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2018年12月05日

大嘗祭(十一月卅日)



 来年今上陛下が譲位し、皇太子が即位することになるわけだが、新天皇の即位後に行なわれる大嘗祭が政教分離の原則に反していると主張して騒ぐ人たちが、またぞろ出現しているようだ。この問題は、政治と宗教が分離されているかどうかではなく、政教分離の原則をどこまで厳密に適用するかが問題になる。政教分離というものを100パーセント厳密に達成している国など世界のどこにもないのである。
 日本の政教分離にうるさい人たちが考えるのは、恐らくヨーロッパレベルの政教分離であろうが、ヨーロッパの政教分離のレベルは、実はそれほど厳密ではない。政党名に堂々と宗教名キリスト教が入っていて、キリスト教的な価値観を守ることを主張する政党が何の規制もなく活動し、キリスト教会の利権を守るために積極的に動いているのである。日本で神道なんて言葉をつけた政党が存在できるかと考えたら、その緩さも理解できるだろう。

 また、これはチェコの話だが、国家の行事にキリスト教の大司教が登場して演説することもあるし、国葬の会場となるのはプラハ城内のキリスト教の教会で、儀式はプラハの大司教が取り仕切る。そもそも、大統領の官邸たるプラハ城内に、教会が存在、いや建物が存在すること自体は問題ないが、教会組織が管轄管理しているのは政教分離の観点から見ると問題ではないのか。規模が違うとはいえ日本の首相官邸の敷地内に神社があって、そこで国葬が行なわれるようなものである。
 以前読んだ、政教分離にうるさい人の著書では、テレビのニュースで、神道行事や、仏事を取り上げるのにも、また冥福を祈るなどの仏教に起源を持つ言葉が使われるのにもクレームをつけていたが、そんなところまで気をつけてニュースを作成しているテレビ局なんて世界中のどこにもあるまい。チェコだってキリスト教の重要な行事は毎年大々的に報道される。チェコの国家の守護聖人たる聖バーツラフが、キリスト教の聖人となっていて、聖バーツラフの日が国の祝日となっている時点で、政教分離もくそもあったもんじゃない。ビロード革命後のチェコの教会って国費で運営されてきたしさ。

 念のために言っておくが、このヨーロッパ、チェコの状況を批判する気は全くない。こんなことを、いちいち批判するのが野暮というものであって、政教分離の原則で規制されなければならないレベルのものではない。だから政教分離がヨーロッパのレベルでいいのであれば、日本で、大嘗祭だろうが、これもしばしば裁判がおこわれる地鎮祭だろうが、公費を費やして行ってもまったく問題がないという結論が出る。
 以前もどこかに書いたが、日本の政教分離を主張する人たちは、神道的なものだけを政教分離の対象にしていて、キリスト教的なものには無頓着である。だから、キリスト教の行事であるクリスマスのイベントを行政が主催してもだれも裁判を起こさない。もしくはヨーロッパのやっていることは盲目的に正しいと考えているだけだろうか。チェコの政治家なんかヨーロッパ的民主主義はキリスト教的な価値観に基づいているとか発言してしまうのだから、これが正しいのであれば民主主義自体が、厳密に言えば政教分離の原則に反していることになる。それを批判する人はいないし、批判すべきでもなかろう。

 また、大嘗祭に関しては、皇室の中からも、秋篠宮が国費で行なうのはどうかと疑問を呈されたらしい。大嘗祭に宗教性があるというのは確かで、それを否定するつもりはないが、流行の世界規準から言えば十分に許容範囲である。日本基準の政教分離を確立するというなら、それはそれでかまわないけれども、その場合には、キリスト教的なものについても対象にして批判したり裁判を起こしたりしてもらわないと話にならない。
 正直今回の秋篠宮の発言にはがっかりなのだが、これも戦後の民主的であろうと努力してきた皇室のあり方からすると仕方がないのだろう。できれば、皇室の私的行事なのだから国は金も口も出すなという面からの批判を聞きたかったものである。そうすれば、現在のゆがんだところのある皇室の位置づけを議論するきっかけになったと思うのだが……。
 公と私の境目があいまいで、私がないようにも見えながら、同時に秘密主義的でもある皇室のあり方は、決して健全ではあるまい。この機会に、今後も天皇制を続けていくのなら、どのような位置づけを皇室に与えるのかについても議論されるべきであろう。いや、今の日本には建設的な議論自体が期待できないから秋篠宮の発言自体はこれでよかったのかもしれない。
2018年12月1日10時50分。






日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)






posted by olomoučan at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年12月04日

ノハビツァ詐欺(十一月廿九日)



 ノハビツァは、この前、ロシアのプーチン大統領から勲章をもらったことで批判されている、チェコ、スロバキア、ポーランドなどの西スラブ圏を中心に人気を誇るフォーク歌手だが、そのノハビツァが詐欺を働いたというわけではない。詐欺のネタにされたらしいのである。
 オロモウツからモラバ川の支流、ビストジツェ川沿いのサイクリングロードを東に遡って行くと、最初に出会う集落が、ビストロバニという村である。何の変哲もない小さな村で、もうひとつ先のベルカー・ビストジツェには、昔の貴族の城館が残っていてホテルになっているから、それ目当てで出かける人もいるだろうけど、ビストロバニを目的地として出かけるのは、村に親戚や友人知人が住んでいる人ぐらいだろう。

 夕食をとりながチェコテレビのニュースをぼんやり眺めていたら、そんなせいぜい人口1000人ほどの小さな村の名前が突然登場した。何事かと思って注意して見ると、行なわれる予定だったノハビツァのコンサートが行なわれず、警察では詐欺として主催者でチケットの販売をしていた飲み屋の主人を捜索しているということだった。

