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2018年11月04日
自己責任問題其の二(十月卅一日)
自己責任論でジャーナリストを批判する人たちを批判している人たちには、同業のジャーナリストやらマスコミ関係者やらが多いようであるのだが、その擁護の論理もなかなか醜悪である。大抵は、現地取材の重要性を訴え、国民の知る権利を満たすための取材での出来事だったのだから批判されてはならないというようなことが主張されている。この論理に、自分たちが国民の知る権利を代表しているのだから、取材のためだったら何をしてもいいというマスコミ、ジャーナリスト達の思い上がりを感じる人も多いはずである。
この中国や韓国の反日無罪に通じるような、いわば取材無罪という考え方は、現在世界中で既存のマスコミが読者の信頼を失いつつある原因にもなっている。マスコミは、行政、司法、立法にづく、第四の権力を自任して特権化した時点で、存在意義を失ったと言ってもいいのかもしれない。それを端的に象徴するのが、この取材無罪的な考え方であり、災害が起こったときに呼ばれもしないのに被災地に出かけて、知る権利とやらをのもとに、心ない質問をして被災者を激怒させたり、苦しめたりするテレビのくそレポーターどもである。
仮に、取材に出かけたことについては批判できないにしても、国の制止を押し切ってのことであったらしいことを考えると、取材に失敗して誘拐されたことについては強く批判されるべきであろう。そこをも批判しないのであれば、マスコミ、ジャーナリストと呼ばれる連中が身内の失敗はかばうとして強く批判している警察と大差ないということになってしまう。
もう少し深く考えるなら、外国のマスコミが取材と称して紛争地帯に入ることが、現地の社会にどんな影響を与えているのかまで視野に入れなければならない。取材のためにコーディネーターと称する人物やら護衛やらを雇い、現地の感覚から言えば大枚の謝礼を払うことになるはずである。もちろんそのお金で家族が生き延びられたなんていい話も発生するだろうけれども、何度も繰り返されれば謝礼金を巡る対立を現地社会に巻き起こすことになりはすまいか。それに武装勢力の勢力範囲での活動を許されているということは、コーディネーターとやらも護衛も、武装勢力と何らかのつながりを持っている可能性が高く、謝礼の一部が武装勢力の資金になっている恐れもある。
この手の外国からやってきた連中が金ばら撒いて現地社会に悪影響を与えた例としては、パリダカの例を挙げておけば十分だろう。パリダカについては主催者や取材陣を金ずるにしていた非合法組織が、手に入れた金で武装を整え、さらに儲けの大きい誘拐やら、キャンプ地の襲撃をねたにした脅迫を繰り返すことになったために、アフリカから撤退せざるをえなくなったという話を聞いたことがある。自業自得ではあるけれども、同様のことが取材と称する連中が集まる紛争地帯で起こっていないとは言えまい。
それに、ジャーナリストと招する連中がどんな取材をしているのかという問題もある。かつて北アフリカの難民キャンプに仕事で出向いた人から、ボランティアやジャーナリストと称して滞在してた連中の話を聞いたことがある。やつらは早朝の一、二時間申し訳程度に仕事の振りをするだけで、残りの時間は、難民キャンプの近くの町の超高級ホテルでバカンス生活をしていたらしい。一日の宿泊費でそれこそ数千人の難民の一日の食費がまかなえるようなホテルで快適な生活をし、水不足で難民たちが苦しむその近くで、日がなプールで優雅に泳いでいたというのだから、ボランティアも取材も詐欺みたいなものである。
これはヨーロッパの事例だけど、日本のマスコミ、ジャーナリストたちも、タリバン騒動で呼ばれもしないのに押しかけたパキスタンでは、ホテルから一歩も出ないで取材していたという話もあるから、こっちのほうがひどいか。それに日本のジャーナリストが、事前にコーディネーターや通訳に約束していた謝礼を踏み倒したり、全額払わなかったりして、差額を懐に入れたなんて話も踏み倒された側から聞いたことがある。えせ取材旅行に家族を連れてきていたなんてのもいたから、最初から謝礼を払ったことにして踏み倒し、家族の旅費に当てるつもりだったのは明白である。その取材とやらの結果でてくる記事を、どこまで信用していいものやらである。本人が書いたものであるのかどうかすら怪しいのだしさ。
ジャーナリストと称する人たちが、みんながみんなこうだというつもりはないけれども、マスコミやジャーナリストの存在価値を貶めているのは、マスコミ自体、ジャーナリスト自身であることは否定できまい。取材だから、報道のためだからなどという論理ですべてを正当化することはできないし、許されるべきではない。
今回解放された人へのバッシングをマスコミが非難しているけれども、これまでの弱ったものは袋叩きにし、溺れる犬はさらに棒で叩くというのを実践してきた連中に非難されても、お前らが言うなという反応が返ってきて終わりである。調子のいい間は散々持ち上げて提灯記事を書いておきながら、失敗すると寄ってたかってあることないこと書き散らして、それまでの賞賛をなかったことにしてしまうのがマスコミの常套手段ではなかったのか。それをなかったことにしてバッシング批判をしても、説得力はない。
ネット上でのバッシングにしても、子供たちの間のいじめ問題にしても、弱ったものは袋叩きにしてしまうマスコミの報道姿勢が影響を与えているとは考えないのだろうか。そんな想像力があれば、報道のためなら何をしてもいいなんて思い上がったりはしないのだろうけどさ。
予定とは違う方向に筆が進んだので、この件、もう一回。
2018年11月2日20時15分。
タグ:マスコミ
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2018年11月03日
自己責任問題(十月卅日)
シリアの紛争地帯に取材に出かけて誘拐され、監禁され続けてきた日本人ジャーナリストが三年ぶりに解放されたことで、あれこれ議論が噴出しているようである。一つは例の、国の渡航禁止命令や勧告を無視して戦争地帯に向かった人間に関しては、危険を承知した上で自らの意志で出かけたのだから、誘拐されようが殺害されようが国は動く必要はないという、いわゆる自己責任論という奴である。それに対して、マスコミやジャーナリストの関係者を中心に、戦場に出向いて取材活動をすることの重要性を説き、ジャーナリストの行動を擁護しているグループもあるようである。
この二つの議論が全くかみ合っていないのは、最近の日本におけるこの手の議論の例に漏れない。この場合のかみ合わない理由は簡単で、国家の責任と個人の責任という本来同じレベルで議論してはならないものを一緒くたに扱っているからである。この二つは別々に議論し、それぞれの責任について問われなければならないはずなのに、ごちゃまぜにするから、読んでもどこか歯切れの悪い納得のできない議論に終始してしまうのである。
まず、国の責任という点から考えてみよう。これはもう、議論の余地もなく、動かなければならない。拉致されたのが犯罪者であろうと、国家にとって都合の悪い人物であろうと、日本人である以上は、日本という国が責任をもって対応し、解放に向けて動かなければならない。それは日本という国が、現時点では自国民と他国民を峻別して、自国民を守るべき国民国家という形態をとっている以上、当然のことである。窮地に陥った際には国家が支援するという前提があるから、国民は義務を受け入れるのである。これが個々の国民に対する責任。
