親鸞聖人は教行信証に仏意はかりがたしと言われている。
阿弥陀仏の御心は我々凡夫で計り知れない。想像ができない。
しかし阿弥陀仏がどのような業労でこの名号を完成してくださったのか
考えてみるとと仰られて
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」
一切の人は善人はひとりもいないから。
丸太棒にすがってはうらぎられ、
丸太棒や板切れにどれだけすがっても苦しみ悩みなくなりませんよ。
不安がたえない世界ですよ。
しかし、どれだけいってもわからない。
それで丸太棒や板切れにしかむかえない。
それで阿弥陀仏は五劫思惟の願をたてられ、兆載永劫の修業をなされた。
それを親鸞聖人は大悲の願船といわれている。
その阿弥陀仏のつくられた大船はどういうねらいでつくられたのか。
「如来至心〜廻施したまり」
南無阿弥陀仏の名号を与えることが目的
如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり
(正像末和讃)
「首」とは目的ということ。
与えるということを目的として阿弥陀仏は作られたんですよ。
廻向とは与えること。
与えることを目的として南無阿弥陀仏の名号をつくって下された。
ですから阿弥陀仏の仏像は、立っておられる。
仏様は座像といってすわった形の仏様が多い。
立像、衆生再度にいそがしくて座っている暇がない阿弥陀仏の御心。
お医者さんにも往診と宅診があるでしょ。
「先生かぜでなおしてもらえませんか」
と普通お医者さんに行ける人は病状が軽い人。
お願いすることができる。
しかしもっと病状がひどい場合はでかけていくことができない。
そんな患者はお医者さんのほうからいかなければならない。
これが往診。
阿弥陀仏は往診の仏様。
十方衆生はまことの心かけられもない。
ですから、船のほうから近付いてくださって、
しかも一念で乗せて下れれる。
阿弥陀仏はなんとかしてその名号をうけとってくれよと、
ご苦労してくださっている。
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