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2018年11月04日

永遠のお父さん

三者面談時に、
「先生は,高校の担任はやらないんですか?」
と聞かれた。
このところ、中学の担任が続いており、授業も中学ばかりになっている。
面談生徒の兄も、授業担当していたので、そんな風に聞いきたのだろう。

「やりません。」
と、きっぱり。
「私は、『愛別離苦』苦手なんです。」
と答えた。

「やりません」と言っても、本来決めるのは校長。

学年は配置などは管理職が決めるわけで、私自身の自由になるものではないのだが、私自身は高校での別れが辛いので、(「最大の苦しみは、『愛別離苦』」

打診されても、避けるようにしている。

高校生ともなれば、大人の話もできるし、分別もつく。
それを天秤にかけても、やはり『別れ』が嫌なのだ。

「やれって言われたら、学校、辞めちゃうかも知れません。」
このあたりが、私の強い思いでもある。

確かに、中学生は大変。
授業も生活も保護者対応も、どれも一筋縄ではいかない。
しかし、そこにやりがいがあるし、何と言っても、彼らと、『中学時代に、少しだけ私に関わらせてもらえた…』という自負が生まれる。

昨今は、中学校教員のブラック化が、激しく報道されているが、世の多くの先生たちも、少なからず私と同じ思いをしているのではないかと思う。

そのモチベーションが、ある意味、過酷(?)な職場環境であっても、元気よく機嫌良く仕事ができているエネルギー源なのだろう。

その保護者は、
「先生は、永遠のお父さんなんですね。」
と言って、にこりと笑った。













本当に成果が上がっているんですか?

毎週、火曜日と金曜日の放課後、成績不振者が教室に集められて、強制参加の補講が行われている。
その放課後補講が始まって半年。
「このシステム、成果を上げているのでしょうか。」
三者面談で、ある女子生徒の保護者からこんな声を聞いた。

「相変わらず、成績の悪い子を集めているんですか。」
はじめは、その保護者の意図がよく分からなかったので、当たり障りのない返答をしていたが、話しているうちに、どのような考えなのかが分かってきた。
要は、こうした『成績の悪い人を集めて行う放課後補講は意味がない』、と言いたかったようだ。

「先日、弓道の大会を見に行ったんですけど、あまりにかわいそうで、かわいそうで…。」
この方は、結論を一番最後にお話される方で、これだけ聞いても、何のことだか全く分からなかった。

「的に矢が届かない子がいるんです。これって、大会運営側にも失礼じゃないですか? それに、全然練習していないと言うことではないですか?」
要は、「勉強ばかり強制的にやらせて、部活をさせていないので、試合に出ても恥ずかしい状態で、これではあまりに生徒が気の毒だ」、と言うのだ。

私の学校では、特別に許可された部以外の部活の活動日は週3日。月、水、土である。

「火曜日や金曜日に練習することはできないんですか? とにかく練習不足で、かわいそうです。どうしてもっと、やらせてあげないんですか?」
と言う。

「大会前は、特別に練習が許可されることもありますが…。」
と、恐る恐る答えると、
「それって、どのくらい前ですか?」
「一週間前くらいですが…。」
「それじゃ、足りませんね。」

そして、畳みかけるように、
「ほんとうに大丈夫なんですか? このままのシステムでいうんですか? 生徒たち、ストレスがたまっていませんか? 勉強が苦手な子は、思い切り体を動かして、ストレスを発散させてから、勉強させた方がいいんじゃないですか? 本当に成果が上がっているんですか? 検証したんですか?」
と、来た。

昨年度は、『たくましい子を育てる』という校長からの方針のもと、部活は希望すれば、回数を増やすことができた。ところが、今年は一転、『勉強重視』に方針が変わり、大幅に部活動が制限されたのだ。
おそらくは、「放課後に勉強させない学校ならば、うち子は預けられません。」などという意見を聞いての方針転換だろうが、現状では、大した成果も上がらず、教員も生徒もそのシステムに疲れている。

