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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年09月10日

善知識に会えないとどうなるのか

親鸞聖人でさえ、今日世界の光と仰がれる親鸞聖人でさえ
9歳から29歳比叡山で一生懸命努力されたにもかかわらず
苦しみ悩みが無くならなかった。

 

善知識に会えなかったから。

 

あれだけ才能があり素晴らしい学もあり徳もある方が
どうして幸せになれなかったかというと善知識に会えなかったから。
さぼっていたのではない、大変な努力をされていた。

 

善知識に会えなかったから。

 

その親鸞聖人が、山を下りられて、建仁元年春
に無明の闇が破れた、よろこばしきかな心を弘誓の仏地にたてた。

噫弘誓の強縁は多生にもあいたがいのにあえた、
と叫ぶことができたのは29歳。
ということは比叡山で過ごされたのが20年間。
それから山を下りられて法然上人に会われた。
それから三ヶ月で、苦悩の根元が破れた。

善知識の、法然上人の導きによって三カ月足らずで破れた。
だから善知識に会えるかどうかは
仏法では決定的と言っていいくらい重要なこと。
私たちにとって。

 

今あなたは五重の義の一番最初の宿善はある。

次に重要なのは善知識に会えるかどうか。
その善知識の言われるとおりま受けにして進むかどうか。

高橋選手は、小出監督に、「はい」としたがった。
普通の選手は段々成績が良くなってくると、こうしましょうよと言ってくる。
ところが高橋選手はハイ分かりました、頑張ります、オレの言うとおりやってくれた、
あの素直な性格が金メダルを取らせた、と小出監督は言っている。

しみじみと言っていますね。
全くその通り。
才能のある素晴らしい選手が素晴らしいコーチに巡り会って、
そのとおり練習したからこそ金メダルを獲れたのです。

親鸞聖人が善知識法然上人と出会い、その法然上人を無上の先生と仰いで教
えの通り進まれたからこんなに早く無明の闇が破れた。

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし

法然上人がもしおられなかったら、親鸞またむなしく人生終わっていただろうな。
危ないところを源空というのは法然上人、お師匠さま法然上人のお陰で救われた。

もし善知識法然上人にお会いできなかったらここまで進むことは到底できなかった。
危なかった。
こんな素晴らしい幸せになれて良かった。
もしこの無明の闇が晴れなかったらまた昿劫を逕歴したとおっしゃっている

昿劫を逕歴するとはながいながい流転輪廻を再び重ねる。
喜びの高い山の頂に登って下を見おろしたら千尋の谷底。
オレはこんなに危ないところにいたのか。
法然上人に会えて良かった。

千尋の谷底を目隠しをした人が一本のロープの上を歩いている。
その先に下を見るんじゃない、まっすぐ進むんだ。
まっすぐ進んでこい。

ところが歩いている人は千尋の谷底という自覚があまりない。
ロープを渡って目隠しをとった人が、なんて危ないところを歩いていたのかと驚く。

危ない一大事を解決できて良かったということを表されている。
そう言う教行信証の御言葉を教えて下さった。

 

あなたに知って貰いたいのは五重の義、宿善が最も大切、
次に善知識、その教えられるとおりまっすぐに進んでいくことが大事。

決勝点まで必ず進めることになっている道ですから。
頑張って貰いたいですね。

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タグ:教行信証
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2017年09月09日

残念ながら助からない人の特徴

宿善を教えられたお釈迦さまのお言葉は

 

若し人善本無くんば

この経を聞くことを得ず大無量寿経

 

お釈迦さまのお言葉を正しく伝えて下さった

中国の善導と言う方はこのようにおっしゃっている。

 

過去已曽 修習此法 今得重聞 即生歓喜

 

これは同じように漢字ばかりですがお経ではありません。
お釈迦さまの御言葉だけをお経という。
これはその経典を解釈して下された偉い方の御言葉です。

 

あなたはかつてこの法をおさめ習ってきた。
そういう人だからこそ、今、重ねて聞くことを得た。
これを今得重聞と言います。

 

