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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年09月23日

苦悩の根元は仏教でどう教えられているか

人生の目的は、幸福になること。

これを抜苦与楽と言います。


苦しみを抜いてもらいたい、楽しみを与えて貰いたいと皆思っている。

仏教の目的は抜苦与楽。

 

ところが、人生は苦なり。
苦しみの原因が分からなければ幸せになれない。

 

苦悩の原因は?

1物がないから
大学に合格できれば、お金や財産があれば、地位名誉あれば、と求める。
ところが、どうか。

 

は無限である。
無限の欲望を有限の人生で満たしきることはできない。

 

有無同然と教えられている。
子供が無いときは無いことで苦しみ、有ればあったで苦しむ。

無い人は鉄の鎖で繋がれている。
有る人は金の鎖で繋がれている。

材質ではなく、鎖に繋がれていることが苦しみから離れきれない原因。

 

こういうことが分かってくると、心に目が向いてくる。

外側ではなく、内側、心に原因がある。

 

煩悩があるから。
四苦八苦の中の、愛別離苦や求不得苦は欲しいというが本になっている、

と考えられる。

 

怨憎会苦は、怒り憎しみが元になっていると考えられる。

怒り憎しみが本になって、

四苦八苦の苦しみを引き起こしているように思える。

 

釈尊は、方便として、煩悩が苦悩の元と教えられた。
苦悩の根元を言っても分からないので、方便から真実に導こうとされた。

では、煩悩は無くせるのか。
減らせるのか。

できない。

 

釈尊でも、覚り開かれてから煩悩もっておられた。
1、ジュンダという人が持ってきたキノコを食べられて、

食あたりか何かでお亡くなりになられた。
食欲もっておられた。

 

2、馬に乗っておられた釈尊を、きゃあ素敵と、若い娘たちが声をあげたとこ
ろ、にっこりされた。
名誉欲もっておられた。


3、覚りを開かれて大変、優しく、細やかな心遣いをされるようになって、

お弟子の中で、釈尊は女性になられた、という噂が流れた。
阿難尊者が裾まくって確かめた。
男性であった。
大変叱られた。
これは怒り

煩悩は無くせない。
無くならない、減りもしない。

 

では苦悩の根元何か。

仏教に教えられている。

 

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2017年09月22日

存覚上人の辞世・釈迦の化身

ぐるぐると迷っている世界から魂の打ち止めをすることを六道出離といいます。

 

存覚御辞世の御詠に云わく、

「今ははや  一夜の夢と  なりにけり  ゆききあまたの  かりのやどやど」

此の言を、蓮如上人、仰せられ候うと云々

 「さては、釈迦の化身なり。往来娑婆の心なり」と云々 

「我が身にかけてこころえば、六道輪回、めぐりめぐりて、

今、臨終の夕べ、さとりをひらくべし、という心なり」と云々

(御一代記聞書308)

 

いまやはや一夜の夢となりにけりゆききあまたの仮の宿々
人生はよく旅人に例えられる。

今時分のように早く日がくれるようになると人生の脊梁感を感じる。

 

旅人というのは同じところにとどまっていない。
例えば江戸から京都を目指している旅人は違った山、道を通る。
そしてこれ以上進めないとなると宿をとる。

そしてそこで一晩だけそこにいる人と一緒に酒でも飲んでいく。

 

しかし、一晩寝れば夢のようなものになる。
そしてまた夕暮れ時になるとまたそこで宿をとってまた新しい人と出会う。
そういう仮の宿の繰り返しが人生。

みなさんも中学校のとき友達がいたと思います。
しかし、高校いったらみんな友達ではない。
また、高校といったらいろんな友達がいる。
そして暫くその友達と楽しむ。
しかし、大学にくるとまた違う。
大学って宿はまた違う宿。
まったく違ったところからきた人達。
それは何かの御縁があって一緒にいる。

