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2018年09月24日

校外学習の朝

もう今から20年くらい前の話。
勤務校の雇われ校長、どうも朝はゆっくり出勤することになっていたらしい。
それが校長を引き受ける条件だったかどうかは分からないが、ちょっと怪しいところもある。
だから毎日、早くても10時くらいにおいでになる。
当然のごとく、校長室は別棟。
現場に顔を出すのは、週一回の職員会議くらいで、校内をぶらぶらすることもなかった。

まだまだ若輩だった私は、その当時も学年主任だった。
「校長先生、お願いですから、次の校外学習出発の朝は、見送りに来て下さいませんか?」
校長はムッとした顔をして、沈黙した。そして、
「私は忙しいんだ…。」

若かった私は、そんな理由では引き下がらない。
「たくさんの保護者の方も見送りに来ているんです。そんな折、校長先生がいるかいないかは、とても大きなことなんです。以前だって保護者に、『校長先生は見送りに来られないのですか?』と、言われたこともあるんです。」
私の言葉で校長はキレた。
「あんたにそんなこと言われる筋合いじゃない…。」

今や私は、その校長の顔や名前も忘れてしまった。
当時は、
「校長は、子どもが好きではないのだろか…。」
と思ったものだ。

校外学習の朝は、生徒たちの表情が明るい。
これから始まる行事に期待を膨らませてワクワクしている。
そんな生徒たちの姿を見ない、というのは、教育者として大きな損失なのではないか。

『和顔愛語』という言葉がある。もともとは、浄土三部経の一つ『大無量寿経』の言葉だそうだが、私は若い頃からこの言葉に影響を受けた。
教員の日常の心得の一つであってもよい。

優しく穏やかな笑顔で、さりげなく生徒たちを励ます…。
校外活動出発時に、そんなの校長の一言が欲しかっただけだったのだが、礼儀知らずで生意気な私の言葉は、校長を怒らせただけだった。

それでも公開学習当日、校長は見送りに来た。
さも、「あなたに言われたからじゃない。」という顔をしていた表情だけが、今でも忘れられない…。

負けて悔しがる

運動部の活動は相手校との試合が欠かせない。
同じ年代の生徒と、一定のルールの下で戦う。
戦っている最中は、勝ち負けを本気で競う。
試合が終われば、戦いのゲームは終わり。
恨みっこなしの精神で、それぞれの学校に帰っていく。

「負ける悔しさは、吹奏楽部では分からないでしょう。」
野球部のある先生が、そう語った。
「審査員判定で、順位がつく吹奏楽部では、相手に負けたという感覚は薄くなるでしょう。」
そう、たたみかける。
「同じ年齢の奴に負けて、『悔しい』という気持ちは、運動部ならのことでしょう?」
そう、私に尋ねてきた。
「打席に立ったら、ピッチャーとのガチ勝負。この緊張感と勝負感覚は、運動部でしか味わえないのではないかなぁ。」
こんな持論をお持ちであった。

近隣の学校では、部活動に文化部を設置するかどうかで議論になる。
運動部の方が、価値が高いと思っている教員の割合がまだまだ多いのだろう。

私も、一般的には、中学生までは、運動を勧めた方がいいと思っている。

「負けて泣き、勝って泣き…。」
という、懸命にやっていたからこそ、終わって緊張の糸が切れたときに湧き上がるその感情を、少年期の経験として大切にして欲しいと思っている一人である。
体育の授業だけでは、その感覚は得られまい。

昨今は、そうした経験したことのない親も教員も多いようだ。
それが、部顧問の考えとのすれ違いを生み、トラブルのもとにもなっている。

当たり前が、当たり前でない時代に突入した。
これまで「良し」とされたことが、「悪」となり、これまで「悪」とされていたことが「良し」となる。

ゲームのバーチャルの世界で、死んでも死なない戦いを覚えた子供たちは、もはや試合という戦いでは本気になれないのだろうか。

負けて悔しがるからこそ、次へのステップになる。

社会では、まだまだ戦さと言われる競争が沢山あるのだが…。

2018年09月23日

学年主任という重し

「先生、最近学年で集まっていませんね。二学期は学年全体で動く行事も多いのですから、是非学年集会をお願いします。」

隣席の先生から、そんな要望を受けた。
要は、「学年主任としてしっかり頼む。」と言うことである。
かくいう私も、一学期までは前任の学年主任に、時折そんなお願いをしていた。

