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2018年06月20日

『物語を忘れた外国語』後7(六月十九日)



 十五章以降は苦手なものが続く。第十五章と十六章は、アジアがテーマなのだが、アジア諸国の言葉は、ピジンとかクレオールの存在を知ったときには、インドネシアの言葉に一瞬だけ興味を持ったけど、勉強したことはないし、アジア諸国の文学作品もほとんど読んだことはない。子供向けの昔話なんかの中には、アジアのものもあったかもしれないけど、『スーホの白い馬』って翻訳だったっけ? 日本人の作品だったっけ?
 例外は中国だが、言葉は中国語ができるのではなく、古典を漢文として読めるに過ぎないし、文学は読んだことがあるのは、せいぜい『三国志演技』『水滸伝』ぐらいのものである。現代中国の言葉や文学に興味があるかと問われたら、ないと答えるしかない。朝鮮半島に関しても、言葉はもちろんできないし、文学は日本語で書かれた作品も含めて読んだことはない。日本名で執筆活動をしている人については、読んだことがあるかもしれないけれども、確認するつもりはない。日本語で書かれ、日本が舞台で、登場人物の大半が日本人であれば、読むのに何の問題もない。

 話を中国を除いたアジア諸国を舞台にした物語に拡大しても、文学であれば、竹山道雄の『ビルマの竪琴』ぐらいしか読んだことがないし、映像作品となると、アメリカ映画の「プラトーン」「キリング・フィールド」ぐらいしか見たことがない。第二次世界大戦に関するノンフィクションは結構読んだけど、物語とは言いづらい。
 だから、自分はアジアを軽視しているんだなんて反省をするつもりはない。もともと外国文学の翻訳は苦手で、推理小説とSF系の作品を除けば、外国文学なんてろくに読んじゃいないのだ。映画にしても、日本映画ですらろくに見ておらず、チェコに来てからチェコ語の勉強をかねて見たチェコ映画の方が多いくらいである。つまり、自分にとって文学、物語というものは、日本語で書かれたものであって、映画というものはチェコで制作されたものなのである。

 第十七章では、外国語を学ぶための書かれた物語と映像作品のいいとこ取りをしたものとして、戯曲が紹介される。この戯曲という形式がまた個人的には非常に苦手で、ちゃんと読了したのは、国語の教科書に出てきた民話劇の「木龍うるし」ぐらいしかない。考えてみれば、チェコ語を世界的にした「ロボット」という言葉を生んだチャペクの『R.U.R.』も、戯曲形式で書かれている。この作品は、義務的に読んだ。多分最後まで読んだと思うけれども、『クラカチット』や『山椒魚戦争』なんかの小説形式で書かれた作品ほど楽しめなかったのは紛れもない事実である。『蟲の生活』とか戦前の何とか全集に収録された古いのを神田の古本市で発見して、大喜びで買ったはいいものの、戯曲故に読みきれなかったし。

 以上、つらつらと、『物語を忘れた外国語』の各章を読んで思いついたことを、直接の関係あるなしにかかわらず、書き散らしてきたのだけど、言語学をテーマにした本に比べて、はるかに思いつくことが多く、連想があちこちに広がっていって収拾がつかなくなりそうなこともあった。久しぶりに幸せな読書のひと時を味わうことができたのである。
 その一方で、自分の不肖の弟子っぷりも今まで以上に明らかになった。外国語を学ぶために物語、読書を役に立てようという主張からして、大賛成ではあるものの実践はできないと来ている。外国語学習と読書、映画の視聴の間に密接な関係を作り出せればよかったのだろうけれども、我が人生では読書だけが孤立してしまっている。だからと言って、何かのために本を読むというのはあまりやりたくない。何かの一環として本を読むだったらまだ許せるのだけど、やはり読書そのものが目的であって、手段というふうには考えられないのが、活字中毒者の性なのである。

 『物語を忘れた外国語』に関する文章全体をしめるには、どうにも中途半端な感じだけれども、長く続いたこの件に関してはこれでお仕舞。
2018年6月19日23時55分。







2018年06月19日

『物語を忘れた外国語』後6(六月十八日)


【新品】【本】物語を忘れた外国語 黒田龍之助/著




 第十二章は、文法用語がテーマで、文法用語が題名になっている小説がいくつか紹介される。この章の一番の読みどころは、日本語には人称代名詞は存在しないと喝破するところである。その説の当否はともかく、日本語の一般には人称代名詞として片付けられるものが、実はものすごく厄介なものであるのは間違いない。
 無駄に公的な感じと、逆に非常に私的な印象があって、普通の会話の中では使いにくい二人称とされる「あなた」は、中高の英語の授業で日本に翻訳する際に使用するのを強要されるのが苦痛でならなかったのだが、本来は人間ではなく場所を表す代名詞である。かつては、同じ場所を示す代名詞の「そなた」「こなた」も、二人称の代名詞のように使われていたことがあるわけで、日本語では直接人を指すのを嫌い、その代わりに人がいる場所を使うのだなんて解釈も可能かもしれない。指す場所が違うはずの「こ」でも「そ」でも「あ」でも二人称になってしまうところが不思議だけど。
 この場所で人を指すというのは、現在の日本語でもよくあることで、丁寧に表現するときには、自分のことを「こちら」、相手のことを「そちら」で示すことが多いし、「どちらさま」なんて、自分でも使うけど、使いながらこれでいいのかなんて考えてしまう表現も存在している。

 そもそも、日本語は受身表現や、いわゆるやりもらい動詞の発達で、「あなた」に限らず、あえて人称代名詞を使う必要のない場合が多いのである。それなのに英語に出てくる人称代名詞をすべて日本語の文でも使うように強要されたのが、一時期日本語で文章が書けなくなった理由の一つだった。
 最近は普通に使う人も増えているのかもしれないが、三人称の「彼」「彼女」も自然な日本語なら、特に男女を区別しないで「あの人」というよなあ。その「かれ」だって、本来は人を指す言葉ではなく物をさす言葉だったわけだから、日本語には、本来の意味での人称代名詞がないといわれると、納得できてしまう。