ところが、3、4年のうちにまたさよならをいう。
人生っていうのは出会いの数だけ別れを経験しなければならない。

その宿のなかで苦しみのうち止めをできる宿があったかというとそういうのはない。
そうして考えてみると、次の世界次に世界とへめぐって
その世界を楽しもうとしているだけで根本的に解決しようなんて考えていない。

 

これ仏法の教説からいうと人間界に産まれてからも輪廻転生しているが、
死んでもまた次の世界、次の世界と六つの迷いの世界
無始よりこのかた迷い続けていると教えられている。

そういう迷いの命のあることを知ってその迷いのうちどめをするのが
人間界に生れて、仏法聞くより他にない。
人間界に生まれたって心が人間らしい心になったときにしか仏法をきけない。
その迷いの魂を知らせてくれるかたは善知識。
そういう善知識、真の知識にあわなかったらできないことですよ
と教えられている。
そういう善知識にあって阿弥陀仏の本願を聞かせて頂けるのは、
千載一遇のチャンス。

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タグ:蓮如
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月21日

『往生要集』の著者、源信僧都の横川法語・六道輪廻とは?


源信僧都の横川法語という言葉があります。

 

まず三悪道を離れて人間に生まるること、大なるよろこびなり。
身は卑しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもうことかなわずとも地獄の苦にくらぶべからず。

 

六道輪廻
六道というのは、
人間界に天上界修羅界地獄界餓鬼界畜生界
こういう六つの迷いの世界があって、
この六つの迷いの世界を私達の迷いの魂が
ぐるぐるときりも際もなく、車の輪をまわすが如くに経巡っている。

輪廻転生ともいう。

 

私達は、この人間界に生を受けて死ぬまでの間、
どうしたら少しでも金が儲かるか、
どうしたらちょっとでもいい人と結婚できるか。
こういうことに目を輝かせている。

そういう私達が、肉体がここで生まれてやがて死ぬと、
肉体が滅びてもほろびざる永遠の生命があって、
その迷いの魂が、生死生死を繰り返し、
輪廻転生といわれている。

これを六道輪廻という。

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2017年09月20日

19願から20願

18願は真実、19願20願は方便です。

19願にどういうことを誓われているか。

設我得仏十方衆生
発菩提心修諸功徳
至心発願欲生我国
臨寿終時仮令不与
大衆囲繞現其人前者
不取正覚

ではどんな意味か。

 

設我得仏
私が仏になりましたならば、ということ。
阿弥陀仏はもう仏になられているので問題はありません。

 

十方衆生
お約束の相手です。
衆生摂生の3願ともいわれますように、
十方衆生を相手に願を建てておられます。

この19願を、修諸功徳の願とも至心発願の願とも言われます。
教行信証に「要門釈」というのがあり、そこに親鸞聖人書かれています。
「修諸功徳之願」「至心発願之願」「来迎引接之願」「臨終現前之願」とあります。

 

発菩提心
菩提心をおこして。
よ〜しやるぞ!という奮発心を発して、ということです。
発して何をするのか、それが次に言われています。

 

修諸功徳
功徳というのは「善根功徳」のことです。
「菩提功徳」また「名号」を表すこともありますが、
ここでは「善」のことです。
「諸善」「万行」もろもろの善い行いをするということです。
親鸞聖人のお言葉なら「万行諸善の仮門」というのがあります。

これは仏教のどういう教義からくるんでしょうか。
因果の道理です。


そういうところから、19願の教えというのは
十方衆生を因果の道理で統合して、三願転入の軌道にのせる教えです。

この意味は、この世の十方衆生はとんでもないものを信じています。
いろんな考え方をもっています。
そんな十方衆生でも、あなたの受ける結果運命というのは
すべてあなたの蒔いたタネなんですよ、という因果の道理はよく分かる。

