アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2018年10月14日

やる気出せよ

「おい○○、今日は2時半から練習あるから来るんだぞ…。」
○○とは、剣道部のキャプテンである。私に用事で、たまたま職員室に来たところを、顧問に呼び止められた。

先日の新人戦は、とりあえず責任を果たすということで、大会には参加した。しかし、「心はすでに剣道部にはあらず」、あれから一度も部活には行っていない。このときも、返事をすることなく、逃げるように職員室から去っていった。

「辞めるなら辞めないと、いろいろな人に迷惑をかけるぞ…。」
と話をしているのだが、怠けた生活が続いた彼にとっては、何もかもが「めんどくさい」らしい。

今朝も、私の部の練習に誘ったが、「眠いから…」と断られた。

本当はもっとパワーがあるはずなのに、それを引き出せないでいるのは、我々教師である。
部活が盛んで、当たり前のように毎日活動している学校ならば、こんな生徒は一喝されて、しぶしぶ何らかの活動をする。

しかし、当たり前に部活動ができないような学校だと、こんな生徒ばかりになるのか。

部活も中途半端だから、勉強も中途半端。
すぐに「疲れた」と言い、ちょっとでも面倒なことは、決して自分からはやろうとしない。
普段の単語テストでも、漢字テストでも、合格ギリギリを目指すから、結局合格できない。
不合格だった生徒向けの、再テストは逃げる。その課題もやらない。

学校として、何かボタンの掛け違いをしていないだろうか。
学校生活の中で学ぶべきことはたくさんある。

そうした「やる気の失せたように見える生徒」ばかりを集めて、放課後に補習をしている。
うまく、それに逃れた生徒は、コンピューターでゲーム中継の動画を見てニヤニヤしているのだ。

「生徒をその気にさせる。」ためには、教員としてのパワーが必要だ。
担任は、必死でクラスを理想の方向へと導こうと格闘する。
そこで、周りの先生が白けてしまったら、元も子もない。
学校も、同じ理想に向かって進んでいかなければ、あちこちからほころびが生じる。

「もう一踏ん張りしなくっちゃ…。」
と、自分自身を鼓舞しつつ、目の前の問題を一つひとつ解決してゆこう。

我々教員が、元気もりもりであってこそ、生徒にも元気がよみがえってくるはずだ。

「やる気出せよ。」
と、生徒に言いながら、自分自身に言っていることに気づく…。

最大の苦しみは、『愛別離苦』

仏教では、この世は苦しみの世界とする。
苦しみとは、思うようにならないことのこと。
そう考えれば、確かに人生苦しみの連続である。
その中で、『四苦八苦』という言葉がある。

四苦は、『生』・『老』・『病』、『死』、これに『愛別離苦(あいべつりく』、『怨憎会苦(おんぞうえく)』、『求不得苦(ぐふとくく)』、『五陰盛苦(ごおんじょうく)』を加えて四苦八苦という。

私はこの中でも、特に『愛別離苦』が苦手である。
『愛別離苦』とは、『愛する者と別れること』。
だから、私は卒業式が大の苦手だ。

毎年、卒業式が近づいてくると、何となく学校全体に『悲しみ』の波動が漂う。
生徒たちにとっては、『喜び』であろうが、一部には先生たちの別れの『悲しみ』もある。
先生たちは、卒業することで、「ほっと胸をなで下ろす」わけだが、私はどうしても、この別れの悲しみが辛い。

「先生は、高校の担任をやらないんですか?」
何度となく、生徒に尋ねられる。しかし、決まって私は、
「高校の担任をすると、卒業式が本当の別れになってしまうから、別れが辛いので絶対にやらない。」
などと、答えることにしている。

中学校を卒業しても、中高一貫なので、ほぼそのまま高校へ進学する。だから、中学の卒業式は、一つの通過点のような感じになる。それでも、中3の卒業式には、
「あの入学したての生徒が、ここまで成長したか…。」
と、感無量になり、涙を誘う。
中学で「これ」なのだから、高校であったら、その思いは計り知れない。
もちろん、卒業することが、永久の別れというわけではない。どこかで会うこともあろうけれども、何ともいえない、しかしとてつもない大きな悲しみが、私を覆い尽くすのだ。

