2018年10月14日
最大の苦しみは、『愛別離苦』
仏教では、この世は苦しみの世界とする。
苦しみとは、思うようにならないことのこと。
そう考えれば、確かに人生苦しみの連続である。
その中で、『四苦八苦』という言葉がある。
四苦は、『生』・『老』・『病』、『死』、これに『愛別離苦(あいべつりく』、『怨憎会苦(おんぞうえく)』、『求不得苦(ぐふとくく)』、『五陰盛苦(ごおんじょうく)』を加えて四苦八苦という。
私はこの中でも、特に『愛別離苦』が苦手である。
『愛別離苦』とは、『愛する者と別れること』。
だから、私は卒業式が大の苦手だ。
毎年、卒業式が近づいてくると、何となく学校全体に『悲しみ』の波動が漂う。
生徒たちにとっては、『喜び』であろうが、一部には先生たちの別れの『悲しみ』もある。
先生たちは、卒業することで、「ほっと胸をなで下ろす」わけだが、私はどうしても、この別れの悲しみが辛い。
「先生は、高校の担任をやらないんですか?」
何度となく、生徒に尋ねられる。しかし、決まって私は、
「高校の担任をすると、卒業式が本当の別れになってしまうから、別れが辛いので絶対にやらない。」
などと、答えることにしている。
中学校を卒業しても、中高一貫なので、ほぼそのまま高校へ進学する。だから、中学の卒業式は、一つの通過点のような感じになる。それでも、中3の卒業式には、
「あの入学したての生徒が、ここまで成長したか…。」
と、感無量になり、涙を誘う。
中学で「これ」なのだから、高校であったら、その思いは計り知れない。
もちろん、卒業することが、永久の別れというわけではない。どこかで会うこともあろうけれども、何ともいえない、しかしとてつもない大きな悲しみが、私を覆い尽くすのだ。
「頼むから、知らない間に『すっと』いなくなってくれ。高校の卒業式は出ない。謝恩会も行かない。」
などと、生徒には宣言している。どうやら、私は、「高校生になって、中学よりは関係が薄くなって、私が気がつかないうちに、さっと卒業してくれたら、悲しみに傷つかなくて済む。」、と思っているらしい…。
それでも、教え子たちは、
「先生には、絶対に出てもらいますから…。」
彼らは、やる気満々である。これまで何度、こんな会話を繰り返しただろう。
私が前回、三年間担任やら、学年主任をして卒業させた生徒は、現在高校2年生。
来春の卒業式ではない。しかし、それでも時折、
「先生、卒業式に出て下さいよ。」
などと声をかけてくる。
「嫌だ。君たちのお礼参りは勘弁。」
などと、逃げ回っている。
以前、
「さよなら。これまでありがとうございました。」
というメモだけを残して、学校を去っていった(退学した)生徒がいた。
ただただ泣き崩れ、ふて寝するしかなかった。
その朱鷺のことを、今でも鮮明に思い出す。そして、思い出しながらでも、涙があふれてくる。
教員を続けている限り、他の仕事よりも、『愛別離苦』が何度も訪れる。
そのたびに、自らの非力に打ちひしがれ、悲しみの淵に佇む。
結局は、「悲しみ」といいつつ、「自分には何もできなかった」という後悔の思いなのだろう。
だがやっぱり、『愛別離苦』は苦手だ。
これが私の人生最大の苦しみである。
苦しみとは、思うようにならないことのこと。
そう考えれば、確かに人生苦しみの連続である。
その中で、『四苦八苦』という言葉がある。
四苦は、『生』・『老』・『病』、『死』、これに『愛別離苦(あいべつりく』、『怨憎会苦(おんぞうえく)』、『求不得苦(ぐふとくく)』、『五陰盛苦(ごおんじょうく)』を加えて四苦八苦という。
私はこの中でも、特に『愛別離苦』が苦手である。
『愛別離苦』とは、『愛する者と別れること』。
だから、私は卒業式が大の苦手だ。
毎年、卒業式が近づいてくると、何となく学校全体に『悲しみ』の波動が漂う。
生徒たちにとっては、『喜び』であろうが、一部には先生たちの別れの『悲しみ』もある。
先生たちは、卒業することで、「ほっと胸をなで下ろす」わけだが、私はどうしても、この別れの悲しみが辛い。
「先生は、高校の担任をやらないんですか?」
何度となく、生徒に尋ねられる。しかし、決まって私は、
「高校の担任をすると、卒業式が本当の別れになってしまうから、別れが辛いので絶対にやらない。」
などと、答えることにしている。
中学校を卒業しても、中高一貫なので、ほぼそのまま高校へ進学する。だから、中学の卒業式は、一つの通過点のような感じになる。それでも、中3の卒業式には、
「あの入学したての生徒が、ここまで成長したか…。」
と、感無量になり、涙を誘う。
中学で「これ」なのだから、高校であったら、その思いは計り知れない。
もちろん、卒業することが、永久の別れというわけではない。どこかで会うこともあろうけれども、何ともいえない、しかしとてつもない大きな悲しみが、私を覆い尽くすのだ。
「頼むから、知らない間に『すっと』いなくなってくれ。高校の卒業式は出ない。謝恩会も行かない。」
などと、生徒には宣言している。どうやら、私は、「高校生になって、中学よりは関係が薄くなって、私が気がつかないうちに、さっと卒業してくれたら、悲しみに傷つかなくて済む。」、と思っているらしい…。
それでも、教え子たちは、
「先生には、絶対に出てもらいますから…。」
彼らは、やる気満々である。これまで何度、こんな会話を繰り返しただろう。
私が前回、三年間担任やら、学年主任をして卒業させた生徒は、現在高校2年生。
来春の卒業式ではない。しかし、それでも時折、
「先生、卒業式に出て下さいよ。」
などと声をかけてくる。
「嫌だ。君たちのお礼参りは勘弁。」
などと、逃げ回っている。
以前、
「さよなら。これまでありがとうございました。」
というメモだけを残して、学校を去っていった(退学した)生徒がいた。
ただただ泣き崩れ、ふて寝するしかなかった。
その朱鷺のことを、今でも鮮明に思い出す。そして、思い出しながらでも、涙があふれてくる。
教員を続けている限り、他の仕事よりも、『愛別離苦』が何度も訪れる。
そのたびに、自らの非力に打ちひしがれ、悲しみの淵に佇む。
結局は、「悲しみ」といいつつ、「自分には何もできなかった」という後悔の思いなのだろう。
だがやっぱり、『愛別離苦』は苦手だ。
これが私の人生最大の苦しみである。
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