 第十三章に登場するのは、ソ連の文学なのだけど、筋金入りではない、単なる心情左翼に過ぎなかった人間には、何となく小難しそうな印象の強かったソ連の文学を読むというのは敷居が高かった。田舎では、ロシア文学はともかくソ連文学の本なんて手に入りにくかったという地理的な事情もあるし、東京に出た頃にはソ連が崩壊してしまっていたという時間的な事情も存在する。かくて、ソ連の物語で自分が見たり読んだりしたものというと、映画「誓いの休暇」だけということになる。これは、高校のときの世界史の先生が、特に左翼がかった人ではなかったのだけど、傑作だといって、授業中だったか放課後だったかに見せてくれたものである。覚えているということは、それなりに面白かったということだと思うけど。

 第十四章で取り上げられるのは作家の干刈あがたの『ウホッホ探検隊』なのだが、この作家の登場が『物語を忘れた外国語』を通じて最大の驚きだった。他は全部知っていて、この作家だけ知らなかったという意味ではなく、かつて熱心に読んでいながら半ば忘れていた小説家とその作品が、黒田龍之助師の外国語をテーマとした本に出てくるとは予想もしなかったという意味においてである。自分の知らない作家や作品が登場すること自体は驚きではない。本を読むのは新しいことを知るためでもあるわけだから。
 干刈あがたは、80年代の終わりから90年代の初めにかけて大量に読み漁った所謂純文学に属する小説家の中でも、個人的には最も高く評価していた作家の一人である。いつの間にか存在を忘れてしまっていたのは、寡作だったからである。hontoで確認したら、現時点で購入できるのは、『ウホッホ探検隊』だけだった。『黄色い髪』は読んだと思うのだけど、何かの事情で最後までは読めなかったような気もする。
 それはともかく、『ウホッホ探検隊』の母親と子供たちの会話、特に子供たちの言葉遣いを、当時の80年代の東京の子供たちの自然なしゃべりかただという指摘には、目からうろこが落ちる思いがした。実はこの子供たちのしゃべり方を、あえて気取ったしゃべり方をして、親の離婚というショックを振り払おうとしているのだと解釈していた。けなげな子供たちだと思っていたのだけど、九州の田舎者には理解できないこともあるということだな。

2018年6月18日23時40分。




誓いの休暇 [DVD]









2018年06月18日

『物語を忘れた外国語』後5(六月十七日)



 第十一章はウサギの話である。チェコではウサギを飼っていて食べるとかそんな話ではなく、古今東西の物語の中に登場するウサギがテーマになっている。それなのに、不思議なことにソ連のウサギが出てこないのである。チェコのウサギとしてはチャペクがちょっとだけ出てくるけど。

 チェコには、共産党員をはじめ、ソ連時代にノスタルジーを感じ、そこからロシアを支持する一定数のグループは存在するが、多くの人はソ連に対してはもちろん、ロシアに対する反感も隠さない。ただそんな人たちがみな、ソ連に支配された共産党政権の時代のものをすべて嫌っているかというとそんなことはなく、共産党の時代にソ連から入ってきたものに対しても愛着を感じていることがあるようである。
 その例として挙げられるのが、ソ連がクリスマスの象徴イェジーシェクを駆逐するために導入したデダ・ムラースのプロパガンダ映画「ムラジーク」である(いや、ソ連では多分娯楽映画だったのだろうけど、チェコでは単なる娯楽ではなくちょっと違った役割を果たしていた)。題名を聞くのも嫌だという人がいる一方で、毎年クリスマスが近づくと民放で放映され、一定以上の視聴者を獲得している。これは、共産党のシンパ以外にも、「ムラジーク」にノスタルジーを感じる人たちがいる証拠だと言ってもいい。

 同様にソ連時代に制作されたテレビ番組で、たまに放映されているのを見かけるのが、子供向けのアニメ「イェン・ポチケイ・ザイーツィ」である。これは我が日本語が堪能な友人の言葉を借りれば、ソ連版の「トムとジェリー」らしい。アメリカのアニメに出てくるのがネコとネズミなのに対して、ソ連版に登場するのはオオカミとウサギである。
 ちゃんと見たことがないのだけれども、オオカミが逃げるウサギを追いかけまわすというのがパターンになっているようである。ただ、番組の予告などで目に入ってきた限りでは、このアニメ、ウサギが全然目立たない。オオカミが前脚を振り回しながら、二本足で走っている様子は、思い浮かべられるけど、その前で逃げているはずのウサギの印象がほとんどないのである。
 だから、チェコ語の題名「イェン・ポチケイ・ザイーツィ」を見るたびに、ウサギなんて出てかねと首をひねることになる。「ザイーツィ」は、ノウサギを意味する「ザイーツ」の五格だから、題名をあえて訳せば、「ウサギめ、待ちやがれ」とか、「今に見てろよ、ウサギめ」なんてことになるから、ウサギは主要な登場動物であるはずなのだけど。

 このアニメをちゃんと見ていないのは、ソ連時代の物だからという理由ではなくて、絵柄が何となく合わないからである。チェコの子供番組ベチェルニーチェクで放送されるアニメの中にも、絵柄が気に入らなくて見ていないものはいくつもあるけれども、「イェン・ポチケイ・ザイーツィ」も同じである。「ムラジーク」を見ないのも、予告編で目にした男性も含めた登場人物たちの化粧の微妙さが許せないというのが一番の理由である。それがなければ、内容がどうであれ、後学のためと称して一回ぐらいは最後まで見たはずである。

 ちなみにチェコのウサギ料理は、正直な話、口に合わなかった。七面鳥とか、イノシシとか、シカなんかと同じで、一度試せば十分である。ちょっと普通ではない肉の中では、カモが一番口に合ったのだけど、カモを食べるとお腹を壊すことが判明して食べられなくなってしまった。食べることにこだわって生きているわけではないけど、美味しいと思ったものが食べられないのはちょっと悲しい。夕食に美味しいものを食べてちょっと幸せな気分になったその夜に、トイレに籠って食べたものを吐き出さなければならなかったときの悲しみに比べればましだけど。
2018年6月17日23時30分。






2018年06月17日

『物語を忘れた外国語』後4(六月十六日)



