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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2018年02月17日

後生の一大事は自分に解決できるのか

「後生の一大事は自分に解決できるのだろうか」
と思わないでしょうか?

 

自分には才能もないし、智恵もないし、体力もない。
経験も浅いし、学問もない。
そんな私が解決できるのだろうか。

 

そういう心を「自力」といいます。

 

もし自力で後生の一大事解決できるのなら、

才能や能力か問題になってきます。

 

しかし、私たちがどうあがいたって、
自分の力で解決できないのが、後生の一大事です。

 

後生の一大事解決できないと思います。
信仰を比べています。
それも自力です。

 

後生の一大事の解決は、すべては他力です。
不可称不可説不可思議の阿弥陀如来の力によって解決させていただきます。
信心決定するとそう知らされます。

 

アラ不思議心も六字身も六字浮き世の空にかかる雲なし

 

できないと思う心ができなくさせています。
阿弥陀如来の力によってさせていただくのです。
信念が弱い人でも、どんなに頭が悪くても、関係ありません。
できないと思っている心ができなくさせているのです。
私たちの力ではない、阿弥陀如来の力でさせていただきます。
そこをよく知ってもらいたいと思います。

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タグ:阿弥陀如来

2018年02月16日

仏教を聞く原点

浄土真宗葬式で読まれる有名な白骨の章
「朝には紅顔あって、夕べには白骨となれる身なり」
とあります。

 

朝は紅顔ですから、
朝は血色のいい顔です。

 

では、夕方もそのままでいられるでしょうか。
どうなるか分かりません。

 

諸行無常ですから、一切は続きません。

白骨になって帰ってきます。

それだけガラッと変わるということです。

 

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は

わずか9歳でしたが、両親を亡くされて、
「次は自分の番だ」と思われました。

 

今死ななければならないとなったとき、
「今死ぬかと思うと、不安なんです。
何としてもここ一つ、解決したいのです」

これが親鸞聖人の出家の動機でした。

 

これが、仏教を求める原点でもありますので、

私たちの求道の原点も、

自らの死の大問題の解決でなければなりません。

 

それ以外に、商売繁盛とか、

病気治しというのは、邪道です。

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タグ:浄土真宗

2018年02月15日

浄土真宗が日本最大の宗派になった理由

一代で現在、日本最大の宗派となった浄土真宗の基礎を築かれた

蓮如上人は、御遺言
「あわれあわれ存命の内に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」
とおっしゃっています。


これは蓮如上人の御遺言です。

 

「あわれあわれ」というのは、

かわいそうだなあ、不憫だなあということです。

悲しんでおられます。

 

「存命のうちに」、ですから、命のあるうちが勝負ですよ。
命のある内にあなた、信心決定して下さいよ。

 

それはなぜでしょうか。

 

信心決定しなければ後生は一大事だからです。

後生とは、死後の世界です。

死後の世界に、大変な一大事がある

ということです。


「朝夕思いはんべり」とは、
朝から晩、晩から朝まで、一日中思い続けているということです。

 

私たちは一日中何を思い続けているでしょうか。
仕事どうしようか。
食事どうしようか。
みんな似たり寄ったりです。


あれしなきゃ、これしなきゃと色々考えていることは、

どう生きるかばかりです。

 

しかし善知識は違います。

蓮如上人は三頭の駿馬を駆って、

後生の一大事を説いて回られました。

 

それで、浄土真宗は、現在の日本最大の宗派となったのです。

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2018年02月14日

人間の慈悲の3つの欠点

お母さんが子供に対して愛情を注ぎます。

 

しかし、その慈悲も欠点があります。
1相続しない、
2我がついている、
3盲目の慈悲

という3つです。

 

続かないし、

自分の子供は、他人の子供より差別するし、

溺愛してダメにしてしまう、

可能性がある、ということです。

 

母親の慈悲は人間で一番強い慈悲です。
それでも欠点があります。

 

人間には本当の慈悲の心はない、ということです。

慈悲は「この心人の心に非ず」と読みます。
仏は「人に非ず」と読みます。
仏様の心は慈悲の心です。

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posted by 陽葵 at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2018年02月13日

大宇宙一の幸せ者になる

親鸞聖人は、こう教えられています。

 

無慚無愧のこの身にて
まことの心はなけれども
弥陀の廻向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう

(悲歎述懐和讃)

 

「無慚無愧」とは、

他人に恥じる心も自分に恥じる心もない

ということです。


「無慚無愧のこの身にて、まことの心はなけれども」
これは真実の自己です。

まことの心はありません。

 

しかし、阿弥陀如来南無阿弥陀仏を私たちに差し向けて下されるから、
その功徳は大宇宙に満ちます。

功徳が大宇宙に満ちるとはどういうことかというと
十方法界の功徳の結晶、名号、南無阿弥陀仏を

阿弥陀如来から賜るということです。

 

大宇宙の宝を丸もらいします。
大宇宙を丸飲みして、大宇宙一の幸せになります。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2018年02月12日

絶対の幸福になったらどんな心になる?