訳あって、一学期末で前任の学年主任が退職され、一年半ぶりに私が学年主任に復帰した。

しかしこの学年、前任の先生の重しは大きかった。
保護者対応から、生徒指導まで、担任としての私は、そのすべてを助けられたと言ってもよい。
と、同時に、「ずいぶん頼ってしまったなぁ。」、という反省点もある。

「先生、最近中2が荒れています。」
あちこちから、そうした声が聞こえてくる。
要は、
「おい、学年主任、変わったんだから、しっかりしよろ。」
と、言われている訳だ。

クラスもそうだが、学年も、生徒や保護者にどれだけ思いを向け続けているかが大事になる。
だから、「大会で出張、学校の外に出られる。」、などと浮かれていると、たいてい事件が発生する。

担任になって間もない頃は、出張するときには、生徒には言わずに出掛けたこともある。事前に言うと、生徒のトラブルがよく起こったからである。学校に担任が不在のときは、いろいろなことが起こりやすい。

「学年全員の生徒に、もっと思いを向けなければいけいないな…。」
早速、連休明けの火曜日の朝に、学年集会を開くことにした。
学年主任としての私の覚悟を、熱く語ろうと思う。

中間試験も近いが、間もなく新人戦。
各部のキャプテンも、中2が努めている。
中学校での中2の役割もどんどん大きくなっていく…。

「歳とって、なんだか踏ん張りがきかなくなったなぁ。」
などと言っている場合ではなくなった。
前任の学年主任は、私より十歳年上の先輩だったのだから…。

通知表の所見

学年二学期制の学校は、今は通知表の所見作りの真っ盛り。
「昨日は、夜中まで十人の所見を書いたよ。」
などと、教員の負担も一気に増える。

ある校長は、
「生徒の様子を記すのだから、提出期限よりずっと前に書けるはずだ。一週間前になって、バタバタあわてるんじゃない。」

「指導要録だって、三月初めには書き上げよ。この一ヶ月で変わるのはせいぜい出欠の記録くらいなのだから。」
とも言っていた。正論である。

だか、教員と言えども、なかなかギリギリにならないと動き出せない。ましてや、所見ともなると、学校から保護者への、子どもの様子を伝える大切な文章なので、その文面には気を遣う。気が重くなるのはよく分かる。

私の学校は三学期制なので、今は所見を作る時期ではない。
しかも、管理職らの文面チェックもない。

「え、そんな危険なことをしているのですか。」
と、問われそうだが、この十年、所見がもとでクレームになったことは一度もない。
管理職の文面チェックが面倒なのか、担任個人に責任の重さを感じさせているのか、その理由はよく分からないが、一切やっていない。

そうなると、若手教員は、終業式の前日は一夜漬け、所見作りにほぼ徹夜状態になる。
「一人あたり30分かかるから、全部で…」
などといらぬ計算をしている人もいる。

人によって、かかる時間も違うのだが、やはり前日夜に仕上げるのは、ちょっと情けない。
何かあったら、未完成になってしまうではないか。

こうなると、事前に管理職チェックなどのシステムがあった方が、そうした荒技はなくなるかも知れない。

次に私が所見を書くのは12月。前日までには完成させるようにはしているが、次回はもっと早く仕上げてみようか…。

保護者を味方にする

学校は、生徒を保護者からお預かりしている。また、生徒あっての学校である。だから、生徒はお客様。一人の人間として丁重に接し、人格を尊重し、彼らの健全な将来のために、教師は一人の奉仕者として、誠心誠意、関わらなくてはならない。

