まず人生の目的とは、一体どういうものなのか。これは生きる意味ともいえます。
人生とは人が生まれて、死ぬまでの間、人生といいます。
人生っていう言葉を聞くと、何か重たい、苦しいような感じがしますが、
仏教を説かれたお釈迦さまは、
仏の悟りを開かれて一番最初の言葉が「人生は苦なり」でした。
これは仏の悟りの第一声といいます。
仏教ではこの世のことを娑婆といいます。
娑婆世界といますのは中国に行って堪忍土とやくされました。
人間が生きていく、人の世とは耐え難きを耐え、忍がたきを忍んで、
生きて行かねばならない事が一杯あるんだよといわれたのです。
これは私たちの人生のことです。
かの有名な作家の芥川龍之介は、人生が楽しいといっている人は、
人生を知らない幼い子どもか、気違いだ。
と言っている。
人生は地獄より地獄的だなど彼はいろいろ言っている。
よく、人間の生き様を描いた文学作品が世界各国にありますが、
ある有名な学者が、そいう文学作品の中に、苦しいという言葉と、
楽しいという言葉とどちらが多いかを調べた人がいました。
その結果、3対1で苦しいという言葉のほうがおおいんですね。
一番華やかだと言われているのはフランス文学でありますが、
それでさえ、2対1で苦しみの勝ちです。
仏教ではこの事を苦楽一如といい、苦と楽は全く別のものではなく、
二つであって一つ、一つであって二つですよ。
つまり、苦しみの新しい間を楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみ
というんだよ。
何か別々なものがあるのではなく、一如と教えられている。
何か、楽しい事があったとき、それが崩れた時に、
苦しみも大きくなるのを皆さんも感じた事があると思います。
或いは、楽しみとは、たのしみという形をとってあらわれた苦しみである。
とも言われています。
ちょっと形が違うけど、結局、苦しみなんですよ。
楽しかったものも、やがて苦しみになる。
そうやて、みんな誰でも年を取っていく。
厳粛な事実がある。
これが人の一生なんです。
生まれてから、ただ一つハッキリしている事は、死んでいくという事です。
厳粛な事実です。
モータルということばがある。
やがて死んで行かねばならないものという意味です。
ところがもう一つ名詞の意味があって、人間という意味です。
すなわち人間というのはやがて必ず死んで行かねばならない
運命を持っているもの。
人間というのはやがて必ず死んで行かねばならない運んめいを持っている。
楽しい事もあるでしょうが、やがて苦しみになり、それを乗り越えて、
また、新たな、楽しみを求めるのでしょうがそれを繰り返しながら、
最後は、やがて死んでいくんですよ。
人生という響き、どうしてもおもくならざるを得ない。
西洋の格言にメメント・モリと言われますが、
やがて死んでいく存在であることを忘れるな。
という事です。
日本の言葉の中にも、
今死ぬと思うにすぎし宝なし、心にしめて常にわするな。
今死ぬと人生を見詰めた時に初めて、人生とは何か。
いま、本当にしなければならない事はなにか。
問題になってくるんですよ。
今、死んでも悔いないといえるものは何か
人生を考えた時に、やがて必ず、死んで行かねばならないという事ですから、
死という問題をはずして考える事は絶対にできません。
こういうことを仏教では生死一如といいます。
生きるということと死ぬという事は別なものではなく、
切っても切り離せないということです。
ここにいる、皆さんも、生きるという事を必死に考えている。
どうすれば明るく、楽しく、生きれるか。
これはみんな一生懸命考えている。
ところが死というものに関心を持っている人は非常に少ないですね、
カップルがデートでささやくことはなにか。
死んだらどこに行くのかしら。
なんて話したら、もりあがりませんから。
ところで生きるということばかり考えていても、
死は100%確実にやってくるのだから、大変な一大事が起る。
昨日まで幸せな家族だったのに、わずか20秒で不幸のどん底に突き落とされる。
もうちょっとというところで死によってぶち壊される。
生と背中合わせになっている死をきって切り離す事のいできない事だと教えられています。
そこで今日は普段はあまり考えない、死を見詰めて人生とはどういうものか、考えたいと思います。
子どもの頃にどんな人でも聞かされる話に、ありとキリギリスという話があります。
キリギリスは非常にのんきというか、楽天家というか、いつ歌を歌うのが大好き。
ありは、夏の暑い日でも、顔色い一つ変えずに働いている。
キリギリスは今が楽しいといってふらふら遊んでいるそれじゃあいけないよ。
何でかというと、夏がすぎると、秋が来てやがて必ず、寒い冬がやってくる。
いつまでもあったかい夏がいいと思っても、やがてあき去り、冬がやってくる。
夏の時はよかったけど、いやないやな冬がやってくる。
巣を作っていたありは、あったかい巣の中で暮らす事ができました。
こういう話、誰でも聞かされている。
肝心なのは夏の時に巣をつくって準備しなければならないのと同じように、
死の一大事の解決をするのが大事。
夏休みというと思い出すのが、宿題。
絵日記がある。
31日で何も書いていない絵日記をみてないている。
これほどいやな気持ちになることはない。
こんあことならきちんとかいてればよかった。
ちょうどそれと同じように、私たちの人生も、生まれてきたらからには宿題を抱えている。
必ず終わって死が来て、宿題出せといわれる死がくる。
しかもいつやってくるか分からない。
あなた、いつ、死が来ても大丈夫ですか。
死がきても大丈夫という準備を元気な時にやっておく必要がある。
よく、こういうことをたとえて生とは台所の様なもの、である。
使徒は、トイレ、便所。
台所誰もが好きな明るい感じのするところ。
家族の団欒するのも台所。
家に帰ってまず最初に行くのが台所。
トイレのイメージは暗い、苦しいといった感じ。
しかし、便所嫌いだから作らないという人があったら大変な事になるます。
ご飯をおいしく頂くには、いつでも安心して行けるトイレがあっておいしく食べれるでしょ。
印象にあるのが阪神大震災。
食料に大変困った。
周りから援助、というニュースばかりやっていた。
ところがお手荒いが必要なのに、水がながせない。
便所を復旧させる事は食事を供給する以上に大事なことなのに。
私たちはどう生きたらたのしくできるか。
という事については考えていますが、やがて必ず死がやってくる。
しかもいつ死がやって来るかわからないか
ら、いつそうなっても安心できる後生の解決ができていて初めて、安心できる。
だからまず、後生の解決をする事が人生の目的なんですよ、
本当の生きる意味なんですよと
親鸞聖人はおしえていかれた。
私が元気な時にしなければならない人生の宿題というのは、
いつ死がやってきても大丈夫なように後生の解決する事ですよ。
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