原爆の父といわれるオッペンハイマーという人がいます。
1939年第二次大戦が始まった年、
ナチスドイツがポーランドに攻め入りました。
9月の1日です。
そのあと、アメリカはマンハッタン計画というものを、実行しました。
マンハッタンプロジェクト。
これは原爆製造の計画です。
ナチスよりも先に、原爆をつくらなくちゃいけません。
そうでなければ負けます。
アメリカも必死でした。
その原爆製造のマンハッタン計画の責任者になった人が
オッペンハイマーという人です。
当時39歳。
若き天才物理学者って言われた人です。
もう素晴らしい科学者、頭のいい人でした。
だけれどもあのオッペンハイマー博士は、
その原爆製造のために自分の科学的知識を使ってしまいました。
それが完成したのは1945年です。
7月16日、ニューメキシコ州の原爆実験で、成功しました。
その時に彼はもう夜も興奮して眠れないほど、
大きな感動に包まれたと言っています。
つまり科学者としては
思う存分研究して見事に作り上げたと言うことですね。
だけど、その原爆が一体何に使われたでしょうか。
始めはナチスドイツを倒すために、
ドイツに負けまいとして彼は造ったんだけど、
その時ナチスはもう降伏していました。
それであなたも知っているとおり8月6日。
広島に投下された。
そして20万人が一瞬で死にました。
そして9日長崎に原爆が落とされた。
7万人から9万人の人がアッと言うまに死にました。
それを知ったときにあのオッペンハイマー博士は、
初めて自分がいかに恐ろしい罪を造ってしまったか
ということを知ったのです。
自分はもう人類に取り返しのつかない大きな罪を犯しました。
自分の作った原爆がこんな恐ろしい結果を引き起こすとは、
その時まで彼は全く見えていなかったのです。
ということは、科学者としてはそれは素晴らしい人だったと思うけど、
才能もあり、技術もあり、天才的な人だったけど、
生命の尊厳や、生きる意味は分からなかった。
命の大切さって事を彼は知らなかった。
だからせっかくの科学的な知識も技術も
人殺しのために手を貸す結果になってしまいました。
その後オッペンハイマー博士は
もう廃人同様のようになってしまって、
後にノーベル賞を日本で初めて取った湯川秀樹博士が、
オッペンハイマー博士に面会したときに、
彼は湯川教授の手を取って涙を流してこう言ったそうだ。
『私は日本のあなたに恐ろしい罪を犯してしまった、本当に申し訳なかった』
と泣いて詫びたそうです。
その時オッペンハイマー氏はまだ50代だったはずだけれども、
湯川教授の話によると70歳を越えた老人のように見えたと言われています。
つまり彼は、科学の天才ではあったけれども人生について、
人が生きると言うことについて、生きる意味はまるで知らなかった
ということになります。
せっかく努力して一生懸命研究しても
生きる目的ってことが分からなかったら、
科学も、幸せのために使うことはできなくなります。
まさしくアインシュタイン博士の
宗教なき科学は不具
といわれる通りです。
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