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2018年05月23日
夢と消えるのは人生、本当だと知らされるのは仏教
「幻の如くなる一期なり」
と教えられています。
「一期」とは一生のことです。
幻の如くなる一期とは、人生は夢幻のようなものだ
ということです。
邯鄲の夢のように人生は夢のように過ぎ去ります。
これから50年というと長いように思いますが、
過ぎた50年を振り返ってみると夢のようなものです。
君たちはどう生きるかという本が売れていますが、
現実と思っているものは夢のように消えて行きますが、
反対に仏法は、時間がたつほど本当だったと知らされます。
この世のことは絶対間違いないように思います。
現在50万円儲かったやないか、これが現実だと思いますが、
過ぎてしまえば何だったのかと思います。
反対に仏法は、聞いている時はおとぎばなしのように思いますが、
時間が経つにつれ、本当だったと知らされます。
「されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや」
一万歳まで生きたという人を聞いたことがありません。
せいぜい百歳です。
一生過ぎ易し。
光陰矢の如しで、あっという間に終わります。
本当だと知らされるのは仏教です。
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2018年05月21日
癌を告知すると……?
癌を告知すると寿命が縮まるといわれます。
癌を診断した時点であと2ヶ月とかわかります。
そのときに自分が死ぬとは思っていない。
家族、本人にいうと、死ぬのが怖いことから、
寿命が縮まるといわれます。
そんな私が死を宣告されるときが必ず来ます。
100パーセント確実にやってきます。
そして死は確実な問題というと大分先のように思います。
そうではありません。
私たちはいつ死ぬかわかりません。
死は、すぐそこにあります。
仏教では
出息入息不待命終
と教えられています。
吸う息吐く息に触れ合っているのが後生です。
死は今の問題です。
紙の裏と表表のすぐそばに裏がある、生と死は触れ合っている
死は生にふれあっています。
人の後生じゃあるまいに
なぜに解決のつくまで求めないのか。
導く人が悪いのか、
求める人がいないのか、
死は確実な未来なのに、
他人事だと思っているからです。
仏教講座に足を運びましょう。
2018年05月19日
欲望を満たせないのが苦しみの元?
みんな欲望を満たすことができないから苦しんでいると
思っています。
では今より毎月1万円収入が増えたら
どうなるでしょうか?
仏教に使えば幸せになれますが、
仏教知らなかったら、趣味や生活費に使います。
生活水準があがります。
下から上がるのが幸せです。
食事代が300円から400円になると嬉しいてす。
400円が当たり前になると幸せに思えません。
300円になるとつらい、あがるときは幸せ、
あがったら当たり前になります。
毎食3万円の食事している人がいます。
当たり前と思っています。
1日300円の食事しなさいといわれたら生きていけません。
当たり前だと思ってしまいます。
何があっても維持しなければならないから
無い人よりある人の方が苦しみ多くなります。
欲望は無限です。
満たしても満たしても幸せになれません。
欲望はそのときは喜べますが、
欲望を満たした喜びは一時的で
何も残りません。
それだけで人生終わったら最後に後悔します。
そんなみんな欲望を満たすことだけで生きている中で、
あなたの苦悩の根源は
心の闇であると明らかにされたのが仏教です。
2018年05月17日
ミッドライフクライシスを迎えた人は臨終にスピリチュアルペイン
すい臓癌で亡くなった知人があります。
膵臓癌はわかりにくい癌です。
その人も、なかなか分かりませんでした。
レントゲンにうつりません。
異常なしだったのにどうもおかしい。
突然かたがあがらなくなります。
すい臓悪いと分からないから整形外科へ。
そして少しよくなりました。
しばらくすると今度は耳鳴りがします。
耳鼻科で飲み薬をもらうとちょっとよくなりました。
今度は視界の中心がぼやけるので
眼科に行きます。
視神経がやられています。
もう一度検査をといわれて検査したらすい臓と分かります。
癌が転移していた、もう手遅れです。
正しい原因がわかっていないから救われないのです。
死ぬのが怖いのはどうしてなのでしょうか?
若い頃から働く目的がわからず
やがてミッドライフクライシスを迎え、
臨終になるとスピリチュアルペインが起きます。
それはなぜでしょうか。
原因を正しく知り解決してこそ
本当に人間に生まれてきてよかったという身になれます。
これを教えられたのが仏教です。
2018年05月15日
阿弥陀仏が約束された信楽とは?
