仏様は座像といってすわった形の仏様が多い。
立像、衆生再度にいそがしくて座っている暇がない阿弥陀仏の御心。

お医者さんにも往診と宅診があるでしょ。
「先生かぜでなおしてもらえませんか」

と普通お医者さんに行ける人は病状が軽い人。

お願いすることができる。

しかしもっと病状がひどい場合はでかけていくことができない。

そんな患者はお医者さんのほうからいかなければならない。

これが往診。

 

阿弥陀仏は往診の仏様。
十方衆生はまことの心かけられもない。

ですから、船のほうから近付いてくださって、

しかも一念で乗せて下れれる。

阿弥陀仏はなんとかしてその名号をうけとってくれよと、

ご苦労してくださっている。

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2017年08月24日

自力の仏教で助かるだろうか

自力の仏教で助かるだろうか。

比叡山で天台宗の修行を20年間された

親鸞聖人に聞いてみましょう。

 

自力聖道の菩提心

こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は

いかでか発起せしむべき

(親鸞聖人)

 

自力聖道の菩提心

こころもことばもおよばれず

とは、法華経のような自力仏教、聖道門仏教をやっている人。

何とか助かろうと思っても、

とても心も言葉も及ばない決心を要する。

救われません。

 

常没流転とは、常に苦しみ迷いの世界に沈んで、六道輪廻していることをいいます。

凡愚とは人間。

いかでか発起せしむべきとは、

どうして、自力仏教で助かるだろうか。

助かりませんよ。

 

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2017年08月23日

正しい仏教の先生方はいつもどのようなことを思っておられるのか

正しい仏教の先生方はいつもどのようなことを思っておられるのか。

親鸞聖人はこのようにいわれている。

 

三朝浄土の大師等
哀愍摂受したまいて
真実信心すすめしめ
定聚のくらいにいれしめよ

(正像末和讃)


精一杯やっていますが、無碍の一道に出る人がありません。
御助力をお願いでございます。
同じ告白を蓮如上人もなされている。

 

あわれあわれ存命のうちにみなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり

まことに宿善まかせとはいいながら述懐の心しばらくもやむことなし

御文章

 

宿善まかせであるからなぁ、
蓮如上人も同じ事を思っておられる。

 

ここまで求め抜いてください
決勝点があるんですよ。
人生の目的があるんですよ。
来る日も来る日も、叫び続けてゆかれた。

 

聞かせて頂く私達の気持ちがなくてはもったいない。

何とかこの一座で、という気持ちでのぞませて頂きたい。
ご恩をかみしめて尊く真剣に聞かせて頂きましょう。

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タグ:蓮如 御文章
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2017年08月22日

長者窮子の譬えとは?

ある、祭り見物の中で、我が子を見失った長者が、

その子を見つけるために遠大な計画をたてた。

長者窮児の譬え。

 

貧しい乞食の子、これにたとえられたのが、私達で、

長者にたとえられたのが、阿弥陀仏であります。

長者の方は、窮児をずーっと心配し、

なんとかして全財産を渡そうと思っている。

 

ところがぐうじの方は、まさかそんな長者の子だともわからずに、
とんとわからんと、とにかくその日にいくらかのお金があがる、

そういう気ままな生活をしている。

 

窮児を本当に幸せにしようと、

真剣になっているのだけれど、

親の心子知らず。

 

一計を案じまして、窮児にとっては、

長者さまは、雲の上の人で、

びっくりしちゃう。

 

そこで、長者さまは、窮児に近くて、親しみのもてる、

掃除夫に頼んで、窮児を連れてきてもらう。

こういうのを、仏教の言葉で、調機誘引といいます。

 

阿弥陀仏が、私達の心を調える。

そして、真実の世界に誘って、

そしてぐいぐいと真実の世界にひっぱり出して下される。

そういう阿弥陀仏の働き、お力、

それを調機誘引というのです。

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タグ:阿弥陀仏
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教