 第八章のテーマはエストニア語。でも最初は、ドラマや小説などに現れる大学、特に教授という人種について語られる。大学教授が出てくる物語として、ドラマ化もされた宮本輝の『青が散る』が取り上げられるのだけど、個人的には大学を舞台にした物語といえば、『動物のお医者さん』に尽きる。そして「教授」と呼ばれる人物となると、漆原教授以外には思い浮かばない。あれを読んだときに、舞台となっている北大の獣医学部では、大学の教授のことは、「教授」と呼ぶことになっているのだろうと思ったのだけど、実際はどうなんだろうか。日本の大学では、「教授」と呼びかけるのを聞いたことはない。
 日本以上に学歴にうるさいチェコでは、普段から教授には「教授」とよびかけ、准教授には「准教授」と呼びかけ、公式の場では博士号や修士号を持っている人にも、学位を使って呼びかけることになっている。それだけでなく、高校の先生に対しても、正確には教授ではないのに、「先生」ではなく、「教授」と呼びかけることになっているらしい。肩書きにうるさい人の中には、呼びかけ方が違うとへそを曲げる人がいるというし、無頼派を気取って肩書きなんぞくそ食らえと考えている人間には、ちょっと生きにくいとことがあるのである。
 その点、日本の学校は、幼稚園から大学まで、どこでも誰でも教えてくれる人に対しては、「先生」で済ませられるから楽である。ただ、日本語の「先生」の使い方には、大きな不満がある。何が悲しくて、国会議員やら、小説家やらを、先生と呼ばにゃならんのか。議員同士が「先生、先生」と呼び合っているのには、猿芝居でも見ているような暗澹たる気分になってしまう。

 この章では、エストニア語が出てくるソ連の青春小説(これってドイツ系の文学で言うとことの「ビルドゥングスロマン」と同じものだろうか)が取り上げられるのだけど、その直前に、外国語に取り組む青春小説が日本にあるのだろうかという問いかけがなされる。もしかしたら、この問いかけに対する師の答えが、『ロシア語だけの青春』の執筆だったのではないかと考えてしまった。

 第九章では、物語に登場する言語学者が取り上げられる。言語学者には偏屈な人が多いというのだけど、言語学者に限らないんじゃないかなあ。本当に優秀な学者というのは、どこか正確に偏りがあるからこそ、学者として優秀なのだろうし、変人というものはどの分野にだって一定数いるものである。もう一つ、この章に出てくる映画「マイ・フェア・レディ」に関しては、チェコ語の字幕つきで見たのだが、字幕を読みきれずに途中で見るのをやめてしまったことは書いておかねばなるまい。英語は耳に入ってこなかった。

 第十章ではSFから星の話になるのだけど、『へびつかい座ホットライン』という作品名も、ジョン・ヴァーリイという作者の名前も知らなかった。翻訳もののSFは結構読んだつもりなのだけど、ハインラインとかアシモフとか、超有名どころを読むに留まったからなあ。翻訳ものに関しては、ハヤカワ文庫のSFに行く前に、先輩の影響でFTに進んだから、それもSFの名作をあまり読んでいない理由の一つとなっている。
 さて、『へびつかい座ホットライン』が取り上げられている理由のひとつが、未来の言葉として太陽系共通語というものなのだが、未来の宇宙を舞台にした日本のSFで言葉が強烈な存在感を放っているのが、森岡浩之の「星界の紋章」シリーズである。最初に読んだときに、作中にルビとして氾濫している作者が作り出した未来の言語について、言語学者はどんな評価を与えるのだろうかと考えた。個人的には、日本語があんな言葉になってしまうのは、納得がいかないけど、専門家の目から見たらまた違った意見が出てくるかもしれない。現代の言語学者は小説なんて読まないらしいから、「星界の紋章」の人工言語のついてコメントした言語学者はいないのかな。師の感想を聞いてみたい気もするけど、表紙があれだから、これ読んでくださいとは、ちょっと言いづらいものがある。
 「星界の紋章」のような作品を読むと、すべてのルビを丁寧に読んだわけではないけれども、日本語の表記にルビというシステムが存在するのは幸せなことだと思う。語学の教科書で、外国語の単語の上に、読み仮名をつけて、発音する際の助けにするなんてことができる言葉は、日本語以外にあるのだろうか。その分、印刷所の仕事が大変で、著者も校正で大変な目を見ることになるのだけど、ルビの有用性を考えたら、そのぐらい安いものである。

2018年6月16日22時30分。








2018年06月16日

『物語を忘れた外国語』後3



物語を忘れた外国語





 第六章のテーマはスウェーデン。スウェーデンにまつわることがあれこれ書かれているのだけど、ひとつだけ欠けているものがある。この章を読んで不思議だったのが、どうして『ニルスのふしぎな旅』が出てこないんだろうということだった。作者のラーゲルレーブの名前は出てきているだけに意外である。
 NHKのアニメというと、確か再放送か再々放送で見た「未来少年コナン」か、この「ニルスのふしぎな旅」だったのだけど、世代が少しずれていると認識も変わるのだろうか。毎回欠かさず見ていたというわけではないが、印象は強烈に残っていて、東京に出てから本屋で原作の『ニルスのふしぎな旅』を発見したときには、我が読書が児童文学の時代に入っていたこともあって、思わず全四冊購入してしまった。
 この作品、子供たちにスウェーデンの地理を理解してもらうという目的もあって書かれたらしく、主人公のニルスを渡り鳥の群の中に放り込んだのは、南北に長いスウェーデンの各地を南から北まで登場させるためだったのだろうか。ラプランドなんて地名を知ったのは、この作品、アニメのほうね、だったなあ。それが北欧への憧れにつながって、『エッダ』だの『サガ』だのにまで手を出すことにもなったのである。

