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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年09月21日

『往生要集』の著者、源信僧都の横川法語・六道輪廻とは?


源信僧都の横川法語という言葉があります。

 

まず三悪道を離れて人間に生まるること、大なるよろこびなり。
身は卑しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもうことかなわずとも地獄の苦にくらぶべからず。

 

六道輪廻
六道というのは、
人間界に天上界修羅界地獄界餓鬼界畜生界
こういう六つの迷いの世界があって、
この六つの迷いの世界を私達の迷いの魂が
ぐるぐるときりも際もなく、車の輪をまわすが如くに経巡っている。

輪廻転生ともいう。

 

私達は、この人間界に生を受けて死ぬまでの間、
どうしたら少しでも金が儲かるか、
どうしたらちょっとでもいい人と結婚できるか。
こういうことに目を輝かせている。

そういう私達が、肉体がここで生まれてやがて死ぬと、
肉体が滅びてもほろびざる永遠の生命があって、
その迷いの魂が、生死生死を繰り返し、
輪廻転生といわれている。

これを六道輪廻という。

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2017年09月20日

19願から20願

18願は真実、19願20願は方便です。

19願にどういうことを誓われているか。

設我得仏十方衆生
発菩提心修諸功徳
至心発願欲生我国
臨寿終時仮令不与
大衆囲繞現其人前者
不取正覚

ではどんな意味か。

 

設我得仏
私が仏になりましたならば、ということ。
阿弥陀仏はもう仏になられているので問題はありません。

 

十方衆生
お約束の相手です。
衆生摂生の3願ともいわれますように、
十方衆生を相手に願を建てておられます。

この19願を、修諸功徳の願とも至心発願の願とも言われます。
教行信証に「要門釈」というのがあり、そこに親鸞聖人書かれています。
「修諸功徳之願」「至心発願之願」「来迎引接之願」「臨終現前之願」とあります。

 

発菩提心
菩提心をおこして。
よ〜しやるぞ!という奮発心を発して、ということです。
発して何をするのか、それが次に言われています。

 

修諸功徳
功徳というのは「善根功徳」のことです。
「菩提功徳」また「名号」を表すこともありますが、
ここでは「善」のことです。
「諸善」「万行」もろもろの善い行いをするということです。
親鸞聖人のお言葉なら「万行諸善の仮門」というのがあります。

これは仏教のどういう教義からくるんでしょうか。
因果の道理です。


そういうところから、19願の教えというのは
十方衆生を因果の道理で統合して、三願転入の軌道にのせる教えです。

この意味は、この世の十方衆生はとんでもないものを信じています。
いろんな考え方をもっています。
そんな十方衆生でも、あなたの受ける結果運命というのは
すべてあなたの蒔いたタネなんですよ、という因果の道理はよく分かる。

善いタネを蒔くという時は、決心というのが必要です。
悪いことしないぞ!
善いことするぞ!というのは決意がいりますよね。
寝坊してしまう人、これは、奮発心がないんです。
ここで無理したら余計にみんなに迷惑かけるぅ、とか勝手に言い訳考えるんですけどね。
また布団っていうのはすごい誘惑してくるんですよね。
それに打ち勝って起きるのは決意が必要です。

楽したいっぱいの私達ですから、ちょっとでも楽がしたい。
その楽したい心に打ち勝たないと善いことはできません。
これが「発菩提心」です。

 

至心発願
至心とは「まことのこころ」ということです。
誰の心でしょうか。
私達にはまことのこころはあるんでしょうか。
ないもの出せ!と言われているんですが
これは「まことのこころにして」ということです。

「まことのこころ」にならん私が「まことのこころ」にしようとして、ということです。

 

もっとも多くの人が間違ってるところだと思います。
どうせならないもの、と思っているのは
「まことがない」と本願力に照破されたのとは全然違うんです。
実行してみないと分からないものです。

 