過去この法を習ってきたから、
今再びこの仏法にめぐりあって重ねて聞くことができるんですよ。

そしてそう言う人が即ち歓喜を生ず。
必ず生まれてきて良かったという大きな喜びを心に生じさせることができる。

 

無明の闇が破れる。
過去に於てこの仏法にあって聞いてきた。
習ってきた。
修めてきた。

そう言うみなさんだから重ねて聞くことができる。
重ねて聞くとは続けると言うこと。
何度も何度も続ける。
過去に於て聞いてきたんだから必ずそれができます。
そう言う人が即ち歓喜を生じる。
本当の人生の幸せを掴む。

そう言う宿善、仏縁が今生必ず華を開く。
ですから、この無明の闇が破れることを心の花が開くと喩えることがある。
それを宿善開発という

無明の闇が破れることを宿善開発ということがある。
宿善が開きおこる。
真っ暗がりの心、後生暗い心、太陽の光によってその闇が破れて開発する。
真っ暗がりの心の扉がガラッと開いて明るい明るい心の華が開く。

だから、最も大切なのがこの宿善。
つまり聞法心なんです。
ハッキリ言うと聞く気。
聞く気があるかないか。

どんな美味しい料理でもね、食べる木のない人に勧めてもしょうがないでしょ。
世界一美味しい料理でも全然食欲のない人には宝の持ち腐れ。
折角の仏法も聞く気がない人は聞けません。

 

今日初めてこのブログに来た人もあると思いますけど、

やっぱり聞く気があって来ているんだよね。

 

いろんな人に仏法の話をしても残念ながら聞く気がない人がある。

話はよくわかる、なるほどそうですね、でも聞く気がありません。
これ非常にもったいないな。

 

折角尊い教えがあっても聞く気がない人は残念ながら御縁がない。

美味しいぞこの料理一遍食べると下がとろける、ほっぺたがおちる、
どんな美味しい料理でも食べる気がなければ御縁がない。

聞く気があると言うことは必ずそれを手に入れることができる。
その聞く気があると言うことは仏縁がある。
これが本当の幸せになる最も大事なもの。
宿善と言われるものなんです。
人生の目的を果たすために最も大切なのが宿善。

 

仏教を聞く一つで人生の目的を知り、果たすことができるから。

 

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タグ:お経
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2017年09月08日

なぜ人生の苦しみがなくならないか

なぜ人生が苦しみなのか。
悩みがなくならないのか、その原因をみんな知っている。

これは実に凄いことだ。
どんな哲学者よりも、知っている。
それが真実なんです。

 

全ての人が求めている知りたがっている人生の苦しみの根本を
みんなはハッキリと今知っているんです。
そしてどうすればこれが解決できるのかも知っている。
その闇が晴れたときにこそ本当の明るい人生が開ける。

それこそがみんなが求めているものだから人生の目的という。

 

その人生の目的をみなさんは知り、求め、勝ち取ることができる。

ぜひともこの無明の闇を晴らして本当の喜びの人生を

味わって貰いたいとこう思いますね。

 

それを体験された方が親鸞聖人という方で、
その親鸞聖人の書かれた本が教行信証という本です。

だから教行信証というのは「慶ばしきかなや」と。
実に大きな人生の喜びで始まっている。
そしてその教行信証を書き終えられた後再び「慶ばしきかな」と。
教行信証は前書きにもあとがきにもこの親鸞生まれてきて良かった。

この喜びが生きているときに味わうことができるとは知らなかった。
何と不思議だ。
一貫した人生の喜びで貫かれている。
魂のそこからわきあがって来るような大きな喜びで教行信証は一貫している。

 

それをみなさんにも知って貰いたい。
体験して貰いたい。
親鸞と同じ世界を感じ取って貰いたいという
親鸞聖人の願いがこもっているのがこの教行信証。
喜ばしきかなや、大きな喜びがみちている。

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タグ:教行信証
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2017年09月07日

