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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2018年06月08日

何百年にもあえない花

大無量寿経にこのようなお言葉があります。

 

無量億劫にも値い難く見難きこと、
霊瑞華の時あって時にすなわち出づるが如し

 

霊瑞華とは優曇華の花といって、何百年・何千年にもあえないものです。
その花を見るにはその時代に生まれなければならなし、
その場所に生まれなければなりません。

 

それも花の価値などわからない私達は
滅多に見れないものだと教えられる方がいなければわかりません。

 

霊瑞華のようにあい難いのが阿弥陀如来の本願であり、
本当の仏教の先生から阿弥陀仏の本願を聞かせて頂けるのは
 

無量劫にも値い難く見難きこと、
霊瑞華の時あって時にすなわち出づるが如し。

 

これを親鸞聖人は浄土和讃にこのように教えられています。

 

如来興世の本意には本願真実ひらきてぞ
難値難見とときたまい猶霊瑞華としめしける

 

お釈迦さまがお出ましになったのは阿弥陀仏の本願を説くためであった。
ところが阿弥陀仏の本願を教えられる本当の仏教の先生にお会いするのは
滅多にさかない花のようにあうことは難しいことなんだよ
と親鸞聖人がブッダの説かれた大無量寿経の心を明らかにされています。

 

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タグ:阿弥陀仏
posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 善知識

2018年06月06日

私たちの本来の性質

親鸞聖人は無常の風に驚いて9歳の春に出家せられてより、
20年間の求道は名誉を得る為でもなければ

地位を得る為でもありませんでした。

未来永劫の地獄を逃れて絶対の幸福を得んがためでした。

 

これ一つ忘れたら世間ごとになって仏教にはなりません。

親鸞聖人は後生の一大事に立たれて、

後生の一大事の解決が

あなたが求めるべき問題にすべきことなんですよ

と私たちに教えられています。

 

どういうような名誉、

どういうような地位につくかでなくて、

後生の一大事を解決することですよ、

これ一つしなかったら仏教ではないんですよ、

と教えられています。

 

 

私達は煩悩具足の凡夫といわれて

目的を見失うのが自性といわれます。

 

石は水に沈むのが自性、
からすは黒いが自性、

どれだけ洗剤ぶっ掛けて洗っても白くなりません。

 

私たちも仏教講座に来る時は

今日こそは後生の一大事の解決をするぞ

という気持ちになるかもしれませんが、

知らず知らずのうちに他の方向に行ってしまいます。

 

何回仏教を聞く目的を確認しても

確認し過ぎるということはありません。

煩悩のビデオはこちら 続きを読む...
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2018年06月04日

あなたはいつ死ぬつもりですか?

全ての人は必ず死ななければなりません。

 

そう聞くと、まだまだ先のことだと思っていますが
実際そう思っていた人が、死は必ずやってきます。

いやむしろ突然にしかやってきません。

 

こういったのは、宗教学者の岸本英夫です。
アメリカに行った先でガン宣告

これほど、意外なことはありません。

 

死の実感として、あなたにとって、
もっとも意外な形でやってくんですよ、
と叫んでいます。

 

世界でもこうしている間に、1秒間に
8人の人が死んでいっています。

明日はこうして、明後日はこうして、
そんな計算をくちゃぐちやにさせて
一切の計算を狂わせされて、死がやってきます。

この土日で210万人です。


この中にはいってないなんてこといえません。

突然人生のピリオドを打たれてしまいます。
今死が訪れたなら、それからが死後の世界です。

 

しかし、今一息切れたら、今から死後の世界なんですが、
死後はどうなるか全くわかりません。

 

全く謎めいたところに向かって
1日生きたら1日、全く分からない未来に向っています。

 

そういう全く分からない未来に向っておりますので、
何を手にいれても安心なんてないんですね。

 

譬えていえば、乗っていた飛行機がハイジャックにあって、
俺達のアジトにいってもらう

俺達やさしいから、アジトまでは、
楽しめと言われても楽しむ事なんてできない。

 

ウルトラクイズ、ダーッと走っている最中の心は、どうか?
不安一杯です。

風船、小麦粉、自分のむかっているところが分からないと不安です。
しかし、ウルトラクイズある程度予想できます。
テレビだからめったなことはできません。

 

しかし、カイジという漫画では、
命をかけて賭博をやっています。
電流、蛇、針の山

何があるか分かりません。

 

そういう所にむかって走っていたなら、
不安で途中で止まってしまいます。
躊躇すると思います。

本当に安心することもできなければ、安心もできません。

その死後の世界に何があるのか?

 

仏智を体得されたブッダは、
因果の道理にもとづいて
大変な一大事があるんだと教えらています。

 

それが後生の一大事です。

 

この後生の一大事を解決してこそ

心からの幸せになれるのです。

ではどうすれば後生の一大事を解決できるかというと、

それは仏教に教えられています。

 

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2018年06月02日

天台宗と浄土真宗どっちがいい?