 画面にはコンサートが行なわれるはずだった会場の前に集まった騙された人々と、その人たちに聞き取りをする警察官の姿が流れた。チケットを購入したのは大半は地元のビストロバニの住民だったらしいが、シレジアのクルノフからやってきたという人もいた。何でも早めのクリスマスプレゼントとしてチケットをもらったのだそうだ。
 そのチケットというのがまたすごいもので、ビロード革命以前にはよく使われていた汎用のもので、ノハビツァのコンサートだということは印刷されておらず、値段も日付も手書きで書かれているというものだった。いや、お金と引き換えにこんなチケットをもらったときに怪しいと思わなかったのだろうか。今週行なわれるはずだったのは、ノハビツァのコンサートだが、来年初頭に予定されたクリシュトフというグループのコンサートのチケットも販売していたらしい。

 いやいや、ノハビツァとか、クリシュトフのコンサートなんてオロモウツでもしょっちゅうあるわけじゃないんだよ。それがどうしてビストロバニなんていう小村で行われると信じられたのだろうか。そもそも、ふさわしい会場はあるのかなんて考えていたのだが、会場は詐欺師が経営する飲み屋の奥にあるイベントホールみたいな部屋だった。かつて飲み屋が文化の中心だった時代の名残で、田舎の飲み屋の中には、普段は使わない多目的ホールとも呼べる大きな部屋があるところがある。この飲み屋もその類の飲み屋で、これまでも演劇やコンサートなどが開催されていたようである。

 今回詐欺を働いた人物は、二年前から飲み屋の経営に当たっていて、これまで数回、何の問題もなく文化行事を実行してきたらしい。だから信じてしまったというのだけど、この人物が実現したのは自身が主催するバンドのコンサートや、地元の劇団の公演のようで、いってみればローカルな地元の人による地元の人のためのイベントだったようだ。それができたからって、いきなりノハビツァやクリシュトフなんて大物を呼び寄せられるなんて信じてしまう人が、いるんだろうなあ。
 実は、その信頼できそうな人物が、ふたを開けてみたら詐欺師で、ただ単に今回ビストロバニで詐欺を働いたというだけでなく、警察の発表では、過去の詐欺などの疑いで指名手配されている人物だったというのだ。それも国外逃亡が予想されたからか、ヨーロッパ全域を対象にした逮捕状が出された人物なのだそうだ。逃亡生活の果てにオロモウツの近くの村を潜伏先に選んだのか、何らかの地縁があったのかはわからないが、警察の想定できない場所だったのだろう。

 とまれ、二年の潜伏を経て再び詐欺に手を染めた人物は、すでに行方をくらまし連絡がつかなくなっているという。ニュースでは、今回の事件で手に入れられた額が、発覚して警察に捕まる可能性があることを考えると割に合わないから、急にお金の必要な事情でも発生したのではないかという推測も語られていたが、この詐欺をやらかすのにも結構準備に時間と手間をかけているようにも見える。そうすると、生来の詐欺の虫が動き始めたというのが正しいかもしれない。
 信じやすい田舎の人たちをカモにする詐欺師は、できるだけ早く捕まってほしいものである。
2018年11月30日9時15分。







posted by olomoučan at 06:38| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2018年12月03日

abeceda〈私的チェコ語事典〉(十一月廿八日)



 せっかく新シリーズ、もしくは新しいカテゴリーを立てたのだから、忘れないようにしばらく重点的に書くことにする。問題は「a」の次に何を選ぶか、どういう基準で言葉を選んでいくかである。ぱっと辞書『現代チェコ語日本語辞典』(大学書林)のページを開いてみても、自分自身で一度も使ったこともないような言葉も結構ある。そうなると書けることは何もないと言っていい。でも、せっかくなので、できるだけたくさんの言葉について、一つ一つにつけるコメントは短くなったとしても触れておきたい。
 ということで、座右(というほどは使っていないが)の『現代チェコ語日本語辞典』の「a」から順番に目についた言葉を取り上げていくことにする。場合によっては関連する言葉も一緒に扱うことにしよう。其ほうが分量が稼げるし、多くの言葉に触れることもできる。

 ローマ字のことを、カタカナでアルファベットという。これがギリシャ文字の最初の二文字アルファ(α)、ベータ(β)の組み合わせからできているというのはいいだろう。じゃあチェコ語でアルファベットを何というかというと、最初の二文字ではなく、四文字を使って「アベツェダ」となるのである。
 チェコでのそれぞれの文字の読み方を示すと、「A=アー」「B=ベー」「C=ツェー」「D=デー」である。すべて短くしてつなげて格変化しやすいように、最後の「de」だけ「da」に変えたということだろうか。この言葉を知るまでは、日本語でもアルファベットと外来語を使っているから、チェコ語っぽくして「アルファべトカ(alfabetka)」になるんじゃないかと考えたこともある。また、チェコ語では文字そのものを指すときには、「アーチコ(áčko)」「ベーチコ(béčko)」というので、この二つを組み合わせて、「アーベーチコ(ábéčko)」と言ったりはしないかなんてことも考えた。どちらも大間違いで師匠には大笑いされることになったけどさ。

 語学の勉強にはこのような、考えても仕方がない、四の五の言わずに覚えるしかないことは多い。この手の言葉、表現は知っていれば使えるけど、知らなきゃどうしようもない。昔英語を勉強していた頃は、それが納得できずに、あれこれ考えすぎて嫌気が差して、できるようにならなかったのだけど、チェコ語はもう考えてどうこうしようというのは最初から諦めて、とにかく知識を詰め込んだ。そして、ある程度詰め込んでから、改めて考えるようにした。それが功を奏して英語とは比べられないところまでチェコ語ができるようになったのだから、正しかったのだと思う。

