18願は真実、19願20願は方便です。
19願にどういうことを誓われているか。
設我得仏十方衆生
発菩提心修諸功徳
至心発願欲生我国
臨寿終時仮令不与
大衆囲繞現其人前者
不取正覚
ではどんな意味か。
設我得仏
私が仏になりましたならば、ということ。
阿弥陀仏はもう仏になられているので問題はありません。
十方衆生
お約束の相手です。
衆生摂生の3願ともいわれますように、
十方衆生を相手に願を建てておられます。
この19願を、修諸功徳の願とも至心発願の願とも言われます。
教行信証に「要門釈」というのがあり、そこに親鸞聖人書かれています。
「修諸功徳之願」「至心発願之願」「来迎引接之願」「臨終現前之願」とあります。
発菩提心
菩提心をおこして。
よ〜しやるぞ!という奮発心を発して、ということです。
発して何をするのか、それが次に言われています。
修諸功徳
功徳というのは「善根功徳」のことです。
「菩提功徳」また「名号」を表すこともありますが、
ここでは「善」のことです。
「諸善」「万行」もろもろの善い行いをするということです。
親鸞聖人のお言葉なら「万行諸善の仮門」というのがあります。
これは仏教のどういう教義からくるんでしょうか。
因果の道理です。
そういうところから、19願の教えというのは
十方衆生を因果の道理で統合して、三願転入の軌道にのせる教えです。
この意味は、この世の十方衆生はとんでもないものを信じています。
いろんな考え方をもっています。
そんな十方衆生でも、あなたの受ける結果運命というのは
すべてあなたの蒔いたタネなんですよ、という因果の道理はよく分かる。
善いタネを蒔くという時は、決心というのが必要です。
悪いことしないぞ!
善いことするぞ!というのは決意がいりますよね。
寝坊してしまう人、これは、奮発心がないんです。
ここで無理したら余計にみんなに迷惑かけるぅ、とか勝手に言い訳考えるんですけどね。
また布団っていうのはすごい誘惑してくるんですよね。
それに打ち勝って起きるのは決意が必要です。
楽したいっぱいの私達ですから、ちょっとでも楽がしたい。
その楽したい心に打ち勝たないと善いことはできません。
これが「発菩提心」です。
至心発願
至心とは「まことのこころ」ということです。
誰の心でしょうか。
私達にはまことのこころはあるんでしょうか。
ないもの出せ!と言われているんですが
これは「まことのこころにして」ということです。
「まことのこころ」にならん私が「まことのこころ」にしようとして、ということです。
もっとも多くの人が間違ってるところだと思います。
どうせならないもの、と思っているのは
「まことがない」と本願力に照破されたのとは全然違うんです。
実行してみないと分からないものです。
いくつか例をあげてみますと、あいさつするってことあるじゃないですか。
私が、子供の頃「おはようございます」と言うのが素直にできなかったんです。
そもそもそんなこと言う気持ちがないんだ、だからここで言うのは自分に対する裏切りだ!とか。
「ごめんなさい」も言えない。
たしかに俺も悪いけどお前も悪いんだ!とか。
上司や先輩にあいさつしてるのをみるとヘドが出る!何だコビ売りやがって!と思ってました。
多かれ少なかれ、こういう気持ちってみんなあるんです。
そういう心しかないんですけど、それを「まこと」の心にして、
そしてあいさつしてみる。
これが「至心発願」です。
そこを自分の思いのままにやってるのは、素直なんじゃなくてガキなんです。
お礼状やお詫び状にしてもそうです。
書く気もない自分の心を正して「拝啓」とか書くんです。
自分の心を見つめて、心をまことにしようと努める。
これが19願のみ心にかなっていると思うんです。
御一代聞記書に「心を責めよ」というのがあります。
「わが心にまかせずして心を責めよ」というのは、
三願転入の道を進む時、あれはしたいこれはやりたくない、
という弱い心に任せておっては、
諸々の功徳を菩提心を発して至心に発願してやってるとは
言えないんだということです。
カッコだけつけとかなくてはならないからやっとくの。
掃除の時間も、ほうき持って動くだけ。
心をこめてやってるわけじゃない。
しかし19願では、そんなあなたの心を「まこと」にしようとするんです。
あいさつするにせよ、自分と接する誰かに少しでも幸せになってもらいたい、
