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2018年11月15日

フェドカップ決勝と東レ(十一月十日)



 フェドカップやデビスカップの試合がチェコで行なわれる場合には、以前はプラハではなくオストラバやブルノで行われることも多かったのだが。今年のアメリカとの決勝はプラハで行なわれる。ムハの「スラブ叙事詩」と同じで人気が出ると、それまで地方が支えてきたものを、プラハが金に飽かせて掻っ攫うと言うと言いすぎだろうか。こういうのは適当な会場が確保できるかという問題もあるから、プラハだけを悪者にするのはよくないかも知れん。
 昨年優勝したアメリカチームが、ウィリアムス姉妹を筆頭に有力選手をノミネートしなかった時点で、チェコの優勝はほぼ決まりかとも思われた。チェコはクビトバー、プリーシュコバーというランキングトップ10に入る二枚看板に、若手のシニアコバー、ベテランのストリーツォバーというシングルスのランキングで上から四人を全員ノミネートしていたし、シニアコバーはクレイチーコバーと組んでのダブルスでも結果を残しており、ダブルスの世界ランキング一位の座についている。

 それが、長いシーズンの最後ということで、チェコ側も当初のメンバーどおりにはならなかった。まずWTAファイナルズで準決勝まで進んだプリーシュコバーの負傷が発覚して出場を辞退。代役にはダブルスでの起用を見越してか、クレイチーコバーが選ばれた。その後、こちらもファイナルズに出ていたクビトバーが風邪で発熱して、練習に参加しなかったというニュースが流れ、出場は快復次第ということだった。結局快復せずに、土曜日の試合には出場しなかった。
 クビトバーは、前日だったかに、これまでのフェドカップでの活躍を讃えられて特別な表彰を受けて賞金をもらっていた。その賞金は、一昨年の12月に強盗に負わされた選手生命にもかかわるような大怪我の治療に当たった病院に全額寄付するという。チェコの病院は資金難にあえいでいるところが多いから、病院にとってはありがたいことだろう。

 そして、土曜日になって残念なニュースが二つ。発表されたのは金曜日かもしれないけど、一つ目はチェコチーム第三の選手として長年チームを支え、時に勝利の立役者となったストリーツォバーが、フェドカップの代表を引退すると発表したこと。選手生活の晩年とも言える時期に入って、代表を引退するのはデビスカップのベルディフと同じである。男子と違って、女子は下の世代が順調に成長して成績を上げているのも決断の後押しをしたことだろう。

 もう一つは、ルツィエ・シャファージョバーが、代表ではなくテニス選手としての引退を発表したこと。こちらの方が当然衝撃は大きかったが、来年の全豪オープンを最後の試合にするのだという。病気で長期欠場した後、シングルスの成績はなかなか上がらなかったが、ダブルスではアメリカの選手と組んで結構好成績を残していたから、かつてのナブラーティロバーや、今も現役を続ける超ベテランのペシュケオバーのように、ダブルスに専念すればまだまだいけるんじゃないかと思っていただけに残念である。でも最近もまた怪我か病気かで欠場が続いていたから仕方がないのかな。
 今後については、テニスからは離れられないだろうとは語っていたけど、同時に昔からの夢である喫茶店を開くことも考えているのだとか。最近講習を受けてバリスタの資格を取ったらしい。気になるのはその喫茶店がどこにできるかだけど、出身地のブルノか、国内での活動の拠点にしていたプロスチェヨフか、できればプロスチェヨフがいいなあ。

 ということで表題の東レである。東レの工場がオロモウツの近くのプロスチェヨフにあることはよく知られているが、日本の本社かプロスチェヨフの支社か、とにかくその東レが、フェドカップの決勝のスポンサーになったらしく、「TORAY」のロゴ(前と後に付いているチョンが再現できなかった)が、サーブをする選手の後ろの観客席の前の緑色のフェンスに白で大きく印刷されていた。真ん中にはフェドカップ全体のスポンサーの「BNP Paribas」のロゴがあって、左に東レ、右にチェコの国営石油会社「Mero」という配置だった。
 東レのロゴの上にはピンク色の線で縁取りされた出場国を示す「CZECH REPUBLIC」があり、対戦相手の「USA」は反対側のMeroの上にあり、Meroがテレビにひんぱんに映る側にしか広告を出していないのに対して、東レの広告は両面にあったから、この決勝限定のローカルスポンサーとしては、一番ということかもしれない。

 東レの工場のあるプロスチェヨフは、チェコの中でも一番のテニスの街で、テニスを中心にしたオリンピック委員会の強化拠点も置かれている。またフェドカップの応援団の中にも、プロスチェヨフやその周辺の町や村から駆けつける人たちは多い。チェコのテニスの街にある日系企業が、こんな形でチェコのチームが出場するフェドカップ決勝のスポンサーを務めるというのは、地域貢献の観点から見ても素晴らしいことで、チェコに住む日本人としても嬉しく、そして誇りに思える。来年以降も継続してくれるといいのだけど。
 今年の夏は、プロスチェヨフで行なわれるジュニアの世界大会のメインスポンサーを東レが務めたという話だから、その縁でフェドカップの決勝のスポンサーになるという話も出てきたのだろう。今後も東レがチェコのテニスとの縁を深めてくれると、日本の東レがスポンサーになっているテニス大会にチェコ人選手が大挙して参加するなんてことになるんじゃないかと期待している。逆にチェコで行なわれているテニス大会、ATP、WTAではなく、ランクが下の大会が多いけど、いくつかある大会に日本からの出場も増えるかもしれない。オロモウツでも女子の大会やってるしさ。
2018年11月11日22時15分。







2018年11月14日

仮定法3(十一月九日)



 チェコ語を勉強していて、最初に出てくる「jestli」の意味は、二つのうちどちらだっただろうか。直接仮定法とは関係のないほうから説明すると、「vědět(わかる)」「přemýšlet(考える)」「říct(言う)」などの動詞と結びついて、日本語の「かどうか」と同じような使い方をする。

 Nevíš, jestli Pavel přijde?
 パベルが来るかどうか知らない?

 なんて感じなのだが、日本人がやりがちな間違いは、「来るかどうか」と「来るか来ないか」を混ぜてしまって、「Nevíš, jestli Pavel přijde, nebo nepřijde?」としてしまうものである。昔チェコ語を教えていた我が弟子がよくやっていたのだけど、考えてみたら弟子がやるということは、教えていたこちらの間違いが移った可能性も高い。いやあ申し訳ないことをしてしまった。

 もう一つの使い方が、仮定法になる。その仮定法の「jestli」を語源的に考えてみると、「jest」は「být」の三人称単数「je」の古い形で、それに仮定表現の「li」が付いたものだと考えられる。本当かどうかは知らないけど、師匠がそんなことを言っていたような気がする。違ったとしても、こう考えておけば、「jestli」が仮定表現に使われるのも納得できる。学習者にとって有用なのは、言語学的に正しい理論ではなく、言語学的には間違いであってもそれに従えば正しく使える理論もどきである。
 チェコ語学習者の中には、チェコ語では頻繁に使われる仮定の「jestli」を使った表現を聞いて、何か気に入らないと感じたことがある人が居るかもしれない。日本語だと「〜がほしければ」とか、「〜したければ」とか、相手の意思を「ほしい」「たい」を使って直接仮定法にするのは、かなり失礼な言い方で、よほど親しい間でもなければ、使うと相手を怒らせることになる。しかし、チェコ語では、「chtít」を使って相手の意思を直接確認するような質問もできるし、三人称でも何の問題もなく使えるのである。

 Jestli chcete, můžete se mnou přijít.