 ところで、「a」ではじまる言葉の中には、もう一つアルファベットと同じようなものをあらわす言葉がある。それは「a」の最後のほうにある「azbuka」という単語で、ロシア語などの東スラブの言葉で使用されているキリル文字のアルファベットを指す言葉である。これも「a」で始まるから、文字を二つ三つ組み合わせてできた言葉じゃないかと思っうのだけど、正しいかどうかはわからない。
 キリル文字のキリルは、モラビアにキリスト教を伝えた兄弟ツィリルとメトデイのうち、文字を作ったとされるツィリルの名前からきている。実はツィリルが作った文字は、現在のキリル文字ではなく、昔バルカン半島で使われていたグラゴール文字だという話は黒田龍之助師の『羊皮紙に眠る文字たち』で知った。じゃあ、キリル文字を作ったのはツィリル(キリルのチェコ語形)ではなく誰なんだとか、グラゴールはなんでグラゴールなんだという疑問にまで答えが出されていたかはちょっと覚えていない。再読して確認してみよう。

 キリル文字はソビエトの全盛期には、スラブとは何の関係もないモンゴルなんかでも使われて、ローマ字(ラテン文字)と世界を二分したようだが(人口から行くと漢字も入れて三分といってもいいかも)、ソ連崩壊後は、人工的にキリル文字を導入した地域では、その地域でもともと使われていた文字や、ローマ字への回帰が進んでいるようである。言葉というのは、特に近代以降の言葉というものは、文字も含めて極めて政治的な存在なのである。
2018年11月29日21時45分。







2018年12月02日

a其参〈私的チェコ語事典〉(十一月廿七日)



 最初から、無駄に長くなっているのだけど、他の言葉に関してはこんなに書くことがあるとも思えないから、分量は稼げるところで稼ぐ。ということで「a」についてはもう少し続く。

 次は動詞を並列する場合だけれども、単に動詞だけを並べる場合だけでなく、他の文節もくっつけてほとんど文をつなぐような形になる場合もある。動詞だけを並べるときには、もちろん並列する動詞は同じ形、不定形(原形)、過去形などに統一されている。チャールカ「,」と「a」の使い分けは名詞と同じなので、例の有名なカエサルの言葉「来た、見た、勝った」も「přišel, viděl a zvítězil」になると思うのだが、これをもじったリトベルのビール会社の広告は「přišel, viděl, Litovel」で「a」は使われていなかったような気もする。
 動詞だけを並べる場合には、その前に助動詞「moct」「muset」なんかがあっても、「a」でつなぐだけで問題ないのだが、あれこれ付いた場合に、助動詞を繰りかえすべきなのかで悩むことが多い。例えば、「Musím jíst a pít(食べて飲まなければならない)」なら、特に悩むことなく繰り返さないが、「Dnes musím dojíst několik starých japonských jídel a vypít několik lahví nedobrého japonského piva(今日、いくつかの古い日本の食べ物を食べて、何本かのまずい日本のビールを飲んでしまわないといけない) 」なんてことになると、「pít」の前にも「musím」を追加した方がいいような気がしてくる。

 この点で一番悩むのが、過去形を使ったときの人称を示すための「být」の変化形である。「V hospodě jsme hodně pili a jedli(飲み屋で大いに飲んで食った)」ぐらいなら、繰り返さないけど、「Jel jsem do Prahy vlakem a tam jsem se setkal s kamarády(電車でプラハに行って友人と会った)」なんて文は、ついつい「být」の変化形を繰り返してしまう。なくてもいいのか、あったほうがいいのか、誰に聞いても明確な答えは返ってこない。
 だから、仕方なく個人的なルールを作って、「飲んで食った」のように同時に二つの動作をしてもおかしくないときには繰り返さず、「プラハに行って友人に会った」のように前後関係がはっきりしている場合には繰り返すようにしている。繰り返しておくが、このやり方が正しいという保証はないし、よくわからない理由で修正されてしまうこともままある。この辺はチェコ人は感覚で判断してやがって、自覚的に使ってないから、うまく言葉で説明できんって人が多いんだよなあ。日本人も日本語について同じような感覚で使っているのだろうし仕方がない。

 ここに書いた文章を読んでもらえば、読まなくてもちょっと見ればわかると思うが、日本語で文章を書くときにはついつい個々の文が長くなってしまう。その癖はチェコ語でも消せず、「a」を使った二つの文の単純接続や、関係代名詞や関係副詞を使った連体修飾節などを組み合わせて長い文を書いてしまう。日本語でなら、長大な文になっても、語順を入れ替えたり、接続の仕方を変えたりして、わかりやすい文に修正することはできる。チェコ語だと……、書いた直後であっても、読み直して自分が何を書きたかったのかわからないなんて事態も発生してしまうのである。「a」で文を単純につなげるのはしないほうがいいのかもしれない。別々の二文になっていても、意味はあまり変わらないのだしさ。

 それで思い出したのだが、以前、師匠に教わっていたころ、森雅裕の小説の冒頭をチェコ語に訳して、そこに現れる間違いをネタにして勉強するという方法をとっていたことがある。日本語の接続詞の「そして」「それで」なんかをあまり考えずに「a」と訳していたら、「文を「a」で始めるのはよくない」と指摘された記憶がある。「a」を使うのなら前の文とつなげてしまえということだったのかな。以来、文頭に「a」は使わないようにしているのだが、最近なぜかしばしば「a」で始まる文を見かけるのである。いいのかねこれと思いつつ、意味は分かるから特に文句を言ったりはしないのだけど、自分では師匠の言葉を守って、大文字の「A」ではなく、小文字の「a」にして前につなげるようにしている。

 ここまでつらつらと「a」を使う状況ごとに、問題になることを書いてきたのだが、自分が使うとき、特に書くときに一番困るのは、これらが組み合わされているときである。「a」がありすぎて気持ち悪いというか、変な感じがしてしまう。例えば、変な文だけど「Včera jsme si koupili já a Pavel v obchodě české a japonské pivo a slovenské a maďarské vino a rozdali jsme je kamarádům Petrovi a Karlovi(昨日私とパベルはお店でチェコのビールと日本のビールとスロバキアのワインとハンガリーのワインを買って友達のペトルとカレルにあげた)」とか。日本語も「と」が連発していてちょっと落ち着かないけど、チェコ語ではさらに変な感じがしてしまう。