いくつか例をあげてみますと、あいさつするってことあるじゃないですか。
私が、子供の頃「おはようございます」と言うのが素直にできなかったんです。
そもそもそんなこと言う気持ちがないんだ、だからここで言うのは自分に対する裏切りだ!とか。
「ごめんなさい」も言えない。
たしかに俺も悪いけどお前も悪いんだ!とか。
上司や先輩にあいさつしてるのをみるとヘドが出る!何だコビ売りやがって!と思ってました。
多かれ少なかれ、こういう気持ちってみんなあるんです。

そういう心しかないんですけど、それを「まこと」の心にして、
そしてあいさつしてみる。
これが「至心発願」です。
そこを自分の思いのままにやってるのは、素直なんじゃなくてガキなんです。
お礼状やお詫び状にしてもそうです。
書く気もない自分の心を正して「拝啓」とか書くんです。

自分の心を見つめて、心をまことにしようと努める。
これが19願のみ心にかなっていると思うんです。
御一代聞記書に「心を責めよ」というのがあります。

「わが心にまかせずして心を責めよ」というのは、
三願転入の道を進む時、あれはしたいこれはやりたくない、
という弱い心に任せておっては、
諸々の功徳を菩提心を発して至心に発願してやってるとは
言えないんだということです。

カッコだけつけとかなくてはならないからやっとくの。
掃除の時間も、ほうき持って動くだけ。
心をこめてやってるわけじゃない。
しかし19願では、そんなあなたの心を「まこと」にしようとするんです。

あいさつするにせよ、自分と接する誰かに少しでも幸せになってもらいたい、
こういう思いが必要なんです。
仏法の話をする時だって、話す人に少しでも幸せになってもらいたい
という気持ちがあるかどうか、これ非常に大きなものなんです。
仏法にお金を使う時だってそう、後生の一大事解決の為ならば
これくらいではまだまだなんですが、という気持ちになってるか、
それとも体裁だけを取り繕っているか、大きな違いです。

 

ある若い女性が仏教の真実の自己を聞かれると
一生造悪の話をします。
すると、確かに言ってることは分かるんだけど、そんなこと考えてたら誰も信じられない、
誰も愛せないじゃないですか。
仏法者は結婚するにせよ恋愛結婚ではいけない、
人生の墓場だと覚悟して結婚する。

こういうのが理想なんでしょ、と言ってくれるんですね。

 

潤いも明るさも希望もありませんね、って。

しかし、人間のまことの相というのは、18願に出させていただいて、
無量の光明に照破されて知らされることであります。
そこへ進んでいく19願では、精一杯まことの心にしようとするんです。

「まごころ込めて」という言葉あります。
仏法聞き誤ってる人は、まごごろなんてないんだ!
「まごころ抜きで」贈り物を、と言うんです。
無念無想で念仏称えるぞい!なんて。

「心こそ、心惑わす心なれ、心に心、心許すな」
「最大の敵は心であり、最強の味方も心である」
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」(法句経)
「いくたびも思い定めて変わるらん思うまじきはわが心かな」
「そのまま我が心に任せたならば地獄行き」
「心せよ心許せば身の破滅」

自分のことを楽な方へと導く心。
理由と絆創膏はどこへでもくっつく、自分を正当化しようとする心。
そういう心を責めよ、と言われています。

「至心発願」というのは、仏様の眼から見ればまことなんてのはないんだけど、
そのあなたの心をまことにする。
そうやって阿弥陀仏極楽浄土に生まれたい(欲生我国)
という願いを起こして、ということです。

 

臨寿終時仮令不与
大衆囲繞現其人前者
不取正覚

そうすれば臨終に助けにいくぞ、と誓われたのが19願であります。

要するに19願で教えられているのは、よしやるぞ!
という奮発心を発して心をまことにして善をしなさい。
やる前から、どうせできんのだと言っていたのではいけません。
そうすれば助けるというものです。

実行する。
これが行者です。
仏法聞く前に比べて、自分の心をどれだけまことにしようとしているか、
これで、その人の仏法の理解が分かるんじゃないでしょうか。
ちょっとでも相手に幸せになってもらいたい。
そのためには自分の心を戦っていかねばなりません。