お釈迦さまは韋提希をどのように信心決定へ導かれたか

観無量寿経で五体投地した韋提希に、

釈尊は、十方諸仏の浄土を見せられ、

どこに生まれたいかを尋ねます。

 

そして韋提希は阿弥陀仏極楽浄土を選びます。
これを「安養を選ばしめたまいけり」とあります。

韋提希は、「どうかどうか、阿弥陀仏極楽浄土に生まれとうございます。
仰せの通りにしますから」と言っています。
それを聞いて、阿難目連は、ブツブツ言っています。
よくもまぁこんなこと言ってのけるな、と言っています。

 

お釈迦さまもそれに乗じて、ホントしょうがない奴だな、

と言っておられたのではなく、会心の笑みをされました。
観無量寿経を見てみましょう。
「即便微笑」とあります。

 

お釈迦さまが狙いとされているこの世界まで導く軌道に、

韋提希が乗ったということです。

 

地獄なんかとは無縁と思っている韋提希のすがたが描かれています。
その姿を知らせる為に釈尊は十方諸仏の浄土を見せられました。
本性を見せる為です。
それはそのまま十方衆生の本性です。
2つのものを見せられると、よい方を選ぼうとする。
それは自惚れです。
自分が逆謗の屍と聞いてもそうとは思えない。
そういう本性を見せる為であったのです。
この自惚れがあるから、本願に相応しない、救われない。
韋提希に何とか本願に誓われている本当の相を知らせなくてはならない。
そしてここから釈尊は定善と散善を勧められるのです。

韋提希は始め牢の中で苦しんでいました。
その韋提希が釈尊の勧めに従って、定善をしていきます。
善をしていっても同じく外見上は苦しんでいます。
しかし、それは始めと同じ苦しみではありません。

定善をしていって苦しんでいるのは、
悪しか造れない自分を知らされての苦しみです。
ですから、同じように苦しんでいますがまったく違うんです。
外ばかり見ていた韋提希が、自分の心の内側を見るようになった。
そして苦しんでいるのです。

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タグ:阿弥陀仏
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2017年09月06日

なぜ煩悩の燃え盛る者が仏教を聞けるのか


親鸞聖人が法然上人におあいしたのは29才の時、

それまで煩悩を絶つ修行をされていた。


法然上人から煩悩は苦悩の根元ではないということ、

弥陀の本願を教えていただき、救われた。
天台宗の比叡山には、どこにも弥陀の本願を正しく説く人はなかった。

 

真の知識にめぐり合うということがいかに大変なことであるか。
もし法然上人にお会いすることができなければ、流転を繰り返していた。
それを一念でたちきる、ものすごい強縁であった。

弘誓の強縁とはどういうお力か。
若不生者不取正覚

これは阿弥陀仏の本願のお言葉。
強縁とは若不生者の念力。
若し生まれずは正覚を取らじ。
もしあなたの無明の闇をぶち破って信楽の身に生まれさせることができなければ

命を捨てるという、命がけのお約束。

サラサラ聞く気のない、
お金とか、仕事とか、そういう私たちが、聞き求めている。
若不生者のご念力がなければ、善知識にお会いすることはできない。
ものすごいお力。

 

このお力なくしてはとても仏法を聞くような人はない。
それが信心決定するとハッキリ知らされる。
ひとえにに強縁によるものであった。

 

この若不生者のご念力のことを

 

鳴く気なき虫を泣かすは秋の風

といわれる。

聞く気なき逆謗聞かすは弥陀の慈悲

 

なんとしてでも聞かさずにはおかない。
その若不生者の後念力によって仏法聞かせていただける。

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タグ:阿弥陀仏
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2017年09月05日

仏教で苦悩の根元は煩悩ではない

親鸞聖人の時代は仏教といいましてもほとんどが聖道自力の仏教
天台宗弘法大師真言宗などは煩悩をなくす修行する仏教です。
親鸞聖人も20年間煩悩を無くそう減らそう抑えようとされましたが、

半分ぐらいになりましたか!!一つも減りませんでした。

いや〜煩悩が減らないことが知らされただけでもよかった!そんな気持ちを
もっていたでしょうか!違いますね!