 この文を直訳すると、「もし来たかったら、私と一緒に来てもいいですよ」と誰に対してなら使えるかなと考えなければならない文になるのだが、チェコ人としては「よければ一緒に行きましょうか」ぐらいの感覚で使っているのだと思う。以前は親しい人ならともかく、よく知らない人に「Jestli chcete」と言われるたびに、一瞬むっとしていたのだが、最近は気にならなくなったし、自分でも使うようになってしまった。以前は使うのも避けていたんだけどね。
 この「jestli」は、文頭、もしくは仮定の節の頭に置くだけで、あとは動詞の時制も人称変化もそのまま使えるから使い勝手がいい。人を誘うときにも「時間があれば」とか気軽に使えるし。「kdyby」を使うと硬すぎというか構えすぎの感じがするので、軽く誘うときには使いにくいんだよね。この感覚がチェコ人と同じかどうかは知らない。苦労して覚えたことはできるだけたくさん使いたいと思うのと同時に、軽いどうでもいいことよりも何か重要な話をするときに使いたいとも考えてしまうのも学習者の性だろうか。


 もう一つ「jestli」と同様に使えて、同様に使い勝手がいいものに「pokud」がある。音の響きのせいか「pokud」が硬く強く響くように感じられるけれども、これもチェコ人がどう感じているかは知らない。使い分けは特に何かの基準に基づいているというわけではなく、感覚的に適当にやっている。決まり文句的にどちらかとしか使わない表現、使えない表現もある。

 二つほど「pokud」としか使わない例を挙げておく。

 Pokud možno, pošlete tento dopis do Japonska letecky.
 できればこの手紙を日本に航空便で送ってください。

 他の表現を使うと長くなるところを、「Pokud možno」だけで「可能ならば」という意味を表せるので、結構重宝する。しかもちょっと特殊な文法になるので、きれいに使えるとチェコ人を驚かせることもできる。こんなにチェコ語ができるんだよというハッタリ用の表現はいくつも確保してあるが、これもそのうちの一つ。他はほとんど口語的過ぎる表現や方言で使いどころが難しいけど、これはどこでも使えるし。

 もう一つは日本語で「確か〜だと思う」というような状況で使う表現。

 Pokud se nemýlím, měl by být Pavel v Japonsku.
 確かパベルは日本に行っているはずだと思うけど。

 直訳すると、「Pokud se nemýlím」は「私が間違っていなければ」となるのだが、そんな外国語をそのまま日本語にしたような表現は、翻訳以外では使うものではない。「確か」ではたりないと言うなら、「私の知る限り」とでも訳そうか。この表現、チェコ語では、個人的にもよく使う表現なので、自然な日本語の訳を当てておく必要があるのだ。

 改めて、「jestli」と「pokud」の使い分けについて考えてみると、無意識に使い分けしているから、本当にこんな使い分けをしているという確信はないけど、主語が二人称の場合には軟らかく感じられる「jestli」を使って、一人称の場合には「pokud」を使っているような気もする。多少変でも勢いで押し切ってしまえというのがこちらのチェコ語だからなあ。
 とまれ、日本語と同様に、チェコ語にもいくつかの仮定表現があって、日本語と同様にそれぞれ意味するところや使い方が微妙に違う。その違いは、これも日本語と同様に個人差が大きいようにも見受けられる。ならば、開き直って、間違いだと訂正されない限りは、自分なりの使い分けをしてもいいのではなかろうか。訂正されないということは、多少変でも許容範囲にはあるということだろうし。

 許容範囲を超えるたら、間違いだと指摘してくれる人がいるというのはありがたいことである。その結果、使うのを諦めた言葉があるとしてもである。ちょっと皮肉に響いただろうか。実は「pokud」に似た「dokud」という言葉を、使用するのをあきらめたのである。
 以前は「お金がある限り」というのを、この言葉を使って表現しようとがんばったのだけど、何回やってもうまくいかないので、ひよって「お金がある間はずっと」とか「お金がなくなるまでは」なんて言うようになってしまった。師匠の訂正も説明も毎回違っていたような気がするんだよなあ。だからチェコ語で使い方が一番難しいのは「dokud」だと断言しておく。

 これでチェコ語の仮定法についてはひとまずおしまいということにする。
2018年11月10日23時55分。







2018年11月13日

仮定法2(十一月八日)



承前
 一応念のために反実仮想的な仮定法について説明しておこう。これは本動詞の過去形に加えて、動詞「být」、もしくはその繰り返しを表す動詞である「bývat」の過去形を一緒に使うというものである。問題はどちらを使うのがいいのかよくわからないのと、両方一緒に使ってもいいのかどうか、使っているのもあるような記がするのだけど、よくわからないことである。これやろうとすると、必要以上にこの二つの動詞を使ってしまうので、必要ない限り使うのは避けている。チェコ人の中にも使えないと言う人はいるから、外国人ができなくても仕方はないのだけど、ちょっと悔しいので、機会があれば復習しておきたいところである。

 以下の例は、これまでの例も十分以上に怪しいけれども、いつも以上に怪しい例である。わかりやすいように昨日の分に使った例文を加工してみた。

 Kdybych byl čekal o trochu déle, byl bych se mohl setkat s Petrem.
 Kdybych býval čekal o trochu déle, býval bych se mohl setkat s Petrem.
 Kdybych byl býval čekal o trochu déle, byl bych se býval mohl setkat s Petrem.
 もう少し長く待っていればペトルに会えていたのに。

 正直、この三つのうちどれが正しいのかわからん。後半の部分は「se」があるせいで語順が怪しく感じられるし、最後の文はこんなに動詞を並べていいのか不安である。

 Kdyby se mi byla nelíbila Olomouc, byl bych tam nebydlel.
 Kdyby se mi býval a nelíbila Olomouc, býval bych tam nebydlel.
 Kdyby se mi byla bývala nelíbila Olomouc, byl bych tam býval nebydlel.
 オロモウツが気に入っていなかったら住んでいません。

 こちらはさらに語順がややこしいのに加えて、否定の「ne」をつけるのは本動詞だけでよかったと思うのだけど、確信が持てないという問題もある。サマースクールでやってくれるとよかったのだけどてんてん。この文も、仮定法でチェコ語にできるなあ。