それから、外国に対する責任というものもある。国民国家とはいいながら、日本に住む外国人も、外国に住む日本人も増えている。長期的に住みはしなくても、留学や国外赴任で数年程度外国に居住する人も多いし、国外を旅行する日本人も多い。そんな日本人が問題なく受け入れてもらえるのは、個別の人から受ける差別はあっても、日本人だからという理由で差別されて不当な扱いを受けることがないのは、日本という国に対する信頼があるからである。その信頼は、経済的な豊かさだとか軍事力だとかいう即物的なものに依存しているのではなく、日本人が問題を起こした場合には、最終的には日本政府が責任を取ってくれるという信頼である。日本のパスポートを持っていれば、ビザなしで入国できる国が多いのもその信頼に基づいているはずである。
チェコでは、以前イギリスの入国管理局が飛行場に出張してきて、イギリス行きの飛行機のチケットを持つ人たちのパスポートのチェックをし、飛行機に乗せる乗せないを決めていたことがある。これは完全な内政干渉だったけれども、原因は、チェコの政府がイギリスに入国したチェコ国籍の人が起こした問題についてちゃんと責任をもって対応するとは思われていなかったことにある。当時、イギリスに出国するチェコ国籍のロマ人が多く、ほとんど拒絶されていたけれども、差別を理由に難民申請をしようとしていたのだったか。チェコ政府がそのイギリスに出たロマ人について責任ある対応を取らなかったことが、イギリス政府が内政干渉を行った原因だった。同じような事態がカナダとの間でも発生していたような記憶もある。とまれチェコ政府は、信用されていなかったのである。
話を日本に戻せば、これまで外遊でやってきた国会議員の醜態から、パスポートや財布をすられた観光客に至るまで、日本が、正確には大使館の職員たちが、問題の解決のために頑張ってきたからこそ、日本は信頼されており、日本人は世界各地で観光したり仕事したりできるわけである。よきも悪しきも、世界中のどこであっても日本人が起こした出来事の最終的な責任は日本という国のものであって、今回だけではないけれども、日本人が紛争地帯にのこのこ出かけて行って誘拐されるという失態を起こした場合にも、日本政府は責任をもって解決にあたらなければならない。これを怠り続ければ、日本に対する信頼は失せ、国外における日本人、日系企業の活動は制約が今まで以上に大きくなってしまうだろう。これは個人的にも困る。
最後に考えなければいけないのは、国民全体への責任である。日本という国は、個々の日本人を守ると同時に、日本人全体の安全も守らなければならない。だから、日本人が誘拐され政府が交渉の場に立たされたときに、誘拐犯の言いなりになって、犯罪者を釈放したり身代金を払ったりすることは許されない。この手の武装勢力、犯罪組織は、情報の交換をしているに決まっているのである。日本はカモだと認識されてしまえば、日本人誘拐が続発するのは目に見えている。政府は、正確には担当者は、誘拐された人の解放を目指しつつ、日本人を誘拐するのは割に合わないと思わせるような交渉をしなければならないのだから、その苦労は想像するにあまりある。
その交渉の役に立つという観点から言えば、誘拐されたことが明らかになった時点で(こういう情報が表に出るのもあまり望ましいことではないのだろうが、最近は誘拐した側が交渉の一環として公開してしまうから仕方がない)、自己責任論が出てきて、国は何もするなとか、身代金は払うなとかいう方向に世論が向かうのは、悪いことではないだろう。交渉の材料として、誘拐犯の要求に応じられない口実として使用できるのだから(この辺は「マスター・キートン」からの想像である)。ただ、誘拐されて監禁されていた人が解放された後で、つまり交渉の必要がなくなった後で、こんな議論が出てくるのは健康的ではない。国にとって日本人の失態をしりぬぐいするのは義務なのであって、これを誘拐されたジャーナリストへの批判に結びつけるのは間違っている。
実際にどの程度の動きだったのかは確認していないが、誘拐されて交渉が長引くと、関係者や野党などから、交渉に全力を尽くせとか、国は十分なことをしていないとか、国に対する批判が出てくるものだが、これは、実際に交渉を担当した人からすれば、ただの害悪でしかなかろう。誘拐組織側の条件交渉のネタになってしまうのだから、ぎりぎりの綱渡りをしているところを後ろから背中を押されるようなものである。
繰り返しになるが、日本人が外国で、それが紛争地帯であれ、誘拐などの犯罪に巻き込まれたとき、国が動くのは当然の義務であって、それを批判するのは天に唾するようなものである。現在は国の威信をかけて解決に尽力しているものが、一度自己責任を口実に国が義務を果たさないことを許してしまえば、自己責任の範囲が拡大されて、そのうち旅行者がパスポートや財布をすられた際にも、自己責任で大使館が何もしてくれなくなるかもしれないのだから。
と、まあ以上がこの件について国の責任という観点から見た場合の考えである。だからといって解放されたジャーナリストを批判するなという気はない。ただし、これに関しては、個人の責任という観点から、国の責任とは切り離した形で批判されるべきである。
2018年11月1日23時。
タグ:マスコミ
2018年11月02日
渡辺か渡邊か(十月廿九日)
ヤフーの「個人」のところでこんな記事を見つけた。渡邊という名字を渡辺で表記しているメディアを批判しているのだが、これを読んで共感できる渡辺姓の人間などいるのだろうか。この問題は、ここで書かれているような簡単で軽いものではない。
簡単な問題から先に指摘すれば、著者は渡邊が渡辺になる原因を通信社の存在に求めているが、浅い浅い。通信社が渡辺表記を使う理由は常用漢字にある。新聞社は、戦後の国語改悪に際して唯々諾々と常用漢字の前身である当用漢字という漢字制限を受け入れ、人名であっても、正字ではなく、常用漢字に入っている略字を使用しているのである。渡辺の辺について批判するならば、ここであって通信社の存在などはささいな問題でしかない。
作家の丸谷才一は、戦時中にお国の指示とやらにしたがって戦争賛美を展開した新聞社が、戦後その事実を、国に従って戦争賛美した事実を、反省したと称していながら、その舌の根も乾かぬうちに国語改悪に際して再びお国の決めたことに従ったことを強烈に批判しているが、全く以て賛成である。日本の新聞社などは、その節を、最初からなかったとも言えるけど、捨てて当用漢字というものに従った時点で、その存在価値を半ば失ったと言っていい。丸谷才一はそこまで言っていないかもしれない。
さて、話を戻そう。この記事ではバスケットボールの渡辺選手の表記を、ツイッターの公式表記に基づいて「渡邊」だと断定しているが、そんなに簡単に断定できるものなのか。コンピューター上では、渡辺の辺の正字は「邊」と「邉」の二種類しか表示できないが、実際には多種多様のバリエーションがある。シンニョウの点が、一つだったり二つだったり、自ではなく白だったり、その下がウカンムリだったり、ワカンムリだったり、自とワカンムリが分離しているのではなくつながっていたり、様々で、ワタナベ姓の人が二人以上集まると、「ナベ」をどう書くのかで盛り上がってしまうのは、故なしとはしないのである。そして、たまに細部まで同じ字を使うということがわかると妙に親近感を感じるらしい。
