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第294回 労働運動の精神 [2016/07/13 22:27]
文●ツルシカズヒコ
月刊『労働運動』(第一次)第一号が発行されたのは、一九一九(大正八)年十月六日だった。
タブロイド版十二頁、定価は二十銭。
大杉が創刊趣旨を書いている。
労働者の解放は労働者自らが成就しなければならない。
これが僕らの標語だ。
日本の労働運動は今、その勃興初期の当然の結果として、実に紛糾錯雑を極めてゐる。
頻々として簇出する各労働運動者及び各労働運動団体の、各々の運動の..
第277回 演説もらい [2016/07/05 14:23]
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年初頭のころから、北風会のメンバーは「演説もらい」を精力的にやり始めた。
翌年に北風会に参加する詩人・岡本潤が「演説もらい」に言及している。
そのころ、いわゆる大杉一派のアナーキストたちは「演説会乗っ取り」という戦法をよくつかっていた。
他で主催する演説会へ押しかけていって、聴衆のなかへもぐりこみ、反動的な演説に対して猛烈な弥次をとばしたり、機をみて演壇へ駆けあがって反対..
第269回 無遠慮 [2016/07/02 10:29]
文●ツルシカズヒコ
大杉一家が南葛飾郡亀戸町から、北豊島郡滝野川町田端の高台の家に引っ越したのは、一九一八(大正七)年夏だったが、この家には大勢の労働者、同志が出入りするようになった。
和田久太郎はこのころの野枝が一番よかったと回想している。
亀戸から田端へ移つて、それから西ヶ原、中山、駒込曙町と家を変つたが、此の間(あひだ)の、即ち大正七年の暮れから大正九年の夏頃までの野枝さんは中々よく活動した。
僕は此の頃が..
第264回 茶ア公 [2016/06/28 16:40]
文●ツルシカズヒコ
亀戸で『労働新聞』を出していたこのころのある朝の出来事を、野枝は「化の皮」という作品にした。
朝の七時ごろ、玄関の戸を開けている和田に、取り次ぎを頼んでいる男の声がした。
野枝と大杉はまだ床の中にいたが、和田が名刺を持って来た。
「法学士弁護士」という肩書きのYという男の名刺だった。
野枝は起きるとすぐに台所に立ったので、その男の顔を見なかったが、座敷に入る後ろ姿を見ると、頑丈そうな体を持っ..
第263回 戯談 [2016/06/28 16:34]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年四月七日、赤坂の福田狂二の家で「ロシア革命記念会」が催された。
広義の社会主義者の内輪の集まりだった。
堺利彦、大杉栄、荒畑寒村、高畠素之といった各派の顔合わせであり、馬場孤蝶、当時まだ早稲田の学生だった尾崎士郎なども出席していた。
和田久太郎『獄窓から』(「村木源次郎君の追憶」)と近藤憲二『一無政府主義者の回想』(「村木源次郎のこと」p78~79)が、この会合について言及して..
第261回 MAKO [2016/06/27 10:12]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年三月六日の夕方、野枝は牛込区市谷富久町の東京監獄から、南葛飾郡亀戸町の家に帰宅した。
野枝は大杉に宛てて手紙を書いた。
今日は、あの寒い控所に小半日待たされました。
そして碌そつぽ話も出来ないんですもの、あれではあんまり呆気なさすぎますわ。
本当に、文字どほりに『面会』と云ふだけなんですね。
話くらい、もう少し自由にさしてもよささうなものですのにね。..
第260回 東京監獄・面会人控所(六) [2016/06/24 22:01]
文●ツルシカズヒコ
やがて村木が帰って来た。
「どうでした和田さんは?」
「ええ、元気でニコニコしてましたよ。これからゆっくり勉強するんだなんて言ってました」
少し話すと、村木は今夜また会うことを約束して、先に帰った。
野枝のポケットの時計は、もう四時近くを指していた。
三十分ばかり前から、入口を出たり入ったりしているふたりの男がいた。
ふたりとも揃いも揃つて、薄い髯がボヤボヤ生え、眼の細..
第253回 日本堤 [2016/06/19 12:07]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年三月一日、下谷区上野桜木町の 有吉三吉宅で開かれた労働運動研究会例会に参加した、大杉、和田、久板、大須賀健治の四人は、池之端のレストランで食事をしながら直接行動と政治運動との是非を議論した。
大須賀は山川均の死別した妻、大須賀里子の甥である(『橋浦時雄日記 第一巻』)。
山川を頼ってこの年の一月に愛知県から上京し、二月に堺利彦が経営する売文社に受付係として入社したばかりだった(堀切..
第252回 僕の見た野枝さん [2016/06/17 14:00]
文●ツルシカズヒコ
野枝が『文明批評』一九一八年二月号に書いた「階級的反感」は、同志たちの間で反感を買ったようである。
『橋浦時雄日記 第一巻』によれば、二月十四日、橋浦が大久保百人町の荒畑寒村の家を訪れた際も、その話題になり橋浦と荒畑は笑談したという。
そこに大杉も現われ、大杉と橋浦は荒畑からお汁粉を振るまわれた。
大杉は橋浦と荒畑に「階級的反感」について、どんな見解を示したのであろうか。
橋浦は翌日の日記に..
第250回 東洋モスリン [2016/06/16 12:53]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、和田久太郎と久板卯之助が、南葛飾郡亀戸町の大杉家に同居することになったのは一九一八(大正七)年一月の末だった。
一九二二(大正十一)年一月、久板は天城山猫越(ねっこ)峠で凍死するのだが、大杉が書いた久板への追悼文「久板の生活」に、この同居の際の逸話が記されている。
同居することになったふたりの荷物を見て、野枝が大杉にそっと言った。
「布団のようなものがちっともないようで..