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2018年06月22日

寛和三年正月の実資〈下〉(六月廿一日)



 十日の記事では、前日、叙位で従一位に昇進した左大臣が、摂政の兼家のところにお礼に出向いたことが記される。当然そこに集まった公卿や官人たちと酒宴が行われている。実資はこまごまと褒美についても書いているが、誰から聞いた話なのかは書かれていない。

 十一日は、頼忠のところに出向いた後、姉のいる室町に向かい、夜に入ってから参内して天皇の物忌みに一緒に籠もっている。

 十二日は、内裏で摂政の兼家のところに出向いてあれこれお話。この日も候宿だから帰宅はしなかったようである。

 十三日は、早朝内裏を退出して室町の姉のところに出向いて、夕方帰宅している。伝聞で十日に藤原為信が出家したことが記される。為信は常陸介を務めていたことから「常陸の為信」と呼ばれたものか。紫式部の母方の祖父としても知られる。

 十四日は、参内して院に向かい再び内裏に戻っている。内裏では御斎会の結願の日にあたるため内論議が行なわれている。実資は儀式の様子を細かく記しているが、体調不良で途中で退出したようだ。

 十五日は、頼忠のところによって参内。この日は兵部省の手結が行なわれ実資も一応出席しているが、最後まで見ずに退出している。

 十六日は本文には書かれていないが踏歌の節会である。一条天皇は紫宸殿に出御しているが摂政の兼家は欠席である。節会についてはあまり詳しいことは書かれていない。「古実に背く」というのも欠字のせいで何が問題なのかよくわからない。民部卿の藤原文範が息子の為雅が伊予守に任じられるように民部卿などの官職を辞任するという申文を摂政に提出したらしい。

 十七日は、円融上皇のもとに出向いて夕方退出。

 十八日は、摂政のところを経て参内。本日の儀式は賭弓である。未の時ぐらいから雨が降っているため雨用の式次第で行なわれたのだが、実資は先例に背くとして批判している。天皇の出御の前に雨が降っていたときに雨の儀式を行なうのが正しいと主張しているということは、今回は天皇が出御してから雨が降り出したらしい。それで「忽ち」とかいう言葉が出てくるわけである。それだけでなくほかにもあれこれ実資に言わせると前例に反するところがあったようである。舞人に対する褒美に関しても、思うところがあるという理由で与えていない。こんなのは与える側の恣意なのだから絶対に与えなければならないというものでもない。

 十九日は、早朝に内裏を退出して、摂政兼家の邸宅へ。大饗である。式次第はともかく、右大将の済時が遅刻し、民部卿の文範が欠席している。それぞれ何かしらの理由があるようである。

 廿日は、まず参内し、今日は左大臣の大饗である。右大将済時と民部卿文範は欠席。この日の大饗で提供された料理は精進料理だったのだろうか。実資と同じく「未だ其の由を知らず」である。実頼の日記にこれに関する記述があったことを思い出しているが、詳しく調べる必要があるという結論になっている。
 この日、子供を清水寺に行かせている。三日間籠るというのだが、何か問題でもあったのだろうか。

 廿一日は永観元年に宋にわたった「然が、前日廿日の夕方に入京したという知らせが記される。「然が最初に訪れたのは摂政兼家の邸宅であったという。

 廿二日は、右大臣為光のところでの大饗である。

 廿三日は、暁方に子供が清水寺から帰宅。その後実資は、内裏を経て上皇のもとへ。左大臣も上皇のところに参入し大饗の引き出物である馬を献じたらしい。院の官司を何人か定めている。それが終わって再び参内して候宿。除目の召仰が行なわれたことを聞いている。

 廿四日は早朝内裏を退出する。実資のところにも「然がやってきてあれこれ驚くべき話を聞いているが、その内容は「敢へて記すべからず」というのが残念である。実資も「然の入唐を支援していたのだろうか。

 廿五日は参内して退出した後、頼忠のところに向かい夕方退出。この日、除目の議が始まったことを知られされている。

 廿六日は、病気治療のための休暇申請の文書を提出しただけ。

 廿七日は、歩いて近江国の石山寺を参詣して灯明を奉っている。これも病気治癒のための行動だろうか。

 廿八日は、暁方に石山寺を退出し京に向かう。伝聞で今朝除目の議が終わったことが記される。但馬守が常陸介に任じられた他、検非違使に関しても補任が行なわれたようである。

 廿九日は、六日の休暇届を提出。理由は不明。

 卅日は、中宮遵子と太政大臣頼忠のところを訪れている。
2018年6月21日23時45分







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