自分が正しいと認識する表記が渡邊か渡邉であれば何の問題もないが、渡邊でも渡邉でもないワタナベさんの場合は、手書きでは自家の正しいとしている字を使う人でも、PC上では表示できないので、仕方なく「邊」と「邉」のどちらか自分の字に近いほうを使用するという人もいれば、どちらも自分にとっては正しくないのだから、略字の「辺」を使う人もいる。略字であれば誤字ではないと考えるのである。
だから、ワタナベ姓の人や、「邊」と「邉」にまつわる事実を知っている人には、ツイッターというPC上での表記が渡邊になっているから、それがその人の名字の正しい表記だというのには、根拠が不十分に感じられる。もちろん渡邊が本当に正しい可能性もあるけれども、本人に確認もしないで断言してしまうのは軽率のそしりを免れない。
それに、実は渡邊さんや渡邉さんの中にも、普段は手書きでもPCでも「渡辺」で済ませてしまうという人は多い。画数が多くて書くの大変だし。判子も実印はともかく、三文判は手に入りやすい「辺」で済ませる人が多い。だから正しい表記が「渡邊」だとしても、「渡辺」と書くのが間違っているというのは、間違っている。もちろん本人が渡邊と書けと要求しているなら話は別である。
中学までは特に自分の漢字が正字で新字ではないことにこだわる人はいなかったけど、高校大学で知り合った正字のワタナベさんのなかには、渡邊もいれば渡邉もいたし、どちらとも微妙に違うという人たちもいた。文字にこだわる人もいればあまりこだわらない人もいたが、こだわる人でもふだんは渡辺と書いても特に文句は言わなかった。こだわるときにはやめてくれと言いたくなるぐらいこだわるので、いい迷惑ではあったけど。
ワープロが出始めの頃だっただろうか。旧字も使えるのを最初は喜んでいた「邊」でも「邉」でもない渡辺さんたちが、渡辺に戻ったなんてこともあったなあ。あの頃は、画面で見ると同じに見えるけど、印刷してみたら違っていて、ワープロ使えねえとか喚いていたかな。コンピューターの時代になってもその状況は大して変わっていない。
近年戸籍の電子化が進められた結果、「邊」「邉」以外の異体字が使えなくなり、「辺」も合わせた三文字に集約されつつあるようだが、それに不満を抱えているワタナベさんは少なくないはずである。「邊」「邉」以外の異体字が、本来は誤字に発しているというのは、重々承知しているし、効率を考えるとすべての文字をコンピューターで使えるようにもできないというのも当然だろう。だけど、長年自分の名字として使ってきた文字に愛着と誇りを持っている人たちに、その文字の使用を禁じるのも正しいことではあるまい。
そんな事情を飲み込んだ上で、ワタナベさんたちは必要に応じて、正字と略字を使い分けて生きている。正字のかわりに略字を使うことには特にこだわらず、正字の中における細かい違いにこだわる。それは、正字と略字の関係をちゃんと理解しているからである。字にこだわれというのであれば、このぐらいのことは知っておいてほしいものである。ワタナベさんたちの事情を多少なりとも知っている人間からすると、「渡邊」「渡邉」という表記を見ても、感心するどころか、本当にその字で正しいのかと疑うのがあるべき反応なのである。
2018年10月30日22時55分。
2018年11月01日
チェコスロバキア独立100年(十月廿八日)
十月廿八日は建国記念日として祝日になっている。ただし、チェコには日本のような振り替え休日の制度がないので、土日に祝日が重なると一日休日を損することになる。その上、十月最後の日曜ということで、夏時間から冬時間への切り替えとも重なっている。冬時間に向かうほうは、一時間長く寝られるわけだから、比較的楽なのだけど、体内時計、特にお腹のすき具合で測る腹時計が狂うので全く問題なしとはいかない。来年からはこのまま時間が固定されることを願おう。
さて、建国百周年ということで、年初から大々的な盛り上がりをするのかと思っていたら、そんなこともなく、近づくにつれて第一共和国百年に関する報道が増えて、すこしずつ盛り上がってきたのだけど、正直期待したほどでもなかった。当日の軍や警察、消防隊などのパレードも例年のものを拡大したもののように見えたし、チェコテレビの中継はゲストをたくさん呼んで例年以上に気合は入っていたかな。ただ、こういうイベントで軍のパレードが儀式の中心に据えられているあたりが、日本とヨーロッパの国の軍隊に対する認識の違いを物語っているようでなかなか興味深い。
この建国100周年のイベントがそれほど盛り上がらない理由を考えてみると、一つには、100年前に誕生したチェコスロバキアという国がすでに存在しないことがあるだろうスロバキアでもこの日が国家の祝日になっていて、共同で式典をやるということになっていれば、話はまた違ったのだろうが、1990年代に分離独立したスロバキアでは、第一共和国をチェコ人がハンガリー人に代わってスロバキア人を支配したものという解釈が優勢だったために、この日は祝日から外されてしまっているのだ。スロバキアでも式典は行われているようだけれども、チェコほど力は入っていない。
今年の式典の一部は、すでに土曜日から始まり、フランスのマクロン大統領と、ドイツのメルケル首相がプラハを訪問し式典に参加していた。第一共和国の誕生に協力的だったフランスもミュンヘン協定でチェコスロバ期を裏切ったわけだし、ドイツは第一共和国の解体に直接関与した国である。いかにEUの有力刻とはいえ、独立100周年の式典に招待するにふさわしい国だったのかねえ。むしろ民族自決主義を掲げてチェコスロバキアの独立に最大の貢献をしたウィルソン大統領を讃えて、アメリカの大統領を招待するべきではなかったのか。現職がトランプという問題はあるにしてもである。
オロモウツでは、当日具体的にどんな式典が行われたのかは知らないが、一週間ぐらい前からホルニー広場にパネル展示が設置されていた。8月にも1968年のプラハの春を蹂躙したワルシャワ条約機構軍の侵攻についての展示が行なわれていたが、今回は独立前後の出来事についての展示で、当時の市長などの写真、新聞、オロモウツの地図などが展示されていた。古い地図を見ると現在と通りの名前が違ったり、今はない川が流れたりしていてなかなかに興味深かった。
夜は、例年同様に、プラハ城で大統領による勲章の授与式が行なわれる。叙勲者は国会議員による推薦などいくつかの方法で選出されるのだが、最終的な決定権は大統領が握っている。その人選に関しては、ハベル大統領でさえ批判にさらされたことがあるのだが、ゼマン大統領は2年前にダライラマ問題で文化大臣のおじの叙勲を取り消したことで、国民の半分を敵に回した前科がある。個人的には、いかにホロコーストを生き延び、その体験を語り続けている人とはいえ、政治家の縁者に勲章を与えるのにもお手盛りの感じがして好感は持てないのだけど、チェコの良識派を自任する人たちは文化大臣の側に立った。毎年何人かいる大統領の恣意で何でこんなのがってのに比べれば、ちゃんとした理由があるから支持はしやすいんだけどね。
今年も事前に何人かの叙勲者の名前が漏れてきている。チェコ人ならぬ身でも知っている人物となると、スポーツ界の人ということになる。事前に判明しているのは先日引退試合を挙行したばかりのテニスのラデク・シュテパーネクと、今年の冬季オリンピックで、スキーとスノーボードの二種目で金メダルを獲得して世界を驚かせたエステル・レデツカーの二人。他にもスポーツ新聞の情報では、二年前の選手生命にかかわる大怪我から復活して、今年ランキングのトップ10に復帰したペトラ・クビトバーの名前も挙がっている。ゼマン大統領は、クビトバーが節税のためにモナコに住民登録していることを国に対する裏切り者だ敵なことばで非難していたと思うのだけど、どういう心境の変化なのだろうか。
