2018年06月19日
『物語を忘れた外国語』後6(六月十八日)
第十二章は、文法用語がテーマで、文法用語が題名になっている小説がいくつか紹介される。この章の一番の読みどころは、日本語には人称代名詞は存在しないと喝破するところである。その説の当否はともかく、日本語の一般には人称代名詞として片付けられるものが、実はものすごく厄介なものであるのは間違いない。
無駄に公的な感じと、逆に非常に私的な印象があって、普通の会話の中では使いにくい二人称とされる「あなた」は、中高の英語の授業で日本に翻訳する際に使用するのを強要されるのが苦痛でならなかったのだが、本来は人間ではなく場所を表す代名詞である。かつては、同じ場所を示す代名詞の「そなた」「こなた」も、二人称の代名詞のように使われていたことがあるわけで、日本語では直接人を指すのを嫌い、その代わりに人がいる場所を使うのだなんて解釈も可能かもしれない。指す場所が違うはずの「こ」でも「そ」でも「あ」でも二人称になってしまうところが不思議だけど。
この場所で人を指すというのは、現在の日本語でもよくあることで、丁寧に表現するときには、自分のことを「こちら」、相手のことを「そちら」で示すことが多いし、「どちらさま」なんて、自分でも使うけど、使いながらこれでいいのかなんて考えてしまう表現も存在している。
そもそも、日本語は受身表現や、いわゆるやりもらい動詞の発達で、「あなた」に限らず、あえて人称代名詞を使う必要のない場合が多いのである。それなのに英語に出てくる人称代名詞をすべて日本語の文でも使うように強要されたのが、一時期日本語で文章が書けなくなった理由の一つだった。
最近は普通に使う人も増えているのかもしれないが、三人称の「彼」「彼女」も自然な日本語なら、特に男女を区別しないで「あの人」というよなあ。その「かれ」だって、本来は人を指す言葉ではなく物をさす言葉だったわけだから、日本語には、本来の意味での人称代名詞がないといわれると、納得できてしまう。
第十三章に登場するのは、ソ連の文学なのだけど、筋金入りではない、単なる心情左翼に過ぎなかった人間には、何となく小難しそうな印象の強かったソ連の文学を読むというのは敷居が高かった。田舎では、ロシア文学はともかくソ連文学の本なんて手に入りにくかったという地理的な事情もあるし、東京に出た頃にはソ連が崩壊してしまっていたという時間的な事情も存在する。かくて、ソ連の物語で自分が見たり読んだりしたものというと、映画「誓いの休暇」だけということになる。これは、高校のときの世界史の先生が、特に左翼がかった人ではなかったのだけど、傑作だといって、授業中だったか放課後だったかに見せてくれたものである。覚えているということは、それなりに面白かったということだと思うけど。
第十四章で取り上げられるのは作家の干刈あがたの『ウホッホ探検隊』なのだが、この作家の登場が『物語を忘れた外国語』を通じて最大の驚きだった。他は全部知っていて、この作家だけ知らなかったという意味ではなく、かつて熱心に読んでいながら半ば忘れていた小説家とその作品が、黒田龍之助師の外国語をテーマとした本に出てくるとは予想もしなかったという意味においてである。自分の知らない作家や作品が登場すること自体は驚きではない。本を読むのは新しいことを知るためでもあるわけだから。
干刈あがたは、80年代の終わりから90年代の初めにかけて大量に読み漁った所謂純文学に属する小説家の中でも、個人的には最も高く評価していた作家の一人である。いつの間にか存在を忘れてしまっていたのは、寡作だったからである。hontoで確認したら、現時点で購入できるのは、『ウホッホ探検隊』だけだった。『黄色い髪』は読んだと思うのだけど、何かの事情で最後までは読めなかったような気もする。
それはともかく、『ウホッホ探検隊』の母親と子供たちの会話、特に子供たちの言葉遣いを、当時の80年代の東京の子供たちの自然なしゃべりかただという指摘には、目からうろこが落ちる思いがした。実はこの子供たちのしゃべり方を、あえて気取ったしゃべり方をして、親の離婚というショックを振り払おうとしているのだと解釈していた。けなげな子供たちだと思っていたのだけど、九州の田舎者には理解できないこともあるということだな。
2018年6月18日23時40分。
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