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2018年06月30日

ワールドカップ雑感(六月卅日)



 久しぶりの期待できそうな日本代表の試合に、仕事を早めに切り上げて帰宅してテレビを付けたのだが、前半はまだしも後半はつまらなくて見ていられなかった。特に終盤の攻めるのをあきらめてのパス回しには、あちこちから非難の声が上がっているようだけれども、特に大騒ぎするようなことでもないと思う。非難するのは非難する人の勝手だし、つまらない試合見せやがってと、見ているときには腹が立ったけれども、グループステージを勝ち抜けることがあの時点での一番の目的だったのだとしたら、そのために一番合理的だと考えられる手段を選んだということなのだろう。
 チェコテレビがハーフタイムにプラハのスタジオから放送した番組で、アナウンサーと解説者たちが、ポーランドが1-0で勝って、コロンビアも1-0で勝ったら、イエローカードで決まるんだなんて話をしていたのだが、さすがにそんなことにはならないだろうと、前半は日本もそれほど悪くなかったし、話によればコロンビアのほうが劣勢だったらしいから、考えていた。解説者たちもそうなったら面白いけどねえと冗談交じりの話だったのだけど、現実にこんな事態が発生すると予想していた人はいるのだろうか。
 こんな他人事めいた感想を漏らすのは、サッカーでも日本代表よりもチェコ代表を応援するようになってひさしいからなのだが、チェコ代表があんなプレーをしたらどんな反応をするだろうか。個人的には、監督がブリュックネルだったら賞賛するし、ブリュックネル以外の監督だったら批判してしまうだろうと思う。ブリュックネルであれば、勝っても負けても酷い試合になっても、最終的な勝算があってあえてやっているのだと信じることができたのだ。それに対して他の監督の場合には打つ手がなくてああなったと理解して、ぼろくそに批判していただろう。監督とチームに対する信頼感というものがブリュックネル時代とそれ以外では雲泥の差なのである。

 今大会、ドイツがグループステージで敗退して大騒ぎになっているけれども、韓国に負けて敗退が決定したのは確かに意外である。ただ、敗退自体はすでに主審とビデオ審判に助けられたスウェーデンとの試合で決まっているはずだったのだから、それほど意外でもない。むしろ意外なのは2004年のヨーロッパ選手権のことを思い出す人がいないように見えることである。
 あの時、大会前のチェコは悲観的だった。ドイツとオランダと同じ組に入れられて、いかに監督がブリュックネルとはいえ、2002年のワールドカップの予選で惨敗したチェコが、ドイツとオランダのどちらかを押しのけられるのか、期待はしていても懐疑的な人が多かったと記憶する。自分自身も第二戦でオランダ相手に、今でもチェコ代表と言えばこれというぐらい語り草になっている大逆転劇を演じて勝ち抜けを決めるまでは、最後の試合でドイツに負けて終わりじゃないかと思っていた。
 それが、二戦目で勝ち抜けを決めてしまったのである。その後、ブリュックネルはドイツ戦にほぼ全員控え選手を出すというあからさまな戦力温存策にでて、一度はオランダを絶望させるのだが、チェコの控え選手たちがドイツに勝ってしまったのだ。やはりブリュックネルというのはとんでもない監督だったのだ。こんな実績があるから、ブリュックネルでだめならどうしようもないというあきらめもついたし、ブリュックネル以後のチェコ代表の低迷ぶりを見ると監督の存在の大きさというものを感じてしまう。あの頃は特にいい選手たちが集まっていたというのは、その通りだけれども、当時の控え選手と今の代表選手の比較なら大差はないと思う。

 そこで、疑問なのは、ワールドカップでフルメンバーの韓国に終了間際に点を入れられて負けたのと、ヨーロッパ選手権で勝ち抜けを決めて負けてもいいチェコに、それも控え選手ばかりのチェコに、先制はしたものもあっさり逆転されて完敗したのと、ドイツにとってどちらが大きな衝撃だったのだろうか。アジアに負けたということで韓国になるのかなあ。
 チェコ的に大衝撃だったのは、2004年の好結果を受けて、久しぶりに出場を決めた2006年のワールドカップで、好成績を上げるのはもちろん、優勝を期待する声さえあった中で、一試合しか勝てずに敗退したことだった。ファンもマスコミも天狗になっていたのだよ。ブリュックネル以降のチェコ代表は、抜け殻のようなもので、最近は試合を見ていちいち腹を立てるようなこともなくなってしまった。2016年のヨーロッパ選手権の予選の段階ではちょっと復活したけど……。
 それに比べれば、日本代表のファンは幸せである。ワールドカップへの出場を決めたチームを批判するだけでなく、グループステージを勝ち抜けを決めてなお批判の対象にできるのだから。それは、ワールドカップ前の親善試合でオーストラリアに惨敗したチェコ代表に、しょうがねえなあという感想しか持てず、正直どうでもいいやと思ってしまった人間にとっては、ものすごくうらやましいことである。
2018年6月30日0時22分





2018年06月29日

『済時記』入手(六月廿九日)



 藤原済時は藤原北家師尹の子で大納言にまで進んだ。師尹は実頼の弟であるから、小野宮との関係で言えば、実頼の甥に当たり、その子の頼忠とは従兄弟の関係になる。天慶四年(941)生まれということは、頼忠より十七歳若く、実資より十六歳の年長である。小野宮の人のなかでは、天慶七年生まれの佐理が三歳違いの同世代ということになる。

