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2022年01月31日

子どもの写真

毎年立志式では、生徒たちの幼少期の写真を家庭から提供してもらう。
それは誕生日祝いの写真であったり、七五三の写真であったり、家族旅行時の写真であったりする。

それらをまとめて動画にして、生徒たちに流してみせるのだ。

初めは大騒ぎをしてた彼等も、全員分の写真がすべて流れ終わった頃には、「これまで受けた親の愛」を感じ、静かになっていく。

その写真をみて感動するのは生徒たちだけはない。
「愛」を感じた教員たちも泣き、親たちも涙を流す。

親にとって、もっとも「子どもから愛を受ける」時期が、子どもが幼少期の時である。

天真爛漫な、彼等の写真は、親たちにとっても宝物である。
スマホの待ち受けにしたり、引き延ばして部屋に飾ったりする。

そのうちの一枚を見た。
A君の写真である。

四、五歳くらいだろうか。
家のリビングで満面の笑顔を見せたその姿は、見る者を魅了する。

いわゆる「すべてイチコロ」の写真である。
こんな写真を見たら、誰もが心を躍らせる。

私は、試しに部屋に貼ってみることにした。

「この笑顔は、もしかしたら、悪いモノをよせつけない効果があるかも知れないな」、とほくそ笑む。

今でも十分可愛い生徒たちだが、その幼少期はそれに輪をかけて素敵だ。

しばらく部屋に飾っておこうと思う。

生徒が見たらきっと驚くだろうな…。

2022年01月29日

日本の素晴らしさ

中2の総合学習発表会が行われた。
テーマは、「日本の素晴らしさ」である。

戦後の自虐史観を払拭すべく、「日本」という国の、置き忘れられた素晴らしさを発見し、自国に夢と誇りをもつべくテーマが設定されている。

学校教育を受けることで、間違った歴史観が植え込まれ、日本に対する誇りを失うようでは、教育が間違っていると言わざるを得ない。

その部分は、何としてもひっくり返さなくてはならないのだ。

一部地方の公立学校では、大騒ぎになりそうだが、私の学校では、当たり前のように、「日本の誇り」を語ることができるのは素晴らしい。

「日本を繁栄させる考え方」、「日本人の信仰」、「大東亜戦争から学ぶ日本のあるべき姿」「愛国心を取り戻すために」、「素晴らしい日本の文化」など、生徒たちが発表したテーマは、多岐にわたるものだった。

いずれも、説得力があり、見学者たちを納得させたであろう。

もちろん、そうした「仕込み」は、学年の先生たちが念入りに行っている。

いずれの発表にも、利他の精神が流れている。
「自分がよかれ」というよりも、日本そして世の中がよくなるために、どうすれば良いか、という視点がある。

また歴史に学んだり、現状日本の問題点を考察したり、となかなか聞き応えがある。

彼等は必死で大きなテーマに向かっているのか、「ちょっと原稿を見すぎかな」、とも思ったが、だんだんと自分の言葉で発表できるようになっていくだろう。

いずれも、秀作ぞろいだった。


午後には、立志式が行われ、一人ひとりが『志』を発表した。

彼等の発表に、多くの参加者が涙したことも銘記しておこう。

2022年01月26日

喜怒哀楽

人間は喜怒哀楽があるが、宗教修行者は、大きく心を揺さぶられてはいけないとされる。

大いに喜び、激しく怒り、深く哀しみ、大いに楽しむ。

このうち一番危険なのは、「激しく怒る」ことで、次に危険なのが、「深く哀しむ」ことであろう。

これがあまりに頻繁に起こるならば、人間というよりも、むしろ動物に近い、ということになる。

私は雄の柴犬を2匹買っていてる。
以前「雄犬同士は仲良くできない」、と聞いていたが、基本的には争うことはしない。
一緒に連れて歩いても、途中でケンカをすることはない。
ただ、彼等に餌をあげたとき、その餌をもう一匹が奪おうとする仕草を見せると、激しく怒る。
そんなとき、「まさに動物だな…」と思う。
人間だったら、ここまでは怒らないだろうな、と思う。

