求法太子の話で教えられている大切なことの一つは、
仏教の教えを正しく説かれる先生に対して
どれだけの気持ちをもって聞こうとしているのか
ということです。
修行者は財産・地位や名誉に用事はない、
聞きたいのは私の指示にしたがうかどうかだ。
といわれ、求法太子は、
もちろんどんな仰せにもしたがいます、
といわれました。
大変な信順姿勢です。
これについて蓮如上人は
御一代記聞書におっしゃっています。
善知識の仰せなりとも、「成るまじき」なんど思うは、大なる浅間しき事なり。
成らざることなりとも、仰せならば「成るべき」と存ずべし。
この凡夫の身が仏になる上は、さて「成るまじき」と存ずることあるべきか。
然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも、
「畏まりたる」と申すべく候。
「仰せにて候わば成らぬことあるべきか」と申され候。(御一代記聞書192)
善知識とは、仏教の教えを正しく説かれる先生のことです。
善知識の仰せに対してどうあるべきか。
善知識がやりなさいとおっしゃっている事に対して、
できませんということは大なる浅ましい事だと
教えられています。
とてもできないということであってでも
善知識がおっしゃることなら
必ずできるんだと思ってやりなさい。
わたしたちは自分が正しいと、はからってできませんと思う。
しかしここで求法太子はできませんなどと言っているでしょうか?
そんなことはいっていません。
会社なんかでは、上司から指示を受けると、
「え、私ですか?」
と聞く人があります。
言いかえれば、紙があってこれリソかけてくれませんか?
玄関きたないので掃除してくれませんか?
「え、私ですか…」
このように聞いているのは、私は嫌ですという
反発心のようなものです。
善知識の仰せに対して、
「はい、分りました」という心がけが大事だと
蓮如上人は教えられています。
ここで道宗は蓮如上人たいして…。
蓮如上人が道宗に対して琵琶湖の湖を一人でうめよ。
といわれたのに対してはい、かしこまりました。
そのへんの池らしきものをうめるだけでも大変です。
それを琵琶湖をうめるとは想像を絶します。
それなのに、はい、かしこまりました。
実際できるかどうかは分らない。
しかし、他の誰の指示を聞いても、本当の幸せにはなれません。
虚しい人生で終わります。
善知識のおっしゃることにできないことはない、
とうけとめていく心がけが
仏教を聞いて本当の幸せになる上で
大事ということです。
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