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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2018年04月29日

求道の心構え

仏法を求める時は、
安易に楽をとってはなりません。

 

簡単に楽な方になってはならないんです。

仕事しないというのは

自分にとって楽を選んだだけなんです。

 

楽な方をとるのはだめなんです。
楽な方ばかりを選んでいては求道にならないのです。

私たちがまず真剣にならなければならないことは、
何としても仏法をお伝えするぞ、
という気持ちと何としてもききぬくぞ、
という気持ちとは同じなんですね。

 

仏法が真実であるということを知らされると、

より伝えたくなってきます。
そして話すればするほど、もっと真剣に聞かなければとなってきます。

 

分かっていないな、ということが知らされるのです。
どうしたら浄土真宗の法話を真剣に聞かせて頂く事ができるか、

どうしたら親鸞聖人のみ教えをお伝えする事ができるか、

その2つ、それに集中したらよいと思います。

 

遊びとか、色々あるでしょう。
今は欲望に走る時ではありません。
今知らされた真実を力一杯お伝えする、

どうしたら真剣に聴聞して、どうしたらお伝えできるか、

それに全力です。
これに体力も時間もかけなければならないのです。

 

仕事は仕事でしっかりやらなければならないのは勿論ですよ。
仏法を伝えると言いましても他の人のためのものではないんです。
自分の為にさせて頂く。

 

ご縁のある人に一生懸命話をする。
一生懸命話をしてその人が聞かなくても、

話をした人が得をするのです。

 

私、今年、生きる意味を知らされて、

喜ぶ人を一人見つけよう、

ということで頑張ったらいいと思います。

 

仏教が初めての人、大学入ったら仏法聞こうとは思っていないと思いますが、

そういう人の中に、仏法聞けてよかった、という人が必ず出てきますから。

「よく自分に声をかけてくれました」

そういう人が必ず出てきます。

 

声をかけて、いや僕はいいです、と断られたら、

それは相手の都合ですが、
声をかけなかったら、

真実との唯一のご縁を失ったということになります。

 

必ず探し求めている人はありますから

頑張ってもらいたいと思います。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 実践

2018年04月27日

二河白道の「無人空迥の澤を西へ進め」とは

二河白道のたとえは、

何をたとえられているのでしょうか。

 

最初に旅人が旅をしていたこちらの岸は

無人空迥の澤」でした。

 

無人というのは、友達などはたくさんいるのですが、
本当の幸せを教えれくれる人が誰もなかったのです。

 

つまり正しい仏教の先生がなかったということです。

 

そして、幸いにも仏教を正く教える先生にあって

幸せになるにはどうすればいいのか教えてもらいます。

 

正しい仏教の先生がいわれる
西へ向ってすすめ」というのは、
お経の言葉で言えば、
一向専念無量寿仏

ということです。

 

一向専念無量寿仏とは、

仏教の結論であり、

ブッダの至上命令なのです。

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タグ:お経
posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 善知識

2018年04月25日

続かない世界で煩悩のまま幸せになる方法

歎異抄の最後に
 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、
ただ念仏のみぞまことにて在します。」

 

というお言葉があります。

 

火のついた家のように不安な無常の世界に、
煩悩具足の凡夫が生きているので、
よろづのこと、すべて空事、たわごと、真実、あることなし、
お金も財産も、地位も名誉も全部崩れていきます。

 

儚い夢になっていきます。

まことがないんだということです。

 

どれだけ時間がたっても、
どんな状態になっても変わらないのを真実というのです。
しかし、そういう中でたった一つ変わらないものがあり。

それを親鸞聖人は念仏とおっしゃっているのです。
念仏とは阿弥陀仏の本願のことです。

この世も未来も本当の幸せにしてみせると誓われた
阿弥陀仏の本願をいわれているのです。

 

そして、
一切経七千余巻の結論が、
一向専念無量寿仏

です。

無量寿仏とは、阿弥陀如来のことですから、

阿弥陀仏一つに向きなさい、

阿弥陀仏を専ら信じなさい、

というのが、一向専念無量寿仏です。

 

本当の幸せになる方法

これなんだと教えられているのです。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2018年04月24日

喜びが続かない諸行無常の不安

 

諸行無常の世界で

私たちの求めている幸せには

一つ、特徴があります。

 