私はいくつかの学校を経験しているが、確かに「よく怒る」人の多い学校はある。

そんなときは、職員室が修羅場になるし、職員会議も大荒れになる。
聖なる学校現場としては、不適切であろうと思う。

幸い、私が務めている学校では、「怒り」の波動が少ない。
職員室で怒声が飛び交うことなど、ありえない。
意見の差があり、やや「言い争い」になることはあっても、ほんの短い時間で流れていく。

一方で、哀しみに打ちひしがれ、自らを責め続けている人も見当たらない。

どちらも、天国的とは言えず、教育現場としてはふさしくない感情であろう。

もちろん、悪に対する怒り、聖なる哀しみというものもある。
だがそれは、心を激しく揺さぶり、我を忘れるようなものではないだろう。

この2つの感情が行きすぎると、穏やかな心を維持することができず、正しい判断の中での教育活動が妨げられるということになる。

このことは教室でも同じだ。

教師が冷静な心を保つことができなければ、生徒を叱ることなどできまい。

ましては大人としての、人間としての、あるべき姿を彼等に示すこともできまい。




2022年01月25日

教える側の姿勢

どうやら私が考えている以上に、中1の生徒たちの学力レベルは低いようだ。

今までのような教え方では、なかなか理解してもらえない。
「聞けば分かる」と思っている私が傲慢なのだろうが、「聞いていない」ということも多く、結局、指導力不足なのだろう。

古の頃から教える側は、同じような悩みを抱えていたに違いない。

もっとも、教わる側が意欲的で、先生の言葉を「一言も聞き漏らすまい」としている時には、教える側も真剣勝負だ。

ということは、私の真剣さが欠けているのだろうか。

「話を聞く」ということは、その姿勢も意欲も、学習には極めて重要な要素である。
教える側は、「聞かせる」工夫と努力を日々研鑽すべきだし、それが上手くいけば、彼等の学力向上も望まれる。

いやいや授業を受けていても、面倒だな、と思っていても、授業は成立しない。

教える側は、いかに授業をドラマチックにかつ、楽しく、わかりやすく、そして期待感溢れるものにしなくてはならないのだろう。

私が二十代のとき、それはまだ正式な教員になる前ではあったが、一人、夜歩いている時には、授業をシミュレーションしていた。

こんな風に教えたらどうだろう。こんな問いかけをしたらどうだろう。
そして、こんな工夫をしてみたらどうだろう、と考えていたものだ。

今となっては、その頃が懐かしい。

日々進化することが、教員にも求められる。

2022年01月24日

先輩の力

今日も、OBが練習に来てくれた。

「何だよ。今日も休みなのかよ…」、と言いながらも、私は嬉しかった。
昨日に引き続いてのOB参加。
夕方からの練習なので、17時には日没を迎えてしまうが、今日もいい練習になった。

中3に加え、高1もやってきて、一人ひとり丁寧に技術指導をしてくれた。

部員たちも、歳の離れた先輩から直接指導を受ける機会など、そうそうあるわけではない。
しかも、お手本まで示してくれるのだから、本当にありがたかったに違いない。

普段も、練習後の自主練で、グランドに戻った時にも、多少のアドバイスはしてもらってはいただろうが、練習中、ずっと教えてもらえる機会は、貴重なものだったろう。

OBたちは、終始大声を出し、後輩たちを指導し、練習を盛り上げてくれた。

「やっぱり先輩たちが来ると、楽しいな…。」

私は心からそう思う。

若干元気もなく、大会出場すら危ぶまれた中に、先輩たちの檄が飛ぶ。

「毎日練習できることを当たり前だと思わず、その日の目標をきちんと決めて、練習するんだ。」

「嫌々練習するんじゃなくて、やらせてもらっていることに感謝の思いを持つことが大切だ。」

彼等はいつの間にか先輩になっていた。

二時間弱ほどの短い時間だったが、いい練習になった。
私も元気をもらった…。

結局、子どもたちと関わる中で、一番エネルギーをもらっているのは、他ならぬ私自身なのだろう。

この恩返しは果たしてできるのだろうか…。

2022年01月23日

元気復活

引退した先輩たちが野球部の練習に来てくれた。
私の学校では、夏の大会が終わった中3は、そのまま高校野球に行く。
高校野球はほとんど休みがないが、今は冬の時期ということもあり、めずらしくオフだったようで、彼等が中学野球部に来てくれたのだ。