こう書くと、新任校長の挨拶か、何かの教員心得みたいになる。

一方で、生徒は、発達途上であり、教育を受けているという観点もある。

学校現場では、頻繁に
「先生、うちの子がいつもお世話になっております。」
などと保護者からご挨拶をいただくが、このときは、ただただ笑顔になるしかない。

と、同時に心の中では、どうしても防御本能がはたらく。
次に、どんな矢が飛んでくるか、なかなか予想できないからだ。

私たちは教育のプロとして、ある意味、自身に裏付けられて仕事をしている。
しかし、保護者の言葉は、その自身を時に打ち砕く。

「どうですか、最近うちの子は…」
この言葉の裏には、何十倍もの言葉が隠れており、ある意味、どんな人間かを見られていると言ってもよい。
「自分の子どもをどのように見ているのか。」
を的確に引き出す、万能の聞き方だからである。

このとき、
「いつも。○○がご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
という言葉であっても、油断をしてはいけない。次に
「ところで先生…」
と、急遽話題が変わり、どんな攻撃を受けるか、分からないからだ。

「私は保護者を味方にしているから、そんな防御本能は働かないよ。」
という先生たちは多いだろう。

しかし一方で、生徒のみならず、保護者の一言により、教員の人格をも崩壊させ、鬱状態になり、教員を辞めざるえなくなったり、その命までもが奪われてしまうことだってある。
昨日まで味方だった保護者が、今日からは最前線に立って攻撃をしてくるということだってある。

私たちは教員は、いつもこのような断崖絶壁を歩いている。

「いつも、保護者対応ありがとうございます。」
分かっている管理職なら、そう励ましてくれるだろうが、
「大事にならなくて、安心したよ。」
という思いが見え隠れするならば、
「今回も大変でしたね。ほんとうによく対応してくれました。」
と言う言葉も虚しく響く。

そんなときは、
「保護者のクレームを受けることが教師の仕事ですから。保護者は不安や不満を誰にもぶつけられない訳ですし…。」
などと、強がりを言って、自分自身を励ますことにしている。

いずれにせよ、保護者を味方にすることは難しい。
期待が大きければ大きいほど、裏切られたときは、その反動も大きく、その反動が怖くて、躊躇してしまう。

以前は、ごく一部の保護者を意識すれば良かったが、現在はそうはいかない時代に突入している。

2018年09月22日

校長の校内巡回

「あの校長、しょっちゅう授業を見に来るんだよ。」

どうもその先生は、校長が予告無しに授業を見に来ることが嫌らしい…。

校長なのだから、学校内でどんな授業が行われているのかを見て回るのは、当然の権利であろうし、別に嫌がられるものでもない。校長自身だって、授業の様子を見たいだろう。

しかし校内巡回による授業見学は、校長の醸し出す雰囲気で、受ける感じは180°変わる。

「生徒たちはどんな風に授業を受けているのだろうか。元気でやっているかな。」
などと、慈愛の思いで、授業を見て回るのであれば、それは大変結構なことで、見られている子供たちも、何となく安心感を得られるだろう。

しかし、「授業を管理する。先生を管理する」という意識で、監視する意味で授業を見て回っているのなら、それは大きな弊害をもたらす。授業担当者も生徒たちも、その思いは、感じ取ってしまうのだ。これは、学校現場としてはマイナスでしかない。

校長が廊下を歩いていれば、その雰囲気は自ずと伝わってくる。
「私は校長だ。管理する立場の人間だ。」というムードが出ていれば、授業をしている先生も生徒も、何となく嫌な感じがするものだ。

「雰囲気で判断されたくない。」
思われるかも知れないが、人間は、敏感に他の人の気持ちを察知することができる。
授業中だって、先生と生徒の関係がうまくいってこそ、よい授業になっていく。

