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2018年06月21日

寛和三年正月の実資〈上〉(六月廿日)



 一条天皇が即位して二年目のこの寛和三年、実資は十一月に再び蔵人頭に補任されるが、正月時点では、正四位下左中将である。
 摂政は、花山天皇退位の立役者ともいえる藤原兼家。太政大臣の頼忠の下につくことを嫌って、右大臣を辞任して、摂政だけに任じられるという異例なことをしている。左大臣は花山天皇に近づいてあれこれやらかしていた源雅信、右大臣にはこちらも花山天皇と近かった藤原為光が大納言から昇進している。為光はこれで摂関の地位に就くための条件を整えたことになるが、摂関になる機会は巡ってこなかった。

 正月一日は、まず四方拝を行っているが、これは実資の個人的なものであろうか。北斗七星の中の一つその年の属星を拝する座、天地の四方を拝する座、先祖の墓所を拝する座を設けたのは、この年が初めてらしい。その後、摂政兼家のところに出向いて公卿以下の拝礼に参加しているが、その後向かった太政大臣頼忠のところでは拝礼が行われなかった。このへんが、関白の地位を失った失意からと言われる所以であろうか。
 内裏に向かって、天皇がお薬という名のお酒を飲む儀式に参加。最初から飲みきれないことがわかっているので、後取という飲み残しを飲むための役が存在している。このときは摂政の兼家が代理で口を付けたのだろうか。「老人星」、つまり南天に日本からはめったに見えない老人星、もしくは南極老人星と呼ばれる星が、雪が降っているけど見えるはずであることからそれを寿ぐ儀式が行なわれている。この星は、現在では竜骨座のカノープスと呼ばれる星のことである。
 この日の儀式の上卿を務めたのは左大臣の源雅信で、雨雪というから雨交じりの雪が降っていたのだろう、雨のときの式次第で行うことに決めている。それなのに途中から晴れのときの儀式の方式に変わってしまう。実資はこういうのを嫌うのでごちゃ混ぜじゃないかと批判するのである。

 二日はまず参内してから円融上皇のところに向かう。その後は摂政兼家第での宴会である。頭注によれば臨時客と呼ばれる儀式で、公的な要素の強い大饗よりは私的な要素の強い行事らしい。正月の二日に行うのを例にしたが毎年行われたわけではないという。
 臨時客の後は室町に住む姉のところによってよりになって帰宅。伝聞で、内裏で皇太后藤原詮子と皇太子、後の三条天皇の大饗が行われたことが記される。詮子は皇后にも中宮にもならずに皇太后になったのである。平安初期の皇太夫人のような感じだろうか。またこの日兼家の長子の道隆が、左大将朝光の元を訪れたらしい。

 三日は、まず一条天皇が即位したあとも中宮にとどまっていた遵子の元に出向いてから参内する。出仕していた摂政兼家のもとに顔を出してから退出して太政大臣の頼忠のところに向かう。頼忠のところには左右大臣をはじめ公卿たちが集まり音楽付きの酒宴が行われる。実資は夕方明かりがともされる時間になって退出している。伝聞で、左近衛大将の藤原朝光が、兼家の息子である権大納言道隆の元に出向いたことが書かれている。

 四日は、頼忠に呼び出されて、中宮遵子の引っ越しのことについて話をしている。その後参内して候宿。この日は方違えのために子供を大蔵高行の家に送っている。正月最初の卯の日なので、卯杖の献上が行われているが、すべてはいつもの通りであった。

 五日は早朝帰宅。朝のうち雪が降って、一寸ほど積もったようである。法性寺で行われた法華八講に出向いているが、「一人も参らず」というのは、公卿であろうか。もしくは違う読み方をするか。とにかくそのことを告げて退出しているから、実資も儀式には参加していないようである。雪のなか室町の姉のところに寄ってたそがれ時に帰宅、

 六日は、叙位の儀である。これは元旦の老人星のことによって行われることになったらしい。実資自身は、四日間の休暇願を出している。昼過ぎに円融上皇のもとに出向いている。これは円融上皇の御願寺である円融寺であろうか。音楽を伴った舞が演じられ、演者は近江の法師であった。夜に入ってからもまた舞などが行われている。

 七日は上皇の許から退出。藤原在国の話によると、本来今日は天皇の物忌の日だったのだが、陰陽寮から軽い物忌だという話があって、紫宸殿に出御することになったらしい。今日の儀式について質問されて答えている。実資自身は休暇を取っていて参入していないが、宣命に老人星のことを載せるように左大臣の源雅信が主張したという話を在国から聞いている。

 八日は、早朝から奈良の春日神社に向かい、申の時というから午後四時五時ぐらいに到着。二つの大願を立てているが内容は不明。この日は内蔵寮の所領となっている梨原というところに宿泊している。

 九日は、前日宿泊した梨原を暁方に出て都へ向かい、これも申の時ぐらいに到着している。後院がさすものがわからないが、そこで源弘遠に牛車を借りて帰宅している。春日大社までの移動は馬だったのだろうか。弘遠からは、前日一条天皇の蔵人の補任があったことを知らされている。選ばれたのは花山天皇のときも蔵人だった藤原挙直。挙直の子だというけれども、実の子ではないという噂もあったらしい。こういう噂まで記録するのが実資である。
2018年6月20日23時55分






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