阿弥陀仏の本願はすべての人を信楽にするというお約束です。
信楽とはどういう心でしょうか?
人間に生まれてきて本当によかったという心です。
私たち日々の生活で生きていてよかったと思うことたまにあります。
例えば感動する本や映画を見たとき
「エクソシスト」とか?
「ライフイズビューティフル」
おいしいものを食べたとき、
味噌汁が上手くできたとき
よかったと思うことは多くあります。
ところが生きていてよかったと思うのは瞬間のことで、
次からはそうは思いません。
虚無感におそわれます。
夏の暑い日、仕事が終わった後のビールの一口、
生きていてよかったと思うが
次からは思いません。
そんなことのために働いているとすれば、
働く意味がわからなくなります。
そんな瞬間的なものではなく、
ずっと続く生命の歓喜、
これを信楽といわれています。
難思といわれるように、
信楽になる前に考えているものと
本当に信楽になったときの喜びとはまったく違います。
心の闇が破れた心です。
それは煩悩即菩提の世界です。
続きを読む...2018年05月13日
虚無感に襲われる寂しい人生を充実させる方法
このあいだセンター試験がありましたが
大学受験の頃が一番勉強していたように思います。
今となっては、
あの時一生懸命勉強した事も遠い昔のような気がします。
20歳になるとそこまでの人生を振り返ると夢のように思います。
30歳になってそこまでの人生を振り返ってみると
また夢のように思います。
私達にとって一番大事な人生の目的を知らなかったならば
夢幻のように終わってしまうのが人生です。
邯鄲の夢と一緒です。
寂しいものです。
そういう人生に絶望して、
自分の事を「ガラクタ」にたとえている歌がありますが、
それは、自分に価値が感じられない
ということです。
それは、人生に価値が感じられないのです。
結局一生懸命やった事も振り帰ってみれば
すべて夢のようになってしまう人生です。
そんな人生を何の為に生きるのか。
それが、本当の生きる意味です。
それは仏教に教えられています。
続きを読む...2018年05月11日
仏教を聞く心構え
求法太子の話で教えられている大切なことの一つは、
仏教の教えを正しく説かれる先生に対して
どれだけの気持ちをもって聞こうとしているのか
ということです。
修行者は財産・地位や名誉に用事はない、
聞きたいのは私の指示にしたがうかどうかだ。
といわれ、求法太子は、
もちろんどんな仰せにもしたがいます、
といわれました。
大変な信順姿勢です。
これについて蓮如上人は
御一代記聞書におっしゃっています。
善知識の仰せなりとも、「成るまじき」なんど思うは、大なる浅間しき事なり。
成らざることなりとも、仰せならば「成るべき」と存ずべし。
この凡夫の身が仏になる上は、さて「成るまじき」と存ずることあるべきか。
然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも、
「畏まりたる」と申すべく候。
「仰せにて候わば成らぬことあるべきか」と申され候。(御一代記聞書192)
善知識とは、仏教の教えを正しく説かれる先生のことです。
善知識の仰せに対してどうあるべきか。
善知識がやりなさいとおっしゃっている事に対して、
できませんということは大なる浅ましい事だと
教えられています。
とてもできないということであってでも
善知識がおっしゃることなら
必ずできるんだと思ってやりなさい。
わたしたちは自分が正しいと、はからってできませんと思う。
しかしここで求法太子はできませんなどと言っているでしょうか?
そんなことはいっていません。
会社なんかでは、上司から指示を受けると、
「え、私ですか?」
と聞く人があります。
言いかえれば、紙があってこれリソかけてくれませんか?
玄関きたないので掃除してくれませんか?
