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2018年10月07日

高校野球部で頑張っているA君

「俺もできる限りのことをするから、お前も中途半端なことはするなよ…。」
父親が息子にそう言って応援する。

中学を卒業して、地元の進学校の野球部に入ったA君は、毎朝、毎晩、父親の送り迎えで学校に通っている。

朝は、少し早めの出勤途中に、息子を降ろし、夜はバスがなくなるので21時半に駅に迎えに行くと言う。

高校野球部の練習は21時まで、そのあとA君は駅に行き、父親の迎えで家に戻る。

「明後日から中間試験だけど、大会続きで勉強できる状態じゃないです。もう、勉強は諦めているので、何とか進級してくれたらいい。元気で好きな野球を続けてくれたらいい。」

親としては、子どもが好きなことを精一杯やれるよう、最大限応援してあげようという訳だ。

弟君も中学校で野球部員。
だから、父親は、高校野球の応援に行ったり、中学野球の応援に行ったり、時間と場所が合えば、一日に両方とも出掛けたりと、休日のすべてを息子たちの応援につぎ込んでいる。

息子たちが、大好きな野球を、楽しく生き生きとプレーする姿を見ることが、A君の父親にとって、現在の最大の幸福なのだろう。

だから、部活動で面倒を見てくれている学校の先生にも、誠心誠意、感謝の気持ちで応対している。
とても協力的で、有り難い保護者だ。

こんな保護者が部活動に協力してくれるなら、「何としても頑張らねば」と思うだろう。

近隣の学校の野球部には、こんな保護者がたくさんいる。
夕食は、野球談義をしながら、親子の会話も弾むに違いない。
全力で応援している父親には、甘えて生意気なことを言ったとしても、心の奥では感謝しかないだろう。

部活動は、別にプロを養成しているわけではない。

活動を通して、子供たちがいろいろな経験をし、学び、成長していくことを期待しての教育活動だ。
授業や学校生活で子供たちと関わることも、もちろん大切。でも現状では、部活動もその一つ。

私も、「部活と称して、生徒とボール遊びをしている」と思われないためにも、その他の仕事でも、他に秀でるような成果を上げられるよう努力しているのだが、大会で成果を上げない限りは、なかなか認められることはない。

圧倒的多数の部活動は、大会で成果を上げられないのだ。トーナメントでは、一回試合するたびに、チーム数が半減する。

「お疲れ様。」より、何かあったときに呼び出され、上司に注意されることの方が多いから、時々は「疲れたな。」と思うこともあるし、「やってられない。」と思うことだってある。

それでも、生徒に寄り添おうとする先生たちを、私は応援したい。
そして私もその一人でありたいと思う。

先日、A君が、中学の試合の朝、顔を出してくれた。
お世話になった先生たちに、改めてお礼を言いに来たのだ。

「中学でプレーしていた時と比べると、見違えるように立派になりましたね。」
かつて試合中の言動を厳重に注意した、審判をしていた別の学校の監督が絶賛した。

今のところ、A君は順調に成長している…。

怖い先生ほど愛が深い?

今日の練習試合の相手校は、県庁所在地の学校。往復150kmほどの遠征になった。

相手校の先生に、
「あの先生、怖いですよ…」
と忠告されて、ご挨拶をする。

若手の先生が聞く。
「どんな風に怖いんですか?」
「もちろん生徒にも厳しいですけど、我々も、二回ヘマしたら見捨てられますね…。」

確かに試合中の声は厳しかった。
「昭和の香りがする…。」
と、試合中同僚の先生も一言。そして、
「こういう世界があるということを、保護者にも見せたいんですよね…。」
とも。

昨今の部活動は、
『ほめて、おだてて、励まして、やる気にさせて、またほめる。』
というスタイルになってきた。

昭和の時代の、先生が怒鳴り散らして、
「何考えてるんだ!ふざけるな。」
的な指導は、少なくなった。
あの頃は、
「先生、もっと言ってやって下さい。うちの子、甘いですから…。」
などと、保護者からの援護射撃もあり、多くの先生方も『この指導で間違いない。』と、感じていたのだろう。