「中学生なんだから、もっと体を動かさせて、文武両道で鍛えて下さいよ。」
そう、強烈に訴えられた。

すでに次の面談時間になっていたので、話は打ち切らざるを得なかったが、納得はされてはいなかった。

学校宛てにお手紙でも書いてくれないかな…。

私の学校の場合、教員が何を言っても管理職は耳を傾けないが、保護者の一言には過敏に対応する。












2018年11月03日

山車を引く

今日は地元の秋祭り。
江戸時代中期から伝えれている伝統的な祭りだ。
昨年は、高校が出店を出し、何人かが山車を引かせてもらったが、いよいよ今年は、中学生にも山車を引かせてもらった。私が面倒を見ている部活を中心に、有志を10名をほど集めての参加だ。

山車には囃子連が乗り、祭り囃子を演奏し続ける。その山車を、大勢で町中を引き回すのだ。
上町と下町の二台の山車が練り歩く。
途中、二つの山車が出会うところが、祭りの最高峰。激しく祭り囃子が競い合う。

学校は、地域に受け入れられてこそ、一人前に近づいていく。
だから、地域からの要請があろうがなかろうが、地元の行事には、できる限り参加するのが、たとえ私立学校いえども、大切な仕事となる。

「先生、どこまで行くんですか?」
「何時に休めますか?」

大体、私自身が初めての参加なのだから、分かるはずがない。
「知らん。分からん。」
で、通し続けた。

時々気を利かせてくれたお世話人が、私に予定を伝えてくれたのだが、面倒なので、いちいち子どもには伝えなかった。

引率の私は、生徒たちの安全確保が最大の仕事。
全員、保険に入れてもらっての山車引き参加だが、無事に役目は果たした。

途中いろいろな方に、声を掛けられ、励まされた。
そのたびに、地元の方々の祭りにかける熱い思いが伝わってきた。

たとえ、地元を離れていても、この祭りに合わせて帰省するのだと言う。
また、祭り囃子も、代々若者に引き継がれている。年中練習している。
さらには、祭りを運営するのは、若衆たちで、長老たちにアドバイスを受けながら、自分たちで運営していく。

二つの山車が出会い、祭りが最高潮に達したとき、祭り囃子がさらに激しくなる。
自信と誇りの中で、若者が太鼓を叩き、笛を吹く。
それを目の前で見ていると、何だか、泣けてきた。
心を激しく揺さぶられる。

夜にも、もう一度、山車が出会う。だが、今回は時間の関係で参加しなかった。
来年はこれにも、参加すべきであろうと思う。

果たして、生徒たちは地元から可愛く、そして頼もしく見えただろうか。

来年の祭りに、どのくらいの生徒が
「また参加したい!」
と、言ってくれるだろうか。

帰校して教頭に報告すると、
「こちらでもきちんと報告しますから…」
と言う。
昨今は、学校が地域とどれだけ関わっているかも、報告対象らしい。

どうも、私の感覚とズレている。

私は、生徒たちには、普段はなかなかできない希有な経験をさせたいと思っているだけなのだが、管理職は、どうやらそうは思っていないらしい。

「先生、来年も参加できますか?」
生徒の一人が言う。祭り男が一人いた。

「疲れたけど、地元の人が喜んでくれるなら、僕たちまた行きますよ。」
そう言ってくれると、私も嬉しい。

「逆にちょっと、地元の人に、気を遣わせ過ぎたかな。」
とも思う。まだ、ちょっとお客さん扱い…。

さらに一段と、地域へ溶け込んでいかねば…、と感じた一日になった。












泣いた担任

「私のクラスの生徒が、あなたを傷つけてしまって、本当に申し訳ありません。すべては、私の指導力不足です。本当にすいません…。」
と、いじめ謝罪の時、感きわまって若い女性の担任が泣き出した。

私の学校では、いじめの謝罪は、当事者およびその担任、学年主任、生徒指導担当らが同席して行う。感情的になり、話をややこしくする恐れがあるので、保護者は同席させない。

その姿を見て大慌てしたのは、当の生徒たち、「自分たちの担任を泣かせてしまった!」と、その後、大急ぎで職員室にやってきた。
「先生、泣かせてしまってごめんなさい。」
神妙な面持ちで、彼らはそう言った。

