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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年10月10日

どうすれば宿善が厚くなるのか

どうすれば宿善が厚くなるのか。

 

3つのことが教えられている。
これを求めることで宿善を求めずにおれない、

人生の目的を達成したいという心になる。

 

1番、2番、3番とあるが、

その中で飛びぬけて宿善が厚くなるのが聴聞

聴聞とは仏教を聞くこと。

 

聴聞以上に宿善が厚くなる方法はない、

他にも自分の家で、電車の中で宿善を厚くする方法はあるけど、

仏教を聞くほど宿善を厚くする方法はない、

だから仏教は聴聞に極まるといわれる。

 

宿善を厚くするために求めていくには、

聴聞しかないといわれている。

 

聴聞とは、聴もきくなら聞もきく。
仏教を聞いて、人生の目的を聞いて聞いてこの道をばく進していく。
これ以外にはない。

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タグ:聴聞
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2017年10月09日

地獄はどのくらい苦しいか

地獄はどのくらい苦しいのか。


無間とありまして、絶える間のない、その苦しみを逃れることができない。
これを必堕無間という。

 

この世にも地獄と言うものがあります。
受験地獄とか、借金地獄とか、

言うように苦しい環境に落ちる。

 

けれどこの世の苦しみというのは一息つける間がある。
「どうしよう、テスト勉強どうしよう」
「ラーメン食べなさい」
といわれると、よしラーメンでも食べようか。
一息つく間がある。

やくざが家に乗り込んできて
「金がないなら目ん玉売れー」さんざん言われて
「また来るからなー」
また来るまでの間、一息つく間がある。

お釈迦さまは癒される間がない、
ほっと一息つける間がない、そういう苦しみの世界に落ちるのです。

なんでや、なぜ僕が必ず地獄に落ちなければならないのか。
極楽なら分かるけど。
地獄に落ちるとはどういうことか。
キリスト教でも地獄へ落ちると言われる、それは神を信じないから・・
お釈迦さまがいわれているのは、何かの作用によって落ちるとか、
そんなことを言われているのではない。
自業自得
私の種まきを教えられて、あなたがこういう行いをしているから、
それがすべてあなたに帰ってくると言うことを教えておられる。
それと同時に死ねばどうなるかと言うことを言われている。

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2017年10月08日

死の苦しみは一瞬?

突如死が来るのもわかるが、
そのときだけ苦しむのだから、今だけ楽しんでいればいいじゃないか。
それは間違い。

 

4、5日後に、自分の人生を左右するテストがある。
遊ぶ気になれないし、遊んでいても心から遊べない。
1週間後に、裂で切ってみないとわからない手術を受けるとなると、そわそわする。

飛行機に乗っていると、機内アナウンス。
「この飛行機は一時間後に墜落することになる」
と言われると、機内食もチャップリンの映画も楽しめない。
未来苦しいと、現在楽しめる道理がない。
4、5日間はたのしもうよ、といっても、ごまかすしかない。
不安のごまかしであって、何をしても楽しめない。
一週間後、今考えてもどうしようもない、遊ぼうと言っても不安
一時間後、青ざめるのはそのときだけでいい、機内食楽しもう、楽しめる道理がない。

何をしても安心満足できない。
今死んだら今から死後の世界
どんな地位についても名誉を得ても、安心満足は絶対得られることはない。
ある人はこういう。
「人間は今日しか生きられない」ということは、死んで行くのも今日。
もっと言うならば、今しか生きられない。
一念の連続が今日。
今以外を生きている人はない。
わかりますよね。
今から死ぬ、そういうときが必ず来る。

この真実を受け止めて、何を受け止めるべきなのか、これは一人一人のしのぎ。
あなたがどれだけ真剣に受け止めて、無明の闇ひとつに的を絞って聴聞するかに懸かっている。
これをしたら楽になれるかな?頑張って努力しても、わかるのは今と変わらない苦しみ。
一文なしの苦しみも、金持ちの苦しみも、変わらない。
どれだけのことを成し遂げても、死という壁に向かって進んでいる。

 