心も続かないので

どれだけあっても満足ができません。

 

きりがないということです。

欲望はきりがありませんから。
欲しい、欲しいと思う心にきりがありませんから。

 

例えば幼稚園の時、

100円か200円もらったら、喜べたでしょ。

 

ところが小学生になったら、

500円くらいじゃないと喜べない。

 

小さい頃には満足できたことでも、

大きくなるとどんどん満足できなくなってくるのです。
心からの安心、満足したいんだけど、できない、

不安と不満のつきまとう幸せなんです。


続かないということはいやでも見せ付けられるのです。

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posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2018年04月23日

怒りは無謀に始まり後悔に終わる

欲が邪魔されるとどうか、かーっと腹立つ心が出てきます。
怒りというのは心の上に奴と書きますが、
あいつめ、こいつめ、と心の中で切り刻む心です。

 

これを瞋恚とも言いますが、炎、火のような真っ赤の心です。
大変恐ろしい心です。

 

怒りは無謀に始まり後悔に終わるものだ」
といわれます。

 

怒りが出てくると、
後先が考えられなくなります。

 

どうでもいい、後は野となれ山となれ、となります。

怒りにまかせてやってはならないことをやってしまいます、
言ってはならないことを言ってしまいます。

 

しかし、時間が経つとおさまってきます、
ところが周りを見てみると、周りは焼け野原になっています。

 

後から出てくるのは後悔のみです。
後から言わなければよかった、と後から悔いても、
もう遅いのです。

あの時腹を立てておいてよかった、ということはないでしょう。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2018年04月22日

どれだけ人生の目的達成に近づいているか

行為のことをインドではカルマ
中国の言葉では業といいます。

 

心と口と身体の業を、
身業、口業、意業といいます。

 

因果の道理を知らされれば、知らされるほど、
体で、善いことしよう、泥棒とか悪いことしないようにしよう
口でも、よいことをいうようにしよう、
人の悪口とかをいわないようにしようとなります。

 

体や口の行いは人にわかりますから、
人を相手にしている人間は、
人からよくみられたいと思えば、
いくらでもよいことしようとします。

 

問題は心です。
心で思っていることは、誰にもわかりません。

 

わからないからといって
悪いことを思っていたら悪い結果が必ずきます。
人にわかるわからない関係なく、
因果の道理は間違いありません。

 

人相手の求道ではなく、
阿弥陀仏相手の求道をさせて頂かねばなりません。

 

阿弥陀如来は、誰がみていなくても、
どんなことをしているか、みておるぞ、
誰が聞いていなくても、聞いておるぞ、
心で思っていることも

誰にもわからないと思っているかもしれないが、知っておるぞ。

 

見ておるぞ、聞いておるぞ、知っておるぞというお方です。

 

人がみていようが見ていまいが
因果の道理は間違いありませんので、
誰もみていないからといって悪いことをやったら、
かならず、その結果はやってきます。

 

1年後、2年後、5年後、10年後、30年後、
未来世かもしれませんが、
必ずその報いを受けなければなりません。

 

因果の道理が知らされれば知らされるほど、
廃悪修善の気持ちが強くなります。

信仰のバロメーターです。


どれだけ生きる目的達成に近づいているか

というバロメーターです。

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タグ:阿弥陀仏

2018年04月21日

浄土真宗の会合の目的

蓮如上人が、浄土真宗の会合の目的を

教えられているところがあります。

 

しかるに当流において、毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、

 

当流とは、親鸞聖人の教えられた浄土真宗です。

親鸞聖人の教えを聞き求めて毎月集まってきている、
それは何のためか。

 

在家無智の身をもって、いたずらにくらし、いたずらにあかして、

一期はむなしくすぎて、ついに三塗にしずまん身が、

 

在家とは、出家ではなく、私たちのことです。

無知ですから、本当の生きる目的を知らず、

暮らし明かして何も残りません。

 

一期とは一生のことです。

光陰矢の如しで一生があっというまに虚しく終わって、
ついに三途に沈んでいきます。

 

三塗とは、地獄餓鬼畜生の世界です。

 

そういったことも分からないで

ただ毎日毎日を過ごしています。

 

一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場にあつまりて、
わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんという、
信心沙汰をすべき用の会合なるを、

 