 日本語同様チェコ語にも、「〜すれば」という順接の仮定法だけでなく、「〜しても」という逆接の仮定法も存在する。日本語の場合には大きく形が変わるが、チェコ語の場合には、順接の仮定法に「i」を付け加えてやれば完成する。人称変化や動詞の過去形との組み合わせ方などは順接の仮定法の場合と全く同じである。

 I kdybych měl hodně peněz, nekoupil bych si toto auto.
 お金がたくさんあっても、この車は買いません。

 I kdybych měl o 10 bodů víc, neudělal bych tuto zkoušku.
 十点多く取っていても、この試験には落ちていました。

 仮定法の「i kdyby」の代わりに本来「〜とき」を意味する「když」を使って、「i když」という表現で日本語の「〜しても」をあらわすことができる場合もあるが、チェコ語の「i když」は、日本語では「〜けれども」とか「〜が」という単純な逆説の接続表現を使った方がいいような場合にも使われるので、気をつける必要がある。日本語的に考えると、「ale」「přesto」なんていう逆接の接続詞を使いたくなるようなところにまで、「i když」を使うのである。
 例えば、「Pavel nepřišel, i když jsem na něho čekal dlouho」という文を日本語に訳す場合、普通は「私はパベルを長時間待ちましたが来ませんでした」となるだろう。どうしても「〜ても」を使いたいというなら、「私がいくら待っても、パベルは来ませんでした」とするしかない。これはチェコ語ができる日本人よりも、日本語ができるチェコ人にとっての問題になるかな。


 チェコ語には、動詞の現在人称変化ができれば、問題なく使える簡単な仮定法もある。それは動詞の人称変化の末尾に「-li」をつけてやれば出来上がりである。発音するときには切れ目は入れないが、書くときには「-」を「li」の前に入れることになっている。スロバキア人がこれ難しいと言っていたような記憶があるから、スロバキア語にはないのかもしれないけど、そんなに難しいかなあ。問題は、形を作るの自体は簡単だけど、それが使うのが簡単であることを保証しないことか。

 Máte-li nový tácek, můžete mi ho dát?
 新しいコースターがあったらもらえないでしょうか。

 なんてお願いもしていたわけだ。習ったばかりのころは、「kdyby」とちがって新しいことを覚える必要もなかったので喜んで使っていたのだが、「マーテリ」とかちょっと発音しにくい感じがしたのと、丁寧さに欠けるような印象を持ってしまったので、最近はあまり使っていない。そこに難しいのが使えたほうがうれしいという学習して言葉を身につけた人間に特有に心理が働いているのは否めない。

 もう一つこれの問題点を挙げておくなら、例の二番目にくるものの優先順位をある程度身につけてから学んだ方法なので、「se」や「si」が必要な動詞が出てきたときに、うまく整合性が取れないと言うか、「-li」を一語として認識してしまうのか、変なところにつけてしまうことだ。書くときは問題ないのだが、話すときについつい変な語順にしてしまって変な顔をされることがある。この形を使うときには、人称変化した動詞を文頭に持ってくることになっているので、その次、二番目にくるものが問題になるのである。いや、もちろん、そこで素直に「-li」をつければ何の問題もないんだけどね。
 例えば、「元気です」なんていうときの「Mám se dobře」に「-li」をつけたら「Mám-li se dobře」になるのは重々わかっているのだけど、頭の中で「Mám se」のつながりが余りに強いせいか、ついつい「マーム・セ・リ・ドブジェ」と言ってしまうのだ。「バディー・バーム・リ・ト」とか、「コウピーメ・シ・リ・トゥト・クニフ」とか、自分でもなんでそうなるのかわからない間違いを繰り返してきた。結局それで面倒くさくなって使うのをやめてしまったというのが落ちかもしれない。

 最後に、普通の動詞の現在人称変化と「být」の未来変化にしか使えないというのも、使わなくなった理由だろうか。過去でも現在でも何でも使えて、語順の混乱の起こらない仮定法的な接続詞を使った方が楽だということに気づいたのである。ということでこの件もう一回。
2018年11月9日23時50分。










2018年11月12日

仮定法1(十一月七日)



 前回チェコ語について書いたときに、次は仮定法だと書いた記憶がある。ちょっと一本になりそうなネタもないので、久しぶりにチェコ語について、つまり仮定法について書くことにする。仮定表現は、日本語では、「すれば」「したら」「するなら」などいくつかの形があって、それぞれ微妙に意味、使い方が違うのだが、チェコ語にもいくつかあるのだが、仮定法と言った場合には、一般に「kdyby」「by」と動詞の過去形を組み合わせたものをさすことが多い。
 「kdyby」は文頭、もしくは節の最初に来て、仮定の意味、つまり「〜すれば」という意味を表す。それに対して仮定を受ける側の「by」は、節の二番目の位置に来る。「by」はまた単独で婉曲表現としても使われる。婉曲というよりは、表現を和らげて丁寧にするのに使われると考えたほうがいいかもしれない。とまれ先ずは形から入ろう。
 人称変化は一人称単数から三人称複数まで以下のようになる。変化する部分は変わらないので「kdy」は括弧に入れておく。

 1単 (kdy)bych
 2単 (kdy)bys
 3単 (kdy)by
 1複 (kdy)bychom
 2複 (kdy)byste
 3複 (kdy)by

 三人称は単数と複数で形が同じだが、一緒に使う動詞の過去形で単数か複数化区別できる。単数であれば「-l / -la / -lo」と主語が男性、女性、中性の場合で変わるが、複数であれば、「-l i / -ly / -ly / -la」と男性名詞が活動体と不活動体で語尾が変わるので、四つの語尾を使い分けなければならない。一人称、二人称の場合には必ず男性か女性が主語になるので、中性の語尾を取ることはないが、主語となる人物が男性か、女性か、単数か複数かで動詞の過去形の語尾を変えなければならない点は変わらない。
 また、口語では「být」の現在変化につられて、一人称単数を「(kdy)bysem」、複数を「(kdy)bysme」という形で使う人も増えているが、これはまだ正しいチェコ語としては認められていないので、知り合いにそんなチェコ語を使う人がいたら悪影響を受けないように注意しなければならない。
 実際に文を作ってみよう。

 Kdybych neuměl(a) česky, nemohl(a) bych žít v České republice.
 チェコ語ができなかったら、チェコに住めないだろう。

 動詞の末尾に「(a)」をつけたのは、女性の発言だった場合には「a」が付くことを示している。この文の「kdybych」のあとに、例えば「tehdy(あのとき)」を入れると、「あのとき日本語ができていなかったら、チェコに住めていなかったろう」と古典文法では反実仮想と呼ばれるタイプの仮定を示すこともできる。チェコ語にも反実仮想用の文法は存在するのだが、動詞の過去形を二つ並べるなどややこしく、現在では普通の仮定法で代用してしまうことが多い。
 もちろん両方の節の主語が一致しなければならないということはない。いくつか組み合わせてみよう。できるだけ単純な短い文にする。訳を普通の仮定にするか反実仮想にするかは気分で決めた。