「頼むから、知らない間に『すっと』いなくなってくれ。高校の卒業式は出ない。謝恩会も行かない。」
などと、生徒には宣言している。どうやら、私は、「高校生になって、中学よりは関係が薄くなって、私が気がつかないうちに、さっと卒業してくれたら、悲しみに傷つかなくて済む。」、と思っているらしい…。

それでも、教え子たちは、
「先生には、絶対に出てもらいますから…。」
彼らは、やる気満々である。これまで何度、こんな会話を繰り返しただろう。

私が前回、三年間担任やら、学年主任をして卒業させた生徒は、現在高校2年生。
来春の卒業式ではない。しかし、それでも時折、
「先生、卒業式に出て下さいよ。」
などと声をかけてくる。
「嫌だ。君たちのお礼参りは勘弁。」
などと、逃げ回っている。

以前、
「さよなら。これまでありがとうございました。」
というメモだけを残して、学校を去っていった(退学した)生徒がいた。

ただただ泣き崩れ、ふて寝するしかなかった。
その朱鷺のことを、今でも鮮明に思い出す。そして、思い出しながらでも、涙があふれてくる。

教員を続けている限り、他の仕事よりも、『愛別離苦』が何度も訪れる。
そのたびに、自らの非力に打ちひしがれ、悲しみの淵に佇む。

結局は、「悲しみ」といいつつ、「自分には何もできなかった」という後悔の思いなのだろう。
だがやっぱり、『愛別離苦』は苦手だ。

これが私の人生最大の苦しみである。

2018年10月13日

駅伝の壮行会

今朝、来週末に迫った地区の駅伝大会の壮行会が行われた。
駅伝の壮行会は今年が初めてだ。

特設メンバーながらも、こつこつ走って実力をつけている。
夏休み前、そして夏休みの朝練と、練習を重ねている近隣の学校には遙かに及ばないが、うちはうちなりに、よく努力していると思う。

「駅伝の壮行会をやろうよ!」
と、私は以前から勧めていたのだが、なかなか実現できずに何年も経ってしまった。
それが今年、やっと実現した。

昨年は中3が不真面目だったので、当時の陸上部の先生が、駅伝メンバーから中3を外した。学校によっては中2と中1だけのメンバーもあるが、中高一貫で受験をほとんど意識しない私の学校では、中3が参加しないと、なんとなくしらけてしまう。だから壮行会がやりにくかったのだ。
「精鋭たちが、こつこつ努力して、練習して、選手として学校の代表として戦う」
というスタイルは貫きたい。

だが、今年は違った。中3から中1までが、壇上に上がり紹介され、代表選手が挨拶した。
なかなか立派であった。

中学校だけの壮行会なので、高校生は参加していないが、外された去年の中3、つまり今年の高1がこの様子を見たら、何を思っただろう。

と同時に、「参加したくない」とだだをこね、メンバーから外れていった情けない現中2の連中は、この壮行会をどう見ていたのだろうか。来年は君たちがメインだぞ。

小規模の学校では、全校生徒が選手として参加する。
「学校単位で競うのは、止めて欲しい…。」
というそうした学校の教員の声も聞こえてくる一方で、各校の校長は張り切っている。
「今年も県大会は逃さないぞ。」
とばかり、校長同士が競い合う。
この地区、トップクラスの学校は、全国まで行く。
そういうハイレベルなので、盛り上がりがすごい…。

来週の駅伝。今年も選手だけの参加だ。
校長も応援に行かなそうだし、全校応援には、まだまだほど遠い。

そうだ、全校生徒で駅伝練習すれば、全員で応援に行けるかな。
そうするとまた、「うちの子に無理矢理やらせて…。」と、クレームかな。

「落ちますか?」、「上がれますか?」

中間考査が終わった。

私の学校では、数学は習熟度別クラス授業が行われ、進んだクラスからα、β、γと決めている。私が担当しているのはαクラスだ。

休み時間になって、「あ〜、落ちた…。」と叫ぶαクラスの生徒。βやγクラスの生徒から見れば、あまりいい気持ちはしないだろう。だから、「試験後、そういう言葉は出さないように。!と、授業中、さんざん注意しておいたのだが、残念ながら今年の中1には効かなかった。