善いタネを蒔くという時は、決心というのが必要です。
悪いことしないぞ!
善いことするぞ!というのは決意がいりますよね。
寝坊してしまう人、これは、奮発心がないんです。
ここで無理したら余計にみんなに迷惑かけるぅ、とか勝手に言い訳考えるんですけどね。
また布団っていうのはすごい誘惑してくるんですよね。
それに打ち勝って起きるのは決意が必要です。

楽したいっぱいの私達ですから、ちょっとでも楽がしたい。
その楽したい心に打ち勝たないと善いことはできません。
これが「発菩提心」です。

 

至心発願
至心とは「まことのこころ」ということです。
誰の心でしょうか。
私達にはまことのこころはあるんでしょうか。
ないもの出せ!と言われているんですが
これは「まことのこころにして」ということです。

「まことのこころ」にならん私が「まことのこころ」にしようとして、ということです。

 

もっとも多くの人が間違ってるところだと思います。
どうせならないもの、と思っているのは
「まことがない」と本願力に照破されたのとは全然違うんです。
実行してみないと分からないものです。

 

いくつか例をあげてみますと、あいさつするってことあるじゃないですか。
私が、子供の頃「おはようございます」と言うのが素直にできなかったんです。
そもそもそんなこと言う気持ちがないんだ、だからここで言うのは自分に対する裏切りだ!とか。
「ごめんなさい」も言えない。
たしかに俺も悪いけどお前も悪いんだ!とか。
上司や先輩にあいさつしてるのをみるとヘドが出る!何だコビ売りやがって!と思ってました。
多かれ少なかれ、こういう気持ちってみんなあるんです。

そういう心しかないんですけど、それを「まこと」の心にして、
そしてあいさつしてみる。
これが「至心発願」です。
そこを自分の思いのままにやってるのは、素直なんじゃなくてガキなんです。
お礼状やお詫び状にしてもそうです。
書く気もない自分の心を正して「拝啓」とか書くんです。

自分の心を見つめて、心をまことにしようと努める。
これが19願のみ心にかなっていると思うんです。
御一代聞記書に「心を責めよ」というのがあります。

「わが心にまかせずして心を責めよ」というのは、
三願転入の道を進む時、あれはしたいこれはやりたくない、
という弱い心に任せておっては、
諸々の功徳を菩提心を発して至心に発願してやってるとは
言えないんだということです。

カッコだけつけとかなくてはならないからやっとくの。
掃除の時間も、ほうき持って動くだけ。
心をこめてやってるわけじゃない。
しかし19願では、そんなあなたの心を「まこと」にしようとするんです。

あいさつするにせよ、自分と接する誰かに少しでも幸せになってもらいたい、
こういう思いが必要なんです。
仏法の話をする時だって、話す人に少しでも幸せになってもらいたい
という気持ちがあるかどうか、これ非常に大きなものなんです。
仏法にお金を使う時だってそう、後生の一大事解決の為ならば
これくらいではまだまだなんですが、という気持ちになってるか、
それとも体裁だけを取り繕っているか、大きな違いです。

 

ある若い女性が仏教の真実の自己を聞かれると
一生造悪の話をします。
すると、確かに言ってることは分かるんだけど、そんなこと考えてたら誰も信じられない、
誰も愛せないじゃないですか。
仏法者は結婚するにせよ恋愛結婚ではいけない、
人生の墓場だと覚悟して結婚する。

こういうのが理想なんでしょ、と言ってくれるんですね。

 

潤いも明るさも希望もありませんね、って。

しかし、人間のまことの相というのは、18願に出させていただいて、
無量の光明に照破されて知らされることであります。
そこへ進んでいく19願では、精一杯まことの心にしようとするんです。

「まごころ込めて」という言葉あります。
仏法聞き誤ってる人は、まごごろなんてないんだ!
「まごころ抜きで」贈り物を、と言うんです。
無念無想で念仏称えるぞい!なんて。