 実は、チェコで自分でお金を出して手に入れた唯一のDVDが、この『ニルスのふしぎな旅』なのである。本屋かどこかで見つけたときには、あまりの懐かしさに声を上げそうになり、迷わず購入した。NHKで放送されたものそのままではなく、総集編というか、映画版というか90分ぐらいにまとめられたものだった。驚いたのは、音楽の担当がチェコのカレル・スボボダという作曲家だったことで、日本のアニメにチェコの人が音楽を提供したなんて聞いたことがないよなあと首をひねってしまった。
 ウィキペディアの情報によると、日本でテレビ版をもとに劇場版が制作され、それがヨーロッパに出されたときに、音楽がスボボダのものに差し替えられたのだという。チェコでは映画館で公開されたという話は聞かないし、テレビで放送されたのも確認できていないから、チェコ語でニルスを見ようと思ったらDVDしかないのである。見かけたときに買っておいてよかった。

 第七章に出てくるのは「モルバニア国」。聞いたことがあるような、ないような不思議な国名だと思って読んでいたら、ガイドブックまで出ている架空の国名なのだそうだ。モルダビアとアルバニアをくっつけたような名称だから、存在すると言われれば信じてしまいそうである。現実のどこかの国をモデルにしていても、直接その国名を使ってあまりに悪辣な存在として描き出すと問題が起こるのか、明らかにあの国だろうとわかるのに架空の名称が使用されることはままある。冷戦中は、ソ連に関してはどんな悪いことを書いても問題なかったのか、そこまで配慮されていなかったような気もするけど。
 モルバニア国はガイドブックが出ているというから、それとは毛色が違って、架空の国そのものが本の主要なテーマになっているのだろう。架空の国が物語の中核をなす作品ということで思い出すのが、高野史緒の『架空の王国』である。ボーバルだったか、ボーヴァルだったか、ドイツとフランスに挟まれた内陸部の国を舞台にした物語は、現実の国であってもおかしくないぐらいの歴史的な設定がなされていて、本編となる物語よりもその歴史的な部分に熱狂した記憶がある。
 その結果、中公ノベルズから出されていた「ウィーン薔薇の騎士物語」のシリーズにまで手を出してしまうことになる。森雅裕のオペラ物とは毛色は違っていたけれども、オペラをより密接に作品のモチーフにしていて、これはこれで楽しめた。架空の王国ボーヴァルもちょっとだけ登場したような気がする。

 このシリーズにも、作家本人にも、ものすごく期待していたのだけど、こちらの好みが一般の読書傾向と合っていないのか、「薔薇の騎士物語」は5巻で終わってしまい、hontoで確認すると、「薔薇の騎士」以後、著書はそれほど増えていないようだ。ファンとしては外国を舞台に時代考証みたいなことをやりながら物語を紡ぎあげていくというのは大変な作業なのだろうなあと想像するしかない。
 著者名で検索して一番上に出てくる作品が『カラマーゾフの妹』で、高野史緒はこの作品で乱歩賞をとったらしい。森雅裕の後輩になるのか。うーん、森雅裕的に寡作で終わるなんてことがないように祈っておこう。題名からしてロシア的なものを強く感じさせる『カラマーゾフの妹』は、ドストエフスキーやトルストイに何度も手を出しながら、そのたびに挫折した人間にはちょっとハードルが高すぎる。高校のとき、国語の先生がドストエフスキーの『悪霊』を言葉を尽くしてほめていたから、読み始めてはみたのだけどね。最初に『悪霊』に手を出したのが間違いだったのかな。

 高野史緒には、フランス、ドイツの国境地帯からウィーンを経て、ロシアに行く前に、チェコスロバキアあたりで止まってくれるとよかったのにと思ってしまう。プラハはウィーンより西にあるから、ハンガリー支配下のスロバキアを舞台にした物語とかどうだろうか。テーマがマイナーすぎて出版してもらえそうもないか。
 そう言えば、日本語訳が刊行されたチェコの作家アイバスの『黄金時代』を高く評価したというのが高野史緒だっただろうか。それをチェコ関係者から聞いて、高野史緒の本を引っ張り出して再読したのだった。今回も『物語を忘れた外国語』をきっかけに読み返すことになるはずである。
2018年6月15日23時45分。








架空の王国 (Fukkan.com) [ 高野史緒 ]









2018年06月15日

『物語を忘れた外国語』後2(六月十四日)







 こんなに長くなるはずではなかったのだけど、せっかくだから続ける。第二章で出てくるのは懐かしの星新一の「ボッコちゃん」である。匿名性の高い星作品は、いや星新一のSFショートショートは、日本文学の作品の中でも、普遍性が高く外国でも評価されやすいのかもしれない。同じSFでも、仏教的無常観を主題にするとも言われる光瀬龍とか、日本の土俗的な伝説をもとに伝奇小説を仕立て上げる半村良なんかは、翻訳するだけでも大変そうだし。

 それはともかく、星新一のチェコ語訳の短編集が出ているのは知っていた。知ってはいたが、わざわざチェコ語で日本の作品を読むのもなあと手を出しかねていたのである。でも星新一のショートショートなら、ちょっとした新聞雑誌の記事と大差のない長さで、一篇ごとに読んでいけば、通読できるかもしれない。夏休みにちょっと試してみようかな。
 星新一と言えば、ショートショートしか書いていないイメージがあるが、父親の星製薬の創業者星一の人生を描いた『人民は弱し官吏は強し』も感動的だった。日本の官僚と政治家の腐り具合というのは、今も昔も大差ないのである。共産党の時代から官僚の横暴に悩まされ続けているチェコ人には受けるかもしれない。自分がチェコ語に訳せる自信も、チェコ語訳を読めるという自信もないので、手は出さないけど。

 三章で取り上げられる作家は吉田修一。この人知らんぞ。調べてみると1997年に「文学界」でデビューしたらしい。知らないわけだ。90年代に入って、いわゆる純文学系の作品には背を向けるようになっていたから、直木賞の作品はともかく芥川賞の作品は全く読んでいないのである。2000年代に入ってからの小説なんて、大学時代の友人が一箱送ってくれた本や漫画の中に入っていたものか、2009年に一時帰国したときに購入した二箱分ぐらいしか読んでいないしなあ。友人が贈ってくれた本の目玉は森雅裕の自費出版もの二冊だったから、他は何が入っていたのかさえ覚えていない。サラリーマンをやめて旅行記を書いている人の本もあったなあ。自分で日本で買ったのは、推理小説が多かったかな。