「定水を凝すと雖も識浪頻に動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う、
然るに一息追がざれば千載に長く往く、何ぞ不浮の交衆を〜」

(歎徳文)

一息切れたら三匹の毒龍の待ち構えた深海に沈んでいかないと行けない。
もうこんなことはしておれない。
煩悩は無くならない。
どこかに救われる教えはないか!!

そして法然上人に巡り会って、苦悩の根元は煩悩でなく

無明の闇であることを知らされました。

 

そして法然上人のお導きによって苦悩の根元、無明の闇を破られまして

本当の幸せの身になられました。
そして苦悩の根元は無明の闇だぞ!!!

無始より迷わせてきた苦悩の根元は無明の闇だぞ!!

叫んでいかれました。

 

仏教を聞いているといいましても善知識との御縁が無くて

苦悩の根元が未だ煩悩であると思っている人ばかりの中で、

「苦悩の根元は無明の闇であること」をお叫びになられまして、

その苦悩の根元無明長夜の闇は「一念で解決できますよ!!」

と一人でも多くの人に知ってもらいたいと叫んでいかれました。

 

より多くの人に真実の仏教、弥陀の本願真実を、

苦悩の根元が無明の闇でそれが一念で破れるということを明らかにするために、

結婚を断行なされました。

 

煩悩が苦悩の根元としますと煩悩を無くすには三僧祇百大劫掛かります。
膨大な借金を返さないといけません。
そして弥陀の本願を、弥陀の救いをより明らかにするために三大諍論も断行なされました。
弥陀の救いは現在ただ今の救いか、

阿弥陀仏に救われた世界は同じか異なるか、

信心で救われるのか念仏で救われるのか明らかにしていかれました。

名誉でもない地位の為でない

「ただ仏恩の深きことを念じて人倫のあざけりを恥じず」

と弥陀の本願を伝えていかれています。

 

親鸞聖人のご苦労で今日、私達も真実の仏教を、苦悩の根元は無明の闇で

その苦悩の根元は一念で破れるという事を知ることができました。

 

一日もはやく苦悩の根元が破れて絶対の幸福になれるよう

聞法精進致しましょう。

 

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posted by 陽葵 at 12:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月04日

仏教の究極の目的

教行信証総序のお言葉。

噫、弘誓の強縁は多生にもあいがたく真実の浄信は億劫にも獲がたし

親鸞聖人はそういうことを法然上人から聞かせていただいたぞそ言われている。

 

長い間、迷わせてきた苦悩の根源がぶち破られた。
生きているこの世で他力の信心がいただける。
人生の目的ではなくて多生の目的。
なんととてつもない喜びがおきることか。
人間によくぞうまれてきたものぞ、よく仏法がきけたものぞと、

教行信証は親鸞聖人の喜びからはじまる。
この親鸞聖人の教えをそっくりそのまま受け継がれた方が

覚如上人、親鸞聖人のひ孫さん。
面受口訣の方。
一念の信心の体験と深い学問から親鸞聖人の教えを明らかにされた。
親鸞聖人、法然上人と全く同じことを覚如上人もおっしゃっている。

 

この娑婆生死の五蘊所成の肉身未だやぶれずといえども、

生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて(改邪抄)

超重要なお言葉、肉体は問題ではない、問題は心だぞ。
こういうのを不体失往生ともいう。
生死流転とは肉体が生まれ変わり死に変わりするということ。
ここで仏教は多生のことを言われていることが明らか。
共発金剛心とは他力の信心ということ。
金剛心とは阿弥陀仏のまことの心ということ、これには名号という意味がある。
金剛石には変わらないということとぶち破るという意味がある。
苦悩の根源をぶち破って一念で信心が発起する。
人間界というお宿にきて、善知識にあわせていただいて、

いわばドラマがクライマックスを迎えている。
次いつ仏法が聞けるかわからない。

命のうちに不審もとくとく晴れられ候はでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ御文章

こんなチャンスを逃していたら大変な後悔をする。
一生の後悔ではなく、多生の後悔。

 