 Kdyby nemělo letadlo zpoždění, stihl bych poslední vlak do Olomouce.
 飛行機が遅れなければオロモウツ行きの最終に間に合うでしょう。

 Kdyby se mi nelíbila Olomouc, nebydlel bych tam.
 オロモウツが気に入っていなかったら住んでいません。

 Kdybych čekal trochu déle, mohl bych se setkat s Petrem.
 もう少し長く待っていればペトルに会えていたのに。

 Kdyby vám to nevadilo, jel bych do Prahy.
 よろしければ、私がプラハに行きます。

 Bylo by dobré, kdybyste přišel o hodinu dříve.
 一時間早く来てもらえるとありがたいんですが。

 Bylo by špatné, kdybych neudělal toto zkoušku.
 この試験に合格できなかったらやばいんだよなあ。


 ところで「by」のある部分だけを使った丁寧な婉曲表現も、もともとは前半部分が存在していて、省略されるようになったと考えてもいい。例えば、

 Kdybyste měl čas, mohl bych se vás na něco zeptat?
 お時間があるようでしたら、質問させてもらっていいでしょうか。

 いきなり、「質問してもいいですか」と聞くよりも、「時間があれば」と仮定したり、最初に時間があるかどうか質問したりした方が、丁寧な表現になるのは日本語もチェコ語も変わらない。だから「by」を使うことによって、「Kdybyste měl čas」や「Kdyby vám to nevadilo」のような仮定法が省略されていることが示唆され、丁寧に響くのではないかと考えられる。いや、本当かどうかは知らんけど、このように考えれば、納得して使えるというだけの話である。
 実際には、「Dám si kávu」と言っても、「Dal bych si kávu」と言っても大差はないんだろうけど、「by」を使った仮定法で注文したりお願いしたりできるようになると、チェコ語がものすごくできるようになった気分になれたものだ。

 ちなみに、かつてチェコ語を勉強していたころは、毎晩仮定法の勉強のために、いや実践のために飲み屋に出かけていたものだ。お金を払ったあとに、お店の人にお願いしたのだ。

 Kdybyste měli nový tácek, nemohl byste mi ho dát?
 新しいコースターがあったらもらえないでしょうか。

 Kdybyste měli jiné tácky, chtěl bych si je vzít.
 これとは違うコースターがあれば、ほしいんですけど。

 とか「kdyby」以外の方法も交えて、さまざまなバリエーションを駆使して毎晩できるだけ違う表現を使うようにしていたのだ。その結果、仮定法がある程度使えるようになり、コースターのコレクションも増えていった。つまり、我が仮定法は飲み屋で、ビールとコースターによって鍛えられたのである。
2018年11月8日23時55分。









2018年11月11日

ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(十一月六日)



 チェコで、チェコスロバキアの独立に最も貢献した人物を三人挙げろと言われたら、初代大統領のマサリク、その後継者となったベネシュと共に挙げられるのが、スロバキア出身のシュテファーニクの名前である。この人、スロバキア出身の人物だというから、マサリクがアメリカに渡りスロバキアからの移民たちと、チェコスロバキアの独立に関して結んだ、いわゆるピッツバーグ協定の締結に貢献したものだと思っていた。しかし、実際にはマサリクが独立運動の理念的な柱で、ベネシュが外交の柱だったとするなら、シュテファーニクは軍事面での柱であり、この三人のうち誰が欠けても独立は実現しなかったと言ってもよさそうである。

 特に、フランスをチェコスロバキア独立の支持者の側につけることができたのは、シュテファーニクの功績らしい。チェコスロバキア第一共和国がフランスと近しい関係を結んでいたのは、マサリク大統領夫人の出自がフランス系だというのが原因だと思い込んでいたが、実は、独立運動にかかわっていたシュテファーニクが第一次世界大戦勃発後にフランス軍にパイロットとして入隊し、軍の高官の知遇を得たのがきっかけになっているようである。その人脈をベネシュやマサリクが生かしたということだろうか。
 そして、チェコスロバキアが第一次世界大戦で連合国側の一員として扱われた理由の一つであるチェコスロバキア軍団の創設もシュテファーニクの功績で、特にフランスでは、チェコスロバキア軍団は例の外人部隊の一翼を担って活躍したらしい。フランスだけではなく、イタリアやセルビア、ルーマニアなどでもチェコスロバキア軍団の組織化を行い、軍団が戦果を挙げることで戦後の独立のための交渉が楽になったというから、独立直後のチェコスロバキア政府で軍事大臣に任命されたのは当然だったのだ。ただし、ロシアやフランスなどでチェコスロバキア軍団の後始末をしていたため、独立したチェコスロバキアに戻ってきたのは死の直前ということになる。

 1919年になってから、フランス、イタリアでの交渉を終えて独立した祖国に飛行機で戻ってこようとしていたシュテファーニクは、着陸寸前の滑走路上で起こった事故で亡くなってしまう。一説にはシュテファーニク自身が操縦していたとも言う。これが単なる事故だったのかについてもいろいろ説があって、フランスとイタリアの独立チェコスロバキアを巡る争いとか、ベネシュとの対立とかが原因となって暗殺されたんだとも言う。極端なのになると自殺説まであるらしい。
 ただ、シュテファーニクが乗っていたイタリア製の飛行機が性能面で問題のある物で、交渉相手だったイタリア軍の高官たちも飛行機を使わず陸路で帰国することを勧めたという話もあるから、偶然がいくつか重なった結果の不幸な事故というのが一番蓋然性が高そうなのだが、この事故が第一共和国のチェコ人とスロバキア人の関係に大きな影を落としたことは否定できない。

 シュテファーニクは、もともと西スロバキアのプロテスタントの教会関係者の息子として生まれ、建築技師になるために進学したプラハの大学でマサリクの知遇を得たのが独立運動にかかわるきっかけになったらしい。プラハではなぜか天文学を勉強し一時はフランスの天文台で仕事をしていたというから、フランス軍に入隊する前からフランスとは縁があったのだ。その後、第一次世界大戦が始まるまでは世界中を飛び回っていたらしい。もとより活動的で行動の人で、各地で多くの女性と浮名を流したプレーボーイとしても知られていたという雑誌(日本の「歴史読本」みたいな奴ね)の記事を見かけたこともある。

 チェコスロバキアの独立に大きな貢献をしたシュテファーニクだが、チェコではスロバキア人で独立直後に亡くなったということもあって、あまり重要視されていないように感じられる。スロバキアでは、チェコスロバキア第一共和国自体を否定的に捕らえる考え方が主流だったため、シュテファーニクに対する評価もあまり高くなかったようだ。分離独立から四半世紀チェコに対する感情が改善された近年は変わりつつあるようだけれども、その功績が正等に評価されていない人物と言えそうである。
 マサリク大統領の出自の謎とシュテファーニクの事故死の謎を絡めた国際謀略小説なんて存在しないかなあ。シュテファーニクを主人公にして、マサリクの出生の謎を解きつつ、その秘密をソ連やオーストリアの秘密警察の手から守るなんてストーリーはどうだろう。誰か書いてくれんかなあ。