「え、私ですか…」
このように聞いているのは、私は嫌ですという
反発心のようなものです。
善知識の仰せに対して、
「はい、分りました」という心がけが大事だと
蓮如上人は教えられています。
ここで道宗は蓮如上人たいして…。
蓮如上人が道宗に対して琵琶湖の湖を一人でうめよ。
といわれたのに対してはい、かしこまりました。
そのへんの池らしきものをうめるだけでも大変です。
それを琵琶湖をうめるとは想像を絶します。
それなのに、はい、かしこまりました。
実際できるかどうかは分らない。
しかし、他の誰の指示を聞いても、本当の幸せにはなれません。
虚しい人生で終わります。
善知識のおっしゃることにできないことはない、
とうけとめていく心がけが
仏教を聞いて本当の幸せになる上で
大事ということです。
続きを読む...2018年05月09日
欲望で失敗する
このあいだ誘拐事件がありましたが
誘拐をして男の気を引こうとしたわけですが
結局その男と一緒になる事はできずに
つかまってしまったわけですから
色欲で身を滅ぼしているわけです。
あなたにも無関係な話ではなくて
大事な試験があって、勉強しなくてはならないとなると、
何だか部屋の掃除がしたくなります。
そして掃除をしていると懐かしい本が出てきます。
キン肉マンとかコロコロコミックとかが出てきて
読んでいるうちに時間がたって全然勉強ができません。
そういう、本を読みたいとかゲームをしたいというのは
欲の心ですが、試験で殺される事はありませんが
その欲望のために試験を失敗する事が
あったかもしれません。
善因善果 悪因悪果 自因自果
は宇宙の真理です。
そういうことは不幸や災難を引き起こすので、
悪なのです。
2018年05月07日
仏教を求める心がけ
蓮如上人は仏法を聞くのは心がけ一つと教えられています。
遠きは近き道理、近きは遠き道理なり。
灯台もと暗しとて仏法を不断聴聞申す身は、御用を厚く蒙りて、
「いつものこと」と思い、法義におろそかなり。
遠く候人は、仏法を聞きたく、大切に求むる心あるなり。
仏法は大切に求むるより聞くものなり。(御一代記聞書129)
遠いとは、仏法のために苦労している人のこと。
お金、時間、体力、神経を使います。
とかく、多くの人は、いかにして楽して単位を取るか、
楽して金をもうけるか。
楽して金が儲かる方法はないものかと考えています。
パチンコ屋に朝から行列。
宝くじを買う。
現代の合理主義は、仏法とは無縁です。
仏法の為に苦労をするままが、光に向かう道です。
教えの通り実行していく道です。
心がけ一つで24時間光に向かって進めます。
夜休んでいるときも、休むことで
より光に向かって進めるのなら、善いことです。
夜中遅くまで起きていることが光に向かうことではありません。
限られた時間をいかに工夫して、善い種をまくか。
心がけ一つです。
本当の生きる目的に向かうなら
『君たちはどう生きるか』も有益です。
逆にくだらない欲望や怒りのために、
貴重な時間を使ってはいないでしょうか。
遇い難い仏法にあわせていただき、
善知識との御縁がある今こそ、
雑念をはらって、光に向かって進む絶好のチャンスです。
どんなに頑張っても、しばらくしか生きておれません。
あの時もっとやっておけばと後悔する前に、
一日一日の種まきを大切にしましょう。
「恐ろしやたゆまぬ歩みかたつむり」
信一念で、罪悪の固まりが私と知らされるところまで、
徹底して浄土真宗の法話を聴聞し、
光に向かって進ませていただきましょう。
続きを読む...2018年05月05日
本当の幸せまでの3つの門
本当の幸せになるために、
通らなければならない門が3つあると言われます。
1.人界受生の門
2.値遇仏法の門
3.極楽の東門
人界受生というのは、人間に生まれるということです。
人間に生まれるということはたいへん難しいことです。
その中で、仏法に出会うのは、値遇仏法の門です。
値というのは、一生涯に一回しかない「あう」ということです。
遇というのは、たまたま会う、ということです。
東の門にぶつかります。
ブッダは、
「この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってかこの身を度せん」
と言われています。
あなた、生きている今ですよ、と言われている。
度というのは、さんずいをつけたら渡るということですが、
本当の生きる目的を達成するということです。
せっかく三門の中の一番二番を突破しているのに、
今生きている時に生きる目的を達成しなかったら、
一体いつ、生きる目的を達成するんですか、今ですよ、
ということです。
そのために、君たちはどう生きるか
ということがあります。
千載一遇という言葉があります。
千年に一度、万年に一度、ということです。
本当の生きる目的を知らされたのですから、
その達成に向かってどれだけがんばっても、
がんばりすぎるということはありません。
これ一つやらなかったら、
人間に生まれてきた甲斐がないということです。
これ以上大事なことはありません。
二つの門を越えてきたあなたですから、
いつ死んでも極楽参り間違いない、
というところまで聞き抜かせて頂かねばならない、
ということです。
必ず聞き抜いて、後悔のない人生にしなければなりません。
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