最近でこそ、いろいろな学校で習熟度クラスが行われている。しかし、以前は一部の私立学校でしか行われていなかった。『差別的』というのが、大きな理由だろう。当時私は、「その生徒の学習度合いに沿った授業を行って、分かる授業が展開できるのに、どうしてそれが差別なのだろう。」と思ったものだ。「一律一斉授業こそ平等なのだ。」と、皆が信じていた時代があったということだ。分からない授業を黙って座ってることは拷問でしかないので、生徒の実力差が大きい場合は、習熟度クラスに分けて授業をすべきだと思う。

一方、βやγクラスの生徒は、
「先生、俺、上がれますか。」
と、来る。私は彼らの採点をしていないので、何点取ったか分からないので、
「まぁ、代数も幾何も90点以上だったら、クラスが変わる可能性が高いと思うよ。」
などとはぐらかす。

クラスが上がるということは、「まだ習っていない部分が、すでに授業では終わっている」ということが起こる。実際今年の中1では、αクラスは連立方程式が終わっているが、βクラスはこれから学習するし、中2に至っては、αクラスは二次関数と三平方の定理が試験範囲だったが、βクラスは因数分解と平方根の計算、相似分野だった。となると、クラスが上がると、勉強していない分野があり、これをどこかで授業以外で補講してしなければならない。

ちなみに、私の学校では習熟度別で試験問題も違う。以前は50%の共通問題があったが、今はそれもない。完全に独自の問題である。αクラスは高校で一年の前倒しを目指しているので、学年内容だけ学習しているγクラスとは、それこそ世界が違う。なお成績は、多少の妥協もあるが、保護者から求められても、納得してもらえる方法で、うまくつけている。

「γクラスに落ちちゃうかも〜。」
などと、αクラスの生徒が叫んだ。

勉強が進んでいる者の何気ない言葉が、他の人を傷つけてしまうことがある。だから、たとえ本心であっても、言葉を慎まなければいけないことがあるということだ。「何だ、こんな問題も解けないのかよ。」という類いと同じである。だから、αクラスで学習してるならば、そうした他の人への配慮あってこそのαクラスであって、当然その義務が生じる。

中学生に求めるのは難しいのかも知れないが、私は妥協せず、ずっと言い続けている。
「αクラスにいるということは、相応の責任が伴うんだよ。」
と…。

2018年10月12日

初めての時間割係

最初に専任として勤めた学校の校務分掌は教務の時間割係だった。
時間割係には大きく二つの仕事があり、一つは年間時間割の作成。もう一つは、日々の自習監督の割り当て。その学校では、補充授業と言っていたが、要は、「休んだ先生の代わりに自習監督を割り当てる」というもの。

休みの先生の時間割を見て、その時間空いている先生を探し、その先生に補充をお願いする。必要があれば、時間割を入れ替え、同じ教科の先生が担当できるようにする。新人で、先生方の顔と名前が一致していない中、この仕事は結構重たかった。

「数学科卒なのだから、時間割のコマを動かすのはお手のものだろ。」
などと持ち上げられてこの時間割係についたのだが、当時、「○○先生お休みです。」という連絡が怖かった。

時間割表を見て、「さっと」監督の先生を決める。そして、おそるおそる
「○○先生、大変申し訳ありませんが、□時間目、補充をお願いできませんか?」
と交渉。

「俺、嫌だよ。今日は忙しいんだよ。」

そう、言われると、若い私はなかなか押し切れず、次の候補を探す。
「この間やったばっかりじゃないか。俺ばっかり頼むなよ。」
などと、怒られることもあった。

だから、私は、誰が何回補充をしたかを一覧表にもした。
「今月は初めてです。」
と押し切る。

その後、この補充には手当がつくようにもなった。

この仕事は、担任になるまで何年間か続いたが、慣れてきた頃は、
「○○先生」
と言うだけで、OKや拒否が分かった。

「大変だね。みんなに頼んで回って…。」
と言って下さる先生もいれば、
「4限はだめ。家に帰ってお昼食べるから…。」
「その時間は病院。ボク定期的に病院に行かないと、死んでしまうんだ。」

などなど、あり得ないような理由が認められていた不思議な学校だった。

後に、時間割係は、年間の時間割を作る時間割作成係と、自習担当を決める補充係に分かれ、私は補充割り当ての方からは解放された。

もしかしたら、若手の教育のために、私をあえてこの仕事につけたのかな、 と思う。
すぐに全先生の顔と名前が一致したし、性格も把握できたし、声のかけ方も工夫することができた。
いずれにせよ、鍛えられたことは事実。
苦しい仕事でも、実になるものはある。