 天元五年に頼忠の娘で円融天皇の女御の遵子が中宮に立てられた際には、中宮職の長である中宮大夫に任じられており、中宮亮の実資の直接の上司となっている。済時の見識については実資も認めるところだったようである。
 済時が没したのは、長徳元年(995)のことで、享年55歳。この長徳元年は、関白二人を筆頭に、中納言以上の公卿が八人亡くなるなど、疫病が猖獗を極めた年であった。皇太子時代の三条天皇に入内した娘の媙子は、天皇即位後に皇后に立てたれた。この立后はかなり無理をして行なわれたもので、天皇が当時の貴族社会において信望を失っていくきっかけの一つとなる事件である。

 その済時の日記が部分的にとはいえ現存していて、九条家文書の一部として宮内庁書陵部に収められていることを知ったのは、それほど昔のことではない。その後、ネット上にその「一部」を原文で公開されているのを発見して読んだら面白かった。
 ここで公開されているのは六日分しかなく、これで全部ということはあるまいと、宮内庁のデーターベースで確認したら、天禄三年の十月と十一月の記事が残っているよと書かれていた。書陵部の紀要に翻刻されたものが掲載されているらしい。書誌を確認すると「書陵部紀要」23号の85−88頁だというから、それほど多くの記事は残っていないようである。

 さて、どうやって手に入れよう。こんな雑誌が一般の図書館に収蔵されているとは思えないから、狙いは大学図書館である。あれこれ調べていたら、縁があって親しくさせていただいているS先生が移られた先の大学図書館に収蔵されていることがわかった。こちらの趣味のために申し訳ないと思いつつ、夏休みに入ってからでもかまわないのでとお願いしたら、すぐにスキャンして送ってくださった。
 中身を確認してびっくり。翻刻した人の解説が付いているのはありがたいのだけど、肝心の記事が六日分しかなかったのだ。書陵部の資料のデータベースには天禄三年十月と十一月と書いてあるのにと恨み言を言いかけて、日付を確認したら十月が四日分、十一月が二日分となっており、データベースの記載は嘘ではないのか……。

 手数をかけてしまったS先生には申し訳ない結果になったけれども、六日分しか現存してないという事実を知ることができたのは大きい。それに論文に引用するとなると、紀要みたいなちゃんとした文献から引用したほうがいいしね。論文なんか書くのかなんてことは問うなかれ。発表する当てのない論文?を書くために学ぶ。これもまた見返りを求めない学びのあり方である。
 でも、どうせ書くなら日本語よりはチェコ語だな。今年のサマースクールの目標は、無理は承知で論文が書けるようなチェコ語を身につけることにしよう。S先生、出来上がったら、お礼代わりに送りますね。日本語でも読みたくないような内容になるかもしれませんけど。
2018年6月29日0時10分









宮内庁書陵部 書庫渉獵―書写と装訂





2018年06月28日

毎日新聞へのお詫び(六月廿七日)



 毎日新聞の校閲室の方、申し訳ありません。いわれのない批判をしてしまいました。

 ということで、ことは数日前に書いた「ロナルド」と「ロナウド」の標記の問題についてなのだが、時間のない中、毎日新聞の記事も読まずに引用された結論のみに基づいて、批判をしてしまった。ようやく時間ができたので下記事を確認したら、毎日新聞ではポルトガル語における根拠があって、「ロナルド」という表記を採用していることがわかった。「エドバーグ」を「エドベリ」と表記していた毎日新聞の見識は健在ということだろうか。

 日本の新聞記事におけるチェコの人名表記がいい加減すぎることに対する憤懣がこんな形で爆発してしまった。今後は爆発する前に、もう少し事情を確認することにする。いや、時間や精神的な余裕がないときには批判の記事は書かないほうがいいなあ。毎日新聞がチェコの人名表記にも、「ロナルド」と同じぐらい気を使っていてくれればいいのだけど、少なくともスポーツ選手の名前で、英語とは違った読み方をするものについて、こちらが許容できる表記を見かけたことはない。毎日新聞で確認してみよう。でも、「コレル」なんか「コラー」と書かれているんだろうなあ。
 ただ毎日新聞への批判と専門誌の対応に対する推測を除けば、あの記事に書いたことは大きく間違ってはいないと思う。チェコテレビの現地の発音にこだわるアナウンサーたちは「ロナウド」に近い発音をしているのである。近い発音というのは、耳がよくないせいで、普通の「L」の発音ではないのはわかるのだが、それが完全に「U」になっているかといわれると確信が持てないからである。

 毎日新聞の方が書いている「L」の発音が「U」に近づくというのは、スラブ語にも見られる現象で、チェコ語だとスロバキアとの国境地帯の山間部に住む人たちの方言が、「L」が「U」になるため、非常に聞き取りにくいらしい。外国人に対してはできるだけ正しい発音で話そうとしてくれる人が多いので、個人的には困ったことはない。むしろプラハ方言の語末の「L」を省略する発音のほうが、奴らは外国人に対する配慮なんてしないから、大変である。
 もう一つ、「L」と「U」についてあげるなら、ポーランド語がいいだろう。かつて、付属記号を取り去った英語表記から、「ワレサ」と表記されていた連帯のボスは、ポーランド語の発音に近い形で「ワウェンサ」とかかれることが増えている。ポーランド語の表記は「L」そのものではないし、発音も「U」そのものではないが、「L」から「U」へと発音が推移していくさまが見て取れる。
 ここでポルトガル語に戻ると、毎日新聞校閲部の方が、引用した本には、「L」の発音について、ポルトガル方言よりもブラジル方言のほうが「U」に近いというようなことが書かれている。気になるのは、ブラジルの「L」の発音と、ポルトガルの「L」の発音が日本人の耳にどう聞こえるのかということである。日本語の「ル」に近いのか、「ウ」に近いのか