以前勤めた学校では、授業中になると、校長が廊下を掃除していた。
はじめは、そんなに廊下が汚いのだろうか、思ったが、実はそうではなかった。
その校長は、廊下を掃除しながら、さりげなく授業の様子を聞いていたのだ。
予告なしに、いきなり教室に入っては、授業を中断させてしまう可能性もあるし、生徒たちの集中も切れてしまう。だから、授業の妨げにならないように、あくまで自然に見せつつ、授業の様子をうかがっていたのだ。ベテランになれば、教室で見ていなくても、廊下で聞こえてくる声だけで、何が起こっているかなど、手に取るように分かる。

「やっぱり、校長の人間性かな…」
そういう雰囲気で授業見学するかは、結局はその人の持っている人間性にかかっているだろう。

さすがに校長も、陰で自分の人間性について話題にされているとは思わないだろうが、ある意味、公人の立場でもある校長は、その一挙手一投足に気を配るべきだし、常に見られている立場にあることは、避けられまい。

「廊下に校長がいるだけで、授業中言葉に詰まってしまうよ。」
ある若手の先生が、そう苦言を呈した。それはそれで、さらに研鑽を積んでもらうことにしよう。

いずれにせよ、校長に信頼されているという自覚が、教員にとっていい仕事をする上でのモチベーションになる。粗探しばかりされていては、身構えるしかなくなってしまうのだから。

規則が悪い

「先生方、思い切って指導してください。何かありましたら、私が責任を取ります。それが校長の仕事ですから」

九年目にして、初めて校長が気の利いたことを言った。と同時に、若手教員に動揺が走る。
「本当なんだろうか…。」

校長は、保護者をはじめとする対外的な折衝で、矢面に立つなど、下々の教職員には分からない苦労が多い。孤独であろうし、悩みも多く、プレッシャーも大きい。

しかし、それを知りつつ、理解しつつ、分かっていながら、それでも理解に苦しむことが起こる。

例えば、保護者からのクレーム対応。最終的には校長が対処し、相応の謝罪なり、改善対策を講じる。学校には、社会的に見たら理不尽なルール(規則)も多く、それによって、ごく一部の生徒と親が不適応を起こすことがある。

「圧倒的な生徒が従っているのだから、一人だけ許すわけにはいかないだろう。」
というのが、大方の先生の思いだ。すべてを個別対応するなら、もはやルールではなくなる。

「ルールを忠実に守らせようとして、それがトラブルになっている。真面目な先生ほど、その傾向が強い。だったら、ルールを変えるべきではないか。」
近隣のある校長は、そう職員会議で述べた後、
「保護者には、『ルールが悪い』と言った。だから、ルールを変えていきたい。」
と、高らかに宣言したそうである。

しかし、ほとんどの教職員は不満と不信感が高まっただけだった。日頃の校長の姿勢に納得できなかったのだ。

彼は、生徒指導で、保護者からのクレームがあったとき、必ず担当の教員を責めた。
「○○先生の指導が行き過ぎだから。」
「○○先生の言葉遣いが、ぞんざいだから。」
「○○先生のやり方が画一的だから。」

こういう背景があって、その学校の先生たちは、おそらく来春異動になるであろう校長に対して、カウントダウンを始めた。

大人げないが、気持ちが理解できないわけでもない。だが、日常の教育活動では、いろいろな部分で歪みが生じるだろうと思う。

『ルールが悪い』と言えば、保護者は納得できるのかも知れないし、「ルールを変えるべく検討します。」と言えば、クレームは収まるかも知れない。事実、理不尽なルールなら、変えていくのも良い。

しかし、それが自分自身の保身であって、つつがなく努めて、何事も問題も起こさず、校長生活を終えたいと思っているのなら、それは間違いであろう。そういう人に校長を務めて欲しくない。

私の学校で、若手教員が動揺した背景には、しばしば教員を責める姿勢が見られたからだ。「ルールが悪い」と言いかねない雰囲気もある。

過日退職した、私の尊敬する校長経験の先生は、たとえ保護者を敵に回しても、徹底的に教員を守り、学校の方針を貫き通したという。時に何時間でもかけて説得したこともあると聞いた。
「絶対に先生たちを守ります。」
という姿勢が、組織の一体感と、校長に対する信頼感を生む。