今回の件で、心から反省できたかどうかは分からないけれども、少なくとも、自分たちのせいで、担任を泣かせてしまったことは事実。だから、「今後は、同じような過ちはしないように気をつけよう」、という気持ちにはなっただろう。

精神的発達の遅れがちな中学生は、何度も過ちを繰り返す。
一つのことが駄目と分かれば、そのことはやらないけれども、また別の問題を起こす。
大人の目から見れば、どちらも同じようなもので、関連づければ分かること、だと思うのだが、彼らには、それが通用しない。それぞれ全く別のことだと認識してしまうようだ。

反省し、謝罪が終わっても、彼らは、また別の関連した間違った行動をするだろうとは思う。
認識力が上がってくるまでは、何度も指導を重ねなければならないだろう。

昨今の中学生は、自分たちを客観視できない。
刹那的な日常の反応によってのみの、喜怒哀楽を作っており、関連性によっても物事を見ていないのだ。

テレビドラマも、最近のものは、精神面の描写が薄いように思える。役者の演技力が落ちている面もあるが、ライトノベルの実写化による影響も大きいだろう。

人間の心の奥底には、他の誰とでもつながっている光の筋がある。
そのつながりを愛と呼ぶことにすれば、人が互いに引きつけ合うのも愛があるためだ。

どんな指導法にせよ、生徒の心の奥にある愛の部分をくすぐり、呼び覚ますことができれば、生徒指導はうまくいく。

そのためにも、教員自身が、心を磨き続けていなければなるまい。













2018年11月02日

子どもは失敗を通して学ぶ

学校の食堂で昼食中の出来事。
私の学校では、給食は食堂で提供される。
入学当初は、学年で食べるが、その後は、時間内であれば、自由に誰とでも、どこに座って食べてももよい、ことになっている。

ある日の昼食事時、男子中学生が悪友同士で座っていたところ、高1の女子生徒が近づいてきた。
そのとき、一人の生徒が、
「あっ、デブが来た。」
と、口走ってしまった。女子生徒は、不規則な生活習慣により、肥満体質になっていたのである。
その場にいた男子生徒たちは、その言葉につられ、馬鹿にしたように笑ってしまった。
女子生徒は、「デブ」と言ったその声も聞いていたし、笑っている姿も見ていたのである。
そして、そのまま、トイレに駆け込み、泣き崩れる。

残酷な出来事だ。
普段から、言葉の調律ができていないその男子生徒は、反射的に言ってしまったのだろうが、その行為によってもたらされた結果は、とても重いものになった。

女子生徒は不登校の生徒だった。
朝からなかなか起きれず、やっと起こして、登校させ昼食を食べさせようとした矢先に、この事件が起こったものだから、その影響は計り知れない。

私は、口走った男子生徒が、一人しかその場にいなければ、おそらく口をついて出ることはなかっただろうと思う。周りに遊び友達がおり、気を抜いた中で、周囲の状況も考えられずに、自己承認欲求の中で、こうした行動をとってしまったのだと思う。
この生徒は、入学以来、何度となくこうした失敗を繰り返している。

「学年やクラス全体で食事をしていれば、こうしたことは起こらなかっただろうな。」
一瞬、私はそう思ったが、しかしすぐに、これでは対症療法にしか過ぎないことに気がついた。

『先生がそばにいる中では、悪さをしない』、という状況ばかりを作り出していても、生徒の精神的な成長は望めない。自発的に、善悪の判断をし、客観的に自分を見つめる力を培わなければならないからだ。