絶対の幸福になったときにえられる

現生十種の益の2番目に

至徳具足の益というものがあります。


至徳とは、至とは最高無上、至上ということです。
徳とは功徳です。
最高無上の功徳が至徳です。

 

功徳には二つあります。
一つは善根功徳
もう一つは菩提功徳です。


善根功徳の善根とは善い種、善因ということです。
ですから善根功徳とは、善い行いのことです。

 

功徳は、そのように使われるのが7、8割です。
菩提功徳。
菩提とは本当の幸せです。
菩提功徳とは幸せということです。

 

全く別のものではなくて、密接な関わりがあります。
最高無上の功徳というのは、南無阿弥陀仏のことです。

 

善本、徳本、至上の功徳、至徳、万善万行の総体などといいます。
その南無阿弥陀仏について仰有った、蓮如上人のお言葉があります。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。

御文章5帖目13通)

南無阿弥陀仏という文字はたったの六字だから、
そんなにすごい働きのあるようには思えないだろう。
功能とは、功徳のお力ということです。

 

しかし、この六字の中には無限、底なしの功徳がおさまっているのだよ。
利益とはどういうことでしょうか。
利益の利とは施すという意味。
益とは幸せということで、私たちを最高の幸せにする働き。
御文章にそうおっしゃっています。

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タグ:蓮如 御文章

2018年02月11日

絶対の幸福とは生きているときに無限の幸せになれること

絶対の幸福になった人は、生きているときに
無限の幸せになれます。

 

 

それは、教行信証に記されています。

 

「金剛の真心を獲得する者は、
横に五趣八難の道を超え、
必ず現生に十種の益を獲」

 

これが「現生十種の利益」です。

「五趣、八難」とは迷いの世界のことです。
迷いの世界から離れ出るということ。

 

「必ず現生に」とは、生きているときにです。

 

「十種の益」というのは、十種の幸せです。


十というのは無限を現します。
無限の幸せです。

 

絶対の幸福になった人は

必ず生きているときに

限りない幸せになれるのです。

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タグ:教行信証

2018年02月10日

ブッダ無言の説法

王舎城の悲劇で、

我が子に牢屋に閉じ込められて苦しむ

韋提希夫人に対して、

ブッダは、無言の説法をされます。


つまり、ブッダは何も言われません。
韋提希苦しくなってきます。

 

何を言っても、

何も受け取ってもらえないからです。


同調すれば、韋提希は精神的に楽になります。

これは簡単です。

 

しかしブッダはそうされませんでした。

半眼のまなこで、慈愛のまなざしをなげかけられます。

 


半眼のまなこというのは、

人の心の動きをみておられた

ということです。


話を聞くときはドングリ眼で聞かなければなりません。

 

ブッダは、今、韋提希が「苦しい 助けて」といっている

苦しみをぬくのは簡単です。

 

しかし、韋提希の苦しみの元を抜くために、

そのような表面的な対処はされませんでした。

 

韋提希は

苦しい、お釈迦さま、何かおっしゃって」

「来世こそは苦しみのない世界へいきたいの」
とうとう韋提希は、五体投地しました。

 

その五体投地した韋提希にブッダはいよいよ口を開かれて、

ブッダの真の狙いである阿弥陀如来の本願を説かれます。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 善知識

2018年02月09日

親孝行する?

王舎城の悲劇には、現代にもよくある家庭悲劇が描かれています。

 

それがいよいよひどいことになっていくのが

提婆達多阿闍世(アジャータシャトル)に出生の秘密を暴露したときからです。


阿闍世は怒って、ビンバシャラ王を閉じこめて、殺します。

このあたりまでは涅槃経ですが、
このあたりから観無量寿経に説かれています。

 

「我が母はこれ賊なり、賊とともなり」

(観無量寿経)

 

これは、

おれの敵に味方する奴は、母といえどもまた敵だ、

ということです。

 

そして、韋提希夫人を殺そうとします。

これは五逆罪という恐ろしい罪で、

仏教では、無間地獄に堕ちる罪です。

 

ところが大臣たちにいさめられて、

殺すのはやめ、

母親を牢屋に閉じこめます。

 

私たちも、親にお世話になっているときは

世話してもらうだけ世話してもらっていますが、

高齢になり、世話をしなければならなくなると、

親を一室に幽閉したり、

施設に入れたりしているのではないでしょうか?

 

縁さえくれば、

親孝行をするどころか、大恩ある親を殺そうとする、

私たちの恐ろしい心を知らせているのが、

観無量寿経の王舎城の悲劇なのです。

 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(58) | TrackBack(0) | 罪悪

2018年02月08日

人生はひとりぼっちの孤独な旅

ブッダは、

「独生独死独去独来」

と説かれています。


人は一人で生まれてきた、
だから一人で死んでいかなければなりません。

 

人生はひとりぼっちの旅です。

王舎城の悲劇は、韋提希が修行者の影におびえて苦しんでいたとき、

寝ようとしても、うなされて眠れません。

 

そこで

「あなた、私恐い」

と夫のビンバシャラ王を起こします。

しかしビンバシャラ王

「またか」
韋提希

「またかじゃないわよ」
「ああ、分かった分かった」
「私の気持ちなんて分かるものか」
となります。

 

韋提希とビンバシャラ王は、いつも一緒にいる夫婦です。


しかし気持ちは分かり合えません。

結局はひとりぼっちです。
孤独な魂を抱えて生きています。

それぞれがそれぞれの業界で生きています。
が違うから、理解し合うことはできません。
魂はひとりぼっちです。

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