三重廃立の二つ目は聖浄廃立です。
仏教に聖道仏教と浄土仏教の2つがあります。

浄土真宗を開かれた 親鸞聖人は9歳で出家されて天台宗僧侶となり、

29歳まで20年間、大変なご修行をされました。

 

滝に打たれたり、雪の中を走り回られたり、
大曼の難行という大変厳しい修行をされました。

 

それでも後生の一大事の解決はできませんでした。

 

口や体は心が命じるままに動きます。

口や体で悪を作らないようにしようとされました。
当時、源氏と平家が戦って、平家が敗れました。
敗れた平家は源氏から逃れるために比叡山に入りました。
比叡山は女性とか、武士が入れないようになっていました。
治外法権です。

 

それらの者は後生の一大事など関係無く、

命惜しさに比叡山に入って
修行の真似をしているだけです。

 

それで夜になると京都の町に下りて行って遊び、
朝、比叡山に帰ってくるものですから、
修行というより居眠りばかりしていました。

 

そんな者を親鸞聖人は見られて、
人間の目をごまかすことはできても、
仏様の目をごまかすことはできない。

 

自分だけは戒律を守り抜いてみせると修行されました。

 

ところが仏様とは見聞知のお方です。
私達の思っていることすべて知っておるぞ。
しゃべっていることをみんな聞いておるぞ。
やっていることを見ておるぞ。
これが見聞知です。

 

親鸞聖人は自分だけは戒律を守って見せると頑張られましたが、

見ざる、言わざるのサルは制御できましたが、
思わざるのサルはどうすることもできませんでした。

 

お経を読んでいても女性の顔が浮かんでくる。

修行をしていても女性のことが思えてくる。


落ち武者達は体でやっておるから、満

足して心で思わないこともあるが、
親鸞は心で思い続けているではないか。

 

平家の者よりも劣るのではないかと気づかれたのです。
比叡山から琵琶湖が見えますが、

その琵琶湖の水のように心が静まらないものか。
湖にうつった月のように、さとりの月が拝めないものかと泣かれました。

 

このように親鸞聖人でもさとりが開けないのですから、

聖道仏教では絶対に助かりません。

 

これは方便仏教です。
親鸞聖人は20年間やってみてそれがよく分かった。
だから聖道仏教を捨てて、

浄土仏教を信じよと聖浄廃立を教えられたのです。

 

聖浄廃立とは、

聖道仏教は助からないから捨てよ、
浄土仏教に入りなさい

ということです。

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タグ:浄土真宗
posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2018年05月31日

仏教書に説かれた本当の生きる意味

人は何のために生きるのでしょうか?
ほとんどの人は、働く意味生きる意味もわからず
虚無感に満ちた不条理な人生を送っています。

 

ところが仏教では、生きているときに、
変わらない幸せになれると教えられています。
それが本当の生きる意味です。

 

たとえば、日本で最も読まれている仏教の本である
歎異抄にはこうあります。

 

「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、
念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給うなり。
歎異抄

 

弥陀の誓願とありますが、弥陀とは阿弥陀仏のことです。
阿弥陀仏と本師本仏といわれ、大宇宙には仏様は
数え切れないくらいおられますが、その十方諸仏の
先生の仏様が阿弥陀仏です。

 

誓願とは本願のことで、お約束ということです。
阿弥陀仏がすべての人を摂取不捨の身に
必ず助けると約束しておられます。

 

その阿弥陀仏の誓願通りに助けられたことを
「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて」
と言われています。

 

往生とは極楽に往って仏に生まれることをいいます。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」

とは、いつ死んでも極楽に往って仏に生まれること間違い無し
と定まったことをいいます。

 

「念仏申さん」と言われている念仏とは、
救われた後のお礼の念仏です。

 

お礼の言葉にも色々あります。
アメリカ人にはサンキュー、中国人には謝謝。

阿弥陀仏にお礼を言う時は南無阿弥陀仏といいます。
サンキューでも謝謝でもダメです。
メルシーもダメです。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお礼の念仏を称えるのです。
そういうお礼の念仏を称えようという心が起きた時が救われた時です。

 

この時が摂取不捨の利益にあずかる時であり、
念仏者は無碍の一道なりという身になった時です。

 

この身になることが本当の生きる意味です。
この世界に出させて頂くまで生きなければなりませんので、

君たちはどう生きるかというベストセラー本で論じられているような
生き方が大切になってくるのです。

 

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2018年05月28日

歎異抄の念仏者は無碍の一道なり

親鸞聖人は、難度海の人生を明るく渡す大きな船があるから、
早く乗れよと教えておられます。

その大きな船に乗ると絶対の幸福になれます。

 

絶対の幸福については、

歎異抄に、
「念仏者は無碍の一道なり」歎異抄

と教えられています。


無碍の一道とは、

一切が碍りにならなくなった世界のことです。
摂取不捨の利益と同じ世界です。

 

 

では、念仏者とはどのような人をいうのでしょうか。
ただ念仏を称えている人のことなのでしょうか。
念仏を称えていると言っても色々あります。

 

夜、火葬場の近くを通って怖くなった時に念仏を称えることがあります。
肉親が死んで悲しい時に念仏を称えることもあります。
役者が台本に書いてあるため称えることもあります。
そのような人を念仏者と言われたのではありません。

 

