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2018年10月24日

『大地讃頌』

中3が、明日から海外語学研修でオーストラリアに出掛けるので、現地で合唱する歌のリハーサルが行われた。その曲は『大地讃頌』。

語学研修のために少しずつ練習して、現地では学年全員で披露する。
私も大好きな、とても美しい混声四部合唱だ。

「聞きながら泣けてきちゃいました…。」
と、音楽の教員が走り込んできた。

「ずっと不登校で、学校に来ることができなかったS君が加わって、音楽が変わったんです。普段はほとんど会話しないS君が、大声で歌って、それが皆に伝わって、音楽が一つになっているんです。」
その興奮冷めやらぬ中で、熱く語っている。

この中3はトラブルの多い学年だった。
中1では、何人もの生徒が転校。
中2では、犯罪ギリギリの悪さを繰り返し、先輩からも後輩からもそっぽを向かれる。

そんな中で、三人目の学年主任の尽力と、彼らの成長により、今や中学を代表するような立派な学年に育ってきた。

団結力もあり、9月の文化祭では、舞台部門でも展示部門でも最優秀賞を取った。
今、底力のある、パワフルな学年として、いい感じで仕上がりつつある。
そんな中での海外語学研修。
その一つの出し物の一つが学年合唱『大地讃頌』だ。

私は、9月に行われた高校の合唱コンクールで、教員審査員を務めたが、そのとき
「泣けない合唱は、合唱ではない…。」
と言って、一人ひとりの力を合わせた、感謝のハーモニーを求めたが、彼らはまさにそれに近づいてきているということだ。

歌は、感謝を込めて歌うと、歌に力が湧いてくる。
歌そのものが、愛となって、人々の心を癒やしていく。

そんな歌声を求めて、私の学校では中学、高校ともに時期は違うが「合唱コンクール」を行っている。

「オーストラリアで歌声を通して、愛を振りまいておいで…。」

彼らを讃え、語学研修の成功を祈る。


大地讃頌




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男子よ、声を出せ

12月の合唱コンクールに向けて、クラスでの合唱練習が始まった。

昨日、男子のパートリーダーから、
「先生、昼休み暇ですか…。」
と尋ねられ、
「合唱練習なら付き合うよ。」
と、答えたら、まさにその通りであった。
おそらく、ふざけたり真面目にやらない男子がいて、そうしたメンバーを、パートリーダーがまとめきれず、男子全員のパート練習を成立させる自信がないのだろう。

発声練習ですぐに気づいたことは、
「ほぼ全員が声を出していない。」
と、いうことだ。
音取りで精一杯なら、まだ仕方のないことだが、音楽の授業でもある程度の指導はしているので、これは明らかに彼らの手抜き。自分たちの力の1割も出していない。

歌ではない。
ささやきである。
耳をそばだてれば、かすかに聞こえてくる、きわめて小さな音の振動である。

はたまた、隣の教室からは、同じく課題曲を歌っている男子の、爽やかで気持ちのよい声が響く。男子パートの半分の人数であるにも関わらず、よく声が響く。
しかし、一方の私のクラスでは、その十分の一程度の声量でしかない。
というよりも、歌ではない。

「誰かが吹っ切れないと、歌にならないな…。」
「まずは、普段から大きな声を出すことが大事かな。」
「それには、まず返事かな。」
「今までの、クラス運営の手抜きがツケとして回ってきたのかな。」

などなど、自問自答してみて、
「こりゃぁ、一本釣りかな…。」
という結論に至った。一人ずつ、やる気を出させる方法だ。

音程に自信があれば、声は出る。
本来中学生の声は、美しいのだ。
思春期特有の反抗期が、真面目にやることを格好悪いと勘違いし、それにつられて集団心理で同じように動く。

去年仕込んだ生徒は、大方、もう一方のクラスに入っているので、またゼロからの仕込みかな。

数年前に音楽の先生が替わってから、うちでは発声練習として『YUBA』を使っている。
当初は、このメソッドは役に立つのだろうか、と思ったが、今となっては、大切ツールの一つだ。
お手本を真似て声を出しているうちに、いつの間にか、声量がアップしていくことが分かった。