そうやって全力尽くしてやってみると知らされることがある。
泣かざるをえません。


そんな人に説かれたのが20願です。

阿弥陀仏がつくられた南無阿弥陀仏の6字の名号というのは、
大宇宙のありとあらゆる善の本になっているものです。
万善万徳をすべて封じ込まれた名号を称える、これが念仏を称えるということです。

19願の教説にしたがって善をしてみると、できない自分が知らされる。
そしたらこの弥陀が造った名号があるから、これを称えよと言われるのです。

初めて三願転入を聞いた時、諸善をやるより、
名号称える方がはるかに楽だな、と思いました。


しかし、20願の人というのは、19願で徹底的に善をやってやって
できないものと知らされてるんです。
信仰進んで、名号の功徳に目がついて、

名号をあて力にするんです。

 

真門自力の念仏者というのは、
称えている念仏は阿弥陀仏がつくられている他力のものです。
しかし称える心、これは自力なんです。
だから半自力半他力といわれます。
19願の人は、やってる善も自力、やってる心も自力です

そして善なんかできないと知らされた人に、
ものすごい功徳をブチ込んだから、
と出される名号、これを称えるのが20願の人です。

親鸞聖人はご自身が19願から20願、
20願から18願の世界に入られたというところから、
三願転入を書かれているんです。

これが親鸞聖人の教えの根基といわれるものです。

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2017年09月19日

親鸞聖人の教えと三願転入の関係

三願転入を説かれる方は、
鮮やかな体験と教学に裏付けられた方
以外にはありません。

 

善知識は三重廃立なされる方。

 

親鸞聖人は真仮廃立を徹底なされた。
ではどうやってか。
それが三願転入であります。


三願転入は、親鸞聖人の教えの根基です。
「根」も「基」もとても大事ということですね。
「根幹」「依憑」「淵源」など
仏教で「大事」ということを表す言葉はたくさんありますが、
ここでは「根基」といわれます。

 

とにかく三願転入が大事ということです。

 

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posted by 陽葵 at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月18日

タネまきも預け入れの期間が長いほど利子がつく

布施というのは善業力ですから、消えてなくなることがない。
そして縁がきたらばーっと花を咲かせる。

 

もしみなさんが一生懸命に、良い種を蒔いているのにも関わらず中々芽が出てこない。
少しも評価してもらえない。
そういうとき大抵の人はくさってしまう。
こんなに種を蒔いているのに、芽が出てこない。

そういうときは大きな貯金しているみたいなのだ。

預け入れの期間が長ければ長いほど利子がつく。
返ってくるときにバーッと結果が帰ってくる。
だからこれから未来が楽しみ。
問題はそこでくさって種蒔きをやめてしまう。

 

ただ種蒔きをしているのに芽がでてこないというのは、どこかもっと工夫する研究する
余地があるとして、自分の種の蒔き方や取り組む姿勢というのを反省して進歩向上していく。

 

反対に悪い種蒔きをしておりながら、その悪い種蒔きがバレない。
闇へ葬った。
なかなか逮捕されない。
少しも捕まえてもらえない。
こういう人は大きな貯金している。
だから因縁和合したときにバーっと来る。
ヒドイのが。

因果応報です。

 

同じくらいの年齢で豪遊している。
若い人の場合は徳を磨きなさい。
自分と接したときに、仏縁を深める。
そういうような人間になりなさい。

徳を身につけたならどこにいっても恵まれる。
お金をもっても悪銭身につかず。

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2017年09月17日

なぜ仏教のことは急ぐのか

お金ためた、大きな会社作ったといっても最後はおいていかねばならない。
白骨の章にもありますが、最後は、白骨だけが残る。

 

あわれというもなかなか愚かなり。

 

我々は、無限の欲に引きずられ最後は白骨となっていく。

 