ところが昨今は変わった。
生徒が、先生の前後関係を切り取った一言を取り出し、それによって保護者を憤慨させ、クレームとして校長だの教育委員会だのに届く。

「子どもは、自分の都合のいいことをしか話しませんし、都合のいいように親に言います。」
と、いう年初のアドバイスなど忘れ去り、
「うちの子は悪くない。」
「うちの子を全面的に信頼していますから。」
となるわけだ。

今日の試合を見て、保護者は何を思っただろう。
「今の時代、こんな乱暴な言葉遣いの先生がいるんだ…。」
と感じたか、はたまた、
「それと比べたら、まだまだうちの顧問は優しいか…。」
と感じたか。
「この学校に行かせなくて良かった。」
と感じたか、
「もう二度と試合をしたくない。」
と感じたか。

しかし、相手校の選手たちは、誰も萎縮しているようには見えなかった。それどころか、生き生きとしてプレーしているように見えた

結局今日は、相手校と接戦で負けた。

会場となった中学校の体育館では、近県の強豪校がやってきて、バレーボールの試合。
そちらでも怒声が飛び交う…。

教育活動の一環としての部活動だから、私は、それぞれの先生なりの方法で、工夫してやってよいと思う。

『どんなに怒鳴っても、本心では生徒を愛している。愛しているからこその、厳しい指導でもある。』
私はそう思うのだが、生徒や保護者との信頼関係が崩れると、坂道を転げ落ちるかのように、クレームの嵐となる。そういうリスクもある。

しかし、生徒をどうでもいいと思ったら、厳しい言葉でないのだ。放っておかれるだけである。
クレームの後、先生が生徒に、腫れ物に触るように接して、卒業するまだじっと我慢して時を待っているという姿も情けない。

先日、職員室の隣席の教員に、
「先生は、いろいろ生徒の不満を言いますけど、先生の撮った写真には、愛がありますよね。本当は、『生徒が好きで好きでしょうがない』、っていう思いが、伝わってきますね。」
と言われた。

そんなに、生徒の不満を言っているのかとも思ったが、私にとっての最大の賛辞のようにも聞こえた。

生徒を愛していない教員などいるはずはない。
表向きの姿だけを取り上げ、あげつらう風潮は、嫉妬社会の典型だと思うのだが…。

2018年10月06日

ベスト8おめでとう!

中2の頃は、ヤンチャで先生たちを悩ませ続けたY君。中3になると大分落ち着いてきた。
数学の習熟度でも、私のクラスに上がり、急に勉強熱心になった。
先日彼のノートを見たが、
「なかなかやるじゃん。」
という感じだ。

もともとはバスケットボール部だったY君だが、総体が終わり引退すると、テニス部に移った。
テニスと言っても、ソフトテニスではない。硬式テニスだ。
だから、まだ中学3年生が出られる大会がある。

今日は、その初戦。入部一ヶ月して最初の大会だ。
本来試合は、先週だったのだが、台風21号の本州上陸のため、今日に延期になったのだ。
来週から中間考査なので、日程的にはちょっとキツい大会になった。

早速報告を聞く。
「大会はよ。」
「俺、勝ちましたよ。入部一ヶ月で…。」
「そりゃすごい。」
すかさず、一緒に大会言ったA君が言う。
「ベスト8ですよ。」

硬式テニスは中体連の大会ではないので、地区大会を飛ばしていきなり県大会。
一度勝てばベスト8なのだそうだ。しかも、対戦相手は、同じ学校の一年生。
「そりゃないぜ…。」
と思ったが、まずは勝利を祝福してあげよう。

