御文章1帖目12通に、
「信心の沙汰をせよ」
と教えて下さっている
蓮如上人のお言葉があります。
しかるに当流において毎月の会合の由来は、何のようぞなれば、
在家無智の身をもって、いたずらにくらし、いたずらにあかして、
一期はむなしくすぎて、ついに三塗にしずまん身が、
一月に一度なりともせめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて
「わが信心はひとの信心は如何あるらん」
という信心沙汰をすべき用の会合なるを
近頃はその信心ということはかつて是非の沙汰に及ばざるあいだ
言語道断あさましき次第なり。
所詮自今已後はかたく会合の座中に於て信心の沙汰をすべきものなり。
(御文章一帖)
せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、
「わが信心はひとの信心は如何あるらん」
という信心の沙汰をすべきものなり。
在家というのは、出家していない私たちです。
無智というのは、生きる意味がわからないで、
人生を無駄に過ごしてしまう私たちのことです。
生きる目的がわからないで、
毎日何となく時間を過ごして、
一生があっという間に過ぎ去ってしまいます。
一休の歌にも、
人生は喰て寝て起きて糞たれて、子は親となる、子は親となる
とあります。
朝起きて布団をあげて、顔を洗って、
御飯を食べて、仕事をして、
家に帰って、御飯を食べて、布団を敷いて、寝て、
また朝起きて、布団をあげて、…、
結局この繰り返しで人生が過ぎていきます。
信心の沙汰とは、本当の生きる意味を説かれている仏教の話ということです。
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