そんな煩悩に引きずられて過ごしている私たちが
せめて1ヶ月に1度なりとも集まってくる、
そのときに信心の沙汰をしなさい。
その為の会合ですよ。

 

何のために仏法を聞かせていただいているのか、
それは後生の一大事の解決以外にはありません。

そのための会合なのに、

 

ちかごろは、その信心ということは、
かつて是非の沙汰におよばざるあいだ、
言語道断あさましき次第なり。


近頃はその信心の沙汰というのが全くなされていません。
まったく口にしないものばかりではないかと。

蓮如上人はお叱りになられ、

 

所詮自今已後は、かたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。
これ真実の往生極楽をとぐべきいわれなるがゆえなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

会合に集まってきたならば信心の沙汰をしなさいよと

教えられています。


信心の沙汰というのは、
「私はこのように聞かせていただきました」
とか、
「仏法って素晴らしいですね」
という仏法讃嘆です。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2018年04月20日

聞法と顕正は車の両輪

法施は最高の宿善になります。
人に言えば言うほど、聞かずにおれなくなってきます。
そうなればまた、言わずにおれなくなってきます。

 

聞法と顕正は車の両輪」です。
だから破邪顕正は最高の宿善になります。


なんとなく聴聞するのと

他人に話をするのに聴聞するのとでは
聞き方がちがいます。

 

小学校の時に算数を教える、
ということがあります。

小学生にとっては算数は興味のあることではありません。
嫌な算数を教える時に
ただ算数を教えるのと
「下級生に算数を教えてやるんだぞ」
と下級生に教えるために算数を学ばせるのでは、
断然違います。

教えたほうがはるかに成績がよくなります。

 

使命感、責任をもって授業を受けるのでは

真剣味がちがいます。

 

後輩に仏法の話をしなければならない
という責任があるならば、
いい加減な聞き方はできません。

 

だから、最高の宿善になります。
後輩がいるからこそ、こういった聞き方になります。


まだ、仏教を知らない人がたくさんいるので、

その人にお伝えする。

 

それによって
自分も真剣に聞かせていただける

自利利他のご縁とさせていただきましょう。

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タグ:聴聞
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2018年04月19日

浄土真宗の法話での心構え

浄土真宗の法話に足を運ぶというのは、
仏教の先生との御縁ですが、
会場では前のほうに座ったほうが、
先生に近いところで聴聞させていただくことができます。

 

 

後ろの方で聞かせていただくのと、

前で聞かせて頂くのは、
全然違います。

 

一番前で聞かせていただくと、

先生がどこを見て話しておられるのか、
までわかりますし、

それだけ真剣に聞かせていただくことができます。

 

本を書くというのは、伝えたいことがあるからです。
話をするというのは、伝えたいことがあるから話をするんです。

 

前のほうだと、先生の熱意まで伝わってきます。

それも受け取らせていただこうと思ったら、
先生により近いところのほうがたくさん受け取るものがあります。

 

機会があれば、少しでも仏教の先生に
近いところで聞かせていただくというのが大事です。
善知識同行に親しみ近づくことになります。

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posted by 陽葵 at 12:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2018年04月18日

仏教講座は本当の幸せになる因縁

弁円の歌にこのような歌があります。

 

山も山道も昔に変わらねど変わり果てたる我が心かな

 

山や道の風景は全く変わっていないけれども、
私の心はガラリと全く変わってしまった、と言っています。

 

変わり果てた、というのは、大変わりしたと言うことです。

 

もし、弁円があのときに、
親鸞聖人を憎いと、殺しに行くことがなければ、
親鸞聖人に近づくと言うことも無かったでしょうし、
近づくことが無かったら、一生苦しみ続けていたでしょう。

 

恨み呪うというのは、恐ろしいことですが、
親鸞聖人に近づいたから、生まれ変わることができたんです。

 

弁円が襲いに行っているのは、
親鸞聖人が襲われる、ということでドキドキしますが、
弁円がどんどん親鸞聖人に近づいているということでもあります。

 

とにかく仏教の先生が教えを説かれる

仏教講座に近づきなさい、
同行に近づきなさい、と言われます。


近づかなかったら、縁がないです。

仏法を謗る、謗法罪を造るだけです。

 

しかし疑ったり謗ったりすることさえも因縁となって、
本当の幸せに救われることがあります。

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タグ:弁円
posted by 陽葵 at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法