 日本では英語教育で強調されすぎるせいで、「R」は難しいけれども「L」は簡単だという思い込みがある。しかし現実には、少なくともチェコ語においては、「L」のほうが難しい。「R」は、巻き舌にはできなくても日本語の「ラリルレロ」をちょっと硬く、舌の動きを強めに発音すればそれなりの「R」といっても問題ない音が出せる。「L」は、軟らかく舌の動きも緩やかにして発音しなければならないのだが、これをやりすぎると「U」に聞こえるような発音になってしまう。最悪なのは音としての「L」と「U」の境目が判然としないことである。それに「L」を発音したつもりなのに「R」と聞かれてしまうことも多いし。チェコ人と日本人では「R」「L」「U」に対する耳の設定が異なっているのだ。
 だから、ポルトガルにおけるポルトガル語の「L」の発音、特に人名の「Ronaldo」の「L」の発音が、毎日新聞は一般紙だから、ポルトガル語など知らない一般の日本人にどう聞こえるのか、具体的には「ル」に聞こえるのか、「ウ」に聞こえるのか、調査してくれないかなあ。個人的には語中の「L」の発音は軟らかすぎて日本語の「ル」には聞こえないのではないかと、チェコテレビのアナウンサーたちの発音から推測している。

 それでも、「ロナルド」「ロナウド」はまだいいのだ。同じ人名だとわからなくはないのだから。それよりもクロイツィグルが「クルージガー」になり、ベルコベツが「バーコベック」になるチェコの人名を何とかしてほしい。
2018年6月27日23時44分








posted by olomoučan at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年06月27日

『ロシア語だけの青春』(六月廿六日)


ロシア語だけの青春: ミールに通った日々





 知人が日本から送ってくれた本のうち、こちらについて記すのをすっかり忘れていた。『物語を忘れた外国語』にかまけすぎたというのが一番の原因だけれども、連載された部分についてすでにいくつか文章を書いているというのも、後回し後回しにしてしまった理由である。ここまで後回しにするつもりはなかったんだけどなあ。

 それはともかく、『物語を忘れた外国語』についての文章でも書いたことだが、青春と呼ばれる時期に正面から外国語に取り組んだ著者による「青春小説」が、この『ロシア語だけの青春』である。「外国語に取り組む青春小説」がないから自分で書いてしまえという単純な話ではなかったのだろうけれども、この二冊が同時期に前後して刊行されたことには、偶然以上の何かを感じてしまう。
 著者本人は、あとがきにあるように「学校の物語」として、ミールという語学学校の物語を描き出そうとしたのかもしれない。ただ、ミールという学校を知らず、そのため当然思い入れもなく、不肖の弟子を自認する人間にとって(面と向かって師匠と呼んでいる登場人物がうらやましい)、本書は黒田師の物語である。だからこそ、大きな思い入れを以て読めるのである。

 最近の傾向として、語学に限らず、勉強の際に暗記、暗唱というものを軽視する傾向がある。子供たちの負担を減らすと言えば聞こえはいいけれども、いい大人がガキにおもねってどうするんだよとしか思えない。もしくは、愚民化政策の一環か。子供の頃に必要な知識を頭の中に詰め込んでおかないと苦労するのは、子供本人なのだが、そんなことは子供に理解できるわけがないのだから、ある程度強制的に覚えさせることになるのは仕方がない。覚えた知識の量が増えるにつれて、次を覚えるのが楽になることに気づくと、自分から覚えようという気になるはずなのだが、最近はそこまで行きつく前に、覚えなくていいよと甘やかされる子供が多いのが日本の学校教育の現状じゃないのか。
 80年代のゆとり教育が何も残さなかったように、現在はやりらしいアクティブラーニングというのも、生徒、学生の側に前提となる知識が存在していなければ、最近は教師の知識すら怪しいかもしれないが、多くの場合絵に描いた餅に終わるのは目に見えている。もちろん子供の頃から、覚える訓練を受け、自ら考えるために必要な知識を持ち、考えることの苦労、苦しさを経験した生徒、学生のいる教室であれば、うまくいくこともあるだろうが、馬鹿の考え休むに似たりという結果になるところが多いはずである。もしくは、考える流れまで指導してしまって、かつての詰め込み教育と大差ない結末を迎えるか。

 その点、黒田師の進める勉強のしかたは、基礎を固める時点では、細かいことは考えずにひたすら訓練を繰り返し、語彙を含めた必要な知識を覚えこむというのだから、時代には逆行している。逆行しているけれども、ごく一部の天才を除けば、外国語を身につけるというとてつもない目標を達成するには、それしかないのである。つまり、現在の何でも手軽に簡単に勉強しようという底の浅い風潮のほうが間違っているのである。
 黒田師の語学の堪能さの裏側にこういう徹底的な基礎固めが存在したというのは、意外ではあったけれども、それを知って嬉しかった。自分自身がチェコ語の勉強の際には、基礎固めの時点では、暗記するためにひたすら書いていたのが、「間違っていなかった、それが唯一の正しい道だったのだ」と認めてもらえたような気がした。もちろん師のレベルとは天と地との開きがあるのは自認しているが、レベルの上下を問わず、共通するものはあるのである。

 それから、最近の教育に対して、学校がすべてをお膳立てしてしまうのをやりすぎだと批判しているのも正しい。ボランティアなんて、どこに行くか何をするかを考え、あれこれ手配するところまで含めてボランティアであろうに、学校全体でまるで授業の一環のようにしてボランティアに出かけるというのは、本来体験できることの半分ぐらいしかできないのではないかと、他人事ながら心配になる。