「心こそ、心惑わす心なれ、心に心、心許すな」
「最大の敵は心であり、最強の味方も心である」
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」(法句経)
「いくたびも思い定めて変わるらん思うまじきはわが心かな」
「そのまま我が心に任せたならば地獄行き」
「心せよ心許せば身の破滅」

自分のことを楽な方へと導く心。
理由と絆創膏はどこへでもくっつく、自分を正当化しようとする心。
そういう心を責めよ、と言われています。

「至心発願」というのは、仏様の眼から見ればまことなんてのはないんだけど、
そのあなたの心をまことにする。
そうやって阿弥陀仏極楽浄土に生まれたい(欲生我国)
という願いを起こして、ということです。

 

臨寿終時仮令不与
大衆囲繞現其人前者
不取正覚

そうすれば臨終に助けにいくぞ、と誓われたのが19願であります。

要するに19願で教えられているのは、よしやるぞ!
という奮発心を発して心をまことにして善をしなさい。
やる前から、どうせできんのだと言っていたのではいけません。
そうすれば助けるというものです。

実行する。
これが行者です。
仏法聞く前に比べて、自分の心をどれだけまことにしようとしているか、
これで、その人の仏法の理解が分かるんじゃないでしょうか。
ちょっとでも相手に幸せになってもらいたい。
そのためには自分の心を戦っていかねばなりません。

そうやって全力尽くしてやってみると知らされることがある。
泣かざるをえません。


そんな人に説かれたのが20願です。

阿弥陀仏がつくられた南無阿弥陀仏の6字の名号というのは、
大宇宙のありとあらゆる善の本になっているものです。
万善万徳をすべて封じ込まれた名号を称える、これが念仏を称えるということです。

19願の教説にしたがって善をしてみると、できない自分が知らされる。
そしたらこの弥陀が造った名号があるから、これを称えよと言われるのです。

初めて三願転入を聞いた時、諸善をやるより、
名号称える方がはるかに楽だな、と思いました。


しかし、20願の人というのは、19願で徹底的に善をやってやって
できないものと知らされてるんです。
信仰進んで、名号の功徳に目がついて、

名号をあて力にするんです。

 

真門自力の念仏者というのは、
称えている念仏は阿弥陀仏がつくられている他力のものです。
しかし称える心、これは自力なんです。
だから半自力半他力といわれます。
19願の人は、やってる善も自力、やってる心も自力です

そして善なんかできないと知らされた人に、
ものすごい功徳をブチ込んだから、
と出される名号、これを称えるのが20願の人です。

親鸞聖人はご自身が19願から20願、
20願から18願の世界に入られたというところから、
三願転入を書かれているんです。

これが親鸞聖人の教えの根基といわれるものです。

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2017年09月19日

親鸞聖人の教えと三願転入の関係

三願転入を説かれる方は、
鮮やかな体験と教学に裏付けられた方
以外にはありません。

 

善知識は三重廃立なされる方。

 

親鸞聖人は真仮廃立を徹底なされた。
ではどうやってか。
それが三願転入であります。


三願転入は、親鸞聖人の教えの根基です。
「根」も「基」もとても大事ということですね。
「根幹」「依憑」「淵源」など
仏教で「大事」ということを表す言葉はたくさんありますが、
ここでは「根基」といわれます。

 

とにかく三願転入が大事ということです。

 

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posted by 陽葵 at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月18日

タネまきも預け入れの期間が長いほど利子がつく

布施というのは善業力ですから、消えてなくなることがない。
そして縁がきたらばーっと花を咲かせる。

 

もしみなさんが一生懸命に、良い種を蒔いているのにも関わらず中々芽が出てこない。
少しも評価してもらえない。
そういうとき大抵の人はくさってしまう。
こんなに種を蒔いているのに、芽が出てこない。

そういうときは大きな貯金しているみたいなのだ。

預け入れの期間が長ければ長いほど利子がつく。
返ってくるときにバーッと結果が帰ってくる。
だからこれから未来が楽しみ。
問題はそこでくさって種蒔きをやめてしまう。

