お釈迦さまは、私たちのすがたを
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
と説かれている。
お釈迦さまは、心と口と体の3方面から私たちを見られている。
その心が常に悪を念っている。
心が悪ばかりなら、口や体も悪になる。
口は常に悪を言い、
体は常に悪を行っている。
川上に青いインクを流せば、川下は青くなる。
口常に悪を言っている。
体も常に悪を行っている。
曽無一善。
かつて一善なし。
生まれてからこのかた、一つの善もしたことがない。
これは倫理道徳の善ではない。
そういうことはやっているし、やらないと生きていけない。
仏様がごらんになられても善といえるもの。
私たちは人のため、人のため、と言っているが、本当に人のために善をすることはできない。
お礼を期待する心がある。
商売である。
雑毒の善と親鸞聖人は仰っている。
人の為と書いて偽り。
国民のため、自民党のため、と言っていたが、結局は自分のため、自己の保身のためであることが今回の一件でもわかった。
人のため、人のため、自分のためにやっているんじゃない、ボランティア、といっているが、自分中心の善しかできない。
だから、相手が自分の期待通りにならないと腹が立つ。
ぼた餅作って腹いっぱい食べた。
あまったので、捨てるのももったいないので隣にやった。
「ありがとうございました」と隣の人は言ったが、翌日あったときには、ぼた餅の『ぼ』の字も言わなかった。
一言くらい言えよ、もう絶対にやらない。
今度は反対側の隣の人にやる。
本当に相手のことを思ってやる善ではない。
毒入りのぼた餅。
数十年前、日本は大きな戦争をした。
国のため、国のため、という教育を受けた。
国といっても人の集まり。
国民の為に死ぬんだ、と特攻隊。
しかし、これも名誉のために死ぬ。
名誉が残ると思っている。
大勢の人の前で腹を切って死ぬ人もあるが、これも名誉のため。
こうしたら、人がこう思ってくれるだろう、と、そういったことを一切計算せずに善はできない。
もしできる人があれば、ここにあがってもらわないと。
後光がさしている。
たまに鴨に矢が刺さって報道される。
『矢鴨かわいそ〜』と言いながら、焼き鳥たべている。
すき焼き、焼肉、さしみ、おいしいおいしいと食べている。
本当にかわいそう、と思う心があるのか。
活造り、魚がまだ生きているのに、その刺身をおいしいおいしいと食べている。
悪の限りをつくしながら、八つ裂きにされて殺されても文句の言えない悪人なのに、善人だと自惚れている。
ここではっきりと知らされる自分の姿を機の深信という。
親鸞聖人は
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫昿劫より已来常に没し常に流転して
出離の縁有ること無しと深信す」
と仰っている。
罪悪生死の凡夫とは、隣に大きな家が立つと腹が立つ。
もらった赤飯がのどにささる。
犬にでも食わせておけ。
相当借金しとるぞ。
焼けてくれないか。
おやじかなり飛ばすそうだが、事故にでもあってくれんか。
そしたら、買ってくれと言ってくるだろう。
たたいて買ってやろう。
人が聞いたらあきれて逃げてしまうことをおもっていませんか。
旅先の火事は大きいほど面白いと言われる。
自分の家と関係ないから。
だから火事見物に行く途中で、消えましたよ、といわれると、がっかりする。
「かわいそうに」と口では言いながら、喜ぶ心がある。
現在の自分がわかると、過去も未来もすべてわかる。
「いずれの行もおよび難き親鸞、とても地獄は一定すみかぞかし」
と親鸞聖人は仰っている。
お釈迦さまの仰る通りの親鸞だった。
このとき、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく按ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」
が同時に知らされる。
ここで阿弥陀仏の本願と私とが一つになる。
若不と唯除。
本願や行者、行者や本願。
正信偈には『慶喜一念相応』
御和讃には『願に相応する』とある。
これを二種深信ともいう。
これが真実の信心。
ここまで仏法を聞かせてもらいましょう。
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