 また、大学が見返りを求めるところになっているという指摘には、今の大学はそこまで落ちてしまったのかと、それならかつての遊びに行く大学のほうがましだと思ってしまった。知人が最近の大学の専門学校化、高校化を嘆いていたのはこのことだろうか。文部省が進めているらしい大学教育の画一化もこの傾向に一役買っていそうである。
 かつては遊びに行く大学でも、一定数のまじめに勉強する学生はいて、授業以外の場所で自ら勉強していたし、学内だけでなく学外で行われる学会出席したりもしていた。基本的に単位や卒業に関係なく学びたいことは学ぶという姿勢だったから、もぐりで登録していない授業に出ることもあったなあ。こういう高校までの教育とは違ってカリキュラムに縛られずに、自分の学びたいことが学べるというところが、大学で勉強する意味のはずなのだから、自分にとって勉強する意味のないことは勉強しなければいいのだ。
 授業に真面目に出るのは単位のためではなく、その授業で学びたいことがあるからで、学びたいことがない授業は自主休講というか、出席にせずに単位だけかすめ取れる授業を選ぶものだった。そんなことをやりすぎて卒業の単位をそろえるのに苦労している人もいたけれども、制度と自分の希望の間でもがくという社会に出てからも直面するはずの現実にたいする訓練だと考えればよかった。

 その点、ミールでの勉強には見返りはなかったと師は書かれているが、見返りはあったはずである。それは「ロシア語ができるようになる」ことで、本人以外には価値のないものであることが素晴らしいのである。勉強の見返りというものは、勉強そのもの、もしくは勉強が直接もたらす結果でしかない。だからこそ、人は一生学び続けていけるし、学び続けていくべきなのだ。ということで、今年は久しぶりにサマースクールでチェコ語の勉強をすることにした。
2018年6月26日23時55分








2018年06月26日

ジャパンっていうのやめない?(六月廿六日)



 すでにして旧聞に属してしまうし、ハンドボールになんか関心のない大半の人々にとってはどうでもいいことかもしれないが、ハンドボールの男子日本代表チームの愛称が「何とかジャパン」に決まったというニュースを読んで、げんなりしてしまった。愛称なんぞ決める前に他にやることがあるだろうとは言うまい。そもそも、愛称なんぞ決める必要があるのか、そしてこの手の愛称にお約束のようについてくる「ジャパン」というのは必要なのか、実資風に言うなら「如何、如何」である。

 ハンドボールに限らず、代表チームにつけられたこの手の愛称、愛称だけではなく監督の名前に「ジャパン」を付ける呼び方に対して、熱狂的に日本代表を応援する人たちはどう考えているのだろうか。恐らく民族主義的な傾向があると考えられるこの人たちにとって、日本代表を英語起源のカタカナ表記で「ジャパン」と呼ぶのは、受け入れにくいのではないかと想像するのだけど。
 ラグビーファンの場合には、日本代表よりもラグビーそのものに対する忠誠心が高い人が多いから、ラグビーの祖国であるイギリスの言葉を使って「ジャパン」と呼ぶのに抵抗はないのだろうけれども、サッカーをはじめとする他のスポーツの代表を応援する人たちにとっては日本代表であることこそが重要であるはずだとかんがえると、わざわざカタカナ英語を使う意味はないような気がする。

 この辺、何というか、カタカナを使って英語っぽい表記にしたほうがかっこよく見えるとか、口にする際にもかっこよく響くとかいうレベルの考えじゃないのかと思えてしまう。そうすると、この手の「何とかジャパン」ってのは、ネット上でしばしば揶揄される「中二病」ってやつと根っこは同じではないかという疑いが生まれてくる。
 それは、自らの代表である日本代表を形容するのに「サムライ」とカタカナで書いてしまうところにも感じる。日本代表やその選手たちをサムライという言葉で評価するのは、外国のメディアに任せればいいことで、自国のメディアが誇らしげに書くようなことではないだろう。
 いわゆる「中二病」って奴も一人で発症すれば揶揄の対象になり、馬鹿にされることになるけれども、メディアが旗を振って皆で陶酔すれば、さめている人間の方が異端となる。ここにも例の「赤信号皆でわたれば」精神が生きているわけか。日本人の性ってのも業が深いねえ。

 個人的には、日本代表に関しては「代表」の一語で済ませるのが潔くていいと思うんだけどね。どのスポーツなのかは前後の文脈でわかるだろうし。まあ、日本代表よりもチェコ代表のほうに親近感を感じて応援してしまうような人間にはどうでもいいと言えばいいのだけど、日本語至上主義者としては、気に入らない現実である。美しい日本とか、美しい日本語とかいうのが流行っているようだけれども、「何とかジャパン」という呼称は美しい日本語ではありえない。
 相変わらずの日本ハンドボール界の愚行に、愚にもつかない文章を書いてしまった。
2018年6月25日23時55分。









posted by olomoučan at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年06月25日

スポーツイベント目白押し(六月廿四日)



 サッカーのワールドカップの裏側で、昨日毎年恒例になりつつあるオロモウツ・ハーフマラソンが行なわれた。今年で九回目かな。二年に一回は、サッカーのワールドカップか、ヨーロッパ選手権と日程が重なるため、テレビ中継が中途半端なものになる。去年、一昨年とスタートの様子だけ見て、沿道の観客をやりに近くの後援まで足を伸ばしたのだが、今年はなんとなく面倒くさくなって、急に気温が下がって肌寒くなったのも原因だけど、外には出なかった。前々日ぐらいまで30度近い気温で突然十度近く気温が落ちたという事実がなければ、マラソンを走るのにも、観戦するのにもいい気候だった。
 それで、テレビをつけてチャンネルを合わせていたはずなのだけど、他のことをしていたのか、レースを見た記憶がない。気が付いたら、画面がワールドカップのサッカーに切り替わっていて、ドイツのペナルティエリア内での明らかなファウルを審判が流し、ビデオ審判も介入しなかったことで、これでは何のためのビデオなのか理解できないと、チェコテレビのボサーク師匠がわめいていた。こういう大きな大会になると、ドイツに簡単に早期敗退されては困るのだろう。これで見る気をなくして、書き上げていなかった昨日の分の記事を書き始めた。テレビはつけっぱなしだったから、ドイツが勝ったのはわかったけれども、どうでもいいことである。