ふたを開けてみたら、スポーツ界からはこの三人に加えて、サッカーのペトル・チェフ、テニスのヘレナ・スコバーの二人も勲章をもらっていた。引退したシュテパーネクとスコバーはともかく、まだ現役で頑張っているチェフとクビトバーを叙勲するってのはどうなんだろう。去年引退したロシツキーとかもうもらっているのかな。
それからスポーツ新聞では叙勲式に関して、もう一人、格闘家のベーモラという人の名前も挙がっていたのだけど、これは勲章をもらうというのではなく、授与式に招待されたということのようだ。MMAだかUFCだかいう団体でアメリカで試合をしたときに、トランクスのチェコの国旗の代わりにスポンサー名を入れることを求められたのを拒否したのが愛国心の発露だとして、大統領のお気に召したのだとか。ゼマン大統領とチェコの国旗、トランクスというのは因縁があるからなあ。ゼマン批判勢力に対するあてつけの意味もあるのだろう。
うちのが、何でこいつが叙勲されるのだとお冠だったのが、歌手のミハル・ダビットという人物。80年代に一つか二つヒットを飛ばしたらしいけど、その歌の内容はしょうもないものだったのだとか。たしか一つは「ポウパタ(つぼみ)」という歌で、スパルタキアーダ(共産党政権時代の集団体操)の体操の一つのテーマ曲として選ばれたことで頻繁に流れたから、一定以上の年齢の人は知っているはずだという。今はナにやってるのかねえ。ゼマン党(SPO)から国会議員に立候補したのがこの人だったかな。それは何とか・リンゴ・チェフだったかもしれない。ゼマン大統領支持者の歌手とか俳優とかってみんな印象が似通っているから区別がつきにくいんだよなあ。
チェコ在住で例外的にチェコに堪能なアメリカ人の新聞記者エリック・ベストが勲章をもらっているのも意外だった。うちのの話では、アメリカ人でありながらロシア親派で、ロシア寄りすぎて問題含みの記事を垂れ流しているらしい。以前はチェコテレビのニュースや解説番組にしばしば登場していたのだが、最近見かけないと思っていたら、中立ではなくロシアよりの発言をするのが嫌われたのか。ゼマン大統領にはそこが気に入られたのだろうけどさ。
そういえば、最近の報道で、以前ポーランド軍が攻め込んできてと書いたチェシーン地方をめぐる戦いは、最初に仕掛けたのはチェコスロバキア軍であったことを知った。調停案どおりの国境線だと鉄道など重要なインフラがポーランド側に行くことになっていたのが問題だったようだ。それから、実行はされなかったが、ボヘミア北部のドイツとの国境を山脈の稜線から北に押し出して、山脈の山すそまでチェコスロバキア領にしようという計画もあったらしい。誕生したばかりのチェコスロバキア第一共和国もなかなか野心的な国家だったのである。ちょっとイメージの修正が必要である。
2018年10月29日22時。
2018年10月31日
またまたハンドボールが見られない(十月廿七日)
今日は午後八時から、再来年の一月に行なわれるヨーロッパ選手権の予選第二戦がボスニア・ヘルツェゴビナで行われ、チェコテレビが中継してくれることになっていた。土曜日の午後八時は、スター・ダンスというBBCかどこかのライセンスを勝ってきてチェコテレビが放送している有名人がプロのダンス選手と組んでダンスの腕を競う番組が放送されていて、うちのが第一回からの熱心なファンのため、チャンネルを譲らざるをえない。ということでPCを使ってネットでの視聴である。
ハンドボールの中継は試合開始の5分前から始まることになっていたので、その時間に合わせてチェコテレビのスポーツチャンネルの「iビシーラーニー」というのをスタートさせたのだけど、画面に映っているのは自転車レースやボート競技で、ハンドボールのハの字も存在しなかった。また時間を間違えたのかと確認してしまった。実際にはまた技術的な問題が発生して、中継が出来ない状態にあったようだ。ボスニアからの映像が届かなかったのかな。
仕方がないので試合展開を確認するために、スコアを速報するサイトのボスニア―チェコ戦を開いて、チェコテレビの映像は流しっぱなしにしておいた。前半10分ぐらいで3−3の同点というのが最初に確認したスコアだった。チェコテレビで「チティシカ」というスポーツチャンネルの情報番組が始まったときには、今週はもうハンドボールの試合はリアルタイムには見られないのだと諦めた。あきらめてこの文章を、いや一つ前の文章を書くのを再開しようとファイルを開いた。
そうしたら、前半15分過ぎぐらいだっただろうか、突然番組が終わってスポンサーのCMが流れ始めた。チェコテレビが中継を再開するときにも律儀にCMを流すのである。これはと思って画面をチェコテレビの映像に切り替えて待っていたら、中継が始まった。チェコテレビのアナウンサーと解説者はプラハで送られてきた映像を見ながらコメントしているようである。まあ本大会ならともかく、予選では中継班を送り込むわけにもいかないのだろう。マイナースポーツだしさ。
この時点でのスコアは3−4でアウェーのチェコが1点リードだっただろうか。これだけロースコアのゲームになっているということは、チェコの守備とキーパーががんばっているということだから、今日の試合は安心して見られそうである。出場選手は、キーパーが手に巻かれたテーピングも痛々しい超ベテラン、代表18年目のガリア、センターの真ん中に復帰したズドラーハラ、その両腋にババークとカシュパーレク、サイドにフルストカとチープ、ポストがゼマンという攻撃の布陣で、守る際には守備の要ホラークがズドラーハラに代わって出場していた。
普段は選手の疲れを考慮してか、選手たちを入れ替わり立ち代り交替で出場させることが多いのだが、この試合は絶対に勝たなければいけないからか、入れ替えはほとんどなかった。攻撃ではゼマンの代わりにペトロフスキー、ズドラーハラの代わりにベチバーシュという入れ替えだけ。ゼマンは攻撃で引っ込んだときには、ババークに代わって守備で出場していたから、ほとんど出ずっぱりだった。キーパーも一度ペナルティの際にムルクバが登場したけど後はずっとガリアがとんでもないセーブを連発していた。
ボスニアの守備が、イーハの抜けた穴を埋める大砲に成長しつつあるカシュパーレクを警戒してきた分、サイドやポストからの得点が増えていたし、カシュパーレク本人はなんとしても点が取りたかったのか、最後のほうはかなり無理してシュートにいって、全部とめられていたけど、ボスニア相手に完勝したのだから、まあささいなことである。
最終的な結果は、ボスニア20−25チェコで、フィンランドにホームで4点差しかつけられなかったのに、ボスニアに5点差で勝ったのである。前半10−12と2点差をつけて折り返し、後半に入ってボスニアの選手たちが明らかにオーバーな態度で倒れたり痛がったり、審判にクレームをつけたりするというバルカンのハンドボールを始めたときには、ちょっとやばいかなと思ったのだが、審判がバルカンの国の人でなかったおかげもあって、特に変な判定もなくきっちり勝ちきった。最後まで安心して見ていることができたのは久しぶりのような気がする。特筆すべき活躍をした選手としては、守備で多大なる貢献をしたホラーク、ゼマン、ガリアの三人だろうか。