 

ただ種蒔きをしているのに芽がでてこないというのは、どこかもっと工夫する研究する
余地があるとして、自分の種の蒔き方や取り組む姿勢というのを反省して進歩向上していく。

 

反対に悪い種蒔きをしておりながら、その悪い種蒔きがバレない。
闇へ葬った。
なかなか逮捕されない。
少しも捕まえてもらえない。
こういう人は大きな貯金している。
だから因縁和合したときにバーっと来る。
ヒドイのが。

因果応報です。

 

同じくらいの年齢で豪遊している。
若い人の場合は徳を磨きなさい。
自分と接したときに、仏縁を深める。
そういうような人間になりなさい。

徳を身につけたならどこにいっても恵まれる。
お金をもっても悪銭身につかず。

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2017年09月17日

なぜ仏教のことは急ぐのか

お金ためた、大きな会社作ったといっても最後はおいていかねばならない。
白骨の章にもありますが、最後は、白骨だけが残る。

 

あわれというもなかなか愚かなり。

 

我々は、無限の欲に引きずられ最後は白骨となっていく。

 

されば人間のはかなきことは、老少不定の境なれば

 

されば人間のはかなきことは、「老少不定」である。
年老いた人が先で若い人が後から死んでいくということは決まっていない。
年取った人が先に死んでいくなら若い人は安心できる。
そんなことは決まっていない。
いつどんなことで死んでいかなければならないかは分からない。

 

肉体の年齢はいろいろあるが、無常ということから言えば同じ年。


人間の世界というのはそういうものですよ。

 

ある人が高価な絵を買った。
それで有名な一休和尚さんに言葉を
入れてもらおうと思った。
ありがたい言葉を書いてくださいと。
一休「よっしゃ、まかせなさい」。

 

親死に子死に孫死に

と書いた。
「何てことを書くのですか!」

親が最初に死んで、子供が死んで、孫が死ぬこれ以上ありがたいことでないか。
世の中には親より子や孫が死んで悲しんでいる人ばかりでないか。

 

誰の人も早く後生の一大事を心にかけて

 

「誰の人も」…今まで話したことは、例外がない。
この人はあてはまらないという人は一人もいない。
アメリカの人もハワイの人も。
例外がない。

 

「早く」…「老少不定」だから早く人生の目的を果たさなければならない。
「後生の一大事を心にかけて」…生きている人間がやがて死んでいく。
これ以上の一大事はありません。

この後生の一大事ほど深刻な問題はない。
これ以上私たちにとって大変なことはない。
その後生の一大事を忘れてはなりませんよ。

 

これこそ、「人生の目的」「人生急之事」
すぐに趣味や生き甲斐ばかりに私たちは目を奪われてしまう。
目先の浅いものばかり。
この生死の一大事を忘れてしまう。
そして、たった一度きりの人生なのに丸太ばかり求めて土左衛門になる。
だから後生の一大事を忘れなさるなよといわれる。
部室を出ると、すぐに忘れる。
食事のことテレビのことばかりに目が奪われる。
だから心にかけなさいといわれる。
かかっているなら心にかけよといわれない。

後生の一大事の解決が人生の目的であることを忘れてはならない。
この一大事の解決以上に、全ての人が何よりも急いで求めるべき問題はない。

 

大無量寿経』に

「世人薄俗として、共に不急之事を諍う」
みんな「不急之事」そんなに急がなくてもいいことを争って急いでいる
本来、急ぐべきは、今晩とも知れない後生の解決、

これこそ「人生急之事」

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2017年09月16日

毎日同じ事の繰り返しを断ち切る働きとは?