されば人間のはかなきことは、老少不定の境なれば

 

されば人間のはかなきことは、「老少不定」である。
年老いた人が先で若い人が後から死んでいくということは決まっていない。
年取った人が先に死んでいくなら若い人は安心できる。
そんなことは決まっていない。
いつどんなことで死んでいかなければならないかは分からない。

 

肉体の年齢はいろいろあるが、無常ということから言えば同じ年。


人間の世界というのはそういうものですよ。

 

ある人が高価な絵を買った。
それで有名な一休和尚さんに言葉を
入れてもらおうと思った。
ありがたい言葉を書いてくださいと。
一休「よっしゃ、まかせなさい」。

 

親死に子死に孫死に

と書いた。
「何てことを書くのですか!」

親が最初に死んで、子供が死んで、孫が死ぬこれ以上ありがたいことでないか。
世の中には親より子や孫が死んで悲しんでいる人ばかりでないか。

 

誰の人も早く後生の一大事を心にかけて

 

「誰の人も」…今まで話したことは、例外がない。
この人はあてはまらないという人は一人もいない。
アメリカの人もハワイの人も。
例外がない。

 

「早く」…「老少不定」だから早く人生の目的を果たさなければならない。
「後生の一大事を心にかけて」…生きている人間がやがて死んでいく。
これ以上の一大事はありません。

この後生の一大事ほど深刻な問題はない。
これ以上私たちにとって大変なことはない。
その後生の一大事を忘れてはなりませんよ。

 

これこそ、「人生の目的」「人生急之事」
すぐに趣味や生き甲斐ばかりに私たちは目を奪われてしまう。
目先の浅いものばかり。
この生死の一大事を忘れてしまう。
そして、たった一度きりの人生なのに丸太ばかり求めて土左衛門になる。
だから後生の一大事を忘れなさるなよといわれる。
部室を出ると、すぐに忘れる。
食事のことテレビのことばかりに目が奪われる。
だから心にかけなさいといわれる。
かかっているなら心にかけよといわれない。

後生の一大事の解決が人生の目的であることを忘れてはならない。
この一大事の解決以上に、全ての人が何よりも急いで求めるべき問題はない。

 

大無量寿経』に

「世人薄俗として、共に不急之事を諍う」
みんな「不急之事」そんなに急がなくてもいいことを争って急いでいる
本来、急ぐべきは、今晩とも知れない後生の解決、

これこそ「人生急之事」

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2017年09月16日

毎日同じ事の繰り返しを断ち切る働きとは?

科学や医学がどんなに進歩しても我々の苦悩は断ち切れません。

どんなに進歩してもこれらは生きる手段ですが私達の苦悩は無くなりません。
この様なわっかをぐるぐる、同じ所を回っているだけです。
これを流転輪廻と言います。

「どう生きるか」

これのみではどんなに科学医学が進歩しても、これはどうあるけばもっと楽しく、

楽に長くあるく、是は医学ですが、もっと足に豆ができないようにとい
うのが科学ですからどこまでいっても苦しみ悩みはなくなりません。
苦悩の根源である無明の闇を破らねば断ち切ることはできません。

 

その我々の苦悩の根源である無明の闇、これを破って下さるお力を他力、これだけです。

苦悩の根源をのぞく力のみを他力と言います。
このことが判れば他力によって救われた親鸞聖人の明るさ、
たくましさもよく理解できるではありませんか。

 

無明の闇を破らなければ絶対に幸せになりません。
どんなに科学が進歩向上してもぐるぐる回るだけですので、

20世紀は科学大変な進歩を遂げましたが、

便利にはなりましたが苦しみ悩みは皆苦しみ少しも減っていません。

 

自殺する人は年々増えています。
どう生きるかだけではぐるぐる回ることになります。
小学校、中学校と風景は変わりますがぐるぐる回るので苦悩の根源である

無明の闇を断ち切らない限り絶対に本当の幸せには成りません。
苦悩の根源を破る働きのみを他力と言います。

現実を直視すれば賢明なあなたはおわかりでしょう。

 

新聞を読めば、テレビを見ればいやなニュース、苦しみ悩みの声ばかり。
・1300年前の善導は四方八方ながむれどただ愁嘆の声のみを聞く
テレビを見ても苦しみの声ばかり、科学がどれだけ進歩しても苦しみ悩みはなくなりません。

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タグ:科学
posted by 陽葵 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月15日

阿弥陀仏の本願とは?