 読んで意味を取るだけなら簡単だけど、実は、正しく使おうと思うと「a」ってのは奥の深い言葉なのだよ。もう一つ悩んでいるのは、「a」を使って二つの関係代名詞を使った連体修飾節を、一つの名詞につなげられるかなのだけど、そこまで行くと、何が問題なのかをわかりやすく説明できるとは思えないので、この件はこれでお仕舞ということにする。
2018年11月28日20時55分。





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2018年12月01日

a其弐〈私的チェコ語辞典〉(十一月廿六日)



承前
 形容詞を並列する場合にも問題がある。文末に述語として形容詞が二つ以上並列されている場合はあまり問題はない。例えば「Ta nemocnice je nová a velká」なんて文は、「あの病院は新しくて大きい」と連用接続の「て」を使って訳しておけばいいだけである。ここでも並列できるのは、日本語で並列できるものだけだというのは適用できる。つまり「あの病院は大きくて小さい」などという対義の形容詞は普通は並列しないものである。これはチェコ語も変わらない。
 問題は二つ以上の形容詞が名詞の前にくる場合で、例えば「nová a velká nemocnice」は「新しくて大きい病院」と訳すか、「新しい大きい病院」と訳すか昔は悩んだものである。今は悩まず、文脈からどちらがいいか考えてその場でさっと決めることが多い。チェコ語でも「nová velká nemocnice」ということもできるらしいので、人によっては、「nová a velká nemocnice」は連用接続で「新しくて大きい病院」と訳して、「nová velká nemocnice」はどちらも連体修飾と見て「新しい大きい病院」と訳すなんて人もいる。だけどそんなふうに簡単に割り切れるものでもないだろう。

 上で日本語では「大きい」と「小さい」は普通は並列しないと書いたが、チェコ語だと名詞の前に並べるときに限って並列できることがある。ただしその場合は、形容詞の並列というよりは後ろに来る名詞も含めた名詞節の並列といったほうがいいかもしれない。例えば「malé a velké nemocnice」(念のために複数にしておく)は、「大きくて小さい病院」ではなく、「大きい病院と小さい病院」と訳すべきもので、最初の形容詞の後に来る名詞を省略した形だと考えたほうがいい。
 それで問題になるのが、次の例。「bílé a černé ponožky」は、白と黒の二色が使われた靴下を指すのか、白の靴下と黒の靴下を指すのか、よくわからない。使われた場合にはしかたがないので、確認の質問をするが、自分では、できるだけこのわかりにくい形は使わないで、一つの靴下に白と黒が使われている場合には、「černobílé ponožky」と二つの形容詞を一語化した形を使い、白と黒と二種類の靴下の場合には、「bílé ponožky a černé ponožky」と靴下を繰り返すようにしている。日本語でも「白と黒の靴下」と言われたら微妙だから、似ていると言えば似ているのかな。

 副詞を二つ並べる場合には、前の副詞が後の副詞に係る場合もあって、そのときには「a」は使わない。とてもという意味の「moc」「strašně」「velice」なんかはしばしばもう一つの副詞を強調するのに使われる。日本語に訳すと、二つ目の副詞を形容詞で訳すこともあるけどさ。サマースクールの先生が連発していた「moc pěkně」なんてのは、前後に来る言葉次第だけど、「とても美しい」と訳すことも多い気がする。
 チェコ語で「a」を入れるのは、二つとも同じ用言、たいていは動詞にかかる場合なのだけど、日本語だと特に何も入れなくてもいいはずである。「mluvte pomalu a jasně」なんてお願いは、日本語にすると、「ゆっくりはっきり話してください」ということになる。強調しようと思えば、「そして」を入れてもいいか。あれ、チェコ語でも「a」を省略できるかもしれない。

 この辺の言葉の使い方は、系統立てて勉強していないので、どういう使い方をするのが一番いいのか、いまいちよくわからないのである。質問してもどっちでもいいよなんて答えが返ってくることもあるし、あれこれ試行錯誤しながら、自分なりの使い方を見つけていくしかないのである。
 中途半端だけど、ここでまた明日。
2018年11月27日24時。





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2018年11月30日

a其壱〈私的チェコ語辞典〉(十一月廿五日)



 気が付けば、いつの間にか記事総数も1000を越え、自分でも何をすでに書いて、何をまだ書いていないのか、どのレベルまで書いたのかという辺りの記憶が、あいまいになってしまっている。その結果、何について書くか悩んで時間を費やすことも増えているので、確実に今まで書いていないシリーズ(大げさ)を構想することにした。書こうとして考えていることはいくつもあるのだけど考えがまとまるのに時間がかかって書けないでいる。書きやすい(とは限らないけど)ことを書いているうちに、まとまるかもしれないとも期待している。
 ということで、チェコ語のそれぞれの言葉について、『悪魔の辞典』ような箴言的な解説を加えてみようと思ったのだけど、その路線で行くと、多分実用には役に立たなくなるから、それよりはもう少し現実的で、普通の辞書とは違うひねくれた文章を書いてみることにする。思いつきで始めたから、どの言葉を対象にするかや、どのぐらい長く書くかなんてことは、書きながら決めていくことになる。言いかれば、いつも通りの行き当たりばったりということである。

 新しいシリーズの最初の記事は、枕の部分で分量が稼げてありがたいなんてことを考えつつも、最初の言葉を何にするかである。あれこれ考えたが、無難にチェコ語の辞書の一番最初に出てくる言葉で、チェコ語の単語別の使用頻度で恐らく一番になるだろう「a」から始める。こんなところで奇を衒っても仕方がないしね。

 一般には接続詞といわれるこの言葉、あらゆる品詞を並列でつなぐのに使える。名詞と名詞、形容詞と形容詞、動詞と動詞、副詞と副詞などの間だけでなく、文と文の間にも使う。翻訳する際に一番よく使われるのは、日本語で名詞と名詞の間に使う助詞の「と」であろう。
 日本語がある程度できるチェコ人と話していて、一つの文が終わったところで「と」、もしくは「とー」を連発するのを聞いたことがある人もいるのではないだろうか。これは日本語の「ええと」の「ええ」が落ちたものでも、昔の武田鉄矢が昔やっていた方言ギャグでもなく、本来名詞と名詞の間にしか使えない日本語の「と」を文と文の間にも使えるチェコ語の「a」と同じような使い方をした結果発生した間違いである。