確実に死後の世界に向かうこと自体が不安

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タグ:聴聞

2017年10月07日

仏教の教えに救われた喜び

「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

教行信証総序)

一度読んでみてください。

 

これは、どういうところに出てきますか。
教行信証のはじめ、教行信証は、親鸞聖人が唯一の世界の光である、
親鸞聖人の教えが唯一の光である。
ということは、位置付けは人類の根本聖典である。

 

親鸞聖人は最初に「噫」と言われている。
なぜ親鸞聖人最初に言われているのか。
何か意味があるのか。

 

弘誓の強縁は多生にもあえないものである。
「真実の浄信は億劫にも獲がたし」
なかなかあえないものにあったら私達はどういう風になるのか。

 

唐辛子を口に入れたとき、また道でばったり、小学校以来
会っていなかった友達に遇ったとき、「おお、お前」と言う風に言うかといっ
たらそうじゃない。
「ああーっ!おおーっ!」
まず最初に言葉は出てこない。
その驚きが出てくる。
中国残留孤児なんかが対面する時、

30年、40年と会えなかった何とか会いたいと思っていたけれど。

 

でも出会うことができた、お母さんと出会った。
そのときに「お母さん」「息子よ」こんな言葉が出てくるか。
まず出てくるのは「ああ」

 

高校30年のことでもそんな感じ。
親鸞聖人は多生の間、生まれ変わり死に変わりして
つまらないことに時間をかけて、つまらないことに人生をかけて、
どれだけ苦しんできたかわからない。

 

そんなときに、嬉しいとか楽しいとかはなくって、
親鸞聖人は驚き喜び感動があり、それを言われている。

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タグ:教行信証
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年10月06日

仏教の教えを学ぶと?

仏教の教えを学ぶとどうなるか。

 

まず、聴聞においてはどうか。

仏教の教えを学んでいれば

真剣な聴聞ができる。

 

ところが、仏教の教えを学ばない人は、漠然と聞き流す。

こういう違いが出てくる。

仏教の教えをしっかり学べば真剣な聴聞ができる。

 

また、破邪顕正の面で言うならば、

仏教の教えを学べば自信が生まれますから自信を持って

教えを伝えられる。

 

あなたにもっと自信を持って貰いたい。

自信を持って仏教を伝えられます。

ところが、教学がなければうち負かす自信がない。

 

お釈迦さまは、

破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず。

と涅槃経に説かれています。

 

だから、仏法者とは言えませんね。

こういう違いが出てくる。

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タグ:聴聞
posted by 陽葵 at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 教学

2017年10月05日

世の中は今しかない

世の中は今より外はなかりけり
昨日は過ぎつ明日は知られず

 

世の中は今しかないのだ。
昨日は過ぎてしまったし明日は当てにならないどうなるか分からない。
仏教は常に今を重視する。
今あなたがどう言う心構えで進むか。
現在の延長が未来ですから。
親鸞聖人の教えは今の教えですから。
平生業成、現生不退、不体失往生
現在は過去と未来をとく鍵ですから。
世の中は今しかないのだ。
今救われずして未来救われることはありません。
昨日は過ぎつ明日は知られず
昔、楽しかったといっていても過ぎ去れば只の思い出にしか過ぎない。
どんなに昔楽しいことがあっても今喜べなければ喜べません。
昔、自分は美人だったハンサムだったでも今がそうでないなら喜べない。
今やせ衰えた人でも昔はボディービルダーだったと言っても嬉しくない。
我々はよい思い出を作るために生きているのではありません。
思い出を作るために生きているのか。
今が幸せで会ってこそ喜べるが、今苦しければ、昔、どれだけ幸福だったといっても喜べない。
問題は今です。
今今今がずっと続く。
臨終を迎えたときも今です。
臨終を迎えたときに喜べるか。
過去どんな楽しいことがあっても学生時代遊んでいて臨終を迎えていたら吹っ飛んでしまう。
あの時求めていれば良かったのに馬鹿だったと血の涙を流して後悔する。

 