いよいよ、私も介入しなければならなそうだ。
今のままでは、中1にも負ける…。

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クラスを掌握する

昨日の自習で、男子があまりにうるさいということで、ある女子生徒が職員室に助けを求めにきた。そこで、若手の担任が教室に出動した。

「ちょと、男子、いい加減にしなさい。」
若手ながらも指導力のある女性の先生だ。その後、クラスの騒がしさは収まっていく。

実はこの自習、教室には担当の先生がいた。例の新人君だが、うまくクラスを掌握できなかったのだ。

私の新人の頃、自分の指導が甘く、先輩たちに指摘されたり、介入されたときは、顔から火が出るくらいの恥ずかしさを感じたものだ。

だから、私は、若手の先生の授業教室に、生徒を注意するために教室に乱入することは控えている。しかし、荒れて他に迷惑をかけている生徒は、放ってはおけない。

生徒から見れば、先生は先生。だが、ベテランの先生が介入してしまえば、
「あの先生は力がない。」
ということになり、ますます生徒は言うことを聞かなくなるだろう。
ただし、指導を任せるにも限度がある。
新人の先生には試練かもしれないが、恥ずかしい思いを乗り越えて、成長して欲しいと思う。

「○○先生、おもしろい…」
この新人先生の授業を受けている一人の生徒がつぶやいた。

私は、
「まだまだ見込みはあるぞ。」
と思った。

新人だったり、若手の先生だと、指導がままならず、生徒から馬鹿にされる傾向はある。
それは、いつの時代でも変わっていない。

私だって、若い頃、授業を担当していない生徒の掌握は、とても困難だった。

しかし、お互いに知り合い、少しずつでも信頼関係が生まれてきた時には、だんだんと教育活動が成立するようになってくる。ベテランの先生のようにはいかないが、曲がりなりにも先生っぽくなってくるのだ。だから、その意味でも、「おもしろい」と言われるのはよい。コミュニケーションの一歩とも言える。たとえそれが、馬鹿にする意味の言葉であったとしても、そのキャラクターは教育活動にはどこかで役に立つ。

「うるさくさせてしまって、すいません。」
今日、新人先生が私に謝ってきた。先生自身が、「何とかしなければ…」と思えるのなら、成長していけるだろう。一方、何も感じていなければ、かなりつらい。

明後日は遠足。新人先生にも役割を与えなくてはならない。

「どんな役割なら、彼にもできるのだろうか。」

今晩じっくり考えてみよう…。

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2018年10月23日

宿題提出状況チェック

週初めになると、宿題提出状況一覧を作るのが、学年主任の仕事の一つになっている。
先週一週間分の、各教科の宿題の提出状況を、クラス毎にリストにして、とりまとめの先生に報告する。

今日も、
「宿題提出状況の方向をお願いします。」
というメッセージが届いた。
最近は便利になって、PCでお互いメッセージやファイルを送り合うことができる。
うちは、全部署でChat&Messengerというフリーソフトを使っている。

本来、宿題のチェックは、授業担当者が行うものだ。
授業をする先生が、宿題出し、それをチェックし、定着を図る。
ところが昨今、学校全体として、「宿題を出さなくてもへっちゃら」というムードになり、さらにまた、
宿題を出させる指導のできない先生も増えてきたのだ。

「宿題くらい授業の一環として、授業担当がきちんと提出させなさい。」
と、いうのが私の考えだが、それができないから、担任の先生に
「○○君と□□さんが宿題を出していないので、先生からも注意して下さい。」
などと、臆面もなく、当たり前のようにお願いされ、
「おい、また△△先生から連絡来てるぞ。宿題だせや。」
と、おかしな伝言ゲームがなされている。

私だったら、
「○○君が宿題を出していませんので、催促してください。」
などとは恥ずかしくて言えない。まさに赤面もの。
「私は、宿題指導もまともにできません。」
と、皆に宣伝しているようなものだ。

もちろん、逆はある。
宿題を全く取り組んでいない生徒がいる若手の教科担当の先生に、
「宿題出していない生徒がいたら、言って下さい。私も協力しますから…。」
と、助け船を出すことはある。

しかしやはり、本来は教科担当の仕事だと思う。

『どう指導して、彼らをやる気にさせるか』
『どんな仕組みで、全員に宿題を提出させるか』
は、教師としての悩みではあるが、いろいろな方法も考え出すという醍醐味もあるだろう。

「宿題はいらない。授業で完結すればいい。」
という意見もある。
しかし私は、理解の早い上位の生徒なら、それでも定着するかもしれないが、こと暗記や繰り返し練習の必要な学習活動においては、絶対的な勉強時間が必要だと思う。

