2020年06月24日
永延二年七月の実資(六月廿一日)
永延二年七月の『小右記』は四日の記事しか残っていない。この記事が『大日本史料』に立項されていないのは、実資の個人的なこと、具体的には子供の話しか書かれていないからだろう。
まず、藤原義理宅に預けられていた小児を小野宮第に戻したことが書かれ、読めない字があってはっきりしないが、恐らくこの小児のために安倍晴明に病気平癒のための祈祷である鬼気祭を行わせている。そうすると、藤原義理宅に預けられていたのも方違えの意味があったのかもしれない。
実資自身は午後、未の刻になって小野宮に向かい、小児の様子を見て沐浴させている。「日ごろ頗る悩の気有り」ということで、済救という僧に、おそらくこれも病気平癒を願って護摩を焚かせている。実資は子供にあまり恵まれず、生まれた子供も早世することが多いのだけど、子供の病気に際しては、貴族の中でも有数の財力にあかせて、陰陽師や僧侶達にさまざまな祈祷を行わせる。
この小児は寛和元年に登場する二人の子供のうちの一人か。一人は寛和元年二月十四日に最初に登場し実資の姉の邸宅のある室町に置かれていたようである。もう一人は四月廿八日に生まれている。その後、小児の病気の記事が増えるので、病弱だったのはこの四月末に生まれた子供のほうだろうか。そうすると、この永延二年七月の小児も、永祚二年七月になくなる小児も寛和元年四月廿八日に生まれた小児だと考えてよさそうである。
『大日本史料』の記事は、廿三日が最初である。この日の仁王会が立項されているのだが、『日本紀略』の廿一日条も引かれて、建礼門で大祓が行われたことが記される。大祓が行われた理由は仁王会を行うためだったという。仁王会は、護国三部経の一つである『仁王経』の書写や講義を中心に、鎮護国家などを祈念して行われた大規模な法会。天皇の即位後に行われる一代一度の仁王会を大仁王会といい、一条天皇の場合は永延元年に行われている。
『日本紀略』の記事で興味を引くのは、呪願文を作成したのが菅原輔正だという点である。この人は道真の子孫で、70歳を超えてから参議に任じられた。確か公卿の人数がすでに定員を越えているのに、道長が参議に任じたのを実資が批判し、それに道長が仕方ないじゃないかとか応えたのが、菅原輔正じゃなかったか。漢詩文の名手として知られていたようだ。
廿八日と廿九日は、相撲の節である。儀式に先立つ廿三日に、内取が行われているが、これは節会を前にした稽古のことである。廿八日には、出御した天皇の御前で召合と呼ばれる取り組みが行われた。翌廿九日には、召合の際に優秀な成績を残したものを選び出して再度相撲をさせる抜出と、衛府の舎人などの中から選ばれたものが相撲を取る追相撲が行われるのが例だが、この年は『日本紀略』の記述には追相撲しかない。
また、『大日本史料』には、院政期の公卿藤原宗忠の日記である『中右記』に、永延二年を内取が行われなかった例として挙げている部分が引用されている。相撲の例を尋ねた際に、「権中将顕実朝臣」の談じるところといい、家の記録に書かれているのかと推測している。
相撲の節会は、『日本書紀』に記された最古の相撲とされる野見宿禰と当麻蹶速の対戦が、七月七日に行われたことから、七夕の節会の際に行われていたが、開催日の変更が行われ、実資の『小野宮年中行事』によれば、「大の月は廿八・九日、小の月は廿七・八日」に行われたという。12世紀初めに成立した『江家次第』にも同様の記述がある。
相撲の節が行われた廿八日には、『日本紀略』によれば、奢僭が禁じられている。あまり聞かない言葉だけれども分不相応な贅沢を意味する言葉である。この手の過差を禁ずる命令というのは、しばしば出されており、重要視する人もいるようだけど、実効性があったのかどうかは疑問である。
うーん、我ながら無理やり引き延ばした感が強いなあ。
2020年6月22日17時。
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