あの芥川龍之介が落ち込んでいたとき萩原朔太郎が慰めようとした。
そんなに落ち込むなよ、君には後世に残る偉大な著作があるじゃないか、名声があるじゃないか、こう慰めようとした。
実際凄い本を残していますから。
素晴らしい名声があり著作が残っている。
こういう素晴らしいものを残したじゃないかと慰めようとしたとき

普段感情を隠していた男がムキになってこう言ったそうです。

『著作?名声??そんなものが何になる!』
今死んでいく自分にとってそれが何になるか。
例えノーベル賞を取ってもいざ死んでいくときに喜べるか。

 

著作?名声?そんなものが何になると言う心境になるニーチェもそう。
彼は俺は人類史以来の天才だといっている。
自惚れも甚だしいですが、神は死んだと言って

それまでの思想を壊していますから。
ニーチェが晩年こういった。
俺は少しばかりの良い本を残したかなと。
妹が、あなたは良いものを残しましたよ、実際名誉も勝ち取った。
その後ムキになっていったそうです。
著作?名声?そんなものが何になるか。
これは全ての人の心境。
どんなものを残したとしてもいざ臨終となれば何にも喜べない。
どんどん時代は流れ日は移っていく。
過ぎてしまえば一切は夢。
昨日は楽しかったことでも、友達とコンパして酒飲んだといっても昨日あなたが夢を見たことと余り変わりません。
違いがあるか。
時間が過ぎると区別が付かない。
実際あったんだよ。
昔彼女と喫茶店に行って一つのオレンジジュースを二人で飲んだといっても過去の夢と変わらない。
終われば全部幻です。
今しか無いんだぞ、今より外はなかりけり。
楽しかった思い出も過ぎれば夢。
明日は知られず。
未来は当てにはなりません。
今を全力で生きる。
今の心。
今あなたがどうするかで未来が決定する。
今あなたがどういう行いをしていくか。
未来は今の行動による。
現実の行動によって未来が生みだされ作られていく。
豊かな未来を作りたいなら良いことをして下さい。
よい業力を納めて下さい。
それには間断無き聴聞をしてこそ善い行いをしなければならないと思う。
気を抜くと平気で悪を作り続けるから。
日々あなたがどういう行いをするかで未来は決定しますから。
今を全力で生きる。
今を完全燃焼する。
そう言う生き方をして貰いたい。
これが私の精一杯ですとなってこそ自力が廃って他力の世界にいかされる。
出し惜しみしていたらなかなかできない。
自力いっぱい求めてこそ自力無功と切り落とされるから。
そこまで頑張って貰いたい。

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タグ:聴聞 往生

2017年10月04日

最大の敵は心であり最強の味方も心である

心こそ心迷わす心なれ
心に心 心ゆるすな

 

心という言葉六回も出ていますけど我々の心こそが我々の心を迷わす心なんだぞ。
だから心に心許すなと。
あなた成功するか破滅するかも心構え一つに掛かっている。
人生の大勝利者になるか、敗北者になるか、この心構え一つで人生は決します。
心許せば身の破滅と言われる。

 

我々の阿頼耶識そのものには過去にどんなカルマがあって
でもそれには左右されずに自由意思を持ったのが我々。
気持ち一つで選ぶことができる。
あなたの心一つに掛かっている。
もちろん業力が強いために選べない縁もありますけど、

今あなたがこの道を進むか進まないかはどっちでもなる。

 

心こそが心を迷わす心。

 

最大の敵は心であり最強の味方も心である

と言われる。

 

これも良い言葉ですね。
あなたの将来未来どうなるかはあなたの今の心で、今の心構えで決しますから。
あなたの最大の敵は心。
最強の味方も心。
色々味わえます。
仏教では恐ろしい心が自惚れ心と言われる。
慢心。
またあるいは懈怠な心、怠慢の心。
色々味わったらいい。
善には後込みし悪には駄々走りする心を叩く。
また慢心を叩く。
自惚れたら、有頂天となったらあとはガラッと地獄に真っ逆様です。
常に怠け心を叩いていく。
慢心で、今までどれだけ失敗してきたか分かりませんから。
最大の敵は心ですね。
怠け心自惚れ心を常に叩く。
最強の味方も心。
これは向上心と味わえる。
常に努力向上。
感謝の心懺悔の心。
因果の道理を日々深信
し光に向かって進む我々は善が来たときは努力。
また感謝。
悪果が来たときは人を責めるのではない自分の蒔いた種蒔きと懺悔する。
それが向上となる。
あなたの心構え一つでどうにでもなる。
地獄にいくか極楽に行くかが決しますから。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年10月03日