お釈迦さまが宇宙最高と説かれている
阿弥陀仏はどんな本願を立てられたか。

 

本願とは誓願

 

弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて往生をば遂ぐるなり
歎異抄一章)

 

阿弥陀仏が誓われたこと、お約束のこと。
阿弥陀仏の本願を誓願とも言われます。
誓願とは誓い、お約束、本誓とも正信偈に言われている。

 

明如来本誓応機

 

本願とは誓願、阿弥陀仏のお約束ということ。
本師本仏の為されたお約束。
どんな約束か。

 

あらゆる人々は不幸で苦しみ悩み続けている。
色んな苦しみを抱えて生きている。

昔、プロ野球のピッチャーが飛び降り自殺をして衝撃が走った。
みんな苦しんでいる。


中央線は年間二百人くらい飛び込んでいる。
飛び込み自殺の名所、不幸で苦しみ、不安、不満、苦しみが色々ある。

有れば有るで苦しみ無ければないで苦しみ、苦から離れきれない。

 

大学生なら、一年の3分の1が休みでも、
いろんな苦しみ悩みが次から次とやってきて
一つ乗り越えてホッとしても諸行無常ですから、

色んな苦しみがやってきて、苦より離れきれない。

 

どんなに一生懸命しても色んな苦しみ悩みがやってくる。
人生は苦しみの花がさく木で一つさいて、また次の花が咲きます。
死ぬまで苦しみの連続で、この世で苦しみ色んな悪を造り後生も苦しむ、
苦より離れられない哀れな私達に大慈悲心を起こされ、
どんな人でもこの世も未来も最高無上の幸せにしてみせる、
できなければ仏の命を捨てようという約束をされている。

 

もし絶対の幸福にできなければ、信楽に身にできなければ命を捨てる。

何ものも障りにならない絶対の幸福、無碍の一道、
この世界に出させてみせる。
もしできなければ仏の命を捨てよう。

 

このようなお約束が阿弥陀仏の本願。

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タグ:往生 正信偈
posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月14日

悪しかできない者がそのまま救われる

お釈迦さまは、私たちのすがたを

心常念悪

口常言悪

身常行悪

曽無一善

と説かれている。

お釈迦さまは、心と口と体の3方面から私たちを見られている。

その心が常に悪を念っている。

 

心が悪ばかりなら、口や体も悪になる。

口は常に悪を言い、

体は常に悪を行っている。


川上に青いインクを流せば、川下は青くなる。
口常に悪を言っている。
体も常に悪を行っている。

 

曽無一善。

かつて一善なし。

 

生まれてからこのかた、一つの善もしたことがない。
これは倫理道徳の善ではない。
そういうことはやっているし、やらないと生きていけない。
仏様がごらんになられても善といえるもの。


私たちは人のため、人のため、と言っているが、本当に人のために善をすることはできない。
お礼を期待する心がある。
商売である。
雑毒の善と親鸞聖人は仰っている。
人の為と書いて偽り。
国民のため、自民党のため、と言っていたが、結局は自分のため、自己の保身のためであることが今回の一件でもわかった。
人のため、人のため、自分のためにやっているんじゃない、ボランティア、といっているが、自分中心の善しかできない。
だから、相手が自分の期待通りにならないと腹が立つ。

 

ぼた餅作って腹いっぱい食べた。
あまったので、捨てるのももったいないので隣にやった。
「ありがとうございました」と隣の人は言ったが、翌日あったときには、ぼた餅の『ぼ』の字も言わなかった。
一言くらい言えよ、もう絶対にやらない。
今度は反対側の隣の人にやる。
本当に相手のことを思ってやる善ではない。
毒入りのぼた餅。


