大無量寿経にこのようなお言葉があります。
無量億劫にも値い難く見難きこと、
霊瑞華の時あって時にすなわち出づるが如し
霊瑞華とは優曇華の花といって、何百年・何千年にもあえないものです。
その花を見るにはその時代に生まれなければならなし、
その場所に生まれなければなりません。
それも花の価値などわからない私達は
滅多に見れないものだと教えられる方がいなければわかりません。
霊瑞華のようにあい難いのが阿弥陀如来の本願であり、
本当の仏教の先生から阿弥陀仏の本願を聞かせて頂けるのは
無量劫にも値い難く見難きこと、
霊瑞華の時あって時にすなわち出づるが如し。
これを親鸞聖人は浄土和讃にこのように教えられています。
如来興世の本意には本願真実ひらきてぞ
難値難見とときたまい猶霊瑞華としめしける
お釈迦さまがお出ましになったのは阿弥陀仏の本願を説くためであった。
ところが阿弥陀仏の本願を教えられる本当の仏教の先生にお会いするのは
滅多にさかない花のようにあうことは難しいことなんだよ
と親鸞聖人がブッダの説かれた大無量寿経の心を明らかにされています。
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