 チェコ語で名詞と名詞の間にこの「a」を使う場合に気をつけなければならないことは、三つ以上のものを並列する際には、「a」を使うのは最後の名詞の前だけだということである。このルールは名詞だけでなく他の品詞が三つ以上並ぶときにも適用されるけれども、三つ以上並べる可能性が一番高いのは名詞なので名詞を使うときの説明に入れておく。
 日本語であれば、「日本と中国と韓国と北朝鮮」のようにすべての名詞の間に入れてもいいし、「日本と中国、韓国、北朝鮮」とか「日本、中国、韓国と北朝鮮」、「日本、中国、韓国、北朝鮮」などそれぞれ微妙にニュアンスが変わらなくもないけれども、様々なパターンで使用することができる。それに対して、「正字法」なんていう正しいとされる書き方が決められているチェコ語では、「Japonsko, Čína, Jižní Korea a Severní Korea」と最後だけ「a」を使ってそれ以外は「,」で済ませなければならないのである。

 日本語的に「a」を連発して師匠にあきれられたこともあるのだけど、それは「,」が頻出すると、長い文の場合に文の構造が、自分で書いたものであってもわかりにくくなるので、それを避けたいという気持ちが無意識に働いた結果である。もちろんこれは言い訳で、この間違いを頻発していた頃のチェコ語力では言うことができなかった。もう一つ、間違えていた原因を探すとすれば、最初から並べるものをすべて決めておらず、一つ一つ思いついたものを追加していったために、口に出す時点では最後の名詞だから「a」をつけたけど、次を思いついて追加したために「a」が不要になったなんて間違いも多かったかな。

 もう一つ注意点を挙げておくとすれば、日本語でも助詞の「と」で並列できないような二つ、場合によっては二つ以上の名詞は、チェコでも「a」で並列することはできないということである。並列できるできないは、文脈やら、その文で使われている動詞、形容詞なんかによって変わるから、一概にこれとこれは絶対に並べられないとは言えないけど、日本語でなら、これとこれ並べちゃ駄目だよなあなんてことはわかるはずだ。そんなのはチェコ語でも並べちゃいけない。「私は日本とミカンが嫌いだ」なんていう文を見ると、使える状況が想定しづらいのは、チェコ語でも同じなのである。

 あれ、何でこんなに長くなったんだろう。せっかく分量が稼げたので二つに分けることにする。ということで以下次号。
2018年11月26日23時。




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2018年11月29日

森雅裕『鉄の花を挿す者』(十一月廿四日)



 1995年に久しぶりの講談社から出版された本書は、講談社での前作『流星刀の女たち』に続く刀剣小説、というよりは刀匠小説である。でも人が死んで、その謎を追う主人公も殺されかけるから推理小説として理解したほうがいいのか。森雅裕の作品は、推理小説ではあっても推理以外の部分に魅力を感じるべきものだから、刀鍛冶の世界を描いた小説として理解しても問題あるまい。『流星刀の女たち』でも人は死ななかったけど、推理的な要素は遭ったわけだから。
 この作品は主人公が男性であるぶんだけ、森雅裕中毒者にとっては、『流星刀の女たち』よりとっつきやすいのだが、こちらもテーマがマニアックに流れすぎていて、読者を選びそうな作品である。刀の刃文の焼き方なんてどれだけの読者が理解して読めたのだろうか。自分のことを思い返しても、目次の前に刀の刃文を説明するための挿絵があるのだけど、実際に刀を見てこういう刃文を読み取れるとは思えなかったし、作品中文章で説明されても、刀自体を刃文が読み取れるほど見たことがないこともあって、どんなものなのかいまいち想像がつかなかった。

 同じ刀鍛冶を描いた作品でも『流星刀の女たち』の主人公は、刀剣の世界の外側にいる存在だったが、こちらの主人公は、完全に受け入れられてはいないとはいえ刀鍛冶の世界の中にいる。その刀鍛冶の世界のよしなしごとが事件の原因となり、主人公が巻き込まれていくことになる。主人公の性格は、いつもの森雅裕の男主人公でちょっと世を拗ねているのだけど、いつもより世捨て人的傾向が強いのは、刀剣の世界の闇とかかわるせいだろうか。
 刀鍛冶の師匠の死を、人づてに聞くところから、師匠が死の直前まで取り組んでいたプロジェクトに関して発生した事件に巻き込まれていくのだけど、プロジェクトの謎と弟弟子の死の謎が絡み合っていく展開も、悪役が、悪役臭が強すぎるのはあれだけど、話のつくりとしては悪くない。悪くないし面白いことも面白いのだけど、森雅裕の作品だと考えると、読後に圧倒的な不満が残る。

 それは、ヒロイン役の女性の存在感のなさである。おしとやかで、多分美人で、性格的なしんの強さもないわけではなく、ヒロインとしての魅力がないわけではないと思う。ただ、森雅裕の小説の女性主人公としてみると、どうにもこうにも存在感が足りない。三人称小説とはいえ、ほぼ主人公の視点から語られるから、出番が少ないというのはある。でも森雅裕の生んだ最高の女性キャラクターである鮎村尋深なら、一瞬の出番であってもはるかに強い印象を残したことだろう。
 こちらのヒロインの方が一般受けはいいのかもしれないが、森雅裕ファンには物足りない。主人公がいて、ヒロインがいて、その婚約者がいるというパターンは、『蝶々夫人に赤い靴』の鮎村尋深の場合と同じだけど……。森雅裕の小説のヒロインにしては、主人公を受け止めきれていないので、主人公の煮え切らなさもまた気になってしまう。この作品の主人公の刀鍛冶と、オペラシリーズの音彦とで大きな違いはないのだけど、受ける印象が大きく違うのは、相手役の存在感によるのである。