私心のない捨て身の対応が、結果、トラブルを収拾するということだろう。

私は、『人は変わる』、と信じて、もうしばらく見守っていこうと思っている。

2018年09月21日

部活をサボる生徒、急増中

文化部そのものを設置していない中学校もあると聞くが、私の学校には理科部なるものがある。

ここでは、運動部で半ば強制的に身体を鍛えられることに自信のない生徒たちが、それなりに自分の居場所を見つけ、好きな理科的研究活動をしている。

だが、最近人数が増えた。中学2年を中心に、運動部から逃れた生徒が、次々と理科部に集まってきたのだ。週3回、理科室に集まっては、自分の興味あるテーマで、楽しい時間を過ごし、それを研究成果として発表するのなら、大変結構なのだが、彼らの多くは参加すらしていない幽霊部員なのだ。

顧問に、どんな活動しているのかを尋ねたところ、一人ひとりやりたいことをやっているのだ、と言う。それでは、「それぞれ課題を与えたりしているのですか。」と尋ねたら、手が回らないので、そんなことはできない、と言う。

「○○も△△も□□も、所属しているけど、全然部活に行っていませんよね。」
と、たたみかけると、
「そうですね、□□は一度は来ましたけど…。」
と、つれない答え。

全員加入の部活動だから、どこかに所属しなければ行けないわけだが、一度楽を覚えた生徒は、こうした部活に入部し、加入したことにして、結局は何もしないで時間をもてあます。

昨今は、運動部でも似たようなことが起こっている。

ユニフォームの洗濯が間に合わないと休み、履いている靴がきついからと休み、はたまた、キャプテンでありながら休み続けたりする。しかも、無断欠席だ。これにはさすがに顧問も声を荒らげた。

私は部活の出席はとっていない。それはいつも全員が参加しているという前提だからであるが、各部とも、参加するしないが自由という訳ではない。こうなると、出欠を記録してもらいたい、そしてその参加状況を報告してもらいたい、とすら思う。

『面倒なことから避けたい、きついことはやりたくない』
という生徒が増えていることは事実だが、もしかしたら、顧問である教員側も同じように考えているのではないだろうか。部活に来ない生徒を、探したり、呼び出したりして話をするのは、面倒なので、「自己責任に任せる」と言って逃げている無責任体質であり、教員の仕事の放棄である。

部活をサボる生徒が増えるというのは、学校としての危機なのだ。

ブラック部活などと、部活動のあり方が求められているが、ここではそれ以前の問題である。人間として最低限のマナーやルールすら、守られていないし、守らせるべく指導がされていないということだろう。

そんな中で、補講必修、まずは学力を向上させよう、という号令だけが、虚しく響く…。
確かに親の願いは、『学力向上』であるし、私立学校はそれが募集に直結する。

部活動を通してこそ学べることは数多い。
私はそれをきっちりを経験させたいと思うのだが…。

学校指定の体操着

気温15℃。昨日からの雨で、この秋一番涼しい朝になった。

私の学校は、式典以外は、私服で、中学生が好き勝手な服装をしている。
体育の授業があるときは、体操着を着ているが、そうでないときも、結構ラフな格好だ。
暖かい時期なら、男女も、ハーフパンツにTシャツが定番だ。

一方、近隣の多くの学校は、制服はあるが、通常は体操着で生活している。
通学時も、体操着ならば、どこの学校の生徒かすぐに分かるし、私服を許可して、先生と生徒との、「この服は良いが、この服はだめだ」、などという無用のバトルを避けたいというねらいもあるだろう。