覚如上人は要約の方、蓮如上人は弘顕の方。
蓮如上人もまた、同じ意味のことをおっしゃっている。
この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我ら衆生に回向しまします故に、
過去未来現在の三世の業障一時に罪消えて、

正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり(御文章5帖目6通)

大功徳とは南無阿弥陀仏のこと、大宇宙の万善、万徳がおさまっているから、
無明の闇をぶち破ってくださる仏様は阿弥陀仏しかなかった。
回向とは阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の6字を与えて下される。

 

無慚無愧のこの身にて

まことの心はなけれども
弥陀回向の御名なれば

功徳は十方にみちたまう(悲歎述懐和讃)

 

弥陀回向の名号とは、大宇宙の功徳利益がおさまっている。
その南無阿弥陀仏を一念で苦悩の根源である無明の闇を切って捨てる働きがある。
過去未来現在の三世の業障といったら、人生のことだけではないぞ、

三世を迷わせつづけてきた苦悩の根源が、南無阿弥陀仏の大功徳を受け取って、

その利益でぶち破られる。
法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、善知識方が教えられることは一貫している。
これを「次第相状の善知識のあさからざるご勧化のご恩」とか、

「知識伝持の仏語」という。
善知識の教えられることは、

「苦悩の根源は無明の闇。阿弥陀仏の本願によって、苦悩の根源が無明の闇がぶち破られる」

と教えられている。
私なんか、助からないとおもっているのは自分の力で助かろうとしているから。
聞即信の一念で南無阿弥陀仏の働きによって、一念で苦悩の根源が破られる。
こんなことは人間に生まれて真の知識にあわなければできない。
こういうことが仏教に教えられている。
こんな教えにあえるということはない。
 

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2017年09月03日

苦悩の根源と解決の道

苦悩の根源と解決の道とは
人間が幸せを求めていながら幸せになれない原因は何か、

そしてその解決は、ということです。


この苦悩の根源を仏教の言葉で言うと無明の闇ということです。
この無明の闇のことを別の名前でいうと疑情という。
阿弥陀仏の本願を疑う心。
本願の内容は無明の闇を破るということ。
本願がはっきりしていないということは無明の闇が破れていない。
無明の闇が破れたら大安心、大満足の信楽の心に生まれ変わる。
これを信心ともいう。
本願まことであったと知らされた時に無明の闇が破れる。
本願まこととはっきりしない心を無明の闇といいます。
他にも、
・疑網
・本願疑惑心
・自力の迷情
ともいう。

 

無明の闇をぶち破るのは本願力でしかやぶれない。
それなのに自分の力でなんとか敗れると、弥陀の本願を信じきれない心。
これを自力の迷情といいます。

 

今度の試験勉強で友達がかならず教えてくれると約束した。
でも自分でもやろう、他の人にも聞こう。
あなたにお任せとか言っていて、他の人にも頼んでいる。
これはその人の気分を害する。

 

阿弥陀仏の本願に任せきれない。
自分の力で何とかしようという心を自力の迷情という。
ある女性があなたのことをたよりにしている、他の男は見えない。
こういっていたので「よっしゃまかせとけ、僕しか君を幸せにできる人はいない」といった。

先輩に喜んで、そのことを打ち明けると同じことをその女性から言われていた。
別の先輩も言われていた。
なんだ自分だけじゃないのか、むかつくなあの女。

 

よい種まきをして助かろうとか、他の諸仏に向いて足しにしようとか。
阿弥陀仏の本願だけでは足りない、お任せしきれない。

本願によって無明の闇を破っていただいた時に本願の力でなければ
無明の闇を破ることができなかったと知らされる。
苦悩の根源は無明の闇であり、ぶち破る力が他力、破れた時に日本晴れの心になる。

これが苦悩の根源と解決の道。

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2017年09月02日

華厳宗の梅尾の明恵のさとりが崩れた件

梅尾の明恵という人。
華厳宗
法然上人と同じ時代。
法然上人にたてついた男。

 