数十年前、日本は大きな戦争をした。
国のため、国のため、という教育を受けた。
国といっても人の集まり。
国民の為に死ぬんだ、と特攻隊。
しかし、これも名誉のために死ぬ。
名誉が残ると思っている。
大勢の人の前で腹を切って死ぬ人もあるが、これも名誉のため。
こうしたら、人がこう思ってくれるだろう、と、そういったことを一切計算せずに善はできない。
もしできる人があれば、ここにあがってもらわないと。
後光がさしている。

 

たまに鴨に矢が刺さって報道される。
『矢鴨かわいそ〜』と言いながら、焼き鳥たべている。
すき焼き、焼肉、さしみ、おいしいおいしいと食べている。
本当にかわいそう、と思う心があるのか。
活造り、魚がまだ生きているのに、その刺身をおいしいおいしいと食べている。
悪の限りをつくしながら、八つ裂きにされて殺されても文句の言えない悪人なのに、善人だと自惚れている。

ここではっきりと知らされる自分の姿を機の深信という。

 

親鸞聖人は

「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫昿劫より已来常に没し常に流転して

出離の縁有ること無しと深信す」

と仰っている。
罪悪生死の凡夫とは、隣に大きな家が立つと腹が立つ。
もらった赤飯がのどにささる。
犬にでも食わせておけ。
相当借金しとるぞ。
焼けてくれないか。

 

おやじかなり飛ばすそうだが、事故にでもあってくれんか。
そしたら、買ってくれと言ってくるだろう。
たたいて買ってやろう。
人が聞いたらあきれて逃げてしまうことをおもっていませんか。
旅先の火事は大きいほど面白いと言われる。
自分の家と関係ないから。
だから火事見物に行く途中で、消えましたよ、といわれると、がっかりする。
「かわいそうに」と口では言いながら、喜ぶ心がある。
現在の自分がわかると、過去も未来もすべてわかる。


「いずれの行もおよび難き親鸞、とても地獄は一定すみかぞかし」
と親鸞聖人は仰っている。
お釈迦さまの仰る通りの親鸞だった。
このとき、

「弥陀五劫思惟の願をよくよく按ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」
が同時に知らされる。
ここで阿弥陀仏の本願と私とが一つになる。
若不と唯除。
本願や行者、行者や本願。
正信偈には『慶喜一念相応』
御和讃には『願に相応する』とある。
これを二種深信ともいう。
これが真実の信心。
ここまで仏法を聞かせてもらいましょう。

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タグ:正信偈
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年09月13日

あなたは他人からどう見られているか?

私たちは、他人のことはよく見えるが、

自分のことは分からない。

それは、近すぎるから。

 

近すぎるものをみるとき、どうするか。
鏡のご厄介になるしかありません。
私を映す鏡に、他人鏡、自分鏡、法鏡の三つがある。

他人鏡とは、他人は自分のことをどう思っているか。
それを聞く。

 

人は自分のことをよい人といっているだろうか、頭のよい人、きれいな人、親切な人、
かわいい人、常識豊かな人。
考えてみれば、朝から晩まで、私達は他人鏡にいかに綺麗な自分を映せるか、

そればかりに神経をすり減らしている。

『○○さんってね〜』と自分の名前が聞こえると、耳をそばだて、ど真剣に聞く。
そして一喜一憂する。
多くの人が自分のことを悪い人だと言っている。
では自分のどこが悪いのだろう、と反省する。
しかしこれは都合によってかわる。
私たちがよい人、悪い人、という場合、私にとって都合がよいかわるいか。
心の中で、みなさんも善人と悪人とをわけているでしょう。

 

どういう基準ですか。

 