先日、近隣の学校の先生から、服装を注意したら不登校になってしまった、という話を聞いた。
この時期、ハーフパンツに指定のシャツで過ごすことが規則らしく、その生徒は、別の服を着ていたらしい。善意に考えれば、寒いからもう一枚服を着ていたことになるが、規則ではだめな訳で、当然、学校としての指導が入る。
「まだ衣替え前なのだから、その服は着てはいけません」
先生との、そんなやりとりの後、一悶着があって、その後、その生徒は不登校になったと言う。
いろいろな背景があるので、ここでは推測の域を出ないが、先生の指導が、トリガーを引いたことだけは間違いない。

寒いなら着させれば良いではないか、その指導は理不尽ではないか、と多くの方が思うだろうが、そう簡単でないのが学校現場だ。

一人を認めれば、次々と次の一人が出てくる。あの人は良くて、この人はだめ、などということも起こり、規則を守らせることはできなくのだ。この考え方が、学校は社会とかけ離れ、特殊な空間だと言われる一因でもある。

一方で、『規則は守るべきこと。守らせるべきこと』であることの事実だろう。

多少の我慢を強いたとしても、強要しなければならないことも、教育の一面ではある。

「体育の時間に、きちんと体操着を着させてはどうですか?」
私の学校で、体育の時間ですら、体操着を着ていない生徒が多かったので、せめて中学生くらいはきちんと体操着を着させたいな、と思って、体育科の先生に問いかけてみた。

「そうしたいんですけど…。」
この言葉がすべてを象徴している。

実際うちでは、違うシャツを着ていても、別のズボンを着ていても、たとえ運動に適さないジーンズをはいていたとしても、体育の授業は参加させてもらえる。

本当は、許したくないのかも知れないが、「やらせないよりやらせた方がいい…」という考えと、「洗濯したけど、乾かなかった」という声をきちんと聞く。

でも結局は、「指導しきれない」、ということだ。と同時に、「服装などどうでも良い。それよりのびのびと身体を動かし、精一杯運動して欲しい。」という考えだろう。

生徒たちは、注意されなければ、許されたと思うし、他の多くが体操着を着ていなければ、それで良いのだと思う。

公立の中学校では起こりえないことが、私立では起こる。

『強圧的な指導ではなく、一人ひとり語りかけ、因果を含めて納得させる。』

そういう方針だからなのだろうが、それでも私はちょっとズレていると思うのだが…。

2018年09月20日

ペットボトルのカエル

「先生、K君が授業中これ持っていたんです。だから没収しました。」

6時間目が終わった時、副担任をやってもらっている若手女性の先生が、ペットボトルを持ってきた。
ペットボトルの中には、三分の一くらいの水と、小さなアマガエルが入っていた。
カエルを恐れている様子はなかったが、授業中にカエルを出されて、さすがに驚いたらしい。

聞けば、カエルは昼休みに服についてきたらしい…。そのカエルを、ペットボトルに入れ、持ち歩いていたようだ。5時間目の授業時には、担当の先生からそうした話はなかったが、きっとどこかに置いてあったはずだ。

「これ、キャップ閉めているけど、息できるのかよ…。」
「一応、穴開けているんですけど…。」

「でも、授業中、カエルを見ているのは、どうかな…。」
「一応、課題は終わったので…。」
どうもK君は、授業中でも課題が終わったら好きなことをしてもよい、と勘違いしているようだ。

「どうしても、持って帰りたかったら、授業中はロッカーに入れておくとかして、授業はちゃんと受けた方がいいと思うな…。」
「教室に持って来ちゃいけないんですか?」
「何でもいい、と言うわけじゃないだろ。ヘビでも持ち込む?」
「はい。」
K君は、何でも教室に持ち込んでもかまわないとも思っている。

「あの先生と、つい最近トラブルがあったばかりなのに、これじゃぁ、まるで、嫌がらせをしているように見えないか?」
「…」

私は、7時間目は、教室の教卓の上にペットボトルのカエルを飾っておいて、放課後にK君に返した。

中学一年生の後半から反抗期に入っているK君。ある女子生徒が言う。
「Kの反抗期、わかりやすいですね。」

…よく見ている。

今しばらく、K君の反抗期は続きそうだ。
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