 今日は午前中にテレビをつけてチェコテレビのスポーツにチャンネルを合わせると、ビーチバレーをやっていた。オストラバのビートコビツェの巨大コンビナートの跡地でワールドカップか何かの大会が行なわれているようだ。砂浜を会場にするのではなく、砂のないところにわざわざ砂を持ち込んでコートを作るこの手のスポーツには違和感しかないので、全く関心はないのだが、つけたテレビをすぐ消すのもなんだし、また放置して別なことをしていた。ビーチバレーはまだしも、ビーチサッカーとかビーチハンドボールとかになると、なんじゃそりゃとしか言いようがない。
 そうしたら、いつの間にか自転車のロードレースが始まっていた。チェコとスロバキアが共同で開催しているチェコ選手権とスロバキア選手権の合同のレースだった。気が付いたらスロバキアのスーパースター、ペテル・サガンが独走していた。去年、一昨年は兄のユライが弟の支援もあってスロバキア選手権を獲得しているけれども、今年は弟のペテルが六回目の優勝を目指しているということだろうか。

 昼食の準備を終えてテレビの前に戻ってきたら、画面は馬術に変わっていた。オロモウツで何か知らないけれども大きな大会が行なわれているらしい。これも興味はないけれども、二時に近くなったらサッカーが始まるだろうと思って放置していたら、いつまでたっても始まらない。番組表で確認したら、サッカーはチェコテレビ2で放送されることになっていた。馬術よりはサッカーなので、チャンネルを変える。見るともなしに見ていたら前半だけで大差がついてしまったので、ハーフタイムにスポーツチャンネルに変える。自転車のロードレースの中継に戻っていたのである。

 相変わらずサガンが独走し、追走集団の中にクロイツィグルとシュティバルがいた。他はチェコのチームのアウトルの選手が大量にいるのが目立った。最近までボラにいたバールタも現在はこのチームで走っているようである。ユライ・サガンもここにいたかな。あとはシクロクロスが本業の選手がこの集団で頑張っていた。シュティバルのように将来はロードレースに転向するのだろうか。
 結局、スロバキア選手権は、ペテルが独走で優勝。二位にユライが入って、サガン兄弟でこれで7年か8年連続の優勝らしい。チェコ側は、ジロを走ったあと、ツールドスイスでリタイアしたクロイツィグルが途中で棄権し、一時は30秒ほどリードして独走していたシュティバルも失速してアウトルチームのチェルニーがタイムトライアルに続いて優勝した。二位、三位も同じチームの選手が入っている。

 この結果を確認してチェコテレビ2にチャンネルを変える。しばらくするとワールドカップの日本代表の試合が始まった。いやあ、前評判ってのは当てにならないねえ。最近チェコ代表の調子が上がらないので、サッカーの代表と名のつく試合を見て面白いと思ったことがないのだけど、久々に楽しませてもらった。日本代表の初戦は見ていないので、この試合が今年のワールドカップで最初の最初から最後まで見た試合となった。その後、夜のコロンビアの試合を見て、日本代表、よくもまあこんな相手に勝てたなあと思ってしまった。次のポーランドとの試合も楽しませてもらえるかな。

 かくて今週末もまた、テレビの前で無駄に時間を過ごしてしまった。チェコ語の勉強であるって、自転車のロードレースの解説者のチェコ語が聞き取りにくいのと、話がわかりにくいのとで辛かった。久々の日記っぽい文章である。内容は皆無だけど。
2018年6月24日23時25分













2018年06月24日

チェコの政局混迷(六月廿三日)



 昨年の下院の総選挙の結果が出て以来、迷走を続けるチェコの政界であるけれども、最近は迷走の度合いが一段と深まっているように見える。総選挙が終わったときには、ドイツよりひどいことにはならないだろうと信じていたのだが、完全に負けてしまった。最大の原因は、ANOの党首で唯一の首相候補であるバビシュ氏が経済事件で犯罪者扱いされていることだけれども、中途半端な総選挙の結果に原因を求めてもいいかもしれない。
 一回目の組閣を行った後、少数与党の政権は下院の承認を得ることができず、バビシュ氏とANOは二度目の組閣に向けて、他の政党と交渉を始めたのだが、これがまたわけのわからないことになっている。連立交渉においては、ゼマン大統領に近いグループが主導権を握った社会民主党が、一番現実的な相手である。いや、共産党が閣外協力にとどまりそうなことを考えると、唯一の交渉相手だと言ってもいい。と、ここまで書いて前回この件についてどんなことを書いたかと確認してみたら、四月の初めに社会民主党とANOの交渉が頓挫したというのが最後だった。
 その後、社会民主党が再度方針を変更して、ANOとの連立に向けて具体的な交渉を再開した。その際、連立するかどうかは、党の指導部だけで決めるのではなく、党員全員の投票によって決めるとか言い出した。理解できないのは、その党員投票が一度に行われるのではなく、半月ほどかけて行なわれたことで、最初に投票が行なわれた地方では、連立に反対する方が多いという結果が出ていたから、社会民主党は連立政権には参加しないという結果になるものと考えていた。