本当に自分のことを思って注意してくれた人であっても、

自分にとっておもしろくないと悪人、嫌な人、近づきたくない人、となる。
仏教を聞いているときに居眠りしている人があった。
休憩時間に面談を申し込まれた。
会ってみると居眠りしていたお婆さん。

 

「先生、今日は尊いお話ありがとうございました」

と言って、菓子箱を出された。
あけてみると一万円冊の束。
ざっと見ただけで一千万円はある。
「いやーここにはいい人がおられるな〜」となってしまう。
半日で変わってしまう。

 

裁判官は事実を客観的に見て判決を下さねばならない。
ところが必ず感情が入る。
だから事実は一つなのに、無罪になったり有罪になったりする。

 

「今日誉めて明日悪く言う人の口泣くも笑うもウソの世の中」

といわれる。
誉められたからといって有頂天になって天井裏のネズミとダンスしていては大変ですよ。
悪口言われたからといって元気無くして自殺するのも愚の骨頂ですよ。
一生涯、こんな鏡ばかりみて、振り回されていたら、大変なことになってしまう。

 

真実を映し出すのは法鏡であり、

法鏡イコール仏教です。

本当の自分の姿を知るには、

仏教を聞かなければなりません。

 

 

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2017年09月12日

人生の目的・生きる意味とは?

まず人生の目的とは、一体どういうものなのか。これは生きる意味ともいえます。

人生とは人が生まれて、死ぬまでの間、人生といいます。
人生っていう言葉を聞くと、何か重たい、苦しいような感じがしますが、
仏教を説かれたお釈迦さまは、
仏の悟りを開かれて一番最初の言葉が「人生は苦なり」でした。
これは仏の悟りの第一声といいます。

仏教ではこの世のことを娑婆といいます。
娑婆世界といますのは中国に行って堪忍土とやくされました。
人間が生きていく、人の世とは耐え難きを耐え、忍がたきを忍んで、
生きて行かねばならない事が一杯あるんだよといわれたのです。

これは私たちの人生のことです。
かの有名な作家の芥川龍之介は、人生が楽しいといっている人は、
人生を知らない幼い子どもか、気違いだ。
と言っている。
人生は地獄より地獄的だなど彼はいろいろ言っている。

よく、人間の生き様を描いた文学作品が世界各国にありますが、
ある有名な学者が、そいう文学作品の中に、苦しいという言葉と、
楽しいという言葉とどちらが多いかを調べた人がいました。
その結果、3対1で苦しいという言葉のほうがおおいんですね。
一番華やかだと言われているのはフランス文学でありますが、
それでさえ、2対1で苦しみの勝ちです。

仏教ではこの事を苦楽一如といい、苦と楽は全く別のものではなく、
二つであって一つ、一つであって二つですよ。
つまり、苦しみの新しい間を楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみ
というんだよ。

何か別々なものがあるのではなく、一如と教えられている。
何か、楽しい事があったとき、それが崩れた時に、
苦しみも大きくなるのを皆さんも感じた事があると思います。

或いは、楽しみとは、たのしみという形をとってあらわれた苦しみである。
とも言われています。
ちょっと形が違うけど、結局、苦しみなんですよ。
楽しかったものも、やがて苦しみになる。
そうやて、みんな誰でも年を取っていく。
厳粛な事実がある。
これが人の一生なんです。
生まれてから、ただ一つハッキリしている事は、死んでいくという事です。
厳粛な事実です。

モータルということばがある。
やがて死んで行かねばならないものという意味です。
ところがもう一つ名詞の意味があって、人間という意味です。
すなわち人間というのはやがて必ず死んで行かねばならない
運命を持っているもの。
人間というのはやがて必ず死んで行かねばならない運んめいを持っている。
楽しい事もあるでしょうが、やがて苦しみになり、それを乗り越えて、
また、新たな、楽しみを求めるのでしょうがそれを繰り返しながら、
最後は、やがて死んでいくんですよ。
人生という響き、どうしてもおもくならざるを得ない。