 正直、この作品を読んだときに、森雅裕の女性観が変わったのかなんて馬鹿なことを考え、周囲の森雅裕読者と話したりもした。女性観だけでなく作風も変わるのかなと思っていたら、版元を集英社に移して、時代小説というか歴史小説と言うか、日本を舞台にして歴史上の出来事、人物をテーマににした作品を刊行し始めたのだった。
 『さよならは2Bの鉛筆』について中島渉が書いたように、この作品で森雅裕は変わったなんてことを言いきることはできないのだけど、これまで、好きなように書いてきたのを、この辺から『モーツアルトは子守唄を歌わない』『椿姫を見ませんか』以来の古いファン以外の読者を獲得することを意識し始めたのではないかと邪推する。その結果、古いファンとしては何とも評価しにくい作品が登場したのだから皮肉である。

 森雅裕の作品の場合、森雅裕の作品だから読んだし、面白いと思ったし、高く評価してきた。ただ、この作品『鉄の花を挿す者』に限っては、森雅裕の作品というレッテルを外したほうが高く評価できるのかもしれない。森雅裕なんだけど、いつもの森雅裕じゃないというジレンマは、この作品以後しばしば発生したと記憶している。森雅裕が読めて幸せなんだけど、その幸せ度が十分ではないというかなんというか、森雅裕に関しては登場人物だけでなくファンもひねくれているから、満足させるのは大変なのである。
2018年11月25日23時50分。



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posted by olomoučan at 07:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕

2018年11月28日

内閣不信任案否決(十一月廿三日)



 かねてよりの予定通り、この日下院においてバビシュ内閣に対する不信任案の審議と議決が行われ、当初の予想通り否決され、野党勢力による倒閣の試みは失敗に終わった。驚くべきは最初からわかりきっていた結果を出すために延々7時間以上も、各党の党首たちをはじめとする議員たちが交代交代演説をしていたということである。そんな無駄なことをする時間があるのなら、もっと大切な審議すべきことがあるだろうという気持ちを禁じえない。
 民主主義というものにおいて、議会での審議が大切なものであることはわかっているから、真偽そのものを無駄だと切り捨てる気はない。無駄なのは事前の交渉で結果が予想できていて、審議をしてもそれがひっくり返る見込みのない議案に関して、延々と同じ話を何度も、手を替え品を替え人を替えながら繰り返すことである。どうせ相手の言うことはろくに聞かずに自分の言いたいことだけ言っておしまいなのだから。

 問題は、そんな言いたいことを言い合うだけで、説得にも妥協にもつながらないものを、議論とか審議という言葉で呼んでいいのだろうかということである。考えてみれば、日本もそうだが近年は、議論にならない議論、相手の話を聞く気のない議論が氾濫している。小学校だったか中学校だったかで、水掛け論ではなく建設的な話し合いをするようになって指導を受けた木がするのだが、政治家たちの話し合いの能力はそれを下回るのである。
 最近、民主主義の危機なんて言葉がしばしば使われるが、民主主義が危機にあるとすれば、それはトランプ大統領が誕生したり、オカムラ氏が大臣になったり、バビシュ氏が首相になったりするところにあるのではない。それは自分の主張が通らなかったことを、支持する政治家が落選したことを、民主主義の危機などという言葉で批判する連中が民主主義を標榜しているところにある。この現象も、本をただせば自分の意見を主張するだけで、相手の話を聞かない態度に終始する議論もどきに端を発する。

 それはともかく、バビシュ内閣は、共産党が反対票を投じ、社会民主党が採決に参加しなかったおかげで、不信任案を可決されず、現在の形で継続することが決まった。市民民主党の党首は、不信任案に反対の票が半数を超えなかったことを理由に、これは内閣が信任されなかったということだと主張しているけれども、賛成も反対も90ちょっとでほぼ同数だったのだから、詭弁としか言いようがない。自分たちの戦略のなさを棚に上げて詭弁を弄しても支持層の拡大にはつながらないと思うけどねえ。
 この日発表された11月の政党別支持率調査の結果では、相変わらずANOが30パーセント近くの支持率でトップだった。回答者の多くは息子誘拐疑惑が勃発する前に回答した結果らしいから、今調査したらまた違った結果が出るかもしれないが、ANOがチェコの有権者の間で一定の支持層を形成しつつあることを物語っているのだろう。バビシュ氏と同族嫌悪のののしりあいをしているカロウセク氏が党首の座を退いたTOP09は、支持率3パーセントで現時点で総選挙が行なわれていたら、当選者を出せていないという結果が出ている。この傾向もまた、社会民主党を除いては、解散総選挙を主張しなかった原因になっているのだろう。

 チェコの歴史では以前もスキャンダルに見舞われた首相は何人かいる。30台半ばという、史上最年少で首相になったグロス氏の場合には、プラハの一等地に購入したマンションの資金の出所があいまいだというのが問題にされた。おじさんにもらったとか苦しい答弁をしながら頑張っていたと思ったら、突然辞任してしまった。現時点で最後の市民民主党出身の首相ネチャス氏も当時愛人、今奥さんが個人的な理由で軍の情報を部を動かしたという疑惑に巻き込まれて、頑張れそうな形勢だったのに、あっさり辞任してしまった。
 どちらも、辞任することでスキャンダルの責任を取ったといえば、聞こえはいいのだが、むしろ無責任に政権を投げ出したような印象を残した。特にネチャス氏の場合には投げ出しぶりが、次の選挙での市民民主党の惨敗につながったといえる。それに対して、現在のバビシュ氏の一年以上も続く足掻きぶりは、みっともないとも、権力にしがみついているとも言えるレベルの物なのだが、逆にそのしぶとさに感心してしまいそうにもなる。恐らくANOの支持者にはそのしぶとさが頼もしく写っているのだろうし、既存の政党からの攻撃に耐えているようにも見えるのだろう。

