2018年06月29日
『済時記』入手(六月廿九日)
藤原済時は藤原北家師尹の子で大納言にまで進んだ。師尹は実頼の弟であるから、小野宮との関係で言えば、実頼の甥に当たり、その子の頼忠とは従兄弟の関係になる。天慶四年(941)生まれということは、頼忠より十七歳若く、実資より十六歳の年長である。小野宮の人のなかでは、天慶七年生まれの佐理が三歳違いの同世代ということになる。
天元五年に頼忠の娘で円融天皇の女御の遵子が中宮に立てられた際には、中宮職の長である中宮大夫に任じられており、中宮亮の実資の直接の上司となっている。済時の見識については実資も認めるところだったようである。
済時が没したのは、長徳元年(995)のことで、享年55歳。この長徳元年は、関白二人を筆頭に、中納言以上の公卿が八人亡くなるなど、疫病が猖獗を極めた年であった。皇太子時代の三条天皇に入内した娘の媙子は、天皇即位後に皇后に立てたれた。この立后はかなり無理をして行なわれたもので、天皇が当時の貴族社会において信望を失っていくきっかけの一つとなる事件である。
その済時の日記が部分的にとはいえ現存していて、九条家文書の一部として宮内庁書陵部に収められていることを知ったのは、それほど昔のことではない。その後、ネット上にその「一部」を原文で公開されているのを発見して読んだら面白かった。
ここで公開されているのは六日分しかなく、これで全部ということはあるまいと、宮内庁のデーターベースで確認したら、天禄三年の十月と十一月の記事が残っているよと書かれていた。書陵部の紀要に翻刻されたものが掲載されているらしい。書誌を確認すると「書陵部紀要」23号の85−88頁だというから、それほど多くの記事は残っていないようである。
さて、どうやって手に入れよう。こんな雑誌が一般の図書館に収蔵されているとは思えないから、狙いは大学図書館である。あれこれ調べていたら、縁があって親しくさせていただいているS先生が移られた先の大学図書館に収蔵されていることがわかった。こちらの趣味のために申し訳ないと思いつつ、夏休みに入ってからでもかまわないのでとお願いしたら、すぐにスキャンして送ってくださった。
中身を確認してびっくり。翻刻した人の解説が付いているのはありがたいのだけど、肝心の記事が六日分しかなかったのだ。書陵部の資料のデータベースには天禄三年十月と十一月と書いてあるのにと恨み言を言いかけて、日付を確認したら十月が四日分、十一月が二日分となっており、データベースの記載は嘘ではないのか……。
手数をかけてしまったS先生には申し訳ない結果になったけれども、六日分しか現存してないという事実を知ることができたのは大きい。それに論文に引用するとなると、紀要みたいなちゃんとした文献から引用したほうがいいしね。論文なんか書くのかなんてことは問うなかれ。発表する当てのない論文?を書くために学ぶ。これもまた見返りを求めない学びのあり方である。
でも、どうせ書くなら日本語よりはチェコ語だな。今年のサマースクールの目標は、無理は承知で論文が書けるようなチェコ語を身につけることにしよう。S先生、出来上がったら、お礼代わりに送りますね。日本語でも読みたくないような内容になるかもしれませんけど。
2018年6月29日0時10分
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