以前は、授業を抜け出す常習で、ちょっと甘い先生の時は、いつの間にか教室からいなくなっていた。
そのたびに、学年の先生が探し回る…という訳だ。

よく、男子トイレに隠れていたので、私は彼らを、
「トイレ同好会」
と呼んでいた。

あるとき、彼らに、
「先生、俺らの顧問になってください。」
と、「トイレ同好会」の顧問を頼まれたこともある。

あの頃から思えば、見違えた。別人だ。人は、こうも変わるものか…。

今年の中3は、そういうタイプの生徒が多い。
文化祭でも最優秀賞を取ったし、いろいろな学校行事でも結構ポイントを上げている。

「うちの教室のロッカーぶち壊し、開かなくしたのは、今の中3なんだけどな…」
などと、時折ぼやきたくはなるが、そこは教員の甘いところ。

「終わりよければすべてよし」
的になり、かつての悪行は忘れてしまう。

教員の悪いクセだな。

とにかくY君。
「ベスト8おめでとう!」

職員室の『マスク』と『のど飴』

朝晩は涼しくなり、感染症のシーズンが近づいてきた。
そんな折、職員室に『マスク』と『のど飴』が置かれた。

『おつかれさまで。ご自由にお使い下さい。「マスク」と「のど飴」です。』
という張り紙がしてある。

養護の先生が気を利かせて置いてくれてたのだ。

正直、こういう心遣いには感動する。
何気ない、些細なことかも知れないが、こんな配慮一つで、職員室内がほっこりする。

この張り紙が、
『一枚20円、一個10円でお願いします。』
などと書かれたら、幻滅するだろうし、
「余計なことするな。」
と思う人も出るかも知れない。
同じ心遣いには違いないが、何か違う。
その違いは、金額云々というよりも、その思いだろう。

「よーし、のど飴がなくなっていたら、私が補給してあげよう。」
という気持ちにすらなる。

張り紙はカラフルに書かれており、そこにはイラストまである。
今は、ちょうど試験前なので、生徒が職員室に入室することはできないが、この張り紙を生徒が見たら、はやり『感動』するに違いない。

私は、自分のクラスにもマスクを置いてある。
咳をしている生徒を見つけると、さっとマスクを差し出す。
もちろん、私に断らずに、自由にマスクを使ってもよい。

保健室に行けば、マスクはもらえるのだが、保健室に行くことを面倒がって行かない生徒もいるわけで、それはそれなりに、効果はある。

ちなみに費用は私のポケットマネーだ。
「そんなことされると、全クラスに置かなきゃいけなくなるので迷惑です。」
ここは社会主義の学校ではないので、こんなことは絶対に言われない。この程度のことは担任の自由裁量に任されている。各クラスとも、工夫しながら学級運営がなされている。

私は、喉を痛めると、完全に治るまで一ヶ月近くかかるので、本当に『のど飴』はありがたい。
もちろん、自分の在庫が万一切れたときに、緊急時にいただくという訳だが、なんだか一日が楽しくなりそうな出来事だった。

H君の歌

久しぶりに顔を見た高3のある生徒に、
「やぁ、ミッキー」
と声をかけた。

「勉強、楽しいか?」
私は、教え子の高3と出会ったときは、必ずこう、声をかけることにしている。

「楽しいです。」
たいていは、こう返してくれる。
しかし、不覚にもそのとき名前を忘れていた。あれ、本名なんだっけ…。
そして歌を思い出す…。あぁ、H君だ。

彼ら高校3年生が中学3年生だったとき、私は担当の生徒一人ひとりに歌を作った。
オリジナルというより、替え歌である。おもに童謡にフルネームを当てて、授業中に指名するときは、歌を歌ったのだ。それぞれの歌が決まっており、私が何やら歌い始めたら、その歌の生徒が答える、という仕組みである。