 そう考えると、既存の政党を指導する政界の日の当たるところで、たいした苦労もせずに活動してきたエリート達には、バビシュ氏に太刀打ちするのは荷が重そうである。グロス氏もネチャス氏もそんな感じだったし、バビシュ氏のANOの勢力拡大にあせって自爆したソボトカ氏も、今の社会民主党の党首のハマーチェク氏にも、市民民主党のフィアラ氏にもそんなひ弱さを感じてしまう。
 今のチェコの現役の政治家で、バビシュ氏のしぶとさ、したたかさに対抗できそうなのは、ゼマン大統領ぐらいしかいない。この二人が盟友的な関係にあり、既存政党に期待できそうもない以上、海賊党の成長に期待するしかないのかなあ。ということで、いつになるかはわからないけれども、バビシュ首相の次の首相は海賊党の党首だと予想しておく。
2018年11月24日22時。


 







2018年11月27日

バビシュ首相が嫌いな人へ(十一月廿二日)



 正確に言うと、嫌いな人というより、支持しない人へというのがいいかもしれない。サマースクールの先生が、授業の教材としてムラダー・フロンタ紙を持ってきたのだが、新聞を買うのは久しぶりだと言っていた。それは、ムラダー・フロンタ紙とリドベー・ノビニ紙を所有する会社のMAFRAがアグロフェルトに買収されて、いわばバビシュ新聞となったときに買うのをやめたからだという。
 そうなのである。反バビシュの人たちはバビシュ氏の会社であるアグロフェルト社傘下の会社の商品をボイコットすればいいのである。会社の業績に悪影響が出るようになれば、バビシュ氏も政界から身を引くかもしれない。サマースクールの先生のように実際に不買運動をしている人たちは、そこまで考えてはおらず、ただ自分の払ったお金が回りまわってバビシュ氏の政治資金になりかねないというのに耐えられないだけという可能性もあるけど。

 とまれ先ず避けるべきは、チェコ二大新聞を所有する出版社のMAFRAの出版物である。ムラダー・フロンタ、リドベー・ノビニの二紙はもちろんだが、無料で配布されている日刊紙メトロもチェコ版を発行しているのはMAFRAであるから、反バビシュの人たち受け取らないほうがいい。他にも週刊誌の「テーマ」や「5プラス2」なんかがこの会社の刊行物である。この会社は出版社なので、新聞社の出版部門のような名称で普通の本の刊行もしている。「mf」という記号の付いた本は買ってはいけないのである。アグロフェルトがMAFRAを買収したのは、2013年というから、VV党崩壊の後である。ということはこの前書いたバビシュ氏の指示でってのは間違いだったかなあ。

 またテレビやラジオにも手を出していて、テレビでは音楽専門局のオーチコを所有している。オーチコは全部で三つのチャンネルを運営しているのかな。たまにゲストを呼んでのトーク番組みたいなものもあるけど、他はどのチャンネルでも延々とビデオクリップを流しているから、よほどの音楽好き以外は見ないと思うんだけど。ラジオで視聴してはいけないのはこれも音楽番組が多いラジオ・インプルスである。

 MAFRAはネット上でムラダー・フロンタリドベー・ノビニのサイトも運営していて、紙の新聞より多くの情報を提供している。アグロフェルト本体では、セズナムに次ぐチェコのポータルサイトのツェントルムとニュースサイトのアクトゥアールニェも所有しているから、ツェントルムの無料メールを利用している人は、別のサービスに乗り換えよう。バビシュメールなんて使えないよな。

 オロモウツから電車でプシェロフに向かい、プシェロフの駅に近づくと進行横行右手に何本かの背の高い煙突が見えてくる。この煙突には確か「PRECHEZA」と書かれているのだが、チェコでも有数の化学工場である。この会社を含め、いくつかの化学工業の会社もアグロフェルトの傘下に入っているらしい。この手の企業の製品は、直接一般市場には出てこず、材料として企業間で取引されているだけだから、一般人には購買も、不買もできそうにない。でも、反バビシュの旗を振っている人たちの中には、この手の企業と取引のある会社で仕事をしている人たちもいるはずだから、取引停止とかできないのかね。

 アグロフェルトは、本来は農業関係の企業らしいが、農産物をいちいちどこの農場で生産されたものか確認してから、買う、買わないを決めるのは大変である。ということで農業の隣の業種である食品加工業に注目しよう。
 残念ながらオロモウツにもあるのである。オロモウツの牛乳などの乳製品を生産するオルマという会社がアグロフェルトの傘下に入っている。以前経営の状態が芳しくないと聞いたことがあるので、それをアグロフェルトが買収したということなのかなあ。うちは以前から南ボヘミアに本拠地を置くマデタの製品を優先しているから、オルマは牛乳もチーズも買ったことがないので、以前と比べて製品の質がどうなのかは知らない。

 もう一つは、食肉加工業の、というかソーセージやサラミなどを生産しているコステレツケー・ウゼニニ社である。以前、腎臓結石の治療のために毎日自宅でピルスナーウルクエルを飲んでいたころは、つまみとしてここの会社のサラミやらハムやらを買っていたのだけど、最近はとんと買ったことがない。アグロフェルトに買収されてからは、効率と利益が最優先になってしまって製品の質、味が落ちて昔の味を知っている人には食べられたものではないという話も聞くから、食べなくていいや。特徴的なロゴのついたトラックが走り回っているのを、以前にもましてよく見かけるから、売り上げは落ちていないのだと思う。ということで酒のつまみも別の会社のものにしよう。

 それから鶏肉にもバビシュ印の鶏肉があるから、それも避けたほうがいい。ボドニャニという地名を冠したブロイラーっぽい鶏肉の会社もアグロフェルト傘下である。ここも以前に比べると……なんて話を聞くから、以前の顧客が離れて新しい安いものを求める消費者が支えているのかもしれない。その消費者が離れれば、バビシュ首相にダメージあるかもよ。