間違えないように次に念仏者のことを

次に「信心の行者」と言い換えておられます。

 

信心の行者とは、摂取不捨の利益に救い取られた人をいいます。
そのような身になって念仏を称えている人を念仏者と言います。

 

その念仏者は一切の碍りが碍りとならない無碍の一道に出られます。

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タグ:念仏 歎異抄
posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2018年05月27日

なぜ生きるかとどう生きるか

なぜ生きるのかということは
別の言葉でいうと生きる目的のことです。

 

「なぜ生きるか」に対して、
当然問題になってくるのが
「どう生きるか」です。
君たちはどう生きるかという本も
ベストセラーです。

 

歩くことで言えば、

どう歩くかという歩き方です。

 

走ることでいえば走り方です。

先日、オリンピックでマラソンを見ていましたが、
色々な走り方をする人がいます。

 

目的はゴールにたどり着くということですが、
走り方はさまざまです。

 

では走り方だけで、走る目的地がなかったらどうなるでしょうか。

走り倒れになってしまいます。

 

それと同じように、生きることも、

どう生きるかということも大切ですが、
なぜ生きるかはもっと大切です。

どこまでいってもどこにもたどりつかずに

やがて死んでしまいます。

 

まるで死を待つだけの人生になってしまいます。

ですから、生きる目的は生きて行く上で

非常に重要です。

 

なぜ生きるかの生きる目的について
ブッダはどのように教えておられるのか
聞いてみましょう。

 

「人身受け難し今已に受く
仏法聞き難し今已に聞く
この身今生に向かって度せずんば
さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」

 

生まれ難い人間に生まれることができてよかったという
生命の歓喜を教えられています。
このような身になることが生きる目的です。
そのために生きているのです。

 

その本当の生きる目的仏教に教えられています。

 

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2018年05月25日

火葬場の煙が今日も立つ

「鳥辺山昨日の煙今日も立つ眺めて通る人もいつまで」
という歌があります。

 

鳥辺山とは火葬場のことです。
いつも鳥辺山のふもとを通る人が、
ふと見てみると火葬場から煙が上がっていました。

 

昨日、通ったときも煙が上がっていました。
今日も人が焼かれているのだなあと思って通っていますが、
いつまで人の焼かれる煙を見ていられるでしょうか。

 

この世は無常の世界です。

やがで自分が死んで焼かれる煙を、
人に見られる日がくるのです。

 

毎日、テレビのニュースを見てみると、
交通事故、工場の爆発で、沢山の人が亡くなっています。
いつまで他人の事故を見ていられるでしょうか。

 

いつかは自分が死ぬニュースを人に見られる時が来るのです。

鳥辺山まで行かなくても知らされることです。

 

では、必ず死ぬのに生きる目的は何でしょうか?

この不条理な人生の意味が、

仏教に教えられています。

 

 

 

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posted by 陽葵 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2018年05月23日

夢と消えるのは人生、本当だと知らされるのは仏教

白骨の章に

「幻の如くなる一期なり」

と教えられています。

「一期」とは一生のことです。

幻の如くなる一期とは、人生は夢幻のようなものだ

ということです。

邯鄲の夢のように人生は夢のように過ぎ去ります。


これから50年というと長いように思いますが、
過ぎた50年を振り返ってみると夢のようなものです。

 

君たちはどう生きるかという本が売れていますが、

どんな生き方をしても儚い人生です。

 

 

現実と思っているものは夢のように消えて行きますが、

反対に仏法は、時間がたつほど本当だったと知らされます。

 

この世のことは絶対間違いないように思います。
現在50万円儲かったやないか、これが現実だと思いますが、

過ぎてしまえば何だったのかと思います。

 

反対に仏法は、聞いている時はおとぎばなしのように思いますが、

時間が経つにつれ、本当だったと知らされます。

 

「されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや」

 

一万歳まで生きたという人を聞いたことがありません。
せいぜい百歳です。

一生過ぎ易し。

光陰矢の如しで、あっという間に終わります。

 

本当だと知らされるのは仏教です。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2018年05月21日

癌を告知すると……?

癌を告知すると寿命が縮まるといわれます。

 

癌を診断した時点であと2ヶ月とかわかります。
そのときに自分が死ぬとは思っていない。
家族、本人にいうと、死ぬのが怖いことから、
寿命が縮まるといわれます。

 

そんな私が死を宣告されるときが必ず来ます。
100パーセント確実にやってきます。


そして死は確実な問題というと大分先のように思います。
そうではありません。

私たちはいつ死ぬかわかりません。
死は、すぐそこにあります。

 

仏教では
出息入息不待命終
と教えられています。

 

吸う息吐く息に触れ合っているのが後生です。
死は今の問題です。

紙の裏と表表のすぐそばに裏がある、生と死は触れ合っている

この仏教の死生観真理です。

死は生にふれあっています。

 

人の後生じゃあるまいに

なぜに解決のつくまで求めないのか。
導く人が悪いのか、
求める人がいないのか、

 

死は確実な未来なのに、
他人事だと思っているからです。

 

後悔のないよう、無常をみつめ、

仏教講座に足を運びましょう。

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posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常