後半の最後2分ぐらいだったかな、両チームともミス連発で点が入らず、ぐだぐだの展開になって、解説者が最後の最後で監督が怒る理由ができたなあなんて笑っていたけれども、この勝ちは大きい。これで、チェコは勝ち点4でグループ首位に立った。予選が始まる前はベラルーシがグループ首位を狙うライバルだとされていたが、初戦でボスニアに負けているから、そんなにチーム状態がよくないのかもしれない。チェコが三位以下になって出場権を逃すことはないと言ってもよさそうだ。
そんなことよりも、次にチェコテレビがハンドボール代表の試合を中継するときには、技術的な問題が発生しないことを願っておこう。最初から中継がないというのなら諦めもつくけど、中継される予定の試合が見られないというのは、滅多に中継されないこともあって悲しすぎる。今回のはボスニア側の責任なのかもしれないけどさ。
2018年10月28日11時5分。
2018年10月30日
チェコ鉄道の思い出(十月廿六日)
ヤフーの雑誌のところで記事のタイトルを眺めていたら、「ドイツ鉄道がトラブル時に客をまるで「ゴミ扱い」にした理由」という記事が目に付いた。ドイツの郵便がひどいことになっているという話は、ドイツ在住経験のある方から聞いたことがあったが、鉄道の話は聞いていないので、興味を惹かれて読んでみた。
ドイツ在住らしい著者の記事はこれまでも何回か読んだことがあるのだが、日本では実態を知らないままに礼賛されることの多いドイツの惨状を伝える記事を書かれているようである。日本のドイツ神話を破壊するには、この手の記事が書かれ読まれることは必要であろう。明治時代のようにドイツなどのヨーロッパのやっていることに盲従したら、ろくなことにならないのは目に見えている。
ただ、書かれている内容は事実なのだろうけど、こちらに来てドイツに幻滅してドイツ嫌いに転向した人間が読んでも、そこからそこまで言うかといいたくなるようなことが書かれていることがある。隣国に住んでさえ、たまりにたまるドイツに対する鬱憤である。ドイツ在住の人が爆発させてしまうのは仕方がないのかなあ。以前ドイツの日系企業に赴任している人と話しをしたどきにもドイツの悪口で盛り上がったし、その人は、知り合いの日本人にドイツの悪いところをあれこれ言っても、まともに受け取ってもらえなくてなんてことも愚痴ってたからなあ。仕方がない仕方がない。
さて、枕はこれくらいにして話を記事に戻すと、題名からもわかるようにドイツ鉄道の客に対する扱いの悪さを紹介しているのだが、読みながらかつてのチェコ鉄道のことを思い出してしまった。ただし、チェコ鉄道は、この記事で紹介されているドイツ鉄道ほどひどくはなかった。共産党支配化の時代のことは知らないけれども、1993年のビロード革命以降のチェコ鉄道は、今よりははるかにサービスが悪く、職員の態度も人それぞれで不親切な人も多かったけど、この記事のドイツ鉄道よりはましだった。
現在は鉄道網の近代化がかなり進んだため、電車が遅れることは以前に比べればはるかに少なくなった。それでも、路線補修工事や鉄道事故、天候の関係などで遅れることはままある。そんなときの対応も以前はなかなか情報が入ってこなかったものだが、現在では工事中の路線に関しては最初から遅れる可能性があることがネット上のチェコ鉄道の時刻表なんかにも明記されている。駅の掲示板には途中での遅れの時間をもとに予想される出発時間の遅れが最初から表示されるようになったし、ネット上で個々の電車の運行状況を確認できたりもする。時には遅れ時間が小さくなることもあるから、チェコ鉄道の改善ぶりには隔世の感を抱いてしまう。
昔は、駅のホームで出発時間になってから、遅れが表示されて、それもいきなり30分とか60分とかで、もっと早く遅れることを通知しろよと腹を立てることも多かったのだが、当時はまだ各駅を結んで到着、出発時間の情報を集約するようなシステムが出来ていなかったのだろう。オストラバでペンドリーノを待っていていきなり120分の遅れと表示されたときには、目の前が暗くなった。ペンドリーノだからというので待って、来た電車を見てみれば、昔ながらの古い車両でオロモウツに着いたときにはさらに遅れ時間は大きくなっていた。検札に来た車掌の話では、オストラバ行きのペンドリーノで鉄道事故が起こったせいで、遅れただけでなくペンドリーノが使用できなくなったということだった。駅で手続きをすれば払い戻しに応じるということだったが、面倒なので手続きはしなかった。
記事では、鉄道が運休した場合の代替バスの運行についても批判されているが、チェコはこの手の代替バスが日常茶飯事だったせいか、対応にも慣れていて問題だと感じたことはほとんどない。チェコ語ができない人には問題になる場面もあるだろうけど、少なくともチェコ語では十分以上の情報が出されているし、代替バスの運行をバス会社に委託しているとしても、あくまでチェコ鉄道の電車の一部として運行しているので、電車の到着が遅れた場合も、電車が到着して乗客が全員乗り換えるまでは待っていてくれる。
以前、まだチェコ語がろくにできなかったころには、代替バスに乗り換えなければならないことに気づかずに電車の中に座っていたら、駅員さんがやってきて他の外国人何人かと電車から引っ張り出されてバスのところまでつれて行かれたこともある。電車はその駅でとまって折り返しもとの駅に引き返すことになっていたようだから、電車から降りずにのんきに座っている外国人を見かねて助けに来てくれたのだろう。遅れた我々が乗りこむまで、バスも待っていてくれた。もちろん、駅員のみんながみんな親切だったわけではないけどさ。
チェコ鉄道のサービスがよくなったのは、以前も書いたけど路線管理会社と運行会社に分離して、チェコ鉄道と同じ路線を私鉄の電車も走るようになってからだ。最初に参入したレギオジェットが、もともと長距離バスの運行で業績を伸ばした会社で、航空運賃のような変動性の運賃や、サービスをよくしてリピーターを増やすことで利用客を増やすという戦略を導入していた。それを鉄道にまで持ち込んで、チェコ鉄道から乗客を奪うだけでなく、鉄道の利用客自体を増やしたようにも見える。とまれ、この私鉄の参入がチェコ鉄道のサービス向上を促したことは間違いない。
また、複数の鉄道会社が参入できないようなローカル線の場合にも、チェコ鉄道の独占がなくなり、運行を担当する企業を入札で決めるところが増えてきており、入札で勝つためにもチェコ鉄道は新しい車両の導入を進め、その結果として乗客の満足度は高まっているようである。ローカル線の運行自体は大半は赤字なのだが、地方自治体からの補助金で補填されている。これもチェコ鉄道がサービスの向上に努めなければならない理由になっている。乗客の不満が高まれば、補助金を出している地方から指導が入ることになるわけだし。
正直な話、チェコで一般的に利用客へのサービスが向上しているのには、EUの指示があったものだと考えていた。携帯電話の国外への通話料金を下げさせるとか余計なお世話じゃないのかといいたくなるようなことにまで口を出していたし。ただ、この記事に見るドイツの惨状からはそんなことはなかったという結論を導くべきなのかもしれない。いや、どんなにひどいことになっていても、EUの僭主たるドイツにはEUからの指導は入らないと考えたほうがいいのか。やつらが細かいことでいちゃもんをつけるのは基本的に旧共産圏の国だからなあ。ドイツあたりの企業が悪辣なことをやろうが放置されることが多いしさ。
2018年10月27日23時55分。