その場にいて、一緒に笑ってしまった生徒も、『いじめ』としては、加害者の一人。
彼らを一人ひとり因果を含めて反省させた。

また、相手の心をひどく傷つけたことには変わりないので、学年主任、担任など教員立ち会いのもとに、謝罪を行う場を設けた。

これで彼女の心が癒やされるとは思わないが、一つの区切りとしては、保護者への報告ができるだろう。

子どもは失敗を通して学ぶ。
その失敗が、その後の人生に活かされるように、教員は、ほんの少しの手助けをする。

たとえ、保護者からの抗議により、学校が窮地に立たされたとしても、一番は『生徒』のことを考えなければならない。

これが、教員がサービス業と言われるゆえんだろうか…。












2018年11月01日

地獄的ないじめの構図

「ここにE君がいます。」
そう言いながら、私は黒板に一つの丸を書いた。
「そして、これがK君です。」
と、そばにもう一つの丸を書いた。

K君がE君をいじめている。
いじめられたE君は、負けじと一生懸命応戦する。一人相手なら、なんとかなることもある。
そこへ、新たにO君がやってきた。何か面白いことをしているように見えたのだ。
O君は、K君がいじめている姿を見て、E君が応戦しているのを見て笑っている。
ここで、O君、K君は一つのグループになる。笑ってみているだけでも、それは同罪。
ここで2対1のいじめの構図が完成する。

そこに今度は、F君がやってきた。「何、やっているのの…」と、グループに加わる。
F君は、この状況を見てはやし立てた。さらに騒ぎを大きくしたのだ。
ここに3対1のいじめの構図になった。

さらに二人がやってきて、仲間に加わる。その二人は、その様子を見て、ただ笑って見ている。ニヤニヤしているのだ。これも、いじめの仲間。
これで、とうとう5対1のいじめに発展した。

こうなると、E君はもう、太刀打ちできない。言われるがまま、なされるがままになる。
たとえ、肉体的な暴力ではなくとも、言葉の暴力は、E君を傷つける。
言葉は生き物だから、いうろいろな形に姿を変える。
暖かな愛の形にもなれば、鋭利なナイフや、矢、銃弾のようにもなる。

ここにあとから集まったグループのメンバーは、必ずこう言う。
「僕は何もしていません。ただ見てただけです。」
「ただ笑っていただけです。」
「止めようと思ったんですけど…。」
「僕だけじゃありません。」

そして、最初からいたK君のような立場の人は、必ずこう言う。

「深い意味はありません。」
「何となくやったんです。」
「つい、口をついちゃって。」
「別に傷つけるつもりはなかったんです。」
「反射的にやっちゃいました。」
「ふざけただけです。」
「だって、あいつが…だから。」

一方で、これを天国的な逆の構図にしたらどうだろう。

悩んでいるE君がいて、そこにK君がやってくる。
「どうしたの?」
と、優しく声をかけて、
「僕にできることがあったら、なんでもするよ。」
と言う。
次にやってきたO君も、
「一緒に解決していこうぜ。」
と、心に寄り添う。

つぎにやってくる二人も、優しく接する。
これが、集団で、一人を救済しようという構図になる。
これが天国的なスパイラル。

集団で一人を責めれば地獄。
皆で助け合おうと、手をさしのべれば天国。

地獄的な構図にならないためには、一人ひとりが、自立すること。
安易に流されないこと。
本能のままに生きないこと。
周りのことを考えて行動すること。
次に起こりうることを予想して、発言すること。

こんな注意が必要となる。

これが、今朝、私が朝の会で私が話したこと。

その間、ずっと校長が私の話を聞き続けていたことも銘記しておく。

TANP

Slim Slender(スリムスレンダー)

あったか【定率】

什の掟

会津藩校『日新館』に入学する前の遊び仲間(6歳〜9歳)が、毎日唱和し合う戒律に、『什(じゅう)の掟』というものがある。

『日新館』の講話の中で、この『什の掟』の紹介は、生徒たちのインパクトが強い。

今で言う、小学校低中学年が、このような決まりを守りながら生活していたことに驚くのだ。
もちろん、それ以上の年齢には、それに応じた心得があるし、学びの内容も、極めて高度でかつ実学に沿っている。

遠足で見学した施設の中で、時程の遅れにより、最も滞在時間が短かったにもかかわらず、生徒たちが一番印象に残っているのが、『日新館』であった。

昨日、まとめとして、「遠足で見つけたクールジャパン」というテーマで、班ごとにポスターを作らせたが、そのほとんどが『日新館』を特集したポスターだった。

 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです


このうち、『戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ』は、さすがに現代の世の中では当てはまらないものだが、その前の、『戸外で物を食べてはなりませぬ』は、少しその文化が残っている。