会者定離ありとはかねて聞きしかど

会者定離ありとはかねて聞きしかど
昨日今日とは思わざりけり

 

これは親鸞聖人のお歌であります。
これはあなたが必ず直面する、そういうことでもある。
仏教で会者定離という言葉がお経にあります。
この世の真理を教えている。
あったものは必ず定めて離れてしまう。
これがこの世の定め。

会うは別れの初めなりといわれる。
会ったものは必ず別れが来る。

 

今縁があって一緒にいるだけ。

親子と言っても夫婦と言っても兄弟と言っても友達と言ってもしばらくの間。
この世の一切は暫くがつきます。

親孝行できるのも、しばらくの短い間です。

 

しばらくの間私もあなたも法友友達なんです。
100%私もあなたも離れて行かねばならない。
しばらくの間の御縁なんです。
離合集散は縁による。
今、因縁和合して一緒にいるだけ。


会者定離があると言うことはお師匠さま

法然上人から聞かせていただいてはいましたが、

まさかその別れが昨日今日くるとは思っていませんでした。


仏教の教えから言えばいつかは別れが来るとは聞かせていただいてはいましたが

昨日今日来るとは思っていませんでしたとなかずにおれない。
親鸞聖人はお顔をくしゃくしゃにされて泣いておられる。

 

煩悩は救われても変わりませんから。
また如何に法然上人との別れが辛かったか。
親鸞聖人は、法然上人との別れは恋人との別れよりも辛かった。

 

この方のお陰で真実の仏教に出会い最高無上の身にさせていただいた

と惚れぬかずにおれないから、苦しい。
その別れに、顔をくしゃくしゃにされて泣き悲しんでおられる。

 

これは仏教の先生だけでなく恋人親戚も当てはまる。
まさかあなた昨日、今日、臨終かも知れませんから。

諸行無常は誰も否定できない真理です。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2017年10月02日

信心決定が間近になったサイン

今死ぬと思うにすぎし宝なし
心にしめて常に忘るな

 

これも非常にね、大事なことだと思います。
私の知っている人でこの言葉に導かれ将来、

この道絶対あきらめまいと強く決意を固めた人を知っていますけど。

 

今死ぬという真理が私を離さなかった。
求道していくと、求道が辛い、遊びたい。

 

そして途中この道脱落していく人もよくあるんだけど

そういう心が出てきたときに自分を

真実に導いてくれた歌がこれ。

 

またみなさんもそういう歌にして下さい。
全人類は死ぬと言うことを忘れているが、
死ぬときは今まで集めてきた地位や名誉も

一切おいて死んでいかなければならない。
今死ぬという真理が、人生の目的から離れることなく

軌道修正して貰えるそういう真理なんです。


またこの心が常に合ってこそ信心決定ができる。
今死ぬという真理。
今日死ぬかも分からないという真理が分かったら早く信心決定できます。

 

死が苦になって苦になって仕方ない、夜も眠れない、

食事もノドを通らないと言うほど苦になったら赤飯炊きなさいと言われている。
ああじゃあ炊こうか、なんて実際は赤飯なんて炊いておれませんけど。

 

信心決定は間近。
それがなかなか思えない。
何かみなさんの前で発表となれば夜も眠れないとか。
緊張するし準備も大変だから眠れない食事もノドを通らないと言うことがあるが、

死ぬとなるとそういうことがない。

 