また、
「どうせ答えを写すなら、やらせる意味がない。」
と、考える方もいるが、そうした生徒には、『自分自身には嘘がつけないこと』や、『知的正直さ』をこんこんと語りたい。そのうえで、『学びの楽しさ、喜び』を伝え、少しでも興味を持たせ、やる気にさせたい。

教師が教育活動を拒否してはいけないと思う。

という訳で、今週も「宿題提出状況一覧表」なるものを作っている。
中には、報告がない先生もいるので、
「○○先生、先週の宿題未提出者の人数を教えて下さい。」
などと、聞き回る。

正直なところ、
「本当にこの表を作ることに意味はあるのだろうか。」
「宿題提出率が上がったら、指導がうまくいっていると言えるのだろうか。」
「このシステムにより、若手教員の養成ができているのだろうか。」
などなど、いろいろな疑問点が湧く。

本当は、特定の宿題未提出者への個別指導ではないだろうか。

学校あげて、一覧表作りをすることで、確かに宿題提出状況は高まった。

生徒たちに、「宿題は提出するもの」という、当たり前の認識が得られたならば、そろそろ、次の段階に来ているのではないだろうか。

さて、また先週分の「宿題提出状況一覧表」を作り始めるとするか…。

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2018年10月22日

水かけ合戦

掃除時間後、2階にある中学2年生のあるクラスでは、窓際にいたカメムシを、霧吹きで退治しようとしていた。

すると、上から水滴が落ちてきた。どうやら3階の高校生2年生の教室から水が垂れてきたらしい…。

中2は、高校生がわざと水を垂らしたと考えた。
だから、霧吹きをジェットにして、窓から乗り出し、3階の教室へ飛ばす。
しかし重力には逆らえないので、なかなか水は上まで届かない。

ところが、高2でも、同じようにカメムシ退治のために、水を吹きかけていたのだ。

つまり、中2は高2から水を掛けられたと勘違い、それに応戦するために水を飛ばしたのだ。
そのうち、その様子に気づいた高2の生徒は、今度は中学生から挑発されていると勘違い。

水かけ合戦は、お互いが水を飛ばし合う状態へと発展する。
そのうち、お互い挑発の言葉も飛び交い、一気に戦争状態に陥った。

中2の後輩から謂われのない攻撃をされた高2は、いよいよ頭にきて、バケツごと水をぶちまけた。
その一部が、窓から中2の教室に入り、教室は水浸しになった。

そこを先生に発見される。

中2と高2は、昨年の降雪時にも、雪玉を当てだの、当てられただののトラブルがあり、今回のメンバーはその再燃でもある。

高2から見ると、生意気な中2。
中2からすると、性格の悪い高2。

お互いがそんな思いで、対峙している。

幸い階をまたいでの戦いで、乱闘騒ぎにはならなかったが、状況によってはそうなってもおかしくはなかった。

お互いの行動や思いを想像できない、思いやりのなさが、こうした事件を招く。

相手を嫌だと思えば、相手からも嫌な思いで見られるのだ。
自分の立場のことしか考えられないから、相手が見えない。
相手の行動を客観しできないし、行動からその思いも想像できないのだ。

幼さ故の悲しさとも言える。

しかし、よく考え見れば、こんなことは大人の世界でも起こっている。
お互いが自分のことしか考えていないから、相手の行動が見えない。
何を考えているかも分からない。
立場に立って、冷静に考えれば分かることも、間違った判断をして、誤解してしまう。

すべては自己中心的な考えから来ている。

水かけ合戦で、社会の縮図をみたような気がした。












学力推移調査

今日は某社の学力推移調査。中学生は全学年この実力テスト(模試)が行われた。
うちは私立なので、中学校ながら年3回のこの試験を受ける。

検定外教科書を使った独自のカリキュラムで、中学3年間を学習させているが、「対外的な実力も測らねばならぬ」ということで、希望者ではなく、全員がこの試験に臨む。

試験を受けると言うことは、受けっぱなしということはあり得ないので、当然、学年ごとに目標設定と重点項目、そしてその結果どうであったか、の検証がなされる。

たとえ入学時の成績が今ひとつであっても、徐々に成績を上げていくのであれば、各教科(国・数・英)とも、指導がうまくいった、と判断されるわけだ。また、偏差値で輪切りにされた成績を見て、全体の平均が上がっても、「上位層が減った」とか、「下位層が増えた」となれば、「どこか指導にミスがあったのではないか」と、職員会議で指摘される。

