雑行には、五雑行といわれるものと諸善万行とがある。
雑行の本義は諸善万行。
親鸞聖人ならではのところ。
五雑行は既に七高僧が明らかにされた。
七高僧が明らかにできなかったのが
諸善万行、雑行の本義。
親鸞聖人の教えの独擅場。
親鸞聖人ならではのところ。
まず五雑行を形で実行できたもの、
阿弥陀仏一仏に向いた人に次ぎ問題になってくるのがこれ。
頭だけでも後生の一大事の解決は阿弥陀仏しかできないと知らされると
阿弥陀仏に向かう。
諸善万行の善。
諸善とはもろもろの善。
万行とは万の善。
仏教の根幹は因果の道理。因果応報。
仏教の教えの根であり幹。
一切経を何処読んでも因果の道理から離れた教えはない。
悪を恐れ、善に向かえ、と、どの経典にも教えられている
必ず仏教が判れば判るほど罪福を信じる心。
進まずにおれなくなる。
そう言う人に教えられるのが次。
諸善万行とは善です。
悪いものではもちろんありません。
具体的には六度万行。
六度万行を実践し、後生の一大事助かろうと修善、
修善を当て力にする心を自力という。
自力の心でやっている諸善万行を雑行と言います。
これはですね、行いは善だから励まねばならないのは当然です。
しかし心がけが悪いから雑行と嫌われ捨てよと言われる。
諸善万行の場合は行いそのものは善ですから
信前信後大いに励むのは当然であります。
因果の道理知らされた者はね。
しかし問題は心が悪い。
心がけが悪いから雑行と嫌われ捨てよと言われる
信前は雑行です。
信後は自力の心が廃った一念で、それまで雑行と言われていた諸善万行は御恩報謝となる。
体は変わらない。救われるまでは雑行、救われた後は御恩報謝の行と言います。
言い方が変わる。
これが悪いのは行いそのものはいいが、心がけ。
自分のやった善を当て力にしてそれをさし向けて助かろうとする。
疑情であり無明の闇。この違い。
五雑行と諸善万行。
雑行を捨てなければ絶対に後生の一大事の解決はできません。
この心を知るには後生の一大事が判らないと絶対に判らない。
後生の一大事助かろうとして行う、善を雑行雑修と教えられますから。
後生の一大事が抜けたら絶対に仏教は分からないということ。
何度も確認しなければならない。
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