彼等が来ると、後輩たちには刺激になる。
練習も楽しくなる。
アドバイスもしてくれる。
自然と声も大きくなる。

寒さに縮こまって、元気のなかった部活動が、俄然元気になった。

私も見ていた楽しいし、彼等も嬉しいだろう。

「いよいよ先輩たちが引退して自分たちの時代になった」、といざ活動してみると、思い通りにならないことばかりのはずだ。

それが、しばらく続くと、自分ではどうしたらいいか分からなくなる。

そんなとき、ぶらっと、先輩たちが来てくれると、新鮮味が生まれ、また原点を思い出すことになる。

今日の部員たちは元気が良かった。

人数が少ないながらも、いい練習ができた。

今日来た二人の中3は、どちらかというと、なかなか上手くならず苦しんでいた選手だったが、高校野球で鍛えられ、だいぶ逞しくなった。

「失敗しても、ポジティブな声を掛け続けていいね…。」

そんなことを振り返り時に中3が言った。

かすかに文化は受け継がれている…。

私は、ちょっと嬉しい気分。

2022年01月22日

偉人研究

中1の総合的な学習の発表会が行われた。
テーマは、『偉人研究』である。

各自が選んだ「偉人」を徹底的に研究し、発表する。
彼等が選んだ「偉人」は、一人ひとりの生徒たちにとって、何かしら「気になる」部分があり、惹かれたのであろう。

昨今の左翼教育、自虐史観教育により、教科書から次々と「偉人」が排除され、いわゆる『偉人』の存在を認めない、という流れがあるようだが、これには断固反対する。

歴史は、彼等「偉人」たちの活躍によって、その転換点で大きく変わってきたのだ。
自らの生命さえ惜しまず、奉仕に生きた彼らの人生が、人々の共感を生み、影響を与え、新たな歴史を作ってきたのだ。

昨今、百田尚樹氏の「日本国紀」がベストセラーになっているが、まさに戦後の自虐史観を払拭する役割を担っていると言える。

彼等「偉人」たちの実績は、決して一朝一夕のものではなく、全生命を賭けた人生そのものなのだろう。

生徒たちにとっては、その生き方や考え方、無私の精神、正義感、勇気や行動力、など、この先の自らの人生に大いに参考になり、範とすべきものがあるはずだ。

「人生の模範となる生き方」、として生徒たちはその偉人を選んだに違いない。

「偉人研究」は、単に偉人を紹介するにとどまらない。
その学びを通して、「自分はどんな生き方をしていくか」までも宣言するのである。

「僕は、〇〇の生き方に学び、勇気を持って正義を貫く人生を生きていきたいと思います。この先は、積極的にリーダーをやって、経験を積み、いろいろな困難に負けないような学校生活をおくります。ご静聴ありがとうございました。」

こうした生徒たちの発表に、見学者たちはたいてい涙ぐむ…。

子ども時から志を持って生活していれば、自ずとその人生も変わって行くだろう。

いい学校行事だと思う。

2022年01月18日

合格発表

中学入試の合格発表が終わると、正月明けから続いた入試業務も一段落である。
今回は、細かなミスが多く、多少バタバタしたが、高校入試では、そうしたことがないようさらに注意したい。

とは言っても、すでに高校入試の願書は届き、私はすでにその処理に入っている。
だが、中高一貫ということもあり、高校入試は中学入試よりも人数が少なく、少し気持ちに余裕が出る。