私立学校としては、成績を上げていくことは、募集に直結する大きなミッションの一つ。
模試が近づくと、各教科とも、いろいろ工夫をしながら、点数アップに努めるのだ。

「実力テストなのだが、何もしないで受けたのが、本当の実力だろう。」
という考えもあるが、英語と数学は先取りで教えていることもあり、どこかでまとまった復習をしておかないと、それこそ、「定着率きわめて低い」ということになり、『先取り学習に意味があるのか』という議論にもつながりかねない上に、管理職からお叱りを受けることになる、という具合である。

だから、「復習して解ける問題ならば、解けるようにしておきたい、」
と、思うのが、先生たちの総意でもある。

最近は、生徒会企画でも、「模試の成績を上げよう」というイベントが行われ、学年、クラスごとで目標が決められ、時、大きく成績がアップした生徒は表彰される。集団での教育効果を狙ってのことで、まずまずの成果を上げてはいる。しかし、学校を休みがちの生徒は、なかなか積極的になれない。

そもそも、学校を休みがちということは、たいていの場合成績も芳しくない。そうした生徒が、たまに登校して、模試を受ければ、当然、その結果も今ひとつなわけで、全体としては平均点を下げてしまうことになるのだ。それを察してか、そうした不登校傾向の生徒は、この試験の当日は、学校を休んでしまう傾向が大きくなるのだ。

中学生なら、
「○○さんが受けたから、平均が下がった」
などと、臆面もなく言いかねない。
生徒主体で競争させると、こうした弊害が起こってくる。
「お互いに教え合おう、成績を高め合おう」というカルチャーは、ある程度学齢が上がらないと難しいのだ。

受験後は、解答用紙をコピーしての自己採点。
結果が戻ってくるまで、一ヶ月以上はかかるから、「やりっぱなし」ではなく、きちんとやり直しをさせようというものだ。

私は、模試の後にはこんな話をする。

模試は『実力を測る』、という意味もあるけれども、それよりも大切なことがある。
失礼だけど、この中に、『すごく実力がある』人はいない。
つまり、ほとんどの人が、『実力がない』わけで、残念ながらこの試験が、『実力がないことを確認するための』試験になっているわけだ。
『お金を払って、実力のないことを確認している』、というのはなんとも馬鹿らしい。
だから、発想を変えよう。
この模試を受けることで、とても良い問題集を買ったのだと思うことにしよう。
君たちには、詳しい解説冊子が配られた。ここには、答えや解説だけではなく、関連事項まで細かく説明させている。これを使わない手はない。模試は終わったが、その良問を、もう一度解く。
何度も解けるようになるまで、真に分かったと言えるようになるまで解く。
そうすることで、君たちの実力はぐんとアップする。
その意味では、実力テストで実力をつけたことになる。
この繰り返しで、君たちの実力はどんどん上がっていくのだ。


さぁ、これから自己採点。
今回もこの話をしなければ…。













2018年10月21日

校長の一言、「いつも私たちに尻拭いさせる」

いじめ案件のトラブルがあったのちの三者面談。
「相手が一方的に悪い」と思っていた父親は、私の、「お互いに傷つき、悪い部分があった」という一言に、激怒した。その場では、直接は私に言わなかったが、一ヶ月後に、母親からその思いを縷々綴った手紙が上層部に届き、私は呼び出され、問い詰められた。
「どうして謝らなかったのですか?」
と…。

三者面談時に、私は不覚にも
「ずいぶん機嫌の悪い父親だなぁ。」
と思っていたが、激情に駆られていたとは気づかなかった。

手紙は8割くらいは、妄想で、事実に反していたが、これ以上トラブルを避けたい校長らは、一方的に私が悪いことにして、保護者に謝罪する。

一部でも悪ければ、謝らなければいけない世界なので、それは仕方のないことと、私は、打ちひしがれながらも受け入れた。

「丹澤先生には、きっちり反省してもらいましたし、研修にも参加してもらいます。」
などと言って、保護者を納得させたらしい。
この件があって、今年度は彼女を私のクラスから外したし、その後その保護者とも会っていない。