世の中がアメリカナイズされて、歩き食いが違和感なくなってきた昨今だが、多くの学校では、食べながら廊下を歩いていたら、さすがに注意を受けるだろう。

しかし、最初から5つめまでは、現代でも通用する道徳訓であろうと思う。

会津武士は、幼少期から、『什の掟』によって、武士道につながる潔さを体得していたのだろう。

最終行の『ならぬことはならぬものです』は、「固く守るべきものである」という意味だそうで、「駄目なものは駄目」という意味ではないそうだが、どちらも「きちんと守れ」という意味は含まれる。

『日新館』は、『国の発展の基礎は人材の育成、すなわち教育にあり』という考え方により、設置された藩校である。各藩で競って藩校が設置されいくが、会津藩も優秀な人材が育っている。

現在の学校も、この考えに変わらない。

教育が荒廃すれば、社会が乱れ、国は衰退していく。
また、間違った思想を教育すれば、国の進む方向は間違ったものになる。

『自分たちにはとても真似できない厳しい生活の中で、学び、身体を鍛え(文武両道)ながら生活していたんだ。』、ということがよく分かった。

そんな感想が目立った。

「遠足という名の社会科見学」とも揶揄されたが、彼らなりに学びが得られたらしい。













2018年10月31日

不幸の言葉

最近、中2男子の行動が目に余るので、朝の会でプレッシャーをかけてみた。

最近、返事も小さいし、発言もぼそぼそと話す人が多い。
しかし、その一方、自分の気に入らない事があると、大声で叫んだりする。
きちんと話さなければならないときは声が小さいのに、文句を言うときの声は大きい。
人を褒めるべき時は、しらけていて、人への不満は皆に聞こえるように言う。

何かおかしくないか。
自分の欲望のままに生きていないか。
周りのことを見ることなく、自分のことばかりを考えていないか。
動物的に、自分に都合の悪いことが起こると、かっとして、歯をむき出しにしているのではないか。

また、一人ではできないのに、徒党を組み、集団で他への非難をする。
みんなでやれば、罪が軽くなるという、いざというときの逃げの気持ちがあるのではないか。

さらに、5時間目には、次の校外行事に向けての学年集会があったので、もう少し具体的に話をしてみた。

反射的に出てしまう、不幸の一言が、周りの人を傷つけている。
例えば、「デブ」、「ハゲ」、「死ね」、…。

言った本人は、「何となく言っちゃったんです」、という。
「考えずに出ちゃった言葉なんです」、とも言う。
「深い意味はないんです」、などと逃げる。

しかし、その言葉によって、多くの人が傷つき、打ちひしがれ、悲しい思いをしている。
元気なときは、笑って流すことができることもある。
だが、その人が悩みの中にあったり、体調が悪く苦しかったり、解決できない問題を抱えていて精神的に辛いとき、その言葉を浴びせられたら、本当に傷つく。

「死ね」、の一言で、本当に自殺してしまう人もいる。
こういう人は、日本のみならず、世界中にいるんだ。
本当に自殺してしまったとき、君たちはその重みに耐えられますか?

「ふざけていたんです。」
「悪気はなかったんです。」
「冗談だったんです。」
「本気じゃないんです。」
と、どんなに取りつくっても、その罪は一生消えない。
そして、心に深い傷として残り、それを一生背負って生きていかなくてはいけない。

簡単に安易な言葉を発してはいけない。
反射的に、物ごとを考えずに、言葉を出してはいけない。
その言葉によって、どう周りに影響していくかを考えにうちに、不幸の言葉を言ってはいけない。