 第四章は大谷崎の『細雪』である。チェコ語で『セストリ・マキヨコビ』という翻訳の題名を聞いてもどの本なのかわからなかった。発音上の要請なのだろうけど、日本語の「マキオカ」が「マキヨコ」になるのがよくわからなかったし、最初聞いたときは女性の名前かと思ったぐらいである。
 この章で、師は『細雪』の中にウクライナを発見する。こういう本の読みかた大好きである。チェコ語を勉強し始めて以来、何でもかんでもチェコに結びつけてしまうのだけど、こんなことをやっているのが自分だけではないことを知って嬉しく思ってしまう。独立前のチェコ、ボヘミアやモラビアの痕跡を探して、青空文庫の古い小説を読んでみようかしらん。ヨーロッパに留学した鴎外や漱石の作品に出ているかもしれない。

 それから、三島由紀夫を読んで、日本語がまだまだとのたまうロシアの人と、三島の日本語は美しいという大学生が登場する。前者はチャペクが読めなければチェコ語ができるとは言えないと言っているようなものだろうか。いやフラバルのほうがいいだろうか。チャペクはチェコ語の教科書で意味不明のエッセイを読まされて以来、手を付けていないし、フラバルに至ってはチェコ語の師匠に脅されたので、本は読まずに専らフラバル原作の映画を楽しむにとどめている。
 三島の日本語が美しいというのはどうなのだろう。心情左翼だった我が読書における純文学の時代には、忌避すべき存在として読むのを避けていたのだけど、心情左翼の呪縛を逃れてから、何作か読んだ。『潮騒』とか『豊饒の海』とか、過去の名作に想を得て現代の物語を作り出した奴は、結構好きだったなあ。発想のもとになった作品があるだなんて、言われなきゃ気づかなかったし、そういう作品があるといわれれば、読みたくなるのが活字中毒人間の性というものである。かくして読書の幅が広がっていく。日本語については、読みやすい文章であったとは思うけれども、美しかったかどうかは何ともいえない。そもそも、自分に、好き嫌いならともかく、日本語の美醜を評価できるのかというのも怪しいのだけどさ。
 以前、知り合いのチェコ人が三島の短編を訳していたときに、会話の発話者がわからないといって相談されたことがある。その場面には登場人物が数人いて、三つ、四つ、誰が言ったという説明もなしに鉤括弧に入った会話文が並んでいた。日本語の小説ではいちいち誰の発言かを書く必要がないのは素晴らしいのだけど、ときどき、作家によってはひんぱんに、よく考えないと、場合によってはよく考えても、誰の発言かわからないことがある。翻訳者泣かせと言ってもいいのかな。

 この本についての話はもう少し続きそうである。本について書かれているから、どうしても書きたいことが出てきてしまうのである。

2018年6月14日23時50分。













2018年06月14日

『物語を忘れた外国語』後1(六月十三日)



物語を忘れた外国語 [ 黒田 龍之助 ]





 外国語の勉強に物語を読むことを薦める本だけに、さまざまな外国語から、もしくは外国語に翻訳された作品が紹介される。冒頭の「はじめに」からして、「ライ麦畑の語学教師」という副題がついているし、これって『ライ麦畑でつかまえて』が元ねただよなあと思っていたら本文には出てこなかったような気がする。サリンジャーは……、読んでないなあ。そもそもアメリカ文学で読んだのはハヤカワのSFにファンタジー、それに一部のミステリーを除けば、ヘミングウェイぐらいなのだ。『トム・ソーヤ』は読んだけど、あれは子供向けにリライトされたものだったと思う。カポーティの『冷血』とか、題名には引かれたのだけど……。
 第一章では意外なことに横溝正史が取り上げられている。映画を見てストーリーをよく知っている『犬神家の一族』を英語で読むというのである。横溝作品の英語訳はこれ一冊だけで、フランス語への翻訳の方が多いというのにはちょっと驚いた。あのおどろおどろしさはフランスのほうが受けるのだろうか。さらに驚きなのは、じゃあフランス語で読むかと書けてしまう師の語学力なのだけど。

 翻訳について触れられる前に、英語字幕付きのDVDがあればいいのにということも書かれれているが、日本の映画を外国語の字幕つきで見るのは結構辛い。見るだけなら辛くはないけど、それで勉強しようなんて考えると大変である。チェコテレビが日本の映画を放送するときは、子供向けのアニメ以外はチェコ語の字幕付きである。それで何度かチェコ語の勉強のために、日本語のせりふを聞きながら字幕を読んでみるかと挑戦したことがある。あるんだけどうまくいかなかった。
 原因はいくつかあって、一つは字幕を読むのに時間がかかりすぎて、読んで理解する前に次の字幕が出てしまうこと。次は字幕を読むのに集中していると、役者の台詞が耳を通り抜けてしまうこと、これは同時通訳ができない理由の一つでもある。それに字幕しか見なくなるので画面で何が起こっているのかわからなくなるなんてこともあったなあ。

 チェコテレビで放送されるのは古いモノクロの映画で音質が悪かったり、最近のでも藤沢周平原作で方言が使われていたりで、集中して聞いていないと日本語でも何を言っているのかわからないことも多いので、字幕なんか読んでいる余裕がないと言うのもある。短い台詞だけならいいけど、長くなってくると対応しきれなくなる。
 だから、字幕付きの映画を語学の勉強の役に立てようとしたら、目と耳でそれぞれ別のことに集中するような訓練が必要なのかもしれない。同時通訳ともなるとそれに口まで必要になるから、事前に原稿があって準備が完璧にできていない限り自分にやれるとは思えない。昔は勉強のときには、時代の例に漏れず「ながら勉強」で、音楽やラジオを聞きながら勉強していたのだけど、本当に集中して勉強できたときには、音楽やラジオの番組は耳には入ってこず、勉強が一息ついたら聞いていたはずのCDやラジオ番組が終わっていたなんてことが多かった。そんな一点集中しかできない人間には、同時に二つ三つのことに集中するなんて難しすぎる。日本語を聞きながらチェコ語の字幕を読んでいるだけでも、すぐに頭が痛くなってしまうのである。

