私たちは、他人のことはよく見えるが、
自分のことは分からない。
それは、近すぎるから。
近すぎるものをみるとき、どうするか。
鏡のご厄介になるしかありません。
私を映す鏡に、他人鏡、自分鏡、法鏡の三つがある。
他人鏡とは、他人は自分のことをどう思っているか。
それを聞く。
人は自分のことをよい人といっているだろうか、頭のよい人、きれいな人、親切な人、
かわいい人、常識豊かな人。
考えてみれば、朝から晩まで、私達は他人鏡にいかに綺麗な自分を映せるか、
そればかりに神経をすり減らしている。
『○○さんってね〜』と自分の名前が聞こえると、耳をそばだて、ど真剣に聞く。
そして一喜一憂する。
多くの人が自分のことを悪い人だと言っている。
では自分のどこが悪いのだろう、と反省する。
しかしこれは都合によってかわる。
私たちがよい人、悪い人、という場合、私にとって都合がよいかわるいか。
心の中で、みなさんも善人と悪人とをわけているでしょう。
どういう基準ですか。
本当に自分のことを思って注意してくれた人であっても、
自分にとっておもしろくないと悪人、嫌な人、近づきたくない人、となる。
仏教を聞いているときに居眠りしている人があった。
休憩時間に面談を申し込まれた。
会ってみると居眠りしていたお婆さん。
「先生、今日は尊いお話ありがとうございました」
と言って、菓子箱を出された。
あけてみると一万円冊の束。
ざっと見ただけで一千万円はある。
「いやーここにはいい人がおられるな〜」となってしまう。
半日で変わってしまう。
裁判官は事実を客観的に見て判決を下さねばならない。
ところが必ず感情が入る。
だから事実は一つなのに、無罪になったり有罪になったりする。
「今日誉めて明日悪く言う人の口泣くも笑うもウソの世の中」
といわれる。
誉められたからといって有頂天になって天井裏のネズミとダンスしていては大変ですよ。
悪口言われたからといって元気無くして自殺するのも愚の骨頂ですよ。
一生涯、こんな鏡ばかりみて、振り回されていたら、大変なことになってしまう。
真実を映し出すのは法鏡であり、
法鏡イコール仏教です。
本当の自分の姿を知るには、
仏教を聞かなければなりません。
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