 ちなみに「ミラン・ラ」まで聞いた時点で、スロバキアの俳優ミラン・ラシツァを思い浮かべてしまうのもシュテファーニクがあまり話題に上がらないことの証明になっている。
2018年11月7日23時25分。









2018年11月10日

マサリク大統領についてあれこれ(十一月五日)



 マサリク大統領は、一般には南モラビアのスロバキアとの国境の町ホドニーンの出身で、当地のドイツ系貴族の所有する農園で働いていたチェコ人の下女とスロバキア人の馬丁の間に生まれたと言われている。それが、分断されていたチェコ人とスロバキア人が結びついて建国したチェコスロバキアを象徴するような生まれだとして喧伝されるわけだが、それに異を唱える人がいないわけではない。初代大統領の出自というデリケートな問題ではあっても完全なタブーとはなっていないようである。
 コメンスキー研究者のH先生は、以前お宅にお邪魔してあれこれお話を伺ったときに、マサリク大統領はハプスブルク家の実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の隠し子だったんだなんてことを仰っていた。その証拠としては、皇帝本人のだったか、皇帝の執事のだったかの手帳に、マサリク大統領の母親と同じ名前が書いてあって、その後に日付と処理済という言葉が記されているという事実を挙げられた。手帳には他にも皇帝が関係を持った女性の名前が書かれているらしい。自分では見ていないし、見ても読めないだろうけど、同名の別人ということがあってもおかしくなさそうではある。

 それに対して先生は、状況証拠になるけれども、マサリク大統領の経歴を見ると、ただの馬丁の子供だとは思えないと仰る。マサリクの生まれた19世紀の後半といえば、初等教育は一般に普及していたけれども、高等教育を受けられたのはごく限られた層だったと考えていいだろうか。当時の社会通念で言えば、社会の下層から出てきた子供が、確かブルノのギムナジウムを経てウィーンの大学に入り、さらにはプラハの大学の教授になるというのは稀有なことだったのは確かだろう。先生はこれについて、プラハであれウィーンであれ、マサリクが向かったところ、マサリクが望んだところのドアは、まるで自動ドアでもあるかのように開かれたのだと仰る。
 マサリク大統領に関しては、苦学して大学まで進学したというイメージを持っていたのだが、当時の社会では苦学して優秀さを示しても、有力な後援者でもいない限り大学まで進学すること自体が難しかったのだと言われれば、納得してしまう。戦前の日本でも書生なんてものが存在したわけだし。その有力な後継者の代わりになったのが、皇帝の落胤という出自だということなのだろう。

 先生は、このことを前提にすると、チェコスロバキアが独立しマサリク大統領が誕生したのは、歴史の皮肉だと続けられた。オーストリア・ハンガリー帝国側から見れば、非公式の行程の息子が領土を分割して戴冠してしまったことになるし、チェコスロバキア側から見れば独立してなおハプスブルク家の血を国家元首として戴くことになったのだから。先生はそう言ってからかうような笑みを我々に投げかけてきたのだけど、このマサリク大統領落胤説をどこまで本気で語られたのだろうか。
 こうであってもおかしくはない話だから、これをテーマに歴史小説というか、時代小説というか、誰か書いていないかな。こういうのは学術的に解明しても面白くないから、いろいろフィクションを盛り込んで、ありそうな嘘話にしてしまうのが一番いい。独立したばかりのチェコスロバキア軍の情報部が、オーストリアの秘密警察とマサリクの出自に関する文書を巡って争うとか。独立前のハプスブルク家の宮廷内でマサリクの処遇を巡る暗闘があるとか。あれば読んでみたいものである。

 マサリク大統領の妻となったのは、フランス系のアメリカ人シャルロット・ガリクで、この女性についてはチェコでもあまり語られることはなかったのだが、今年が独立百周年だということからか、ニュースなどの特集で、マサリク大統領との出会いや、いかに夫を支えたかなんてエピソードが紹介されていた。記憶に残っているのは、交際を申し込むつもりだったマサリク大統領が、夫人の受け答えに感動して、思わず結婚を申し込んだというエピソードと、チェコ人社会から敵視されていた時期に、もうチェコ民族の独立はあきらめてアメリカへ渡ろうかと弱音を吐いたマサリクを叱咤激励して活動を続けさせたという話である。
 マサリク大統領は、殺人犯と目されたユダヤ人を弁護して無罪を証明したり、チェコの民族の古さを証明するとされたゼレナー・ホラ手稿が発見者の作った偽書であることを証明するなどした結果、一時はチェコ民族の裏切り者扱いをされていたのだ。それにもめげず、祖国、いや自らの民族の権利の拡大と独立を求めて運動に邁進した人物としてイメージしていたのだが、その陰には夫人の献身的な支えがあったというわけなのである。交際を申し込もうとして結婚を申し込んだマサリク大統領の目は正しかったというところか。ミドルネームに夫人の旧姓のガリクを付けることを決めたのも、そんな夫人の素晴らしさを見抜いていたからと言えば、ほめ過ぎになるだろうか。

 マサリク大統領がハプスブルク領内にいられなくなって、国外でチェコ、チェコスロバキアの独立のための活動を続けていた時期にも、夫人はプラハに残って秘密警察の監視を受けつつ、子供たちを育て上げたという話だし、マサリク大統領の活躍の陰には常にシャルロット夫人がいて、ある意味でチェコスロバキアの独立に最も貢献した人物だと言えなくもない。ハベル大統領の最初の夫人であるオルガ夫人のことも考えると、チェコで敬愛される政治家は奥さんで持っているところがあるような気もする。マサリク大統領にも秘密の愛人がいたとかいう話もあるし、ハベル大統領は以前から関係のあったらしい二人目の奥さんと結婚しているし、そんなところも二人は似ているのかな。
 ハベル以後の大統領夫人というと、クラウス大統領夫人は、伴侶というよりはクラウス大統領信者という感じで、自分の夫のことを「パン・プレジデント」って呼んでいたなあ。二人目のハベル大統領夫人が親密さを強調しようとしてなのか愛称で「バシェク、バシェク」と呼ぶ違和感に比べればマシだけど。今の大統領夫人は控えめにすぎてほとんど存在感がない。テレビで見るたびにあれこの人だったっけと思ってしまう。
2018年11月7日15時30分。




値段が間違っているような気がする。

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2018年11月09日

森雅裕『いつまでも折にふれて/さらば6弦の天使』(十一月四日)