 語学を勉強するに当たって、外国語のニュースを見るのが最高の勉強になると主張する人がたまにいるが、あまり信じないほうがいい。特に語彙もたりず、周辺情報も足りない初学の頃には、一時間のニュースを見て一本もまともに理解できないなんてこともよくあった。ニュースは近くにわからない言葉を説明してくれる人がいる状態で見ないと、あまり役に立たないのである。わからなかったらつまらないから見る気もなくなるし。
 その点、師の勧める映画やドラマを見るというのは、字幕が付いていなくても、ストーリーがぜんぜんわからなくても、こんな状況でこんな表現を使うのかという発見はあるし、わからないなりに見ていればそれなりに楽しめる。それに同じ映画を時間を置いて繰り返し見れば、理解できる部分が増えて自分の語学能力が上がったことを確認することもできる。

 本来ならば、師の言うように日本語で見た映画をチェコ語で見るというのが、ストーリーもわかっていて近道なのだろうけど、映画好き、ドラマ好きというわけではないので、日本の作品であれ外国の作品であれ、日本語で見たものをチェコ語でも見たという作品は残念ながら存在しない。イギリスのグラナダTV制作の「シャーロック・ホームズ」のシリーズは日本でも見たけど、日本で見たのは短編ばかりで、チェコでは長編しか放送されなかったから、同じものを見たとは言えないし。モグラのシリーズはしゃべらないからさ。
 そうか、チェコ映画の日本語字幕付きというのもあるのか。と思いついたはいいものの、吹き替えや字幕付きでみたチェコ映画があったかとなると、うーんである。日本のチェコ大使館で行われていたチェコ映画の上映会には、何度も通ったけれども、日本語の字幕付きなんてあったかなあ。英語の字幕付きが多くて、字幕は無視してわからないチェコ語を必死で聞いていたような記憶しかない。「シャカリー・レータ」とか「パスティ・パスティ・パスティチキ」とか、こちらに来てからはほとんど見ていない映画を見たのは覚えているのだけど……。

2018年6月13日23時40分。




犬神家の一族改版 (角川文庫) [ 横溝正史 ]










2018年06月13日

『物語を忘れた外国語』中〈六月〉十二日






 語学の学習の仕方について、さまざまな提言というか、ヒントになるようなことをあちこちで書かれている師であるけれども、この『物語を忘れた外国語』では、語学の勉強の一環として本、特に小説を読むことを推奨している。この考えには、心の底から賛成するし、自分でも外国語を学ぶモチベーションの一つにしていたことがある。
 語学の授業で、文法的な正しさと、文法事項が現れるというだけの理由で選ばれた無味乾燥の文章を読まされるのには辟易していたし、小説好き、物語好きとしては、多少難しくてもいいし、習っていない文法事項が出てきてもいいから、読んで楽しめる文章を読ませてもらえないかと思ってもいた。
 以前血迷って個人的に英語の復習をしようと考えたときに、好きな小説を読もうと丸善まで出かけたことがある。そこで見つけた当時熱心に翻訳を読みふけっていたとある小説を購入した。引き返せなくなるように、続き物だったこともあって全巻取り寄せるなんてことまでしてしまった。

 それなのに、それなのに、読めなかったのである。読めなかったのは自分の英語力のなさが一番の問題だったのかもしれないけれども、ストーリーは頭の中に入っているし、何度も読み返した本なので、細部まで思い起こすこともできた。英語の文章を読みながら、これはあれのことかな、日本語では確かこうなっていたかななんてことを思い返すことはできていたのだが、読み続けることができなかった。
 これは何も英語だけの話ではなくて、今現在、当時の英語よりもはるかにできるようになっているチェコ語でも同じなのである。チェコ語で書かれた文章を読むこと自体に問題はない。新聞や週刊誌の記事なんかは、わからない言葉がいくつかあっても読み通して大体理解できていると思うし、わからない言葉が全体の理解に重要だと感じたときには、辞書を引いたりうちのに質問したりしている。

 だけど、一番読みたいはずの小説が読めないのである。これまで、あれこれチェコ語で小説を読むのに挑戦してきたけれども、読み通せたのは子供向けの『メリハルという名の靴』一冊きりである。もちろん、幼児向けのクルテクあたりは読めたけど、あれを読書とは言いたくない。同じ子供向けでも『俺たち五人組』は早々に挫折したし、テレビドラマの「チェトニツェー・フモレスキ」の原作みたいなのも、ノベライズも読み通せなかった。
 これでは、浪漫主義言語学に続いて、師の弟子を名乗るわけにはいけないではないか。名乗れはしても、不肖の弟子にしかなれない。何年先になるかはわからないけど、次に日本に帰る機会があったら、本を贈ってくれた知人にお願いをして師に会わせてもらって、師匠とかお師匠様と呼ぶ許可をもらおうと思っていたのに、このままでは不肖すぎて師匠と呼べない。

 では何がいけないのだろうと、あれこれ考えて思い至ったのが、自分の読書のしかたである。速読のやり方を学んだわけではないが、特に小説、面白い小説を読むときにはスピードが大切なのである。一回目の読書では細かいところはあまり気にせず、どんどん先に読んでいく。やめられない止まらない状態になるのが小説の醍醐味なのである。その結果、面白いとなれば、即座に二回目の読書に入り、今度はあまり気にせずに読んでいた細部を意識しながら読み進める。二回目なので細かいところまで意識してもスピードは落ちない。
 外国語の読書で問題なのがこのスピード感、やめられない感で、わからない単語を無視するにしてもスピードが上がらないのである。2、3ページ読んだぐらいで、あまりの話の進まなさに本を放り出してしまう。そして、次に途中から読み始めるということもできない。日本語だと文字を一字一字追いかけていくのではなく、目の中に入ってくる塊を一度に理解できるけれども、チェコ語の場合でもそれは不可能で一語一語、場合によっては一文字一文字読んでいかないと理解できない。これが、チェコでの読書がスピードが上がらず、まどろっこしく感じてしまう理由である。

