「よく死刑囚の最期が、潔い昇天であったとか、
従容として絞首台に消えていったとか、伝えられるが、それはうそである」
従容とは泰然と、静かに、ということです。
「立ち合い者たちの作り話にすぎない。あるいは、立ち合い者たちの、
せめてもの気休めであろう。もし彼らの目に、最期の姿が本当に立派に見えたとしたら、
それは処刑される死刑囚の最期の見栄である。
虚栄だ。さもなければ何もかもわからなくなって、半ば失神状態にあるか。
僕自身、死刑が確定して以来、何人かの仲間を見送っている。
そのたびに、彼らと握手もしたし、短い言葉も交わした。
彼らの胸の内は、明瞭に理解したし、
何よりもそれを自分の身に置き換えてみるとはっきりする。
あと数時間で殺される。
そうしたとき、僕は半狂乱になって泣き出すだろう。
それに耐えられるはずはないのだから」
市川悦子 『足音が近づく』という本の中に出てくるある死刑囚の言葉です。
10年前見つけて、死刑囚の最期、1時間前、どんなだったのかと読んでみると、
どれだけいつ死んでもいいよと、どうせ俺は死刑だ、と言っていた人も、
いよいよ死刑が行われる何時間前とか、直前になったら、まともな人はいません。
これは考えたらわかると思います。
この中の表現で生々しいのがいっぱいあるが、死刑に立ち会う仕事をしていた人が、
書いた中に、もし許されるなら、助けてやりたい。
もしこの絞首刑で死んでしまっても、
下へおろされて人工呼吸したりして助けていいなら助けてやりたい。
そういう思いがいつもこみあげる。
そう書いた人が、そのあとで、
だけどたとえそういうことが許されたって、もう無理だ。
なぜならこの首輪をはめられて、足元が開いて、ガクッとなったとき、
勢いで首と背中の骨が外れるそう。
だからたとえおろされて横になって助けようと思ってももう無理だ、と書いてあります。
ところが、死ななければならないのは、死刑囚だけではありません。
すべての人が100%確実に死んで行きます。
ですから、みんな死刑囚のようなものなのです。
この死の問題の解決を教えられたのが仏教です。
タグ:仏教
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image