 それなのに、ハマーチェク氏などの指導部は自信満々でANOとの連立の交渉を進め、どの省の大臣を社会民主党から出すとか、具体的な大臣候補の名前や、ANOの大臣の中で社会民主党が気に入らない大臣の懐妊を求めたりしていた。同時に廉利するかどうかは、党員投票の結果次第だということを強調して、ANOとの交渉の材料にしていた。よく言えば、したたかな交渉ということになるのだろうが、メディアを通してのやり口には、正直好感はもてなかった。こういうところが、チェコの有権者が既存の政党に対する信頼を失った原因のひとつだと思うのだが。
 そして、肝心の党員投票のほうは、こちらが忙しくてテレビのニュースを追いかけていなかった間に、ANOとの連立を認める結果が出たらしい。最初の地方での結果を受けて、指導部が地方組織の締め付けを行なっていたようだから、その説得、もしくは圧力を受けての結果だといえそうだ。これが民主主義民主主義とお題目のように唱える政党のやることである。最近、日本もそうだけれども「民主主義」という言葉が宗教的な盲目さを感じさせることが多いような気がする。

 多分、党員投票の結果が出る前だったと思うが、社会民主党から出すことになった外務大臣の候補にゼマン大統領がクレームをつけた。候補になっていたのはEU議会の議員でもあるポヘ氏だが、この人物のことは何も知らないので、どうしてゼマン大統領が反対しているのかはわからない。最近のゼマン大統領には特に理湯など必要ないような気もする。
 一週間ほど前だっただろうか。ゼマン大統領が、特別に発表することがあるといって、突然記者たちに招集をかけたらしい。体調の悪さをうかがわせることが増えていたこともあって、就任したばかりだが、大統領を辞任するという発表ではないかという憶測も流れた。逆に、NATOもしくはEUから脱退するという表明ではないかと考えた人もいたようだ。

 ふたを開けてみたら……。何年か前に、反ゼマン派のアナーキスト系の芸術家集団が、プラハ城の大統領官邸の屋根にひらめくチェコの国旗を盗み、その代わりに赤い巨大なトランクスを残して去るという事件を起こしたことがある。ゼマン大統領には、チェコの国旗はふさわしくないという主張だったのだろう。
 この事件に対する憤懣をゼマン大統領は忘れていなかったようで、集めた記者たちの前で、プラハ城に掲揚されたものなのか、どこかで買ってきたものなのかは知らないが、巨大なトランクスを持ってこさせて、焼却するという儀式を挙行したのである。最初は自分で火に投じて燃やそうとしたのだがうまく行かず、消火のために控えていた消防隊の人に任せていた。大統領が新聞記者を呼び集めてやることなのだろうか。

 現時点では、意外も意外、チェコでもっともまともな政党となっている海賊党も、上院の選挙に立候補するはずだった候補者に関して。40歳以上は信用しないとかいう理由で候補者から外すなんてことをしたらしい。チェコの上院の被選挙権って40歳以上じゃなかったっけ? つまり海賊党は上院に議席は要らないということなのだろうか。
2018年6月23日22時40分










2018年06月23日

新聞の外国の人名表記(六月廿二日)



 チェコ代表が予選で負けてしまった結果、あまり盛り上がらないまま、いつの間にかという感じで始まっていたサッカーのワールドカップに関して、ちょっと面白い記事を見つけた。たまに取り上げる「アゴラ」の記事なのだけど、いやはや、新聞社ってのは、新聞社の社員てのは校正担当も含めて、どうしようもねえなあというのが読んでの感想である。
 この記事では、「なぜ一般紙は「ロナウド」でなく「ロナルド」なのか?」という問いに答えようとしているのだが、その答えが、ひどすぎる。ひどいのはこの記事の著者ではなく、著者が引用している毎日新聞の校閲部の解説である。孫引きになるけれども引用する。

ロナルド選手の場合、サッカーに詳しくない読者も多い一般紙は現地の発音に近づけることを優先し、逆にある程度サッカーに親しんでいる読者層に向けた媒体は、慣例の表記として「ロナウド」を選ぶ傾向にあるのではないかと推測できるのです。 (http://www.mainichi-kotoba.jp/2014/06/c.html


 新聞の記事の中には、ろくに取材もせずに、自社に都合のいいストーリーに基づいて憶測に憶測を重ねて恥じないような、何の根拠もないものがあるのは知っていたけれども、これもその一つだと言えそうである。末尾に「推測できるのです」とあるあたり、特に取材もせず、自社の表記を正当化するために、「ロナルド」のほうが現地の発音に近いのだと主張しているのは明らかだが、大嘘である。
 かつてスウェーデンのテニス選手の名前を、多くの新聞が英語風に「エドバーグ」と記していた中、現地読みに近い「エドベリ」という表記を採用する見識を見せていた毎日新聞がこんな状態だということは、他の大手新聞は推して知るべしであろう。「アゴラ」の記事の著者は、共同通信の配信する記事を利用しているからと弁護しているが、各新聞社内でそれぞれの基準に従って、表記を決め、場合によっては共同通信の表記を修正しているはずである。これは、かつては毎日新聞ですらかつての修正できるだけの見識を失ったことを示している。仮に新聞が事実を報道するものだというのなら、「推測」で自己正当化をはかるのではなく、ポルトガル語の知識を持つ人に確認するべきなのだ。
 毎日新聞の「ロナルド」のほうが現地の発音に近いという主張をでたらめだと談じる根拠としては、チェコテレビのアナウンサーたちの発音を挙げればそれで十分なのだが、その前に日本語の枠内で、説明をしておこう。

