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2018年04月19日
浄土真宗の法話での心構え
仏教の先生との御縁ですが、
会場では前のほうに座ったほうが、
先生に近いところで聴聞させていただくことができます。
後ろの方で聞かせていただくのと、
前で聞かせて頂くのは、
全然違います。
一番前で聞かせていただくと、
先生がどこを見て話しておられるのか、
までわかりますし、
それだけ真剣に聞かせていただくことができます。
本を書くというのは、伝えたいことがあるからです。
話をするというのは、伝えたいことがあるから話をするんです。
前のほうだと、先生の熱意まで伝わってきます。
それも受け取らせていただこうと思ったら、
先生により近いところのほうがたくさん受け取るものがあります。
機会があれば、少しでも仏教の先生に
近いところで聞かせていただくというのが大事です。
善知識同行に親しみ近づくことになります。
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2018年04月18日
仏教講座は本当の幸せになる因縁
弁円の歌にこのような歌があります。
山も山道も昔に変わらねど変わり果てたる我が心かな
山や道の風景は全く変わっていないけれども、
私の心はガラリと全く変わってしまった、と言っています。
変わり果てた、というのは、大変わりしたと言うことです。
もし、弁円があのときに、
親鸞聖人を憎いと、殺しに行くことがなければ、
親鸞聖人に近づくと言うことも無かったでしょうし、
近づくことが無かったら、一生苦しみ続けていたでしょう。
恨み呪うというのは、恐ろしいことですが、
親鸞聖人に近づいたから、生まれ変わることができたんです。
弁円が襲いに行っているのは、
親鸞聖人が襲われる、ということでドキドキしますが、
弁円がどんどん親鸞聖人に近づいているということでもあります。
とにかく仏教の先生が教えを説かれる
仏教講座に近づきなさい、
同行に近づきなさい、と言われます。
近づかなかったら、縁がないです。
仏法を謗る、謗法罪を造るだけです。
しかし疑ったり謗ったりすることさえも因縁となって、
本当の幸せに救われることがあります。
2018年04月17日
仏教を求める友達に近づくと?
『親近せざるは雑修の失なり』と『礼讃』にあらわせり。
(御一代記聞書150)
親近せざるは雑修の失なりと
往生礼讃に教えておられます。
往生礼讃とは、善導大師の書かれたものです。
信心決定していない人にとって、
善知識や同行から聞かせていただく言葉というのは、
真実であるので、聞かせていただくと大変辛いです。
善知識同行の言葉というのは、
あまりにも真実で、聞くと耳が痛いのです。
至言は耳に逆らう
と言われます。
本当のことを言われたら、
イヤだと思いませんか。
だから、善知識同行に近づかないように、
近づかないようにしてしまう。
雑修の失というのは、自力の欠点であるということです。
他力を嫌うのが自力の本性です。
近づかないように、近づかないようにしてしまう。
善知識、同行に近づいて、誤りを正して頂きなさい、
と言われています。
続きを読む...2018年04月16日
生きる意味がわからず一生を終わる人への言葉
御文章1帖目12通に、
「信心の沙汰をせよ」
と教えて下さっている
蓮如上人のお言葉があります。
しかるに当流において毎月の会合の由来は、何のようぞなれば、
在家無智の身をもって、いたずらにくらし、いたずらにあかして、
一期はむなしくすぎて、ついに三塗にしずまん身が、
一月に一度なりともせめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて
「わが信心はひとの信心は如何あるらん」
という信心沙汰をすべき用の会合なるを
近頃はその信心ということはかつて是非の沙汰に及ばざるあいだ
言語道断あさましき次第なり。
所詮自今已後はかたく会合の座中に於て信心の沙汰をすべきものなり。
(御文章一帖)
せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、
「わが信心はひとの信心は如何あるらん」
という信心の沙汰をすべきものなり。
在家というのは、出家していない私たちです。
無智というのは、生きる意味がわからないで、
人生を無駄に過ごしてしまう私たちのことです。
生きる目的がわからないで、
毎日何となく時間を過ごして、
一生があっという間に過ぎ去ってしまいます。
一休の歌にも、
人生は喰て寝て起きて糞たれて、子は親となる、子は親となる
とあります。
朝起きて布団をあげて、顔を洗って、
御飯を食べて、仕事をして、
家に帰って、御飯を食べて、布団を敷いて、寝て、
また朝起きて、布団をあげて、…、
結局この繰り返しで人生が過ぎていきます。
信心の沙汰とは、本当の生きる意味を説かれている仏教の話ということです。
続きを読む...2018年04月15日
仏教を保護するのは無功徳?