2018年10月29日
チェコチーム頑張った〈サッカー〉(十月廿五日)
先週は代表の試合が行なわれたが、今週はチャンピオンズリーグと、ヨーロッパリーグの試合である。チャンピオンズリーグのプルゼニュは、マドリッドでレアルとの試合で、デンマークに出かけたスラビアの相手はFCコペンハーゲン、ヤブロネツはホームにカザフスタンのアスタナを迎えることになっていた。試合前は下手すら全敗、特にプルゼニュはまた惨敗するかと心配していたのだが、結果はどのチームもよくがんばったといえるものだった。でも、もう少し運がよかったらなあと思わずにはいられない。
まず火曜日のプルゼニュである。レアルが現在どん底の状態にあるというのはチェコでも知られていて、もしかしたらプルゼニュにもチャンスがあるんじゃないかと期待する声もなかったわけではない。今勝てなかったら、いつ勝てるんだということなのだけど、チェコのチームはスペインのチームを苦手にしているし、プルゼニュ自体の調子も直前のリーグの試合でボヘミアンズと引き分けるなど、去年の今頃の圧倒的な強さはないのである。
それが、ふたを開けてみたら予想外の善戦で、相手にチャンスをたくさん作られていたのは確かだけれども、プルゼニュも負けずにチャンスを作り出し、前半だけでも最低三回の決めるべき大チャンスを作り出したらしい。後半にフロショフスキーが待望のゴールを決めて完封は免れたけれども、前半、後半に一点ずつ取られて、1−2で負けた。全体的に劣勢だったことは否定できないが、十分以上に善戦、惜敗と言ってもいい内容だった。
試合後の選手たちのコメントからも、負けた悔しさよりも、レアルのような大クラブ相手に、互角に近い試合をしたことに対する満足感の方が強く感じられた。ペトルジェラだったかな、以前バルセロナやマンチェスター・シティと相手ホームで試合をしたときには、サッカーをさせてもらえないまま負けたけど、今回はちゃんとサッカーをした上での負けだからなんてことを語っていた。
チェコのスポーツ新聞には、レアルの会長が試合の結果に不満で貴賓室を出て行ったとかいうニュースも出ていたが、これは格下相手に1点差で勝ったことが不満なのではなく、勝ってしまったことが不満だったのだという。負ければ監督を解任することができたのにということらしいのだが、レアルの状態がすぐに上向きになるということはなさそうだといっていいのかな。ということは、プルゼニュでの次の試合はチャンスがあるのか。うーん。期待しないで結果を待とう。
木曜日は、ヨーロッパリーグの試合が二つあり、放映権を持っているチェコテレビは、7時からのコペンハーゲンとスラビアの試合を中継した。FCコペンハーゲンは、ヨーロッパ最古のサッカーのクラブチームが母体となっていることで知られているらしいが、チェコ的に重要なのは、このチームでシオンコとポスピェフの二人が大活躍したことで、実況を担当したボサーク師匠によれば、特にポスピェフはクラブの歴代ベストイレブンの一人に選ばれているらしい。
試合のほうは、途中から見た前半は全く面白くなかった。どちらも失点しないことを重視した慎重なプレーに終始していてチャンスと呼べるシーンはほとんどなかった。強いて言えばスラビアの方が優勢だったけど、唯一の大きなチャンスを作り出していたのはコペンハーゲンだったから、互角の守備的な戦いだった。驚いたのはフォワードで若手のマトウシェクが先発していたことで、試合前のニュースで負傷で欠場していたテツルが使えそうだとか、シュコダも練習に復帰したとか言っていたから、テツル先発、後半でシュコダというメンバーで来ると思っていたのだけど。
マトウシェクはプシーブラムからリーグが開幕してからスラビアに移籍してきた選手だが、当初の予定では今シーズンはプシーブラムにレンタルで残ることになっていたらしい。それが、シュコダ、テツル、メシャノビチというスラビアの誇るフォワード陣が次々に負傷したことで急遽予定を変更して八月の末だったか、九月の初めだったかに今シーズンからスラビアでプレーすることになった選手である。その後順調に出場時間を増やしているようだが、まだスラビアに移籍してからは得点を挙げていなかった。
後半開始早々に、そのマトウシェクが見事なゴールを決めてスラビアがリードした。その後も相手のミスからいくつもチャンスを作ったのだけど、レアル相手のプルゼニュと同じでそれをゴールに結びつけることができず、最後の最後まで同点にされるのではないかとひやひやしながら見ることになった。特にキーパーのコラーシュが、オフサイドぎりぎりでディフェンスの裏に飛び出した選手と接触しながらボールを保持したシーンでは、一瞬PKを覚悟したほどである。リプレイでコラーシュがボールを取った後、勢いあまって接触していたのを見てほっと一安心だった。どこかで追加点を取っておけば、ここまで苦しむことはなかったのに……。
現在の中国資本に買われて、トブルディークがオーナーを務めるスラビアは正直嫌いで、チェコリーグでは対戦相手を応援するのだが、舞台がヨーロッパリーグともなると、チェコのほかのチームのためにも勝ってもらわないと困るのである。だから、消極的だけど、応援はする。とにかく、この試合はトラの子の1点を守りきって勝ったのだからよしとしよう。これでスラビアは勝ち点6でグループ2位に浮上である。
最後のヤブロネツでの試合は中継がなかったので、テキスト速報で追いかけていた。開始早々に、最近好調なヨボビチのゴールで先制したまではよかったのだが、その数分後には同点に追いつかれていた。後半に入ってアスタナの選手がイエローをもらうのがふえていたので、これはヤブロネツが押し込んで優勢二試合を進めているのだろうと想像し、追加点は時間の問題だと思っていたのだけど……。
結局、どちらも最後まで得点をあげることができずに引き分けに終わった。まあフランスでの初戦、最後の最後の時間帯に信じられないようなファールをやらかしてPKを献上して勝ち点をふいにしたのを思い出せば、上出来である。ヨーロッパリーグ初出場で、まだ慣れていないところもあるんだろうし。そういえば、この試合についてではないけど解説者のルカーシュ・ゼレンカが、チェコリーグの審判がヨーロッパの舞台ではPKを取られたり、レッドカードをもらったりするようなプレーを流したり、イエローで済ませたりするから、肝心な場面で反則を犯してPKとられるんだと批判していた。
ということで、今週のチェコチームが稼いだポイントは全部で3、ただし出場チーム数で割るから年間ポイントは0.6しか増えていない。順位は変わらず17位で一つ上のクロアチアとは0.1ポイントだけ差を縮めた。プルゼニュとヤブロネツにもう少し運があれば、あと2ポイント上積みできたはずなんだけどなあ。こうやって数字を眺めるのも楽しくなくはないからいいか。
2018年10月26日23時55分。
2018年10月28日
ハンドボールが見られない(十月廿四日)
この前、来年の一月に行なわれる世界選手権のプレーオフが行なわれたと思ったら、チェコはロシアに負けて出場権を取れなかったけど、再来年のヨーロッパ選手権の予選が始まった。ハンドボールは、ヨーロッパ選手権と世界選手権が隔年で行われているため、ヨーロッパの強国の代表チームは毎年予選と本選で忙しいのである。ちなみに男子の大会は一月だが、女子の大会は同じ年の十二月に行なわれる。
