教えられているところがあります。
しかるに当流において、毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、
親鸞聖人の教えを聞き求めて毎月集まってきている、
それは何のためか。
在家無智の身をもって、いたずらにくらし、いたずらにあかして、
一期はむなしくすぎて、ついに三塗にしずまん身が、
在家とは、出家ではなく、私たちのことです。
無知ですから、本当の生きる目的を知らず、
暮らし明かして何も残りません。
一期とは一生のことです。
光陰矢の如しで一生があっというまに虚しく終わって、
ついに三途に沈んでいきます。
そういったことも分からないで
ただ毎日毎日を過ごしています。
一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場にあつまりて、
わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんという、
信心沙汰をすべき用の会合なるを、
そんな煩悩に引きずられて過ごしている私たちが
せめて1ヶ月に1度なりとも集まってくる、
そのときに信心の沙汰をしなさい。
その為の会合ですよ。
何のために仏法を聞かせていただいているのか、
それは後生の一大事の解決以外にはありません。
そのための会合なのに、
ちかごろは、その信心ということは、
かつて是非の沙汰におよばざるあいだ、
言語道断あさましき次第なり。
近頃はその信心の沙汰というのが全くなされていません。
まったく口にしないものばかりではないかと。
蓮如上人はお叱りになられ、
所詮自今已後は、かたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。
これ真実の往生極楽をとぐべきいわれなるがゆえなり。あなかしこ、あなかしこ。
会合に集まってきたならば信心の沙汰をしなさいよと
教えられています。
信心の沙汰というのは、
「私はこのように聞かせていただきました」
とか、
「仏法って素晴らしいですね」
という仏法讃嘆です。
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