「えーまた俺ですか?」
などと言いながらも、その後ニコッと笑って、
「大丈夫、大丈夫。稼がなきゃね。」
と、引き受けてくれるようになった頃、この分掌から外れた。

先輩諸氏は、コミュニケーションとして一言を加えていたようだが、当時は、そんな風には思えなかった。
「一言余計なんだなぁ…。」

若手への言葉かけ、気をつけねば…。

2018年10月11日

三角形の合同条件の文章

昨日、使っている中高一貫用教科書の編集者であるMさんが来校した。
Mさんとは、もう10年以上のおつき合い。一年に一回くらいは、わざわざ私の勤める田舎の学校にお越し下さり、いろいろな情報をお持ち下さる。
ただ最近、お話ししていないので、健康状態を心配していたのだが、
「まだ、生きてますよ。」
と満面の笑顔で待っていてくださった。

今回Mさんは、『三角形の合同条件』について調べてきて下さった。
実は、この教科書には、
 3辺がそれぞれ等しい。
 2辺とその間の角がそれぞれ等しい。
 1辺とその両端の角がそれぞれ等しい。
と書かれている。
ところが、昨今の検定教科書は、
 3組の辺がそれぞれ等しい。
 2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい。
 1組の辺とその両端の角がそれぞれ等しい。
とある。

公立中学校では、教科書通りに覚えさせているので、この件に関して、どうお考えですか、という問い合わせをしていたのだ。

ちなみに私は、検定教科書通りで指導している。(三角形の合同条件を覚える

結局いろいろと調べて下さったけど、結論は出なかった。
要は、重鎮の編集者が、「どうでもいいんじゃないの?」と思っているのである。
確かに、大昔は「三辺相等」、「二辺夾角相等」、「二角挟辺相等」と言っていた。
実は、検定教科書でも、「3組が…」がついたのは、教科書会社によってまちまち。教科書会社によって実に10年の時差がある。
「相似条件に引きずられて、○組がついた」、という説。
「それぞれを抜かしやすいから、○組をつけた」、と言う説。
「いや、○組とそれぞれは意味が重なるのではないか」というご意見。
いろいろとお聞かせ下さったが、結論は出ていない。

「公立学校からおいでになった先生からすると、大問題になるようだ。」
というお話はしておいた。また、さまざまな、模試の模範解答も、検定教科書と同じであることは、以前からお伝えの通り。

「模試で減点されることはないのではないか。」
と、Mさん。
「公立中学の定期試験では減点でしょうね。」
と、私。

「証明の中に、それぞれの合同練習について@ABと書くか」
「証明終わり? QED 何もなし?」
など、統一されていないことがらも多い。

しばらく、ややこしい状態が続きそうである。

2018年10月10日

「戦闘シーンが面白い」だと

桃花鳥(とき)が七羽に減ってしまったと新聞の片隅に
写りの良くない写真を添えた記事がある

で始まる、さだまさしの『前夜(桃花鳥 −ニッポニア・ニッポン−)』という歌に、次のような歌詞がある。

どこかの国で戦さが起きたと
TV(テレビ)のニュースが言う
子どもが実写フィルムを見て
歓声をあげてる
皆他人事(ひとごと)みたいな顔で
人が死ぬ場面を見ている
怖いねと振り返れば
番組はもう笑いに変わってた

さだまさしは、この曲で、ニッポニア・ニッポンという学名を持った日本産の『とき(朱鷺』の絶滅を危惧しながら、「この国の未来についても危ういのでは…」という問題提起をしています。(私の勝手な解釈)

今でこそ、戦争や紛争で、人が死んでいくシーンはテレビでは流れなくなっているが、以前は、結構悲惨なシーンが、お茶の間に流れていた。大戦を経験した日本人に、戦争の悲惨さを知らせるための、マスコミの一手段であったかもしれないが、その後「垂れ流し報道」は、規制されていく。