学校現場では、こうした若干、理不尽だと思うことも、時折起こる。
「保護者の満足度を上げることが、学校の評判を上げることになるのです。それが募集につながり…。」私学では、まさにそのとおり。保護者から言う、不適格な教員がいれば、学校の評判は下がる、という訳だ。

このとき、校長は私に、
「丹澤先生は、いつも私たちに尻拭いさせる。」
と、言った。

さすがにこの言葉には傷ついた。

管理職だから、立場上そういう思いがあってもいいが、面と向かって言われると、何だか、人間否定され、「教員不適格宣言。お荷物教員宣言」されたように思った。

その後、何ヶ月も落ち込んだことを思い出す。
もうすぐ三者面談期間になるから、あれからもうすぐ一年になる。

もしかしたら、校長も私も似たところがあるのかも知れない。
校長と私、私と生徒の関係で、私も同じように、生徒たちを傷つけているのだろう、とも思う。

この歳ながらも、もっと褒め上手にならないと、「ただのうるさい老人教員」と思われる以上に、「信頼できない教員リスト」に入ってしまうのだろうな。

残念ながら、私の本心、『生徒のへの愛』は、保護者へは伝わらないらしい。
もちろん、校長にも…。
















2018年10月20日

駅伝の写真撮影

いろいろなドラマがあった駅伝練習。今日がその本番。
昨年は雨だったが、今年は綺麗に晴れた。
私は、今年も写真撮影。
いつも通りの場所に陣取り、選手を待つ。
手持ちの一眼レフカメラで、選手を狙う。
その間、4時間。

「先生、今年はどんな写真ですか?」
レース後、男子の第一走者のYが尋ねてきた。
「うん、変な写真だよ。」
だいたい、走っている写真の表情は、カメラ目線の写真とは違う。
連写で目の前を通過する選手たちの表情を狙っている私は、その写真の中に、学校を背負って走っている責任感と、全力を尽くそうと努力する、美しいスポーツマンの姿を見る。私にとって、表情など、たまたま見えてくる一瞬の出来事のように思える。

「やめてくださいよぉ。」
「第一走者は、団子で走ってくるから、撮影するの難しいんだ。」
というやりとりの後、
「僕は、去年の先生が写真を撮っている場所、覚えていたんで、わざと他の選手のそばにいたんですよ。」「え、そんなこと考えていたの。それがあと数秒で繰り上げスタート担ってしまった原因か?」
「違いますよ。頑張って、前の選手について行ったんです。」
正確なところは不明だが、確かに去年よりは早い。
残念ながら男子も最終走者が繰り上げスタートになってしまったが、もう後ろから選手が来ていて、ほんのあと何秒かで、たすきをつなぐことができたのが、今年のチームだ。
「えっ、やっぱり繰り上げになっちゃったんですか?」
と、がっかりしていたので、
「惜しかったなぁ…。もう、あとちょっとだ。」
と最大限に励ました。

スポーツの写真撮影は難しい。
特に走ってくる人間を、ズーム調整を変えながら、ピントを維持しつつ、シャッターを切り続けるのは、そう簡単ではない。だから、申し訳ないが、私は黙々と写真をとる。
連写で、「カシャカシャカシャカシャ」というのが、私の応援の声なのだ。
今の私の技量では、とてもとても、応援の声を出しながら、シャッターを切り続けることは困難だ。

「あと、ちょっとで繰り上げ逃れたんですよ。ほんと、惜しかったんですよ。」
バディをつとめた中2の選手が興奮して語る。
「来年は君たちがメインのメンバーだよ。」
「はい。」
まんざらでもない表情で答えた。

いい走りっぷり見せてもらった。
ほんとにありがとう。





















駅伝本番

今年も駅伝がやってきた。
写真撮影の特権で、少し遅れて会場に着いた私は、各校のテントを回った。
知り合いの先生や、お世話になっている校長先生に挨拶をするためだ。

ひと通り、挨拶を終えたとき、同じ市の学校の先生に声を掛けられた。
「市内駅伝では、先生の学校、すごかったですね…。どんな秘策を取ったんですか? それに試走の時も、みんな元気があって、とても気持ちよかったですよ。」