 久しぶりの森雅裕である。どの作品まで書いたか覚えていなかったので、確認してみたら前回は三月だから半年以上間が開いてしまった。なかなか書けなかった理由は、忘れていたというのもあるけれど、後期の作品については、初期の作品ほどには思い入れがないということに尽きるのだろう。読めば面白かったし、刊行されたことを感謝しもしたが、学生時代に読んだ本の方が印象に強く残るものなのだろうか。作風が多少変わったというのもあるのかな。

 とまれ、本書は1995年に私家版として刊行され、1999年に「森雅裕幻コレクション」の最終巻として、続編の『さらば6弦の天使』とともにKKベストセラーズから刊行された。『いつまでも折にふれて』の存在は『推理小説常習犯』で触れられていたから知っていたし、読んでみたいと切望していたから、出版社には感謝の言葉もないのだが、不満を言うなら二作合わせて一冊になっていたため、通常のノベルズの倍近い厚さになっていたこと。二冊に分けて刊行してくれれば、森雅裕の本が出たという喜びを二回味わえたのにと思うと残念である。当然、二作品を一度に読んでしまって、新作を読めた喜びも一回しか味わえなかった。
 分冊にしてほしかった理由はもう一つある。『推理小説常習犯』によれば、私家版の『いつまでも折にふれて』はCDケースのサイズで製本されたらしい。分冊だったらそれを復刻する形で出版することも可能だったんじゃないだろうか。CDについているブックレットと同じサイズの版型で活字も同じだとすると読みづらいことこの上なさそうだから、ノベルズ版を購入した人を対象に予約限定復刻出版をしてくれていれば、両方買ったのに。一冊5000円だった1000部ぐらいは捌けたんじゃないかなあ。5000円で200部限定だったファンの有志たちの手による自費出版も、手に入らなかったと嘆く声がネット上に上がっているわけだし。

 あとがきによれば、1994年と1998年に書かれた二作を、刊行年に合わせて1995年と1999年が舞台になるように書き改めたのだという。正直何でこんなことをしたのか、熱心な森雅裕読者にも理解できなかった。特に『いつまでも折にふれて』は私家版とはいえ、すでに刊行されたもので、KKベストセラーズ版が刊行された時点では、94年も95年も過去になっていたのだから。また、作品の内容的にも、小説内の時間設定が1年ぐらいずれていても問題があるようには見えなかった。
 この辺の妙なこだわりが森雅裕だと言ってしまえばそれまでなのだが、同じあとがきにある「陽の目を見ない作品ゆえに」続編を書いたというのは、まだわかる気がする。ただ単に刊行年に合わせるためだけに書き直すってのは、何か他に事情があって書きなおさなければならなかったんじゃないかと疑ってしまう。芸能界もので、例によって露骨なモデルが存在する小説だから、露骨さが出版社の許容する範囲を超えていたとかさ。現代小説で、執筆年と刊行年が違うから、作品の時代背景を刊行年に合わせるなんてことしてたら、年をまたく出版なんてできなくなるし、5年も10年も違うってんなら、テクノロジーの進歩に合わせて書きかえる意味もありそうだけど1年じゃなあ。
 どこがどう変わったのかわからない読者としては、改稿前のバージョンも読みたくなってしまうのは当然である。だからこそ、CDサイズのものを改稿しないまま復刻すれば、全体的な読者数に比べれば多い森雅裕中毒者たちはこぞって購入したはずなんだけどなあ。あの頃は、まだ今ほど出版業界も苦しくなっていなかったから、1000部やそこらの限定出版でちまちま稼いでられるかなんてところもあったのかなあ。

 それにしてもと思わずにはいられない。どうして『いつまでも折にふれて』だったのだろうか。「幻コレクション」の1でその存在を明らかにした『愛の妙薬もう少し……』を出版する手はなかったのだろうか。原稿を関係者に一枚ずつ配っておしまいにしたとか書かれていたけど、それから数年しか時間が経っていなかったはずだから、返してもらって印刷所に放り込むこともできただろうし、記憶をもとに書き直すことだってできたはずだ。森雅裕のことだから入念な取材の結果が残されていたはずだし。『椿姫』シリーズの続編を出してから、『推理小説常習犯』で私家版として紹介した『いつまでも折にふれて』を出すという順番で刊行されていたら、もう少し売れて、KKベストセラーズから新作が刊行されるという未来もあったんじゃないかと夢想してしまう。
 森雅裕の陽の目を見なかった作品は他にもあって、「復刊ドットコム」の森雅裕のページには、『雪の炎』と『微笑みの記憶』という作品も上がっている。前者の存在は「復刊ドットコム」に出会う前から知っていたけど、後者は全く知らなかった。何とか出版されないものかなあ。著者との交渉について前向きな返事とか書かれていても、ぜんぜん進展していないようだし。

 さて、表題となっている『いつまでも折にふれて/さらば6弦の天使』にの内容ついても簡単に触れておかねばなるまい。森雅裕の作品の中では『ビタミンCブルース』に続く芸能界物というかアイドル小説。苦手なジャンルなので評価もしにくいのだけど、心ないファンの問題とか、芸能界の暗い部分を描き出そうとしたのかなあ。これも森雅裕の作品でなかったら絶対に手を出していなかっただろう。
 最大の不満は、主人公の女性も、その相手役の男性も、いい人過ぎて、森雅裕の主人公を魅力的にしているひねくれた部分があまり感じられないところだろうか。話がつまらないとも登場人物に魅力がないとも言わないけれども、どこか主人公達二人の存在感が希薄なのである。もう少しあくの強い人物設定にしてくれた方が、森雅裕ファンには受けたんじゃないだろうか。ファンではない一般の読者がいたのかどうかはわからないが、なれていない人向けにはこのぐらいでちょうどよかったのかもしれないけど。
 とまれ、陽の目を見ていなかった森雅裕作品が刊行された最初の例になるのだから、ファンにとっては大きな意味を持つのである。
2018年11月6日23時25分。



今朝処理するのを忘れていた……。

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2018年11月07日

政治家と金(十一月三日)