 製粉と製パン業のペナムも忘れてはいけない。小麦粉もパンもこの会社のものは、結構あちこちで見かけるから、気を付けていなかったら買ってしまうかもしれない。パンは、昔買って食べたことがあるかもしれないけど、パンなんてどこの会社のものか気を付けて買うことはないから、何ともいない。最近は買うときは自分の店で焼いているパン屋で買うのでペナムのパンは食べていないと思う。そのパン屋がペナムの小麦粉を使っていないという保証はないけれども。

 探せば他にもバビシュ印のついた企業はたくさんあるはずである。反バビシュを叫ぶ人たちには、みんなで集まって大騒ぎして地域の人々に迷惑をかけるだけの無意味なデモだけでなく、もうすこし実効性の期待できる反バビシュ運動を展開してほしいものである。ゼマン大統領やら、バビシュ首相やら海千山千の面の皮の厚い政治家、実業家には、デモなんて蛙の面にしょんべん程度の効果しかないのは目に見えているのだからさ。
2018年11月23日17時15分。


 うちのの話では、フェイスブックにバビシュ印の商品は買わないぞというグループが存在して活動しているらしい。






2018年11月26日

バビシュ政権の行方(十一月廿一日)



 先週のバビシュ首相の息子の爆弾発言、つまり父親たるバビシュ首相の手によって誘拐されクリミア半島に軟禁されていたというセズナムが公開したインタビューを受けて、野党がバビシュ批判を強め、上院では首相は退陣するべきだという、法的な拘束性のない決議がだされ(以前下院でバビシュ氏は嘘をついたという決議が出されたのと同じようなレベルのものであろう)、金曜日に内閣不信任案の採決が行われることになった。
 この内閣不信任案の提出にかかわっているのは、バビシュ氏の退陣を求めている市民民主党、海賊党、キリスト教民主同盟、TOP09党、市長無所属連合の5党と、バビシュ氏が社会民主党との連立を解消して自党と連立を組むことを求めているオカムラ党である。呉越同舟というには、オカムラ党の議員の数が少ないが、6党合わせての議席数は92で、課員の議席総数は200だから過半数に届いていない。

 ということで、残る2党の動向が注目を集めいていたのだが、共産党は早々に内閣不信任案には賛成しないという姿勢を打ち出していた。つまりは採決に際して反対票を投じるということである。これで追い詰められたのが、ただでさえ出口のない袋小路に入り込んでしまった感のある社会民主党で、ぎりぎりまで党内で議論が続いていた。連立内閣に残るべきだという勢力もあれば、連立を解消するべきだという勢力もあって指導部は対応に苦慮していた。

 そして、不信任案の審議を二日後に控えた今日、水曜日に党首のハマーチェク内務大臣が記者会見を行い、社会民主党の議員は内閣不信任案の採決に参加しないという方針を発表した。審議が終わって採決が始まる前に議場を退出するというのである。この今の社会民主党の迷走を象徴しているとも言える中途半端な決定は各方面から批判されていた。連立与党の一党として政権の一翼を担っているのだから、原則として不信任案には反対するべきだし、不信任案に賛成するのなら、その前に連立を解消して大臣は辞表を提出するべきであろう。このどちらも選べないのが今の社会民主党である。
 ハマーチェク氏は、連立を解消しない理由としては、社会民主党が政権を離脱した場合には、ANOと共産党、オカムラ党の連立政権が成立する可能性が高いことを挙げていた。現在のバビシュ政権が、不信任案の可決で倒れたとしても、ゼマン大統領が再びバビシュ氏を首相に指名することは確実なのだから、今の政権が倒れるとことで、最悪の事態がもたらされる可能性があるというのだ。それは確かにその通りではあるのだけど、ANOやオカムラ党のこれ以上の台頭を防ぐためには、一度この最悪内閣を成立させたほうがいいかもしれないという気もする。できれば避けてほしいけど。
 そして、もう一つ付け加えたのは、現時点で最善の解は、下院を解散して総選挙を行うべきだということだった。これには100パーセント賛成できる。理解できないのは、なぜ解散総選挙を実現する方向に積極的に動かないのかということである。恐らくは現時点で選挙が行なわれれば、社会民主党が議席を獲得できるかすら怪しいところまで有権者の支持を失っているからであろう。

 ここで問題になるのは、不信任案、下院の解散が可決されるために必要な条件である。不信任案のほうは過半数の賛成で可決される。ただし出席議員、採決に参加した議員の過半数ではなく、議員総数の過半数、つまり101票の賛成があって始めて可決されるのである。だから社会民主党が採決に参加しないということは、野党側は可決させるために、ANOか共産党の議員の中から造反者を探さなければならないということである。宗教的なところのある共産党はもちろん、既存の政党のやり口にうんざりした人たちが集まっていると思われるANOからも造反者は出そうもない。

 また議員による議決で下院を解散するためには、議員総数の60パーセント、つまり120票の賛成票が必要らしい。ANOが78議席持っていることを考えると、解散案を可決するためにはANO以外の全ての党が賛成しなければならないと言うことである。ここで共産党を説得し、野党勢力をも取りまとめて下院の解散に成功すれば、社会民主党は大きく株を上げて支持者が戻ってくる可能性もあったのに、野党側が105票以上集めたら社会民主党の議員もそれに加わるという何とも中途半端な発表をした。社会民主党の15票を合わせれば、120を超えて解散が可能になるということなのだろうが、ANOとの関係の悪化を恐れたのか、社会民主党は動きそうにない。解散が実現しなかったとしても、下院の解散に向けて積極的に動く姿勢を見せるだけでも有権者に与える印象は違ったと思うんだけどねえ。
 ということで、採決の二日前水曜日の時点では、社会民主党の議員が採決に参加せず、共産党の議員は反対票を投じることが確定しているので、バビシュ内閣は現在の社会民主党との連立の形で継続することが確実視されている。
2018年11月21日23時35分。











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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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