H君の歌が、めずらしくミッキーマウスの歌だったので、私の授業中では、彼を『ミッキー』と読んだのだ。

「生徒にあだ名をつけるなんて、けしからん。」
と、お叱りを受けそうだが、あれもだめ、これだめでは、先生たちも『やってられない』と感じるだろう。もしかしたら、そのあたりが、昨今の「教員ブラック思想」につながっているのかも知れない。

「失敗したら謝ればいい。」

そういう気持ちがなければ、何もチャレンジはできないし、前例主義にそって行動するしかなくなる。

「失敗しないのは、チャレンジしてないから」
なので、自分のいい加減な行動で失敗したのではない限り、上司は、失敗には寛容であるべきだろう。

同じ失敗を重ねない、ということも、進歩の一つだ。

今でも、時折彼ら高3とすれ違うと、私は歌を歌う。

「先生、懐かしいですね…。」

「懐かしいのは、君だけではないんだよ。元気に活躍している君の姿を見て、私も懐かしんでいるんだよ。」
と心で思って、最大限の笑顔で応える。

教師にとっての、ささやかながらの幸福感を得られる一場面だ。

2018年10月05日

F君の「死ね」

人間は、人生の中で、「どん底に落ちたとき」か、「最高に調子の良いとき」にその人の本性がよく分かると言う。

中学生は、まだまだ短い人生だから、このどちらもなかなか経験できるないだろう。
しかし、運動などをして、ふと気持ちがリラックスしているときには、その人の本性が見えてくることが多い。

本性とは、本来持っている性格である。
普段は、教室で、先生の言うことを聞く(ふり)をして、それなりに指示に従っているが、いざスポーツとなると、白熱している間に、自制心が少なくなり、本音が出る。抑えていた思いが飛び出してくるという訳だ。

私の学年は、運動部に入部し発散する生徒が極めて少ない、異常値の状態なので、彼らにとっての本性が現れるのが「体育の授業」になっている。

人によっては、身体を動かすのは、週に3時間ある体育の授業だけ。
何キロも歩いたり、自転車に乗って通学することもないから、圧倒的に運動不足なのだろう。
小柄なF君は、いつも
「疲れた」
と、連絡ノートに書いてくる。