科学や医学がどんなに進歩しても我々の苦悩は断ち切れません。

どんなに進歩してもこれらは生きる手段ですが私達の苦悩は無くなりません。
この様なわっかをぐるぐる、同じ所を回っているだけです。
これを流転輪廻と言います。

「どう生きるか」

これのみではどんなに科学医学が進歩しても、これはどうあるけばもっと楽しく、

楽に長くあるく、是は医学ですが、もっと足に豆ができないようにとい
うのが科学ですからどこまでいっても苦しみ悩みはなくなりません。
苦悩の根源である無明の闇を破らねば断ち切ることはできません。

 

その我々の苦悩の根源である無明の闇、これを破って下さるお力を他力、これだけです。

苦悩の根源をのぞく力のみを他力と言います。
このことが判れば他力によって救われた親鸞聖人の明るさ、
たくましさもよく理解できるではありませんか。

 

無明の闇を破らなければ絶対に幸せになりません。
どんなに科学が進歩向上してもぐるぐる回るだけですので、

20世紀は科学大変な進歩を遂げましたが、

便利にはなりましたが苦しみ悩みは皆苦しみ少しも減っていません。

 

自殺する人は年々増えています。
どう生きるかだけではぐるぐる回ることになります。
小学校、中学校と風景は変わりますがぐるぐる回るので苦悩の根源である

無明の闇を断ち切らない限り絶対に本当の幸せには成りません。
苦悩の根源を破る働きのみを他力と言います。

現実を直視すれば賢明なあなたはおわかりでしょう。

 

新聞を読めば、テレビを見ればいやなニュース、苦しみ悩みの声ばかり。
・1300年前の善導は四方八方ながむれどただ愁嘆の声のみを聞く
テレビを見ても苦しみの声ばかり、科学がどれだけ進歩しても苦しみ悩みはなくなりません。

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タグ:科学
posted by 陽葵 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月15日

阿弥陀仏の本願とは?

お釈迦さまが宇宙最高と説かれている
阿弥陀仏はどんな本願を立てられたか。

 

本願とは誓願

 

弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて往生をば遂ぐるなり
歎異抄一章)

 

阿弥陀仏が誓われたこと、お約束のこと。
阿弥陀仏の本願を誓願とも言われます。
誓願とは誓い、お約束、本誓とも正信偈に言われている。

 

明如来本誓応機

 

本願とは誓願、阿弥陀仏のお約束ということ。
本師本仏の為されたお約束。
どんな約束か。

 

あらゆる人々は不幸で苦しみ悩み続けている。
色んな苦しみを抱えて生きている。

昔、プロ野球のピッチャーが飛び降り自殺をして衝撃が走った。
みんな苦しんでいる。


中央線は年間二百人くらい飛び込んでいる。
飛び込み自殺の名所、不幸で苦しみ、不安、不満、苦しみが色々ある。

有れば有るで苦しみ無ければないで苦しみ、苦から離れきれない。

 

大学生なら、一年の3分の1が休みでも、
いろんな苦しみ悩みが次から次とやってきて
一つ乗り越えてホッとしても諸行無常ですから、

色んな苦しみがやってきて、苦より離れきれない。

 

どんなに一生懸命しても色んな苦しみ悩みがやってくる。
人生は苦しみの花がさく木で一つさいて、また次の花が咲きます。
死ぬまで苦しみの連続で、この世で苦しみ色んな悪を造り後生も苦しむ、
苦より離れられない哀れな私達に大慈悲心を起こされ、
どんな人でもこの世も未来も最高無上の幸せにしてみせる、
できなければ仏の命を捨てようという約束をされている。

 

もし絶対の幸福にできなければ、信楽に身にできなければ命を捨てる。

何ものも障りにならない絶対の幸福、無碍の一道、
この世界に出させてみせる。
もしできなければ仏の命を捨てよう。

 

このようなお約束が阿弥陀仏の本願。

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タグ:往生 正信偈
posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年09月14日

悪しかできない者がそのまま救われる

お釈迦さまは、私たちのすがたを

心常念悪

口常言悪

身常行悪

曽無一善

と説かれている。

お釈迦さまは、心と口と体の3方面から私たちを見られている。

その心が常に悪を念っている。

 