中国の武帝といわれる皇帝が、
インドから招待したことがありました。
そして、武帝は、仏教を保護していたことを誇っていたので、
自分のこれまでやったことはどれくらいの功徳があるのか。
と自慢がてらにダルマに尋ねました。
するとダルマは
「無功徳」
と言い放ったという話は有名です。
おれはこれだけやっているんだ、
どうだという心があるのは、
自分はこれだけしてやったんだという
毒が混じった善なのです。
そういう武帝の心をよんだダルマは、
そのように言ったのです。
しかしだからといって何もしなければ、
心も悪なら口や身体も悪です。
まず口や身体で立派な行いをして、
心もそれにあわせていきましょう。
2018年04月14日
5つの欲望
仏教では、代表的な欲の心を五欲と教えられています。
食欲
財欲
色欲
名誉欲
睡眠欲
の5つです。
食欲というのは、食べたい飲みたい、
もっと美味しいものが食べたいという欲です。
財欲というのは、一円でもお金か欲しい、
損したくないという心です。
色欲というのは男女間の欲です。
悪いことと分かっていても不倫問題が
テレビや週刊誌を騒がせます。
よく老人ホームでも恋愛感情のもつれで
殺人事件が起きています。
死ぬまでなくなりません。
名誉欲、昔インドにいた占い師が、
1週間後に自分の子供が死ぬと予言して、
本当に死んだということがあった。
それを調べてみると、その占い師が自ら
自分の子供を殺していた、という事実が発覚したのです。
名誉欲を満たすためだったら、
自分の子供さえ殺してしまうのです。
何年か前、新潟で電気ポットに毒物を混入する事件があったのです。
これは犯人はその会社の社員でした。
動機は、会社の金を風俗とか何やらに使ってしまった。
ところが、会社の経理に査察が近いうちに本社から入るらしい、
まずいばれてしまう、ということで混乱させるために
毒をポットの中に入れて事件を起こしたそうなんですね。
これも、自分の公金横領がばれてしまう、
という名誉欲が、そうさせたのです。
恐ろしいですね。
最後に睡眠欲です。
これは定番なのが、ピアノ殺人です。
隣のピアノの音がうるさいということで
怒りの心で殺してしまった、
そういう事件が一年に一回くらい起きています。
2018年04月13日
でっちあげた神
構想してでっち上げた神とは何でしょうか。
天理教やキリスト教などです。
幸せになることができないと、
不思議なものにすがらざるを得なくなってしまいます。
天理教はなぜ、そんな神が現れたのでしょうか?
教祖の中山みきは
「神心親子の物語をするために天下りしたのだ」
と言いました。
幸福の科学開いた大川隆法も、
それ以前に大変苦しみました。
オウムの井上も、矛盾に苦しみました。
アフリカの人みて、本当の幸せはないか、
分からずどうすればいいのか、と思って、
麻原彰晃は、初期はそういうことを言っていましたが、
最後には「人を殺せ」と
殺生を指示しています。
しかし、この人を信じるしかない、と思ったのです。
もし本当の仏教を知っていたら、
喜んで仏教を聞いていたでしょうに
真実を知らない人は迷わざるを得なくなります。
天理教では、因縁の理、おさとしを教えられます。
「ガンになるのは頑固一徹であるから」
みたいなものです。
こんなの滅茶苦茶です。
こんなことを信じていたら、
よけいガンがひどくなります。
歴代の仏教の正しい先生がたは
徹底的に外道をぶち破られました。
それは我田引水でなく、
「こんなもの信じていたら、
この世も未来も永遠に地獄だから捨てなさい。
そして大宇宙の真理を教えられた仏教を信じなさい」
ということです。
続きを読む...2018年04月12日
宗教や占いが繁盛する根っこ
昔は、科学も医学もありませんから、
どうして病気になるのかわかりません。
何かに祈れば病気が治るとか、
商売繁盛するという宗教が流行します。
未来がわからないので、
紀元前から占いも行われています。
不安だからです。
ところが、そんな時代だけが迷信邪教に迷っている時代でなく、
科学医学が発達してガン克服できる今も、
千年先でも、万年先でもその姿はなくならなりません。
占いも大繁盛です。
それはどこから来るのでしょうか。
人間が絶えず何らかの不安にさらされている
という事実があるからです。
それはどうしてかというと
一切の不安の根底には、意識するとしないとに関わらず
死んだらどうなるかわからない
死への不安があるのです。
続きを読む...2018年04月11日
信心を無視して幸せになれない
正信偈というものがあります。
7文字かける120行で840字です。
この中に、親鸞聖人90年の教えが
すべて圧縮されておさまっています。
それはどんなものかというと、正しい信心です。
ということです。
現代人で信心が自分と関係あると思っている人はないと思います。
しかし、信心を無視して幸せになれるはずがありません。
信じるとは、頼りにするとか、あてにする、
ということです。
私達は心で何かを頼りにして生きていますが、
この世は諸行無常の世界です。
すべてのものは続きません。
無常のものなら、壊れる時がきます。
無常をあて力に、頼りにするだけ、
向こうには苦しみが待っている。
だから、絶対に崩れないものを頼りにしなさい、
と教えられたのが仏教です。