授業中も、だらっと手を伸ばし、その上に顔を載せ、起きているか起きていないんか分からない授業を受けていることも多い。

もともと地頭が良いので、おそらくどの授業も理解していると思うが、とにかく何事においても、
「めんどくさい。」
「疲れた。」
となる。

そんなF君だが、私には頭が上がらないようで、私の頼み事は、ほぼ責任をもってこなしてくれるのだ。

ところが、体育の時間は違った。

自分の気に入らないことが起こると、
「死ね」
と叫ぶ。

普段は、私から抑圧されているのか、この体育の時間ばかりは、本音というか、心に溜めたものがどんどん吐き出されるようである。

ここで、吐き出してバランスをとっているのかもしれないが、言われる方は、不快極まりない。

「F君、一緒に片付けようぜ。」
「死ね。」

「ちゃんと並ぼうよ。」
「死ね。」

矛先の相手は、同級生のみならず、先輩だろうが後輩だろうが、先生だろうが関係ない。
気に入らないことはすべて
「死ね。」
となる。

私も、陰で言われているのだと思うが、今のところ面と向かって言われたことはない。

おそらくは、孤独感と愛情不足だろう。

「寂しいんだろな…。」
と、一日も何度も声を掛ける。

そんなときのF君は、まんざら迷惑ではなさそうだ。
「結構、心優しい、イイ奴なんだけどな…。」

天真爛漫なS君

昨年入学してきたS君、天真爛漫な生徒だ。

入学早々、小柄なために、先輩から「チビ」と言われて、母親が烈火の如く抗議してきた。
その後、その先輩は、謝罪させられた。

「夜はきちんと寝ないと、成長しない。身長も伸びない。」
と、折に触れて警告しているにもかかわらず、毎日夜中まで起きている。
そのため、朝も昼も夕も、よく寝る。

「起こすと怒るんです。」
時折、担当の先生たちから報告を受ける。

時折、肩をぽんぽんと、起きることを促しても、邪険に手を払うこともあるのだから、けっこう重い。

補習で呼び出しても逃げ回るか、どこかに隠れる。だから、帰りの会が終わって、廊下で捕まえなければ、取り逃がしてしまう。

先日、出身小学校の校長と話をしたら、
「S君、どうですか。まだ逃げ回っていますか?」
と言われた。昔から逃げていたわけだ。

「親の言うことは聞きません。」
とも言われている。親の言うことを聞かないのに、先生の言うことを聞くとも思えない。事実、先生の指示はなかなか通らない。

それでも、私の言うことは、少しは聞いてくれるようで、しぶしぶながら、取り組もうとする。

だが、私と話をするときでも、決して私の方は見ない。
「おーい、S君」
と、声をかけても、振り返ることもしなければ、立ち止まることもない。淡々と自分のことをするのみである。聞いているのか、聞いていないのかも分からないが、その後の動きを見ると、どうやら聞いているようではある。

「ガンガン言っても、反発するだけなので、最近は、やさしく褒めながら接しているんです。」
親御さんも、かなり手を焼いているようだ。

自分とは関係ないところでは、結構気が利くところもある。

時期が過ぎれば安定すると思うので、それほど心配はしていないのだが、周りの先生は、校長の息子S君にヒヤヒヤするばかりである。

2018年10月04日

「お茶を点ててくれ!」

茶道部の中2の男子S君を呼び、お茶を点てさせた。
9月の文化祭のときには、今ひとつだったので、レベルアップを兼ねたリベンジである。

なぜか私は、茶道具セットを持っている。茶道部の部長(これまた男子)が時々、お茶を点ててくれるから、どうせなら、自分でも準備しておこうと、ずいぶん前から自前の茶具を使っているのだ。

だからといって、自分でお茶を点てるわけではない。
もっぱら、飲む専門。
出来上がった抹茶を、あーでもない、こーでもないと、適当なうんちくを言って、褒めたり、けなしたりしながら頂く。

「まず、味見してから出せよ。」
と指示。S君は、自分のお茶を点て、飲んでみる。
「苦ーい。」
「苦いなら、苦くないように入れなさい」
と言って、待つこと10分。

やっと出てきたS君が点てた抹茶は、なかなかのものだった。
さすがにお茶を点てている姿は、まるでピエロか大道芸人みたいだったが、お茶はよかった。
真剣さに加え、心がこもっている。

「自分で、今日点てたお茶は何点だと思う?」
と尋ねてみると、少し考えたS君は恥ずかしげに、
「…70点」
と答えた。

「俺も、70点だと思うよ。ごちそうさま。」

その後、丁寧に茶具を片付けた。
片付けながら、
「○○部に点てたとき、みんな茶碗を洗剤で洗うんですよ…。」
と不満をぶつけた。
「お茶を点てる茶碗を洗剤を洗ってはいけないことを、知らないんだから仕方ないでしょ。」
と思いながら、
「最近は、米を研ぐときに洗剤で洗う人もいるくらいだからね。」
と励ます。

S君は、満足げに去っていった。

「美味しくいただきました。」

部活と補習

野球部のキャプテンでありながら、一ヶ月の無断欠席をしたのち、退部していったY君に聞く。
「君は、なぜ駅伝メンバーではないのだ?」

「しばらく運動していなくて、体力が続かなくて…。」
運動部でバリバリ活動していたにも関わらず、一週間を超えて、運動をしなくなると、ぐんと体力が落ちる。
本当は、落ちてしまうのは気力なのかも知れないが、少し負荷のかかった運動をしようという気持ちは沸いてこないものだ。

「それから?」
と追及すると、
「ちょうど練習や、試走の日に、補習が抜けられなくて…。」
成績不審の生徒は、補習優先になっている。これで、彼にとっては、格好の言い訳ができた。