 そう言えば以前、外国語からの翻訳小説が苦手だったのも、人名が覚えられなくて、いちいち前に戻って確認する必要があったからだったなあ。ロシア文学なんていまだにそれで読む気になれないし。トルストイもドストエフスキーも途中で挫折してしまって、ロシア文学で最後まで読み通せたのは、レルモントフの『現代の英雄』しかない。うーん、やっぱり不肖の弟子である。不肖を返上するためにも、チェコ語の小説、できれば歴史小説を読み上げるのを目標にしようか。一生の目標になりそうである。
2018年6月12日22時55分。












2018年06月12日

『物語を忘れた外国語』前(六月十一日)







 言わずと知れた黒田龍之助師の著書である。「小説新潮」に、2015年11月号から2017年4月号まで、ほぼ一年半にわたって連載されたものを単行本化したもので、実は連載の第一回だけは、日本に住んでいる知人が、こんなの出たよと言って雑誌を送ってくれたので読んでいたのだが、新潮社では「小説新潮」の記事をネット上で読ませる気はないらしく、各回の題名とか、連載が続いていることぐらいしか確認できていなかった。新潮社も「週刊新潮」あたりのくだらない記事をネットで公開するぐらいなら、黒田師の連載を公開したほうが、新規の読者も獲得できてはるかにマシだと思うのだけど。
 それより許せないのは「日本経済新聞」で、師のエッセイを公開してはいるものの、全文読むためには、読者登録をしなければいけない。題名と冒頭だけ読んでさあこれからというところでお預けを食わされるのである。もともと低かった日経への評価がさらに下がったことは言うまでもない。そんなに読みたきゃ登録しろとは言うなかれ、学生時代に、人生で成功したければ日経を読め的なキャンペーンに嫌悪感を感じて以来のアンチ日経なのである。記事を読むぐらいなら、そこに目をつぶるけれども、読者として登録なんてのは、やはりできない。悩むんだけどさ、いや今でも悩んでいるんだけど、もしかしたら我慢できなくなって登録してしまうかもしれないけれども、恨みつらみは大きくなる一方である。

 話を戻そう。「小説新潮」の連載は読めないから、やがて確認もしなくなり、あの連載はどうなったのだろうかと思い出したのは、現代書館がネット上での連載をまとめて『ロシア語だけの青春』を刊行することを知ったときだった。無駄に忙しかった時期で、わざわざ確認する余裕もなかったのだけど、ひょんなことからすでに刊行されていることを知った。

 一ヶ月ほど前のことになるだろうか。仕事上で付き合いのある人から、とは言っても面識はなくメールでのやり取りしかしたことはないのだが、個人的なメールをいただいた。それが黒田師の本、『その他の外国語 エトセトラ』についてだったのである。この方は宇都宮の方でと書くと、わかる人もいるだろうか。オロモウツのパラツキー大学から宇都宮大学に留学した学生を何人か知っているらしいのである。
 そして、たまたま『その他の外国語 エトセトラ』を手にとって読んでみたら、明らかに知り合いと思えるチェコ人、パラツキー大学の学生が登場していることに感動して、メールを下さったらしい。こちらは、その方がたまたま手に取られた本が『その他の外国語 エトセトラ』であったことと、本に感動されたという事実に感動して、もしくはうれしくなって、即座に返事のメールを書いたのはもちろん、日本にいる黒田師と面識のある知人にも、メールを送りつけてしまったのである。

 あらまほしきものは、先達ならぬ友なりけりということで、その知人が、「小説新潮」を送ってくれたのと同じ人なのだけど、最近黒田師の本が次々出版されていて月刊黒田状態であることと、『物語を忘れた外国語』も刊行済みであることを教えてくれた。のみならず、日本から送ってくれるというのである。贈ってのほうがいいかもしれないが、とにかく、改めて日本のほうを向いて拝むとともに、足を向けて寝られないという気持ちを新たにしたのであった。
 いや、新しい本が出ていることを知らされたときには、最近利用を再開したhontoで購入しようかと思ったのだよ。海外発送も問題なくしてくれて、おまけに税金もかからないから、紙の本を買うハードルは以前と比べると断然に下がっている。でも、でもである。自らの収入の少なさを考えると、ここはお願いしておこうということで、申し訳ないと思いつつ、お願いしてしまった。

 それが届いたのは、先週のことで、例によって郵便局まで取りに行った。最近在宅でも不在配達票が放り込まれることが多いのだけど、今回は本当に配達に来たと称する時間は不在にしていた。仕事に行く途中にショッピングセンターのシャントフカ内にある郵便局によって受け取ってきた。シャントフカ全体の営業時間である午後九時まで開いているらしいから仕事帰りでもよかったのだが、楽しみで待ち切れなかったのである。
 歩きながら封筒を開けて、出てきた二冊、『物語を忘れた外国語』と『ロシア語だけの青春』のうち、まだ読んでいない部分の多い『物語を忘れた外国語』を読み始めた。職場まで人通りの少ない城下の公園を歩けたからできたことではあるけど、それができなかったら、無理やりトラムを使って職場に向かうことにしていただろう。

 本の内容に入る前に、一日分の分量を越えてしまった。ということで、つづきはまた明日。
2018年6月11日23時40分。








2018年06月11日

チェコ―ロシア(六月十日)



 一月のヨーロッパ選手権で六位というチェコ代表としては過去最高に並ぶ順位を収めた男子チームだが、八日金曜日に、今度は世界選手権の出場をかけたプレーオフでロシアと対戦した。ヨーロッパ選手権を怪我で欠場したババークが復帰したのは好材料だったが、ポストのペトロフスキーと、エースキーパーのガリアが負傷で欠場するというのは大きな不安材料だった。もう一人のキーパーのムルクバもガリアに劣るというわけではないのだけど、二人同じレベルのキーパーがいるというのが大切なのである。
 幸いなことに、去年代表を引退し、今シーズン限りでクラブチームの選手としても引退したシュトフルが、プルゼニュでのプレーオフ初戦限定で代表復帰してくれた。これで、先発するだろうムルクバが当たっていなかったら、シュトフルにゴールを託すことができる。二人いれば、たいていどちらかは当たる確率が高い。そしてもう一人、最近の代表で守備専門の選手として欠かせない存在になっているロボシツェのヤン・ランダも今シーズン限りで引退を決めたけれども、ロシアとのプレーオフ二試合分だけ現役を延長してくれた。