 政治家というものは金に汚いものだというのは日本もチェコも大差ない。チェコではビロード革命以来の既存政党は、共産党を除けば、クライアント主義といわれる汚職まがいの便宜供与を繰り返してきた。もちろんキックバックを受けているのは当然のことで、そのうち目に余るものは摘発されてきたが、全体的に見れば、一部の金持ち、影響力を持つ連中のための政治が行われていたと言っていい。それが、バビシュ首相にEUの助成金詐取の疑いがかかってもANOの支持率が落ちない原因の一つになっている。
 既存の政党がANOをポピュリストだとして強く批判するのは、自分たちのクライアントだった連中が政治の世界に入ってきて、政治家=クライアントという図式が出来上がった結果、受け取れていた謝礼がなくなったからでもあろう。逆に言えば、政治家とクライアントが完全に別々だった時期と比べれば、クライアントから政治家に渡る金が減った分、国庫から抜き取られる金が減ったと言ってもいいのかもしれない。これもANOへの支持が不思議と減らない理由であろう。クライアント主義の権化だった市民民主党あたりが、汚職ぎりぎりの行為でANOを批判しても、お前らが言うなである。
 また、ロビイストとかいう政治家に影響力を持つとされる連中とつるんであれこれよからぬことをやらかしていたのもANOではなく、既存政党の政治家たちである。一番ひどかったのは国政ではなく、市民民主党のベーム市長時代のプラハで、あるロビイストとプラハ市政を牛耳る政治家、役人たちの結託で、公共交通機関の乗車券一枚当たり確か17ハレーシュ(0.17コルナ)がカリブ海のどこかの国にあるペーパーカンパニーの口座に入るようになっていたなんて事件も起こしている。総額で50億コルナほどが横領されたらしいが、ロビイストとプラハ交通局のボスが起訴されて裁判になっているだけで、裏にいたはずの政治家までは捜査が届いていない。ロビイストたちが証拠不十分で無罪になる確率も高そうだし。

 さて、現在チェコでは既存政党の政治家の銭ゲバ振りを象徴するような事態が進行している。政権与党のANOが国会に提出した国会議員の報酬を来年から9パーセント上げようという法案が、まともに審議もされないまま、国会の会期が終わろうとしているのである。9パーセントもあげようというANOの国会議員が金に汚いのではない。この法案が可決されなかった場合には議員報酬が自動的に20パーセントも上がるというのだから、積極的に法案に反対して国民の反感は買いたくないけれどもなし崩し的に廃案に追い込んで、報酬を一気に増やそうという魂胆が見え見えの既存政党の議員たちが金に汚いのである。
 一方でこの法案を廃案にしてはいけないと主張して、会期の延長を求めて議員の間で署名を集め始めたのが、新興政党の海賊党と、何かと批判されることの多いオカムラ党だという事実は重要である。議員報酬の伸びを積極的に抑制しようとしているのが、ANO、海賊党、オカムラ党という三つの新興政党だけで、既存政党がその中には一つも入っていないのである。

 平均給与がそこまで上がらない中、自分たちの報酬だけを20パーセントも上げるというのは、さすがにばつが悪いのか、既存政党の中でも積極的に給料を上げようと主張しているのは市民民主党だけである。市民民主党の議員によれば、国会議員報酬は、例のリーマンショックの影響がチェコに何年か遅れで到達してチェコの景気が低迷した時期から昇給が凍結されてきたのだから、その上がらなかった時期の分も含めて20パーセント上がるのは当然だという。裁判官や検察官などの賃金も上昇している中、国会議員の昇給が今後もなかったら、議員報酬の方が裁判官の給料より下になるじゃないかとも言っていたのだけど、議員報酬が裁判官の給料より高くなければならない理由については何も言わなかった。
 それでも、ANOの議案や、海賊党とオカムラ党の提案に、賛成するようなコメントを残しながら、その実何もせず、審議ができないまま会期が終わって仕方なく議員報酬が増額されたとというシナリオに沿って動いているとしか思えない他の既存政党に比べれば、本音を語っている分だけましなのだ。考えてみれば、議員報酬の昇給を凍結する法律を制定して国民に対していい格好をして見せておきながら、その法律の末尾に何年か後には一度に20パーセント上げるというのをもぐりこませるという姑息なことをしたのが既存の政党の政治家たちなのだから、今回もなし崩し的に昇級に持ち込むという姑息な手を取るのも当然なのだろう。

 最悪なのは、野党側が来年度予算について予定の赤字額が多すぎるから、支出を減らすべきだと強硬に主張していることである。国家予算の支出を減らす上でまず削減すべきは人件費であろう。そう考えると先ず隗より始めよで、議員総数を減らしたり議員報酬を減らしたりするところから始めるべきなんじゃないのか。これではますます既存政党の凋落が進むだけだと思うのだが、この件に関してはオカムラ党よりも下に落ちてしまったことに気づいていないのだろうか。
 チェコでは議員報酬は毎年自動的に上がるようになっているようで、それを停止したり抑制したりする場合にはわざわざ法律を制定する必要があるようだ。どうして変わらないのが原則で、昇級する場合には国会で審議が必要という形にしなかったのだろうか。そうすれば有権者をはばかって、ひんぱんな昇給も、大幅な昇給もしにくくなると思うのだけど……。そういえば昔議員報酬は法定最低賃金の何倍という形で規定しておけばいいと主張している人がいたなあ。そんな声は、金のことしか考えない政治家には届かないのだろう。
2018年11月5日22時30分。








2018年11月06日

チェコとロシアの微妙な関係(十一月二日)



 ソビエトというと、チェコ人の多くは、共産党員以外は、嫌悪感を隠そうとしないのだが、これがソビエトの前身でもあり、後身でもあるロシアとなるとその反応は微妙である。ソビエトと同一視して、敵視する人もいれば、かつての汎スラブ主義の名残なのか、親近感を隠さない人もいる。そのうちの一人が、ゼマン大統領である。

 日本でも知られるチェコアイスホッケーのスーパースター、ヤロミール・ヤーグルは、自らの背番号として、「プラハの春」の悲劇が起こった1968年にちなんだ「68」をつけ続けるほど愛国心の強い選手である。おそらく、あのときの悲劇を忘れないという意思を表しているのだろう。そんなヤーグルがロシア正教に改宗すると言い出してチェコ社会を驚かせたことがある。実際に改宗したのかどうかまでは覚えていないが、68にこだわるヤーグルがロシアを象徴するロシア正教に改宗するということは、ロシアに対して親近感を持っていたことを示しているのだろう。
 ヤーグルは、アメリカのNHLで希望するような契約が結べなかった時期にロシアのKHLでもプレーしている。その後、NHLに復帰したのだが、ロシアでプレーしたことは後悔していないと語っていた。ロシアに行ったときにも、まったく契約するチームがなかったわけではなく、条件を下げるぐらいならロシアに行くという感じだったようだ。このことからも、ヤーグルがロシアに対しては忌避感を持っていないことは明らかだと言ってよかろう。だからと言って、親プーチンかどうかはわからないけど。