 問題になるポルトガルの選手はローマ字では「Ronaldo」と表記される。これが日本語の慣用表記として何の理由もなく「ロナウド」になるとは考えられない。ローマ字読みすれば、どう考えても「ロナルド」になるこの名前が「ロナウド」と表記されるためには、何らかの根拠が必要である。その根拠が現地のポルトガル語では「ロナウド」に近い発音がなされるということであろう。
 だから、一般紙で「ロナルド」になっているのこそ、ローマ字読み、もしくは英語の発音に基づいた慣用表記であって、海外のサッカー関係者ともやり取りをする専門誌では、その表記に飽き足らなくなって「ロナウド」という現地音に近い表記を使用し始めたというのが正しい。だから、毎日新聞の主張は全く反対なのである。「ロナルド」と慣例的に表記するのを批判するつもりはない。ただ、それをでたらめな理由で正当化するのが許せないだけである。

 チェコ語の場合には、表記は「Ronaldo」で問題はないのだが、発音が問題になる。チェコテレビのサッカー関係者は、みな「ロナウド」に近い発音を使用している。チェコ語も原則としてローマ字読みなので、特に理由がなければ「ロナルド」になるはずである。それが「ロナウド」になるのは、ポルトガル語の発音にあわせているからに他ならない。
 ちなみに人名の末尾の「do」に関しても、「ド」なのか「ドゥ」になるのか、ポルトガル語とスペイン語で違うとか、地方によって違うとか、サッカーの番組で、現地取材に基づいて議論していたのを覚えている。結局どういうことになったのかは覚えていないし、正直な話「ロナウド」と言われても、「ロナウドゥ」と言われても、単独で発音されない限りとっさには判別できないからどちらもいいと思うのだけどね。
 日本の新聞も、仮にも校閲部を名乗るのであれば、現地の発音をその言葉の専門家に尋ねて表記を決めるぐらいのことをしても罰は当たらないと思う。
2018年6月22日23時10分











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2018年06月22日

寛和三年正月の実資〈下〉(六月廿一日)



 十日の記事では、前日、叙位で従一位に昇進した左大臣が、摂政の兼家のところにお礼に出向いたことが記される。当然そこに集まった公卿や官人たちと酒宴が行われている。実資はこまごまと褒美についても書いているが、誰から聞いた話なのかは書かれていない。

 十一日は、頼忠のところに出向いた後、姉のいる室町に向かい、夜に入ってから参内して天皇の物忌みに一緒に籠もっている。

 十二日は、内裏で摂政の兼家のところに出向いてあれこれお話。この日も候宿だから帰宅はしなかったようである。

 十三日は、早朝内裏を退出して室町の姉のところに出向いて、夕方帰宅している。伝聞で十日に藤原為信が出家したことが記される。為信は常陸介を務めていたことから「常陸の為信」と呼ばれたものか。紫式部の母方の祖父としても知られる。

 十四日は、参内して院に向かい再び内裏に戻っている。内裏では御斎会の結願の日にあたるため内論議が行なわれている。実資は儀式の様子を細かく記しているが、体調不良で途中で退出したようだ。

 十五日は、頼忠のところによって参内。この日は兵部省の手結が行なわれ実資も一応出席しているが、最後まで見ずに退出している。

 十六日は本文には書かれていないが踏歌の節会である。一条天皇は紫宸殿に出御しているが摂政の兼家は欠席である。節会についてはあまり詳しいことは書かれていない。「古実に背く」というのも欠字のせいで何が問題なのかよくわからない。民部卿の藤原文範が息子の為雅が伊予守に任じられるように民部卿などの官職を辞任するという申文を摂政に提出したらしい。

 十七日は、円融上皇のもとに出向いて夕方退出。

 十八日は、摂政のところを経て参内。本日の儀式は賭弓である。未の時ぐらいから雨が降っているため雨用の式次第で行なわれたのだが、実資は先例に背くとして批判している。天皇の出御の前に雨が降っていたときに雨の儀式を行なうのが正しいと主張しているということは、今回は天皇が出御してから雨が降り出したらしい。それで「忽ち」とかいう言葉が出てくるわけである。それだけでなくほかにもあれこれ実資に言わせると前例に反するところがあったようである。舞人に対する褒美に関しても、思うところがあるという理由で与えていない。こんなのは与える側の恣意なのだから絶対に与えなければならないというものでもない。

 十九日は、早朝に内裏を退出して、摂政兼家の邸宅へ。大饗である。式次第はともかく、右大将の済時が遅刻し、民部卿の文範が欠席している。それぞれ何かしらの理由があるようである。

 廿日は、まず参内し、今日は左大臣の大饗である。右大将済時と民部卿文範は欠席。この日の大饗で提供された料理は精進料理だったのだろうか。実資と同じく「未だ其の由を知らず」である。実頼の日記にこれに関する記述があったことを思い出しているが、詳しく調べる必要があるという結論になっている。
 この日、子供を清水寺に行かせている。三日間籠るというのだが、何か問題でもあったのだろうか。

 廿一日は永観元年に宋にわたった「然が、前日廿日の夕方に入京したという知らせが記される。「然が最初に訪れたのは摂政兼家の邸宅であったという。

 廿二日は、右大臣為光のところでの大饗である。

 廿三日は、暁方に子供が清水寺から帰宅。その後実資は、内裏を経て上皇のもとへ。左大臣も上皇のところに参入し大饗の引き出物である馬を献じたらしい。院の官司を何人か定めている。それが終わって再び参内して候宿。除目の召仰が行なわれたことを聞いている。

 廿四日は早朝内裏を退出する。実資のところにも「然がやってきてあれこれ驚くべき話を聞いているが、その内容は「敢へて記すべからず」というのが残念である。実資も「然の入唐を支援していたのだろうか。

 廿五日は参内して退出した後、頼忠のところに向かい夕方退出。この日、除目の議が始まったことを知られされている。

 廿六日は、病気治療のための休暇申請の文書を提出しただけ。

 廿七日は、歩いて近江国の石山寺を参詣して灯明を奉っている。これも病気治癒のための行動だろうか。

 廿八日は、暁方に石山寺を退出し京に向かう。伝聞で今朝除目の議が終わったことが記される。但馬守が常陸介に任じられた他、検非違使に関しても補任が行なわれたようである。