ありがたい言葉だ。
生徒はもちろん、駅伝の監督の先生や、試走の引率の先生たちも頑張ってくれたということだ。

当初、私の学校が駅伝に参加して、一番喜ばれたことは、
「これで、ビリにならずに済む。」
と、よその学校の先生に思われたことだ。新参の学校が入ってくれるなら、自分たちの学校の最下位は免れるだろう、という思いだ。
しかし近年、私たちの学校は、上位にこそほど遠いが、決して最下位にはなっていない。

他校のような長い練習期間もない。
朝練も、昼練もない。
唯一、協力する部が一丸となって、自分たちの活動をすべて投げ捨てて、駅伝練習に参加しているだけだ。

トップ校の、一般の部よりも早く走ってしまう、全国入賞クラスの学校はさておき、
「同じ中学生なのだから、そんなに差をつけられてたまるか。」
という思いもある。

さて、試走をサボった中2の選手だが、どうやらきちんと謝罪ができたようで、今朝はちゃんと参加していた。
うち一人は、昨日も練習に参加していなかったので、
「残りの二人は、きちんと謝って、連れて行ってもらうことになったんだよ。君はどうするの?」
と、プレッシャーを掛けておいたのだ。やればできるじゃないか…。

毎年、「来年は、もっと沢山の生徒を連れて駅伝に参加したい。」と思う。今年は去年よりは増えたので、来年はもっと増やそう。授業をやめて、中学校全員で応援に行ったっていい。
なんと言っても、この地区で、唯一全部の学校が参加する一大イベントなのだから…。

「僕は授業があるから、行けないよ。」
と、今日も応援に来なかった校長も、来年は、否応なしに巻き込んでしまおう。

少し色づいた公園内の駅伝コースに、爽やかな青春の風が吹き抜けた。




















子どもの事故

駅伝のレース中、幼児が自転車でコースを走ってしまった。
先導の係が
「選手通ります!」
と大声で叫ぶも、幼児には話が通じない。
先導の係は、自分の自転車を倒すようにして、幼児をかばい、選手のために道を開けた。
幸い、事故にはならなかったが、選手が幼児とぶつかったら大変なことになった。
公式試合なので、大会記録として有効かどうかも議論になるし、何より子どもが怪我をしたら、取り返しがつかないことになる。
先導の係は、どこかに不満をぶつけるかのように、
「お母さん、どこですか?」
と、叫んだが、母親はいなかった。

「お母さんは、赤ちゃん、いるから、おうち。お父さんはテニス。」

その幼児は、姉弟たちとその公園に来ており、父親はテニスをしていたのだ。
テニスコートの外側に、仮設の机などを置き、子供たちは、自転車を持ち込み、乗り捨てるように置いててあった。

その後、気の利いた人が、何が起こったか分からない幼児をなだめた。
そしてまた、別の人が、他の姉弟とその幼児をテニスコートに連れて行き、父親に引き渡した。

子どもだけで遊ばせるには、あまりに危険な場所であったのだ。
事故にならなくて良かったと思う。

子どもはどんな動きをするか分からない。
外界に対する認識力がきわめて低いからだ。

私も、幼い頃、父親に連れられてゴルフ練習場に行ったことがある。
父親は、ゴルフの練習をすべく、ゴルフボールを置き、懸命にゴルフのスイングをしていた。
そんな中、だんだん暇になってきた私は、「何か、父親の役に立てることはないか」、と考えたのである。そして、「そうだ。ボールを緑の上に置くことくらいはできる」、と思ったのである。
私は、ボールを一つ取って、緑の敷きもののピンに置こうとした。
そのとき、父親が私に気づかず、バックスイングをした。
父親のグラブは私のおでこに直撃して、そのまま救急車で病院に運ばれた。

私が覚えているのは、「痛いよー」と、泣いていたことと、手術室の天井のライトである。
幸い命に別状はなく、おでこを何針か縫っただけの怪我だった。
その後、父親はゴルフを辞めた。おそらく肝を潰したに違いない。一歩間違えば、息子を殺していたことになる。

子どもは、大人から見ると予想不可能な動きをする。
子どもの立場からすると、彼らなりに考えての行動なのだが、残念ながら周りが見えない。
自分の思ったことだけに集中してしまう。

人間が二十年近くも欠けて育てられるのは、学ぶべきことが沢山あるからなのだろう。
と、同時に、幼少期は余りに無力で、無防備は存在というになる。
こと、中学生にしても、まだまだ大人にはほど遠いのかも知れない。

とにかく、今日は事故にならなくて良かった。





















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