「死ね、とは絶対に言ってはいけない。」
と、入学の時から言い続けている。

しかし、未だに反射的に言ってしまう人がいる。
直せない人がいる。
そういう人は、自分をコントロールできない悲しい人だ。

マイナスの考えは、マイナスの結果を呼び込む。
不幸の言葉は、不幸を誘い込む。

そうした思いに、心を向けてはいけない。

悪魔のささやきに負けてはいけない。

心を整え、天国的な生き方をしよう。
呪いの言葉ではなく、祝福の言葉を出そう。

どこまで生徒たちの心に届いたかは分からないが、第一の矢は射った。












生徒たちが愛おしい

授業を受けていると、まあまあ得意な科目と、そうでない苦手な科目に分かれがちだ。
試験前でも、苦手科目は、ついつい後回しになり、結局、大した点数を取ることもできずに、さらに苦手意識が増大する。
そこで、『苦手科目を克服するために、この先自分が何をなすべきか』、を書いてもらった。

まずは、「自分を見つめる」ことから始まる。
自分の苦手科目は何か。そして、その苦手科目はいつから、そうなってしまったのか。
苦手科目に対して、自分はどのように授業や勉強に取り組んでいるか。
課題提出や、授業参加などは、どうか。
こんなことを考える。

そして次に、「自分はこの苦手科目をどうしたいのか」、について考える。
このまま苦手科目のままでよいということはないだろう。
また、この苦手科目を、いきなり得意科目にすることも、並大抵なことではないだろう。
しかし、自分は将来、この苦手科目をどう克服していきたいのか。
最終的な理想像は、どんな姿なのか。
そうした未来ビジョンを思い描く。

次に、この「苦手科目に、この先自分はどう取り組んでいくか」、について思いを巡らす。
具体的にどのような努力を重ねていくつもりなのか。
勉強の仕方で、どう工夫していくのか。
少しでもこの科目の勉強を進め、理解し、分かるようになるために、自分はどうすべきなのか。
などと、考える。

これらを誓願のような形で、記入し提出するという訳だ。

しーんと静まった教室の中で、穏やかなバックミュージックを静かにかけながら、20分ほど記入の時間を作った。

そして、書き上げた人から順次提出。

その一人ひとりの姿は、誇らしく見えた。
人は、目標を明確にし、努力すべき具体的な項目が見つかると、爽やかな気持ちにすらなる。

生徒たちが心を込めて書いた、思いを込めたものを提出する姿を見て、私は、生徒たちが愛おしく思えた。

これまで、中1から中3までの持ち上がりで何度か、担任を務めている。
今の学年は、なかなかこうした『愛おしさ』を感じなかったのだが、今回、とても強くそうした思いに駆られた。私も歳をとってきた、ということだろうか。

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2018年10月30日

意識を飛ばす

「先生、ハサミを返して下さい。」
「だってまた、傷つけるんだろ。」
と、一度は渋って見せた。
「もう、しませんから…。」
何度もハサミで自分の腕を傷つけていたSさんが、職員室の私の元を訪ねてきたのは、もう二週間くらい前になる。

彼女は、時々意識を飛ばす。
自分の中に他の人格を入れ、自分でない者に身体を支配させるのだ。
宗教的には、自覚的に他の霊を憑依させるということになる。

だから、時々、
「先生、先生、またSちゃんがおかしいです。」
などと、Sさんの友人が、あわてて職員室に駆け込んでくる。
自分では、こうした危険な遊びはやってはいけないことだとは思っているのだが、疲れたときや体調不良のとき、あるいは生理の時などにやってしまう。

別の人格になった時は、自傷行為をする。
最近は、自分の足首に傷をつけ、何十もの切り傷をつけた。

勉強が遅れることを、極端に嫌うので、何日も学校を休むことはないのだが、しんどい時には、わざと意識を飛ばしているようだ。

本人は、別の人格が支配しているときでも、記憶がある。本当の自分の意識がそばにいる。

私の見立ては、『現実逃避』なのだが、心の奥底には、解決し切れていない悩みを抱えているのかも知れない。

呼び込んでいる別の人格、支配している者がおとなしいものであれば、まだよいのだが、これが、自殺をした霊になった場合は、衝動的に同じ方法で自殺する可能性があるので、極めて危険だ。

「逃げるな。自分自身と立ち向かえ。」
と言いたい。だが、まだその重みに耐えられるまで回復していないのが苦しいところ。

必ず良くなる。必ず解決する。必ず自分自身の力で立ち上がる。

そう願って、信じて、祈っている。












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