 ロシアを長年にわたって支配するそのプーチン大統領から勲章をもらったチェコ人というと、ゼマン大統領の前のクラウス大統領の名前が挙がるのだが、今年チェコを代表するフォーク歌手であるノハビツァが、どういうわけか叙勲の対象となり、モスクワまで出かけて勲章を受け取った。この人、共産党支配の時代からオストラバを中心に活動してきた歌手で、ポーランドでも国境地帯を中心に絶大な人気を誇っているらしい。だから、ポーランドの勲章というのならわかるけれども、なぜロシアがという話になる。一説によると、プーチン大統領と仲のいいゼマン大統領の推薦があったのではないかという。
 ノハビツァは秘密警察に協力を強要されていたという過去が暴かれることで批判の対象になったから、ソ連に対しては恨み骨髄というところだろうが、ロシアに対してはわだかまりはないらしい。特に言い訳することもなく、ロシアからの叙勲を受け入れていた。こんなのは事前に打診があるものだろうから、ロシアに反感を抱いていればその時点で断って話が表に出てくることもなかったはずである。
 幅広いファンの中には、当然ロシア嫌いの人もいるわけで、ロシアの勲章をもらったことを理由に、ファンをやめるとか、ノハビツァの曲を聴くのをやめるとネット上で表明した人たちもいるようだ。しかし、ファンたち、これまでの言動で、ノハビツァという人物がどんな政治的信条を持っているのか理解できなかったのかねえ。悪名高きバニーク・オストラバのもっともコアなファンたちと結びついているし、去年の下院の選挙ではオカムラ党支持を公言してしまうような人物なのである。オカムラ党支持者=ゼマン大統領支持者だから、ロシアのプーチン大統領に親近感を抱いていても何の不思議もないのである。

 チェコがロシアに対してどんな態度をとるべきなのかで一体になれていないのは、先日下院議長のANOのボンドラーチェク氏が議長就任後の最初の外遊としてロシアに出かけたことで物議をかもしていることからも明らかである。多くの党はEUが制裁の対象にしているロシアに外遊するとはどういうことかと批判し、外務省の外交政策と足並みをそろえていないのはけしからんとか言っていたかな。
 ゼマン大統領はもちろんボンドラーチェク氏の肩を持って、チェコは独立国でEUに加盟しているからと言って独自の外交を行う権利を失ったわけではないと主張している。ゼマン大統領はロシアに対する制裁自体を無意味なものだと批判しているから、ボンドラーチェク氏を支持するのは予想通りなのだけど、批判している人たちは、ロシアとの関係をどうしようと考えているのだろうか。ロシアへの対応については大本のEU自体が中途半端なところで揺れているから、個々の加盟国としても対応が難しいところである。

 旧共産圏諸国の反対を押し切って鳴り物入りで始めたロシアへの経済制裁も、肝心の天然ガスについては対象外にした上に、ドイツのエネルギー安定のために新たなウクライナを通らないパイプラインの建設を、経済制裁にもかかわらず、進めているのだから、プーチン政権を追い詰めるほどの効果は発揮していない。資源大国相手に最大の財源である天然資源を除外した経済制裁を仕掛けても意味がないだろうに。あの経済制裁でダメージが大きかったのは、輸出先のロシア市場を失い、ドイツなどのロシア向け製品に市場を荒らされた旧共産圏諸国なのである。それがこの辺りの反ドイツ、反EU感情を高めているから、ゼマン大統領が経済制裁を無意味なものとして廃止を求めているのにも理がないわけではない。
 考えてみれば、啓蒙主義の時代以来、チェコの政界は、ロシアとドイツに対してどのように対処するかという点で分断されゆれてきた。そう考えると、現在、ドイツに対しても、ロシアに対しても統一した態度が取れず、微妙な対応に終始するのも仕方がないのかもしれない。
2018年11月4日23時35分。








posted by olomoučan at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2018年11月05日

自己責任問題其の三(十一月一日)



 また、どこまで本当かは確認していないが、今回解放された人は、以前も中東で武装組織に誘拐なり拘留なりされた経験があるという。仮にこれが事実であれば、取材に出かけたこと自体も批判されるべきである。一度失敗していながら、何の根拠があったのか次は大丈夫だからと再び出かけたのだから。イラクであれトルコであれ、この手の反政府の武装勢力というものは、つながっているものだから、カモがネギ背負ってやってきたと思われた可能性もある。
 誘拐なんてものは、どんなに入念に準備して対策を練っていたとしても、遭うときには、いや遭う人は遭ってしまうもので、多少対策が足りなくても遭わない人は遭わないものである。誘拐でなくても、例えば悪名高いプラハのスリでも、すられる人はどんなに警戒していても何度もすられるし、すられない人は特に警戒なんぞしていなくてもすりには遭わないものである。一日に二度、朝は財布を取られて、午後は携帯をとられたなんて人もいたなあ。だから、一度戦場取材で被害にあった時点で、次は大丈夫などと考えずに、紛争の現場での取材からは手を引くべきだったのだ。それなのに、手を引かずに再びのこのこと紛争地帯に入って誘拐されることで、次なる日本人が誘拐組織に狙われる可能性を高めた責任は大きい。

 こう考えると、解放されたジャーナリストが果たすべき責任は二つである。一つは、国に対する責任で、国の反対を押し切って、しかもジャーナリストであることを振りかざして取材に向かったというのだから、何もなしというのはありえないだろう。誰かが登山で遭難したときと同じ扱いでいいんじゃないのとコメントしていたが悪くない。
 ジャーナリスト側は、またぞろ登山と取材は違うとか言い出すのだろうが、そんな特別扱いはしてはならない。ただでさえ勘違いしたマスコミをますます付け上がらせるだけである。山とは違って、渡航の禁止が出ている場合で職業がジャーナリストかマスコミ関係者に限るということにしておけば、一般の観光客や普通の仕事で外国に出なければならない人たちには実害はあるまい。

 もう一つの責任は、国民全体を危険にさらしたことである。今回の件で国外の日本人が狙われる可能性が僅かとはいえ上昇したのは間違いない。おまけに記者会見で日本政府には身代金を払う用意があったなんて事をばらしてしまった。国としてはあれでよかったのかね。誘拐組織における日本のカモ度が上がっていなければいいのだけど。
 こちらはヨーロッパでもチェコという比較的安全なところに住んでいるから、そこまでテロだの誘拐だのに対して危機感を持っているわけではないけれども、日本にいた頃に比べれば、テロのあるなしにかかわらず慎重に暮らしているつもりである。それは日本語の通じない、日本とは制度の違う外国に暮らしていれば当然といえば当然なのだけど、だからこそその慎重さを台無しにしてくれるような行動には、過敏に反応してしまう。チェコに住んでいる人間でもこうなのである。紛争地域の近くで仕事をし、生活をしている人たちは今回の件をどう考えているのだろうか。
 仮にジャーナリストが取材のために特別扱いをされるべきだとしても、その行動で他の人の安全を脅かしていいことにはなるまい。捕まるのが一回目というなら、まだ許容できるけど、一度誘拐された人間が反省することなく再び取材と称して出て行くのは、やめてもらいたい。現地からの報道の大切さというのはわかっているつもりなので、紛争地帯での取材を禁止しろと言う気はない。国の禁止を振り切っていくのもいいだろう。ただ、誘拐されるなどの失態を犯した場合には、きっぱりと現地取材からは手を引くのが責任の取り方ってもんじゃないのかと考えるのである。

 国全体を巻き込むようなリスクにふさわしい取材ができているのかどうかはまた別の話だけれども、日本の戦地からの報道を知らない人間には評価しようがない。
2018年11月4日20時55分。











タグ:マスコミ
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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