 試合前は、いかにロシアが強豪チームだとは言え、かつての強さはないし、ヨーロッパ選手権で六位に入ったチームに攻撃の組み立て役のババークが復帰するのだから、接戦になることはあっても、負けることはあるまいと楽観的な予想をしていた。中継が始まってから解説でチェコ代表は世界選手権のプレーオフは苦手で、数年前にもロシアと対戦してホームで惨敗を喫したことがあるという話を聞いて心配になるのだけど、その心配が当たってしまう。
 最初に得点を挙げたのはチェコだった。イーハが引退しホラークが守備中心になった後、やっと現れた大砲候補のカシュパーレクが右45度ぐらいからのロングシュートを決めた。ヨーロッパ選手権で活躍したのは知っていたけれども、チェコテレビが中継してくれなかったので実際にカシュパーレクのプレーを見るのは初めてだった。こいつ本物だわ。イーハやホラークのような重量感はないが、期待の若手から抜け出せないままに終わりそうなカサルと違って、細いなりに力強さがあるし、何よりシュートに行くときの思い切りがいい。将来が滅茶苦茶楽しみである。

 それはともかく、先制した後、チェコ代表はしばらくいいところがなかった。ヨーロッパ選手権での成功が悪いほうに出たのか、軽いプレーが多く、ミスでボールを失っては速攻を食らってゴールを決められ、あっという間に1−6と5点差をつけられてしまった。キーパーのムルクバも悪い流れに巻き込まれて、試合開始からどフリーでのシュートの連発にできることは何もなかった。
 最大で4−11と7点さまで広げられ、これはこの試合は勝てそうもないと見るのをやめてしまおうかとさえ思った。それでも見続けたのは、クベシュとフィリップが監督に就任して以来のチェコ代表がこういう状況から立て直して接戦に持ち込んだり逆転したりするのを、何度も見てきたからに他ならない。このチーム諦めが悪いのである。
 それにしても痛かったのは、ヨーロッパ選手権のヒーロー、ズドラーハラが不調、というかつきがなかったことである。試合開始早々にシュートをはずしたり、ミスから失点の原因になったりして今日はよくなさそうだと思ったのだけど、まさか一点も取れずに終わるとは思わなかった。ホラークの攻撃参加がほとんど得点に結びつかなかったのも、点差を開かれた原因の一つになっていた。審判がホラークへのファールを取ってくれなかったってのもあるんだけど。

 状況が変わったのは、前半の半ばぐらいだっただろうか。緩く軽かったチェコのディフェンスがタイトなものになり、ロシアの選手に楽にシュートを打たせなくなった。同時にキーパーがシュトフルに代わった。シュトフルは次第にロシアのシュートを止めるようになり、一時は三点差にまで詰め寄る原動力となった。これがチェコ代表の強みなのである。同じレベルのゴールキーパーを二人擁し、先発が当たっていなければ交代させ、当たっていればそのまま最後まで試合を任せることができる。
 前半は、また点差を広げられて、12−17と5点差で終了した。前半の最初のほうの絶望感は消えていたとはいえ、後半で逆転するのはおろか同点に追いつくのも難しいだろうというのが正直なところだった。

 後半に入ると、シュトフルが神がかってきた。開始早々から連続で何本かのシュート、フリーのシュートも止め、チェコが19−19と同点に追いつくことに成功する。その後、チェコの選手がチャンスでシュートを決め切れなかったこともあって再び、勝ち越され、一時は3点差をつけられたのだが、残り1分ぐらいのところで同点に追いついた。このまま終わっていても、前半の最初を考えたら信じられないぐらいの結果である。
 残り1分ぐらいからの最後のロシアの攻撃を防いだ時点で、残り15秒。速攻がうまく行かなかった時点で、監督たちは最後のタイムアウトを取った。そこでの指示は、キーパーを引っ込めて7人で攻撃することと、残り3秒まで我慢してシュートを打つことの二つだった。残り時間が3秒であれば、キーパーにシュートを止められたとしても、それで試合終了になるという計算だったのだろう。

 実際にプレーが再開され、しばらくボールを回した後に、ベチバーシュがシュートに行った時点では、まだ5秒ほど残っており、思わず早すぎるといいそうになってしまった。それにディフェンスの上に挙げた手の脇を抜けていくような結構強引なシュートで、一瞬止められると思ったのだ。実際にはキーパーからはボールの出所が見にくいシュートになったようで、チェコが逆転に成功した。そしてロシアがコート中央からプレーを再開する前に終了の笛が吹かれてチェコが一点差で勝利した。いやあ、最初を除けばいい試合だった。
 チェコ代表がこの試合でリードしていたのは、試合開始直後の1−0の状態の時点の、終了直前の2秒ぐらいでしかない。それ以外の時間は、同点もほとんどなかったから、ロシアがずっとリードしていたのである。ロシアに圧倒された状態から立て直して逆転しきっちり勝利したチェコ代表は、他のスポーツも含めてチェコ代表らしからぬしぶとい、負けにくいチームになりつつあるのかもしれない。

 チェコが逆転できた要因は、後半に難しい角度からゴールを決め続けたフルストカの活躍とか、ポストのシュラフタとゼマンが予想以上の活躍をしたことなどいくつかあるけれども、一番はやはりシュトフルの存在であろう。シュトフルのプレーもそうだけれども、それ以前に、ムルクバとシュトフルという二人のキーパーを準備できたことに尽きる。ムルクバも、この日は悪い流れに巻き込まれて活躍できなかったけれども、実力には疑いがないので、第二戦が行なわれるロシアでは鬱憤を晴らすような活躍をしてくれるはずである。
 心配なのはシュトフルの代表復帰が一試合限定でロシアには帯同しないことである。ガリアがいけるのか、誰かキーパーを追加で招集するのか、現時点ではわからないけれども、苦労して勝ち取ったこの勝利を生かして、世界選手権への進出を決めてほしいものである。サッカーと同じでヨーロッパ選手権のほうが相性はいいのだけど、今の代表チームの体制であれば世界選手権でも何とかなるはずである。
2018年6月10日23時30分。









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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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