しかし今では、動画サイトで悲惨な実写シーンを見ることができるし、ゲームの世界では、毎日、戦闘と殺戮が繰り返させていると思う。

だから生徒も、そうしたシーンは珍しくなく、「殺さなければ殺される状況下」に慣れ親しんだためか、すぐに口をついて、「死ね」という言葉が飛び出す。

昨今の小学生は、挨拶代わりに「死ね」を使っているふしもあるが、この言葉は、日常の中で使ってはいけないと思う。

中には、戦闘シーンで人が死んでいく様をみて、ケラケラ笑う生徒もいる。
「何が面白いの?」
と、不満を込めて尋ねると、
「だって、人が死んでいくんですよ。血を流して、死んでいくんですよ。楽しいじゃないですか。」
と返ってきた。

「人が死んでいくことって、楽しいことなの?」
「俺は、苦しんで死んでいく姿を見るのが面白いんです。思わず笑っちゃうんです。」
だと。

さだまさしが憂えた日本。この曲の発表が1982年だから、もう36年経つ。

子供たちの心の中には、左翼思想の理想とは反対のものが、起こりつつあるのかも知れない。

試験前の人気者

試験直前になると、生徒たちは、先生に質問に押しかける。
私のような、厳しく聞きにくい先生ではなく、若手の優しそうな先生を目指して、
「先生、教えて下さい!」
と、アタックする。

何を聞いても叱られることない、若手の先生は、このときばかりはと生徒の人気者。
職員室前の一角は、そうした生徒と先生の一大サロンと化す。

「先生、どうしてですか? どうやるんですか?」
女子生徒に囲まれた○○先生も、まんざらでもなさそう…。

「俺は、試験前に、わざわざ質問なんか受け付けないんだ!」
退職された大柄の先生の言葉を思い出す。

「分からないことがあったら、授業中に聞けばいいんだ。そういう時間も取っている。」
とも…。

「だいたい授業に来てない奴に、どうして試験前にもう一回授業をしなければいけないんだ。」
教育のサービス業でもあるが、授業はほとんど休んで、家で寝ていて登校しないで、試験前だけ来て、勉強教えろ、というのも、ちょっと違うかな、と思う。
そういう生徒に限って、
「先生、ここ試験に出ますか?」
とくる。

「お前ら、試験に出ないと言ったら勉強しないのか。」
という思いが、ふつふつ湧いてくる。
私はこの質問は、試験直前は禁句にしている。

何だか、楽しそうに、若い先生と一緒に勉強している生徒は、結局、自分自身では勉強できないタイプなのだ。集中力も続かず、一人でもできず、友達同士で誰かの家に集まって、お菓子を食べながら、わいわい、きわめて非効率な勉強をしている様と、少し似ているかも知れない。

「ぎゃはははは…。」
彼らの笑い声が聞こえてくる…。
「おいおい、本当に勉強してるのかよ。」

「まずは、こうやって人間関係を構築していく方法もありかな…。」
と、昭和の老害は、ため息をつく…。

試験問題の扱い

今日から中間考査。私は教務なので、今朝は監督の先生に試験問題を配った。

この試験問題の扱い、各学校で保管の仕方が異なる。
私は何校かの学校を経験しているが、そのいずれも特徴的だった。

私の母校でもあり、最初に非常勤講師を務めた学校では、問題用紙を巻物のように、くるくるっと巻いて、その状態でロッカーに保管されていた。長く保管された問題や解答用紙は、丸まっていて、実際の試験の時には、紙が丸まっていて書きにくかったことを覚えている。

この答案、監督者は、表紙をつけて、大きなホッチキスでガチンと止める。その状態で作問者に渡された。作問側としては、ホチキスで止まっているので、ばらばらになる心配はないが、やはり採点はしにくかった。答案返却時に、ホチキスの針を抜くのがかなり面倒だった。

次に勤めた学校では、問題用紙は、再生封筒に入れられて保管されていた。封筒に入れるのだから丸まってしまうことはないが、実はその封筒はB4サイズは入らない封筒だったのである。だから、問題用紙は、半分くらいにかるく曲げられて、その封筒に入っていた。生徒に配る時は、何となく、ふにゃっという感じの用紙になってしまっていた。

集められた答案は、千枚通しで穴を空け、こよりで縛られた。さすがに千枚通しでは効率が悪いということで、途中から機械式の千枚通し(?)が導入されたが、採点のしにくさと、ブスッと穴を空けてしまい、答案同士がくっついてしまうのは、何となくなじめなかった。