 廿九日は、六日の休暇届を提出。理由は不明。

 卅日は、中宮遵子と太政大臣頼忠のところを訪れている。
2018年6月21日23時45分







2018年06月21日

寛和三年正月の実資〈上〉(六月廿日)



 一条天皇が即位して二年目のこの寛和三年、実資は十一月に再び蔵人頭に補任されるが、正月時点では、正四位下左中将である。
 摂政は、花山天皇退位の立役者ともいえる藤原兼家。太政大臣の頼忠の下につくことを嫌って、右大臣を辞任して、摂政だけに任じられるという異例なことをしている。左大臣は花山天皇に近づいてあれこれやらかしていた源雅信、右大臣にはこちらも花山天皇と近かった藤原為光が大納言から昇進している。為光はこれで摂関の地位に就くための条件を整えたことになるが、摂関になる機会は巡ってこなかった。

 正月一日は、まず四方拝を行っているが、これは実資の個人的なものであろうか。北斗七星の中の一つその年の属星を拝する座、天地の四方を拝する座、先祖の墓所を拝する座を設けたのは、この年が初めてらしい。その後、摂政兼家のところに出向いて公卿以下の拝礼に参加しているが、その後向かった太政大臣頼忠のところでは拝礼が行われなかった。このへんが、関白の地位を失った失意からと言われる所以であろうか。
 内裏に向かって、天皇がお薬という名のお酒を飲む儀式に参加。最初から飲みきれないことがわかっているので、後取という飲み残しを飲むための役が存在している。このときは摂政の兼家が代理で口を付けたのだろうか。「老人星」、つまり南天に日本からはめったに見えない老人星、もしくは南極老人星と呼ばれる星が、雪が降っているけど見えるはずであることからそれを寿ぐ儀式が行なわれている。この星は、現在では竜骨座のカノープスと呼ばれる星のことである。
 この日の儀式の上卿を務めたのは左大臣の源雅信で、雨雪というから雨交じりの雪が降っていたのだろう、雨のときの式次第で行うことに決めている。それなのに途中から晴れのときの儀式の方式に変わってしまう。実資はこういうのを嫌うのでごちゃ混ぜじゃないかと批判するのである。

 二日はまず参内してから円融上皇のところに向かう。その後は摂政兼家第での宴会である。頭注によれば臨時客と呼ばれる儀式で、公的な要素の強い大饗よりは私的な要素の強い行事らしい。正月の二日に行うのを例にしたが毎年行われたわけではないという。
 臨時客の後は室町に住む姉のところによってよりになって帰宅。伝聞で、内裏で皇太后藤原詮子と皇太子、後の三条天皇の大饗が行われたことが記される。詮子は皇后にも中宮にもならずに皇太后になったのである。平安初期の皇太夫人のような感じだろうか。またこの日兼家の長子の道隆が、左大将朝光の元を訪れたらしい。

 三日は、まず一条天皇が即位したあとも中宮にとどまっていた遵子の元に出向いてから参内する。出仕していた摂政兼家のもとに顔を出してから退出して太政大臣の頼忠のところに向かう。頼忠のところには左右大臣をはじめ公卿たちが集まり音楽付きの酒宴が行われる。実資は夕方明かりがともされる時間になって退出している。伝聞で、左近衛大将の藤原朝光が、兼家の息子である権大納言道隆の元に出向いたことが書かれている。

 四日は、頼忠に呼び出されて、中宮遵子の引っ越しのことについて話をしている。その後参内して候宿。この日は方違えのために子供を大蔵高行の家に送っている。正月最初の卯の日なので、卯杖の献上が行われているが、すべてはいつもの通りであった。

 五日は早朝帰宅。朝のうち雪が降って、一寸ほど積もったようである。法性寺で行われた法華八講に出向いているが、「一人も参らず」というのは、公卿であろうか。もしくは違う読み方をするか。とにかくそのことを告げて退出しているから、実資も儀式には参加していないようである。雪のなか室町の姉のところに寄ってたそがれ時に帰宅、

 六日は、叙位の儀である。これは元旦の老人星のことによって行われることになったらしい。実資自身は、四日間の休暇願を出している。昼過ぎに円融上皇のもとに出向いている。これは円融上皇の御願寺である円融寺であろうか。音楽を伴った舞が演じられ、演者は近江の法師であった。夜に入ってからもまた舞などが行われている。

 七日は上皇の許から退出。藤原在国の話によると、本来今日は天皇の物忌の日だったのだが、陰陽寮から軽い物忌だという話があって、紫宸殿に出御することになったらしい。今日の儀式について質問されて答えている。実資自身は休暇を取っていて参入していないが、宣命に老人星のことを載せるように左大臣の源雅信が主張したという話を在国から聞いている。

 八日は、早朝から奈良の春日神社に向かい、申の時というから午後四時五時ぐらいに到着。二つの大願を立てているが内容は不明。この日は内蔵寮の所領となっている梨原というところに宿泊している。

 九日は、前日宿泊した梨原を暁方に出て都へ向かい、これも申の時ぐらいに到着している。後院がさすものがわからないが、そこで源弘遠に牛車を借りて帰宅している。春日大社までの移動は馬だったのだろうか。弘遠からは、前日一条天皇の蔵人の補任があったことを知らされている。選ばれたのは花山天皇のときも蔵人だった藤原挙直。挙直の子だというけれども、実の子ではないという噂もあったらしい。こういう噂まで記録するのが実資である。
2018年6月20日23時55分






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