心が悪ばかりなら、口や体も悪になる。

口は常に悪を言い、

体は常に悪を行っている。


川上に青いインクを流せば、川下は青くなる。
口常に悪を言っている。
体も常に悪を行っている。

 

曽無一善。

かつて一善なし。

 

生まれてからこのかた、一つの善もしたことがない。
これは倫理道徳の善ではない。
そういうことはやっているし、やらないと生きていけない。
仏様がごらんになられても善といえるもの。


私たちは人のため、人のため、と言っているが、本当に人のために善をすることはできない。
お礼を期待する心がある。
商売である。
雑毒の善と親鸞聖人は仰っている。
人の為と書いて偽り。
国民のため、自民党のため、と言っていたが、結局は自分のため、自己の保身のためであることが今回の一件でもわかった。
人のため、人のため、自分のためにやっているんじゃない、ボランティア、といっているが、自分中心の善しかできない。
だから、相手が自分の期待通りにならないと腹が立つ。

 

ぼた餅作って腹いっぱい食べた。
あまったので、捨てるのももったいないので隣にやった。
「ありがとうございました」と隣の人は言ったが、翌日あったときには、ぼた餅の『ぼ』の字も言わなかった。
一言くらい言えよ、もう絶対にやらない。
今度は反対側の隣の人にやる。
本当に相手のことを思ってやる善ではない。
毒入りのぼた餅。


数十年前、日本は大きな戦争をした。
国のため、国のため、という教育を受けた。
国といっても人の集まり。
国民の為に死ぬんだ、と特攻隊。
しかし、これも名誉のために死ぬ。
名誉が残ると思っている。
大勢の人の前で腹を切って死ぬ人もあるが、これも名誉のため。
こうしたら、人がこう思ってくれるだろう、と、そういったことを一切計算せずに善はできない。
もしできる人があれば、ここにあがってもらわないと。
後光がさしている。

 

たまに鴨に矢が刺さって報道される。
『矢鴨かわいそ〜』と言いながら、焼き鳥たべている。
すき焼き、焼肉、さしみ、おいしいおいしいと食べている。
本当にかわいそう、と思う心があるのか。
活造り、魚がまだ生きているのに、その刺身をおいしいおいしいと食べている。
悪の限りをつくしながら、八つ裂きにされて殺されても文句の言えない悪人なのに、善人だと自惚れている。

ここではっきりと知らされる自分の姿を機の深信という。

 

親鸞聖人は

「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫昿劫より已来常に没し常に流転して

出離の縁有ること無しと深信す」

と仰っている。
罪悪生死の凡夫とは、隣に大きな家が立つと腹が立つ。
もらった赤飯がのどにささる。
犬にでも食わせておけ。
相当借金しとるぞ。
焼けてくれないか。

 

おやじかなり飛ばすそうだが、事故にでもあってくれんか。
そしたら、買ってくれと言ってくるだろう。
たたいて買ってやろう。
人が聞いたらあきれて逃げてしまうことをおもっていませんか。
旅先の火事は大きいほど面白いと言われる。
自分の家と関係ないから。
だから火事見物に行く途中で、消えましたよ、といわれると、がっかりする。
「かわいそうに」と口では言いながら、喜ぶ心がある。
現在の自分がわかると、過去も未来もすべてわかる。


「いずれの行もおよび難き親鸞、とても地獄は一定すみかぞかし」
と親鸞聖人は仰っている。
お釈迦さまの仰る通りの親鸞だった。
このとき、

「弥陀五劫思惟の願をよくよく按ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」
が同時に知らされる。
ここで阿弥陀仏の本願と私とが一つになる。
若不と唯除。
本願や行者、行者や本願。
正信偈には『慶喜一念相応』
御和讃には『願に相応する』とある。
これを二種深信ともいう。
これが真実の信心。
ここまで仏法を聞かせてもらいましょう。

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タグ:正信偈
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪
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