今の学校でも、問題は封筒に入れる。この封筒は曲げずに B4サイズ入るので、A3で印刷されていなければ、解答用紙が折れることもない。答案は、そのまま封筒に入れたまま、作問担当に渡される。
試験監督の先生が、きちんと集めてくれれば、順番通りに封筒に入っているわけで、閉じていないので、一枚一枚の採点はしやすい。私としては、今の方法が一番すっきりしている。封筒ごと保管もできるし、何より答案に穴が開かないのがいい。

答案を綴じるという文化は、おそらくは答案紛失を未然に防ぐ、という目的から発生したものだろう。
昨今は、別室受験などもあり、試験終了直後に、綴じてしまうことは難しくなってきた。と、同時に、答案がなくなってしまうという事例も、起こっていないのだと思う。

以前、戻ってきた答案が、生徒の名前が書いてなかったり、表裏、天地がめちゃくちゃだったり、ということもあったが、これは監督者の怠慢だ。当時、考査の時間割を作っていた私は、二度とその先生に私の試験の監督はつけなかった。

答案話題で、もう一つ。今朝、新人の先生がベテランの先生に注意を受けていた。
「生徒の人数、ぴったりの枚数では、印刷ミスなど、何かあったときは困るではないか。問題用紙は、人数+2、3枚余分に印刷しておくのだ。」

「しまった、その先生の試験問題の内容はチェックしたが、印刷の仕方まで教えていなかった…。気が回らずに、申し訳ない。」

学校現場でも、表には出にくい暗黙の約束事がたくさんある。

私も、先輩諸氏に叱られ、注意されて覚えたものだ。

2018年10月09日

『勉強した?』という質問

「睡眠時間が8時間。十分すぎるほどの時間だね。そこに一日8時間勉強したとして、まだ8時間残っている。お風呂と食事で8時間はかからないね。だから、8時間勉強することは、勉強中心の生活をするなら、全然難しいことではない。誰でも可能だったわけだ。」

「昨日までの連休、明日からの中間試験に備え、勉強に明け暮れた人は、ほぼ一日中勉強している。中には10時間くらい勉強している人もいる。その一方で、連休中、30分や一時間くらいのしか勉強していない人もいる。」

「これじゃ、成績に差が出ても当然だ。成績が低いからって、神様が意地悪なわけではない。もちろんたくさん勉強した人は、応援されて、いいことがあるだろう。そうでない人は、そうなるべく行動したわけだから、やっぱり自分の責任。一切の言い訳はできないね。」

「『勉強した?』って、人に聞く人は、勉強していない人だよ。自分が勉強していないことに、不安と少しの罪悪感があるから、他の人に中に、自分と同じ仲間がいるかどうかを確認したくて、聞くんだ。」

「だから、『勉強していない』って、答えられると安心する。ここにも勉強していない人がいたんだ、って、確認できたからね。ところが本当は違う。」

「本当に勉強している人は、『勉強した』とは言わない。どちらかというと、『勉強していない』と言うことが多い。それは、『勉強した』と言うと、自分が勉強していることを、人に自慢しているようで、嫌だからだ。だから、勉強した人も、勉強していない人も、『勉強してない』と答えることになる。」

「だから、勉強したかどうか、尋ねた人は、試験が終わって結果が出てくると、愕然とする。『あいつ、勉強してない』って言っていたのに…、となる。」

「また、本当に勉強している人は、他の人に、『勉強した?』とは聞かない。そういう人は、たとえ『勉強していない』と答えられたとしても、『本当は勉強しているに違いない』、と思うだろうし、また、『そんなはずはない』とも思うから、そもそも、こうした質問をすること自体意味がないということを知っているからだ。」

試験前には、教室内で、こうした心理戦が繰り広げられる。
勉強していていない人は、自分が勉強をしていないことを一番よく知っている。周りに勉強している人が沢山いると、焦りの気持ちにはなるが、突然試験前にやり気になるわけではなく、直前にやっても、さしたる成果は出ないことも知っているから、結局は、大して勉強することなく試験を迎えることになる。

「『勉強した?』なんて、友達に聞くなよ。勉強しない者同士、お互い傷口をなめ合っても、何もいいことはない。それにこの質問は、『私は勉強していません』と、皆にアピールしているだけなのだから、結局は恥ずかしいことを言っているということだ。」
ファン
検索
<< 2023年09月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
丹澤三郎さんの画像
丹澤三郎
プロフィール
リンク集
おすすめ
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。