私の尊敬する、元校長のE先生は、
「補習で部活を休ませちゃだめだ。」
という持論をお持ちだった。

「今日は補習です。」
と、合法的に部活を休むきっかけを与えてしまうし、部活内でも、何となく居心地が悪くなる。
そのまま、うまくいかないと、退部への道を歩み出す、というのだ。

中学校では、部活は全員加入の学校が多いだろうが、その理由は『生徒指導』である。
多くの学校は。部活動を通して、社会性を教え、いわゆるヤンチャな生徒たちを、最低限部活動で掌握できれば、学校全体として問題行動を起こすことが少なくなる、という訳だ。

また、身体を動かすべき時には、やらせないと、そのありあまるエネルギーを発散する場がなくなる。その発散が、学校生活や、地域でのいたずらに向けられては困る、という理由もあるだろう。

「そんなことはない。」
と、諸先生からお叱りを受けるかも知れないが、少なくとも私の地域の公立中学校では、そうやって学校が動いている。

教師側は、
「補習に出なきゃいけないくらいなら、宿題をきちんとやって、勉強頑張って、成績上げなきゃ。」
と、生徒が感じてくれることを期待しているのだが、
「やったぜ、これで部活に行かなくて済む。補習は面倒だけど、静かに座っていれば終わるのだし、ちょっとガマンすれば、その後は自由だ。」
となる。これでは、何のための補習か分からない。

「成績不振の生徒をフォローして、実力をアップして下さい。」
という校長らの号令むなしく、教師も生徒も、残念な時間を浪費している。

「補習を廃止しましょうよ。先生も生徒も不幸ですよ。罰ゲームじゃ、だめですよ。」
そんな声も聞こえてくる。

昨年度は、
「たくましい生徒を養成したいので、どんどん部活で鍛えてください。」
と号令が発せられたが、今年度は、
「成績が落ちたので、部活を縮小して、補習して、生徒に勉強させてください。」
となった。

バランスを取るのは難しいが、いずれにせよ、生徒も教員も機嫌良く過ごせる学校がいい。

義務感、やらされ感、強制感は、成果を生まないものだから。

2018年10月03日

三角形の合同の証明を書く

前回の授業で、三角形の合同条件を覚えたので、今日の授業では、まず合同条件を確認させ、実際に証明問題に取り組んだ。

私は、まず図を板書する。

次に、問題から命題を取り出す。
○○ならば△△
などという具合である。

○○は仮定で、△△は結論である。
この命題が正しいことを、論理的に記述することが証明である。

証明を書くには、まず図で証明を見せる。

「はい、全員顔を上げて!」
と注目させ、一人残らず私に注目させる。
絶対に下を向いている生徒を作らない。場合によっては、
「眼の数が足りない。」
などと、たたみかける。
30人クラスの授業ならば、60個の眼が私の方を見ていなければならない。

図を使って証明を見せ、分からせ、徹底的に理解させることができて初めて、証明を実際に書き始めることができる。
最初から書き始めようとして、鉛筆が止まって、
「先生、証明分かりません。」
というスタイルは許していない。

「まず、図で自分で証明してみなさい。そのストーリーを考えなさい。
他の人に、口で説明できないならば、証明をノートに書くことはできません。」

そう、説明している。

証明のストーリーが分かったならば、実際の書き方ルールに入る。

「結論の、△ABDと△CBDをそのまま取り出して、
△ABDと△CBDにおいて
と書けばいいんだ。」

これで、結論が書けていれば、証明の一行目が書けることになる。

その先も、日本語を数学的な表現に直さなければならないので、多少のハードルがある。
これは、たくさんの例を紹介しながら、克服させよう。

私の幾何の授業では、これから数ヶ月、証明が続くことになる。

「証明、自分で書けるよ!」
という生徒の笑顔を目指して…。
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