聖浄廃立のできていない人には、大変な人気。
大変に気をはりつめていた、と言われていたのですね。

 

雑炊が好物で。
それを知った弟子が、明恵の所へ、とびきり美味しい雑炊を作った。
一口入れた所、眉がぴくぴくっと動いて、

サンをすーっと指でこすって、ホコリを雑炊に入れて食べた。

 

掃除っていうのが、非常に重要で、ちょっとでもホコリがあってはならない
弟子達は、お師匠さまに、やられる〜、と思っていた。

そうじゃないそうじゃない。

 

あまりにも美味しかったので、食した瞬間に、
もっと食べたい、執着の心が、むらむらっと出てきたから、

味を落として執着を起こさないようにしたのだ。
それくらいぴりぴりだった。

 

念珠ってありますよね。
数珠は煩悩を表したもので、

正式なものは108ある。

 

折りたたんでつかっている。
地べたに放り投げるなんて、もっての他。
歩いていた時に、ふっとした事で、落としてしまった。

 

ところが、ぴりぴりに気をはっているのですから、右手で落と
したのを、左手で、すっと地面すれすれで拾い上げた。
ところが、すれすれの所でキャッチした時に、よかったー、あぁよかったーと思った。
その心によって、明恵が今まで悟ってきた悟りはがらがらがらっと崩れ去ってしまった。
さとりを開くことがいかに大変か、が知らされます。

煩悩のビデオはこちら
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2017年09月01日

三心一心問答の解説

阿弥陀仏という仏様は、
この世の全ての人を、信楽という、大安心大満足の
心に生まれ変わらせてみせる。

至心信楽欲生我国といいまして、
この世の全ての人達を、三つの心にしてみせる、
と誓われた。

本願の三心の願、と言ったりするのですね。
ところが、阿弥陀仏は、三心を誓われていますが、
これは、信楽に救うという意味で、合すれば信楽の一心なり。

天親菩薩によって明らかにされた。
三心一心問答というのがあります。

 

問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。

何をもっての故に論主一心というや。

答う。愚鈍の衆生をして解了し易からしめんが為なり。

弥陀如来三心を発したまうと雖も、涅槃の真因はただ信心を以てす。

この故に論主、三を合して一とせるか。

教行信証信巻)

 

 

問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。

阿弥陀如来の本願文には、この世の全ての人を至心信楽欲生我国。
至心の心にしてみせる。
至心とは、まことの心。
信楽の心にしてみせる。
欲生我国の心にしてみせる。
欲生我国とは、我が国に生まれられるという心で、
極楽行き間違いない、と定まる心、にしてみせる、
と約束されていますが、

 

何をもっての故に論主一心というや。

天親菩薩は、一心にまとめられた、それはどうしてなんですか。
親鸞聖人、
自問自答しておられる。

 

答う。愚鈍の衆生をして解了し易からしめんが為なり。

弥陀如来三心を発したまうと雖も、涅槃の真因はただ信心を以てす。

信心正因の根拠。

 

阿弥陀仏が、私達を助けようとされる、
広大な御心を表したものが本願の三心と言われるもので、
その阿弥陀仏の御心を私達に間違いなく、頂かせる為に、
天親菩薩が、一心と教えられた。

 

そのように、天親菩薩が、

信楽の一心に救うのが阿弥陀仏のお約束だぞ、
と教えられたのを、今度は、曇鸞大師という人が、
信とは、苦悩の根元である無明の闇を破り、楽とは弥陀の願いを衆生の上に満足する。
浄土論というのを解釈せられたのが曇鸞大師の浄土論註。

 

その中に、苦悩の根元をぶち破って、
阿弥陀仏の願いを衆生の上に満たしてやりたい、という事が信楽の楽だぞ、
と教えられている。

親鸞聖人、苦悩の根元である無明の闇がぶち破られた時、
苦しみ悩みの人生が、大安心の人生になる、
そしてまた、教行信証総序
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり、の御文で破闇。
難思の弘誓は難度海を度する大船、の御文で満願。

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