今年の一月の大会までは、ヨーロッパ選手権の出場チームは16だったのだが、2020年の大会からは24に拡大されるため、4チームからなる予選のグループで上位二位以内に入れば、出場権が得られるようになった。三位でも出場できる可能性があるのかな。以前に比べると出場しやすくなったのはいいのだけど、その分、手に汗を握る緊迫した予選の試合が見られなくなりそうなのは、少々さびしい。
今回の予選で、チェコ代表は、ボスニア・ヘルツェゴビナ、フィンランド、ベラルーシと同組になっている。正直このグループで二位以内とか楽すぎないかと思うのだけど、それが出場枠が拡大された利点であり弊害でもあるのだろう。今日は午後6時から予選の初戦であるフィンランドとの試合がプルゼニュで行なわれる。チェコテレビのスポーツチャンネルが中継してくれるというので、久しぶりに代表の試合を見るぞといつもより少し早めに6時には帰宅したのである。
それなのに、テレビをつけてチャンネルを合わせたら、放送されているのはハンドボールではなくてバレーボールだった。オロモウツのパラツキー大学の女子チームがヨーロッパ何とかカップでどこか外国のチームと試合をしているらしい。会場が昔オロモウツの女子ハンドボールチームがホームゲームに使っていたパラツキー大学の体育館で、思わず懐かしいと思ったけれども、ハンドボールはどこへ行ったんだ。
一瞬、こちらが開始時間を間違えたかと思って、テレビのプログラムや、テレテキストで確認するけど、ハンドボールの試合の中継は5時50分からはじまることになっていた。それなのに……。テレビの画面を見ていたら右上に、代替プログラムという表示が出ているのに気づいた。しばらくすると下のほうにテロップが流れて、技術的な問題で中継ができなくなっていて現在問題を解決するために努力しているところですというようなことが書かれていた。
以前も何かの試合の中継のときに同じようなことがあって、そのときは、代替プログラムが試合の中継ではなく、個人を取り上げた短いドキュメントみたいなもので、それが終わったら本来の放送に戻ったんだったか、その手の番組が二三本放送されたんだったか、とにかく切りのいいところで、本来の中継に戻っていた。そもそも簡単に解決できるような問題なら、代替の放送に切り替えずに待つだろうから、この時点で諦めるべきだったのかもしれない。
わかっちゃいても諦めることはできず、バレーなんて見てもしょうがないので、しばしばチャンネルを切り替えながら、ハンドボールが始まっていないかどうか確認をしていたのだけど、一行に始まる気配もなく、テレテキストで前半が終わるのを確認してからは、七時のニュースが始まることもあって、完全に諦めてしまった。問題は試合会場のカメラなどの機材にあって、映像が作成で機内というところにあるのかもしれない。
テレテキストで確認したところでは、前半を終えて15-12。一応勝ってはいるけれども、相手がグループ最弱とみなされているフィンランドだということを考えると少々心配である。ニュースが終わる頃、スポーツニュースが始まる前に、テレテキストが再度確認すると、試合は終了していて、チェコが31-27の4点差で勝利していた。後半は1点差だったということか。とりあえず勝ててよかった。監督のクベシュは、チェコ代表は格下の相手と試合が下手だと嘆いていたけれども、確かに実力差どおりの差をつけて勝つことは少ないような気もする。
もうこの試合は見られないのかなと思いつつ、九時半ちょっと前にチャンネルをチェコテレビスポーツに替えたら、ハンドボールの放送が始まろうとしていた。バレーの試合が終わった後、録画だけはしてあったハンドボールの試合を放送することになったようだ。本当はハンドボールがリアルタイムの放送で、バレーが録画放送の予定だったんだけどねえ。不具合は撮影の機材ではなく、会場のプルゼニュとプラハを結ぶ伝送のための通信設備にあったようだ。一日中強風が吹いていたから風のせいだったのかな。
さて、すでに結果のわかっている試合を、見るべきか見ざるべきか、それが問題である。最初は見ても少がねえよなと思っていたのだが、見てしまった。格上相手にチェコ代表が必死について行って最後に逆転してかつという感動的な試合には劣るけれども、フィンランドが予想以上に健闘していて、なかなかの好ゲームになっていた。
土曜日のボスニア・ヘルツェゴビナでの試合に向けて、好材料なのはイーハ以来の大砲、しかも左利きのカシュパーレクが好調を維持していることと、一月のヨーロッパ選手権は怪我で欠場したババークが戻ってきて攻撃の組み立て役になるだけでなく、チーム最多得点を挙げたこと、怪我で欠場していたベテランゴールキーパのガリアが間に合ったこと、ペトロフスキーに次ぐ二枚目のポストプレーヤーとしてゼマンが使えるめどが立ったことなど、いくつもあった。監督たちいい仕事してるわ。
逆に心配だったのは、一月の英雄ズドラーハラがチームに合流はしていながら試合は欠場したこと。怪我か何かで出られなかったのだろうか。それから、途中でムルクバに代わって出場したガリアの手がテーピングまみれだったこと。結構重要な場面でシュートを止めていたから、大きな問題はないのだろうけど、見ていて痛々しかった。
全体的に見たら、期待につながりそうなことの方が多かったから、フィンランドよりは手ごわく、同時にチェコが苦手なバルカンハンドボールのボスニア・ヘルツェゴビナにも勝ってくれることだろう。クベシュとフィリップが監督になってからは、負けても納得のいく負けが多いから、ハンドボールの男子代表を応援する甲斐が大きくなっているのである。日本代表? ハンドボールの日本代表なんて知らんよ。特に男子はさ。
2018年10月25日22時15分。
こんな値段するんだ。知らなかった。
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2018年10月27日
暴れる熊(十月廿三日)
ポーランドなどヨーロッパ各地に広がりつつあるらしい、豚の伝染病であるアフリカ豚コレラは、チェコでも、去年の夏、ズリーン地方で発病して死んだイノシシが発見されて問題になっていたが、罹患したイノシシを汚染された地域に押し込み猟師たちが駆除を進め、病死した死体を処理し土壌を洗浄するという作業を続けた結果、一年近い時間をかけてアフリカ豚コレラの撲滅に成功したらしい。この地域の人たちは、禁止されていた野原や森への散歩もできるようになり、農作業も時期の問題はあるとはいえ解禁されたようである。これで、ズリーン地方としては厄介ごとが片付いて一安心ということころだったのだろうが、新たな厄介ごとがスロバキアのほうから流れてきた。
ハプスブルクの時代から工業化が進んでいたチェコでは、自然破壊も進み、野生動物、特に大型の肉食獣は駆除されたのか、チェコの山林から姿を消して久しい。それが、最近の自然保護ブームの中で、チェコでは絶滅していた狼がポーランドから北部ボヘミアに移住してきて定着したようだというニュースが最初に流れたのは何年前だっただろうか。
狼が定着した森の周囲で畜産業を営む農家の人たちにとっては、家畜が襲われて殺される事件が起こっているようで、そこまで歓迎できることではないようである。絶滅種で保護の対象になっている野生動物による被害に関しては、国から保証金が出るという話もある。ただ、その額が満足いくものなのかどうかはしらないし、ある農家の人が、食餌として家畜の羊を狩って食い尽くすのならまだ納得がいくけど、遊びで殺されるのは許せないと語っていたような気もする。狼がいるというストレスにさらされた家畜の成育にも影響がありそうだし、野生動物の保護というのも難しいものである。