だから思う以上の宝はない。
死刑囚なんかはよく言うのが、死刑囚となって

自分は今まで無駄な時間を過ごしてきた。

無為に時を過ごしてきたことが知らされたとこう言いますね。
死を自覚して充実した人生を初めておくれたと言われる。
死を意識して初めて人生を充実できる。


お釈迦さまも言われていますけどね。
まだまだ死なないと思うからくだらないことに時間を使っている。
死んでいかねばならないとなったら、

惰性の求道が正されるし惰性の日々正していけるんですね。


心に掛けなさい、忘れてはなりませんよ。
これが我々を決勝点まで導いてくれる真理です。

 

机の前に『死ぬぞ』と書かれたそうです。
友達が来たらびっくりするけど。
信心決定には無常観と罪悪観が大事だから。
私もこのサークル途中でやめられなかった。
今晩死んだらどうなると考えると、

この死の解決をせずして、本当の幸せはないから。
それを忘れているからこのサークルつらいから、やめたいとなる。

 

辞めたいという人に対して

君この仏教を聞くのやめたら死ななくなるのか。

 

あなたが求道を辞めようが辞めまいが死んでいきます。
辞めても辞めなくても必ず死んでいく。
この真理ね、100%、卒業、老後、結婚
無くても死だけは絶対にあるのだから。

 

これが本当に我々を幸福に導いてくれる道しるべとなる。
後生の一大事を心に掛けなさいと言われる。
朝起きるときも思い出して貰いたい。
今晩死んだらどうするんだ。
我々が臨終を迎えるときはどうか。
真冬に、夜裸で外に飛び出す。
非常に涼しいですね。
地獄はそれくらいの寒さ、苦しさではない。
もっと恐ろしい苦しみを受ける。
あの寒さ、つらさ。
そう思ったら朝起きるときも今晩死んだらと思ったら起きれます。

 

これもある人が、この信心決定した人、これが縁となって救われたのですが、

こういう指導をされた。


布団をかむっている人に対して布団のぬくもりは地獄のぬくもりと言われて、

朝もしっかり起きて朝会合にも出たそうです。
これから寒くなってこの布団からでてたまるかと。
布団の中で葛藤する。
みんなそんな怠け心は一杯だけど布団のぬくもりは

地獄のぬくもりと思って飛び起きて聴聞に馳せ参じた人知っていますけど。
そしてシッカリと規則正しい生活をする。
このぬくもりのまま地獄へ堕ちて行くんです。

 

布団のぬくもりは結構ですが、地獄のぬくもりは大変なもの。
大変な苦しみが我々の足下に待ちかまえている。
心にしめて常に忘れるなと戒めて下さっている。

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タグ:聴聞 結婚
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年10月01日

死んだら死んだとき?

夏目漱石も、死んだら死んだときだと平生はいっていましたが、
実際に死んでいくときには、
「今死んでは困る今死んでは困る」
といわずにおれなかった。

納得や合点と信心決定ということは全く違う
ということ。

 

世間のことでも、理屈と実際は如何に異なったものか。
大工4人で3ヶ月かかって建てる家
大工6人なら2ヶ月
12人なら1ヶ月
360人なら1日
31104000人なら1秒で建つ。
そんな理屈通りにはゆきません。

 

着物を着れば温かいと信じていても温かくならない。
電灯がともれば明るくなると合点していても温かくならない。
ご飯を食べれば満腹するとわかっていても腹はふくれない。

実際に着物を着る。
電灯つける。
ご飯を喉に通すという体験をしなければならない。

 

他人の子供が死んでお悔やみにいくのと、
自分の子供が死んだときと天地の相異がある。

 

動物園の虎を眺めているのと、実地にジャングルの中で
虎に出会った時は全く違います。

 

後生くらい心が苦悩の根元だと知って納得していても、
後生くらい心を解決せずに、
実際に一歩後生につっこんだときには、
後生くらい心が出てきます。

 

まことに死せんときはかねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には
ひとつもあいそうことあるべからず、されば死での山路の末三途の大河をば
ただひとりこそ行きなんずれ

 

蓮如上人のいわれている通りです。
頭で知った覚えた合点したということは臨終の嵐の前には
何にもならないのです。
後生くらい心を実際に阿弥陀仏に破って頂く体験をさせて頂かなければ
ならないのです。

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タグ:蓮如