西洋の格言にメメント・モリと言われますが、
やがて死んでいく存在であることを忘れるな。
という事です。
日本の言葉の中にも、
今死ぬと思うにすぎし宝なし、心にしめて常にわするな。

今死ぬと人生を見詰めた時に初めて、人生とは何か。
いま、本当にしなければならない事はなにか。
問題になってくるんですよ。
今、死んでも悔いないといえるものは何か

人生を考えた時に、やがて必ず、死んで行かねばならないという事ですから、
死という問題をはずして考える事は絶対にできません。
こういうことを仏教では生死一如といいます。

生きるということと死ぬという事は別なものではなく、
切っても切り離せないということです。
ここにいる、皆さんも、生きるという事を必死に考えている。
どうすれば明るく、楽しく、生きれるか。
これはみんな一生懸命考えている。

ところが死というものに関心を持っている人は非常に少ないですね、
カップルがデートでささやくことはなにか。
死んだらどこに行くのかしら。
なんて話したら、もりあがりませんから。

ところで生きるということばかり考えていても、
死は100%確実にやってくるのだから、大変な一大事が起る。
昨日まで幸せな家族だったのに、わずか20秒で不幸のどん底に突き落とされる。
もうちょっとというところで死によってぶち壊される。
生と背中合わせになっている死をきって切り離す事のいできない事だと教えられています。

そこで今日は普段はあまり考えない、死を見詰めて人生とはどういうものか、考えたいと思います。

子どもの頃にどんな人でも聞かされる話に、ありとキリギリスという話があります。
キリギリスは非常にのんきというか、楽天家というか、いつ歌を歌うのが大好き。
ありは、夏の暑い日でも、顔色い一つ変えずに働いている。

キリギリスは今が楽しいといってふらふら遊んでいるそれじゃあいけないよ。
何でかというと、夏がすぎると、秋が来てやがて必ず、寒い冬がやってくる。
いつまでもあったかい夏がいいと思っても、やがてあき去り、冬がやってくる。
夏の時はよかったけど、いやないやな冬がやってくる。
巣を作っていたありは、あったかい巣の中で暮らす事ができました。

こういう話、誰でも聞かされている。
肝心なのは夏の時に巣をつくって準備しなければならないのと同じように、
死の一大事の解決をするのが大事。

夏休みというと思い出すのが、宿題。
絵日記がある。
31日で何も書いていない絵日記をみてないている。
これほどいやな気持ちになることはない。
こんあことならきちんとかいてればよかった。

ちょうどそれと同じように、私たちの人生も、生まれてきたらからには宿題を抱えている。
必ず終わって死が来て、宿題出せといわれる死がくる。
しかもいつやってくるか分からない。
あなた、いつ、死が来ても大丈夫ですか。
死がきても大丈夫という準備を元気な時にやっておく必要がある。
よく、こういうことをたとえて生とは台所の様なもの、である。
使徒は、トイレ、便所。
台所誰もが好きな明るい感じのするところ。
家族の団欒するのも台所。
家に帰ってまず最初に行くのが台所。

トイレのイメージは暗い、苦しいといった感じ。
しかし、便所嫌いだから作らないという人があったら大変な事になるます。
ご飯をおいしく頂くには、いつでも安心して行けるトイレがあっておいしく食べれるでしょ。
印象にあるのが阪神大震災。
食料に大変困った。
周りから援助、というニュースばかりやっていた。
ところがお手荒いが必要なのに、水がながせない。
便所を復旧させる事は食事を供給する以上に大事なことなのに。

私たちはどう生きたらたのしくできるか。
という事については考えていますが、やがて必ず死がやってくる。
しかもいつ死がやって来るかわからないか
ら、いつそうなっても安心できる後生の解決ができていて初めて、安心できる。

だからまず、後生の解決をする事が人生の目的なんですよ、

本当の生きる意味なんですよと
親鸞聖人はおしえていかれた。
私が元気な時にしなければならない人生の宿題というのは、
いつ死がやってきても大丈夫なように後生の解決する事ですよ。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教