ズリーン地方に現れたのは狼ではなく熊だった。国境地帯のベスキディ山地のスロバキア側には依然として生息している熊が、たまに国境を越えてチェコ側に出てくることはあるらしいのだが、今回は山中をうろつくだけでなく、山の斜面を利用して放牧されている羊を襲った。これもニュースで見る限り餌として殺して食べたというよりは、殺してそのまま放置して逃げたという感じの死体だった。
牧場の柵が壊され羊が殺されるという事件が、何箇所かで起こった時点で、地元の猟師たち、日本風に言うと猟友会の人たちは、アフリカ豚コレラの際に、イノシシを捕らえるのに使用しようとしていたコンテナを改造したような罠を使用して、熊を捕らえることを計画し始めていたようである。ただ問題はその捕らえた熊をどうするかで、チェコ国内の動物園の中には、熊を引き取ることを申し出たところはなかった。それで外国の動物園に声をかけるとか、人里はなれた山中に運んでいって放すとか、取らぬ狸の皮算用をしていた。
それが、月曜日だっただろうか、それまで人間の生活圏とはいっても、一番外側の羊の放牧地のあるあたりに留まっていた熊が、山村とはいえ人里に出現し、村の中心の広場をうろつき、ゴミ箱で餌をあさっていたというニュースが流れた。村では外出を控えるように指示が出たらしく、住民が困惑した様子でインタビューに答えていた。その村はスロバキアとの国境からは結構離れたところにある村で、幸いにもアフリカ豚コレラの蔓延した地域には入っていなかった。
それまでは、家畜の羊が殺されただけで、人命が脅かされたというわけではなかったからか、どこか対応にものんびりしたところがあったのだが、さすがに人的被害が出る恐れが大きくなったということで、ズリーン地方知事のチュネク氏が早速反応した。猟師たちに対して熊の射殺命令を出すと発表したのである。これには、もちろん賛否両論噴出したわけだが、興味深かったのは被害に遭った羊飼い農家の中にも、熊を排除するべきだという意見だけではなく、保護するべきだという意見があったことだ。かつて熊がまだベスキディの山中に生息していた時代の先祖のことを思い出していたのだろうか。
ニュースでは、ズリーン地方に何百人といる狩猟許可を持つ猟師たちの中で、熊を撃ったことがある、十を持って熊と対峙したことがある人が10人程度しかいないのが問題だと指摘していた。猟師が怪我なく熊を仕留めるには一発で命を奪うのが一番いいらしいのだが、未経験の猟師たちにそれが可能なのだろうかという疑問を投げかけていたのは、そんな猟師たちの一人だったかな。
現時点では、猟師たちの腕に対する懐疑も、猟師たちの不安も、杞憂である。チュネク氏の決断に対して、ズリーン地方の動物保護関係の役人が、保護指定されている野生動物は、射殺する場合も、罠を仕掛けて捕らえる場合にも、特別な許可が必要で、そのためには他に方法がないことを明らかにしなければならないのだと言ってチュネク氏の発言を否定していた。要は、考えられるあらゆる可能性を検討した上で、すべてが不可能だった場合にのみ許可が下りるということだろうか。昨年のイノシシは保護の対象ではなかったから、この手の許可は不要で駆除の命令が出せたということか。
一番いいのは、熊が山奥に戻って人間の生活圏に出てこなくなることなのだけど、物言わぬケモノに言って聞かせるわけにはいかないし、さてさてどうなるのであろうか。
2018年10月24日22時15分。
豚コレラで検索したらなぜかこんなのが出てきた。
2018年10月26日
なし崩し考(十月廿二日)
最近、ジャパンナレッジを使っていないなあということで、ページを開いたら「日本語どうでしょう?」の新しい記事「「なし崩し」の新しい意味」が掲載されていた。面白い文章ではあるのだけど、ここで取り上げられている「なし崩し」の使い方が、自分のとは違うので、あれっと思った。
この記事では、文化庁で昨年行なった「国語に関する世論調査」で、「借金をなし崩しにする」という表現の「なし崩しにする」の意味について、本来の意味である「少しずつ返していく」という意味を選んだ人よりも、「なかったことにする」と答えた人の方がはるかに多かった事実を紹介して、その結果に分析を加えている。
記事自体は面白く読んだのだけど、読了してどこか腑に落ちないものが残った。その理由を考えてみると、原因は記事にあるのではなく、そもそもの文化庁の調査のほうにあった。「借金をなし崩しにする」という表現自体、自分では使わないのだ。だから、「少しずつ返していく」と「なかったことにする」のどちらの意味が正しいかと聞かれたら、記事にあるように本来の「済す」の意味を考えて前者を選ぶだろう。しかし個人的にはどちらの意味でも使わないし、使いたいとも思わない。
この「借金」と「なし崩し」を一緒に使うとしたら、「借金をなし崩しに返す」か、「借金をなし崩し的になかったことにする」という形で使うだろう。現実には遣ったことはないけど。「なし崩し」に感じる意味は、「すこしずつ返す」でも「なかったことにする」でもなく、その方法、もしくはそのさまなのである。記事に派生した意味として紹介されている「少しずつ済ませていく」さまだと言ってもいいのだけど、単なる「少しずつ」とは違う。
「なし崩し」をよく使う状況を考えてみると、何と言っても集団で飲みに出かけたときだろう。きっちりと乾杯で宴が始まるのではなく、めいめいお酒が来た時点で飲み始めたり、集合が三々五々だったりでいつ始まったかもわからないままに、いつの間にか宴会が始まってしまう状況を、「済し崩しで始める」とか、「なし崩しに始まる」と言う。つまり、少しずつ状況が変わっていて気が付いたらその変化が終わってしまっていたなんてときに使うのである。
だから、酒宴の際の挨拶や、自己紹介なんかがなし崩しに終わってしまうと、拍手するタイミングがつかめないし、酒宴自体がなし崩しに終わって、お別れの挨拶をしそこなうなんてこともある。話し合いの最中に、なし崩しにあれこれ決まっていたり、多数決を取ることになっていたりなんてのはよくありそうな話である。
日本の政治ってほとんどこれじゃないか。あれやらこれやら、疑惑やらスキャンダルやらが、なし崩し的にあることになっていたり、逆になかったことになっていたりするし、そんなどうでもいいことで騒いでいる間に、重要な決定がなし崩し的になされていたりするような気もする。その辺はチェコも変わらんか。
話を「なし崩し」に戻すと、「崩し」という言葉のイメージからか、確たる存在が、少しずつ風化していっていつの間にかなくなってしまう様子を想像してしまう。実際には「なくなってしまう」=「変化が完了する」という解釈になって、どちらかというとよくない意味というか、話し手の不満な気持ちがこもった表現だといえそうである。ただ繰り返しになるけれども、「なし崩しに」とともに使う動詞は、「する」ではなく別の動詞を使うことが多い。
以上が、ってあんまりまとまっていないけど、文化庁の国語に関する世論調査の内容に不満な理由である。調査の性質上仕方がないのだろうけど、AかBかという形のアンケートでは、みえてこない言語意識というものもある気がするんだよなあ。
よく考えてみれば、我が文章も、なし崩し的に始まって、なし崩しに終わることが多いなあ。無理やり終わりだということを示すために、「これでお仕舞い」的な言葉をおかなければいけないこともあるし。これが「なし崩し」にこだわってしまった理由だったのか。
2018年10月23日23時10分。