こういう思いが必要なんです。
仏法の話をする時だって、話す人に少しでも幸せになってもらいたい
という気持ちがあるかどうか、これ非常に大きなものなんです。
仏法にお金を使う時だってそう、後生の一大事解決の為ならば
これくらいではまだまだなんですが、という気持ちになってるか、
それとも体裁だけを取り繕っているか、大きな違いです。
ある若い女性が仏教の真実の自己を聞かれると
一生造悪の話をします。
すると、確かに言ってることは分かるんだけど、そんなこと考えてたら誰も信じられない、
誰も愛せないじゃないですか。
仏法者は結婚するにせよ恋愛結婚ではいけない、
人生の墓場だと覚悟して結婚する。
こういうのが理想なんでしょ、と言ってくれるんですね。
潤いも明るさも希望もありませんね、って。
しかし、人間のまことの相というのは、18願に出させていただいて、
無量の光明に照破されて知らされることであります。
そこへ進んでいく19願では、精一杯まことの心にしようとするんです。
「まごころ込めて」という言葉あります。
仏法聞き誤ってる人は、まごごろなんてないんだ!
「まごころ抜きで」贈り物を、と言うんです。
無念無想で念仏称えるぞい!なんて。
「心こそ、心惑わす心なれ、心に心、心許すな」
「最大の敵は心であり、最強の味方も心である」
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」(法句経)
「いくたびも思い定めて変わるらん思うまじきはわが心かな」
「そのまま我が心に任せたならば地獄行き」
「心せよ心許せば身の破滅」
自分のことを楽な方へと導く心。
理由と絆創膏はどこへでもくっつく、自分を正当化しようとする心。
そういう心を責めよ、と言われています。
「至心発願」というのは、仏様の眼から見ればまことなんてのはないんだけど、
そのあなたの心をまことにする。
そうやって阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたい(欲生我国)
という願いを起こして、ということです。
臨寿終時仮令不与
大衆囲繞現其人前者
不取正覚
そうすれば臨終に助けにいくぞ、と誓われたのが19願であります。
要するに19願で教えられているのは、よしやるぞ!
という奮発心を発して心をまことにして善をしなさい。
やる前から、どうせできんのだと言っていたのではいけません。
そうすれば助けるというものです。
実行する。
これが行者です。
仏法聞く前に比べて、自分の心をどれだけまことにしようとしているか、
これで、その人の仏法の理解が分かるんじゃないでしょうか。
ちょっとでも相手に幸せになってもらいたい。
そのためには自分の心を戦っていかねばなりません。
そうやって全力尽くしてやってみると知らされることがある。
泣かざるをえません。
そんな人に説かれたのが20願です。
阿弥陀仏がつくられた南無阿弥陀仏の6字の名号というのは、
大宇宙のありとあらゆる善の本になっているものです。
万善万徳をすべて封じ込まれた名号を称える、これが念仏を称えるということです。
19願の教説にしたがって善をしてみると、できない自分が知らされる。
そしたらこの弥陀が造った名号があるから、これを称えよと言われるのです。
初めて三願転入を聞いた時、諸善をやるより、
名号称える方がはるかに楽だな、と思いました。
しかし、20願の人というのは、19願で徹底的に善をやってやって
できないものと知らされてるんです。
信仰進んで、名号の功徳に目がついて、
名号をあて力にするんです。
真門自力の念仏者というのは、
称えている念仏は阿弥陀仏がつくられている他力のものです。
しかし称える心、これは自力なんです。
だから半自力半他力といわれます。
19願の人は、やってる善も自力、やってる心も自力です
そして善なんかできないと知らされた人に、
ものすごい功徳をブチ込んだから、
と出される名号、これを称えるのが20願の人です。
親鸞聖人はご自身が19願から20願、
20願から18願の世界に入られたというところから、
三願転入を書かれているんです。
これが親鸞聖人の教えの根基といわれるものです。
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