併せて日程的にも時間があるので、授業と平行していてもあまり苦にはならない。

入試の合格発表は、人生の岐路となる大変な出来事だ。
毎年仕事だからといって、絶対に「慣れて」はいけないし、ましてや「惰性」で仕事をしてもいけない。

受験生、そしてその家族の人生がかかっているのだ。

彼等は様々なドラマのなかで、受験を決め、入試を受け、その結果を待つ。

たとえ合格したからと言って、何もかもがハッピーというわけでもない。
場合によっては、親たちが入学金等の金策に奔走し、さらに苦労を抱えることにもなるからだ。

「子どもためなら…」、と一大決心をして臨む入試。
特に中学入試は、「誰もが受ける」ものではないので、より慎重にならざるを得ない。

それぞれの家庭の教育方針があり、いろいろな理由により学校を選んでいただき、受験していただいたのである。

その思いをも忖度して、入試業務に当たらねばなるまい。

今年も、親を説得してようやく受験にこぎつつけた小学生の受験生がいる。
合格後、本当に学費を払ってくれるのかすら分からない。

12歳にして人生の覚悟を決め、親を説得し、自ら希望する道を歩もうとする姿には感動する。

入学式で、新たな彼等の出航を祝福してあげたいものだ。

2022年01月15日

嫌われ者

どちらかと言えば、私は生徒から「煙たがられる存在」なのだろう。
還暦に近づいてきた私の年齢は、彼等中高生とは離れすぎているし、私の「一言」は、結構重みを持つ。

彼等生徒たちは、その年齢差と偽りの威厳により、それなりに私には従うが、年々、彼等との距離は離れていくばかり…。

だが、それも年配の教師たちの仕事のひとつなのだろう。

若い頃は、「生徒から嫌われる」ことを極端に怖れたものだが、今となっては、「嫌われるくらいでちょうどいい」とすら思う。

こうした年寄りの教員の存在が、ある種の重みになって、学年や学校を形作っていることはよく分かる。

以前、若い先生たちに話す機会があったとき、「生徒から好かれようとしてはいけない。好かれようとすれば嫌われ、嫌われようとすれば、逆に好かれるものだ」、と語ったことがある。

今でもその考えは変わらない。

極端に生徒に迎合すれば、彼等からの信頼は失われるのだ。
教師たるもの、一本筋を通すことができてこそ、逆に信頼足る存在になる。

私もずるくなってきたので、生徒から「死ね」と言われれば、「君よりは先に死ぬから心配するな」とこたえる。

嫌われてもまだ、慕ってくる生徒の方が遥かに多いことを自覚しているからだ。

本当に生徒を愛おしく思っていれば、自ずと言動に表れる。
それは、決して生徒に近づきすぎるものではなく、また突き放しすぎるものでもない。

だから、「嫌われ者」で結構なのだ。

…私がそう思えるようになるのに、何十年もかかっていることだけは、銘記しておこう。

2022年01月14日

冬休み宿題テスト

各学年とも三学期最初の授業で「冬休み宿題テスト」を行った。

冬休みの課題冊子から、ピックアップし、一コマ分のテストとして再編集したものだ。

私としては、年末のうちにつくっておいたので、年明けの入試業務に圧倒されることなく、難なく実施できたのは嬉しい。

やっぱり、仕事は先に手を打っておいた方がいいのだろう。

怠け者の私は、ついつい先延ばしし、悲劇を招く。

冬休みの宿題に対して、「どれだけ真剣に取り組んだか」、「きっちり詰めて勉強したか」が判定される指標になる。

私の予想通り、結果は散々だったが、先に予告したとおり、今回は、この試験の成績順に授業の座席とした。

少々乱暴だが、たまには刺激になっていいだろう。

「やればできるようになる」のが学校の勉強だ。
学生時代に、『「因果の理法』を身をもって学んでおくことは必要なことではないだろうか。

本当は、どの問題も基本的な問題であるのだ。
今月末には、業者テストもあり、その対策にもなる。

「やってもやっても忘れてしまう」のが、学生の常だが、それでも諦めず、しつこく、彼等に畳みかけなくてはならないのが、教師の務めだ。

もちろん教室の前には成績上位者が座っている。

いつか自由席で授業の座席を決めてみようかと思うが、その座席順が成績順に極めて高い相関を示すに違いない…。

「まだまだ、教え方が甘いな…。」
と自問自答しながら、生徒達との格闘は続く。

もう、こんな生活を三十五年も続けている…。
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