アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2020年10月17日

自分の存在意義

認められなくていい。
褒められなくてもいい。
「すごいね」、「よかったね」、と言われなくてもいい。
徹底的に陰に徹して、縁の下で支えられればいい。

世の中には「自分が自分が…」、という自己主張の強い人もいる。
その一方で、「どうせ私なんか…」、と自己卑下に陥り、自己肯定感を作り出せない人もいる。

生徒も同じだ。
だが、思春期の彼らは、『愛されたい。認められたい。自分のことは自分でしたい』年頃なのである。

だから、寂しさの裏返しに反抗してみたり、反発しつつ、自分の存在位置を確認してみたり、時に赤ちゃん返りして、「愛が欲しくてたまらない」状態になるのである。

大人でも、心に余裕がなくなると、いろいろなマイナスな思いに支配されやすい。

教員をしている方でも、そんなネガティブ思考になってしまうこともあるだろう。
また、思春期の生徒たちとの対応に、疲れ切ってしまう人もいるに違いない…。
子供すきであっても限界はあるのだ。

以前、マイクロソフトのカスタマーズセンターに、サンドバッグが置いてあると聞いたことがある。
本当かどうかは分からないが、電話で問い合わせを受けた者は、時に相当のストレスが溜まることは想像に難くない。
こちらも、文句を言われることはあっても、感謝されることがほとんどない世界だ。

そうした中で、心を磨き、心を揺らさず、顧客の立場で対応できる人が生き残り、成功してゆくのだろうが、そんなに簡単なことではあるまい。

だが、大人も時に自分の存在意義を考える。

「自分がその組織で必要とされていない」ことを認識したならば、その職場にはいられないだろう。
ましてや、世のためになっていないと思ってしまうならば、生きていくことすら苦しくなる。

人はそれぞれ貴い。
職業にかかわらず、貴賤にかかわらず、それぞれの役割を果たしている限り、人間生活は多くの経験のと学びの場になる。

思春期の子供には理解できないかも知れないが、社会人になったら否応なく、この事実を受け入れなければならないだろう。

だから、「私は、役に立っているのだろうか」、と思ったならば、何か役に立つことはないかを探し、行動してみなくてはならないのだ。

その行いが、たとえ誰にも知られなくても、心を揺らさず、淡々と世のために生きることができるならば、人生は成功したとも言える。

認められなくていい。
褒められなくてもいい。
「すごいね」、「よかったね」、と言われなくてもいい。
徹底的に陰に徹して、縁の下で支えられればいい。

そんな生き方を目指したい…。

2020年10月16日

色使い

板書や教材の色使いにはこだわりがある。
私は、最初の授業で、最低3色は準備するように指示している。

授業では、けっこう色を使う。
だが、ただ色を付けているのではなく、毎回その色に同じ役割りを果たすようにしている。

同僚に、プリントでも同じようなことをしている先生もいて、たとえばプリントの青い字は、「難関大入試に役立つ方法」であったりする。

幸い私の学校では、オルフィスというカラー印刷機なので、試験問題にもいろを付けることができるのだ。理科や社会では、写真がふんだんに印刷されることもある。
すごい時代になったものだ。

教科書もいつしかフルカラー印刷になり、教材プリントもその時代に入ろうとしている。
そして今や、タブレットを一人一台ずつ持たせるとか…。

大したタブレット教材もないので、まだまだ苦しいが、動画を見たり、パワポを創ったりできるので、便利であることは事実。
だが、コンピューターはまだまだ使いにくい。
数学では、実際に手を動かさないと、なかなか習得できないことも事実。

中学校の数学で、三角形の合同の証明を勉強するが、このときの色使いは役に立った。

等しい辺や、等しい角を色分けするのである。
すると、視覚的に三角形の合同条件が見えてくる。
結果、どの条件を使えば良いかが、一目瞭然。

証明を記述するときに記号の間違いも減る。

この手法で、証明の正答率も格段に上がった。
彼らは証明を怖がらなくなった。

だから、私は試験であっても、色を使うことを許している。
彼らは、めいめい図形に色分けをして、さっと証明をこなす。

辺を色づけするには蛍光マーカーは使いやすいし、よく目立つが、板書持の色は、色ボールペンがよい。

結果、彼ら生徒たちは、何種類もの色ペンを持つことになるが、それで学習効率が上がるならば、それはよいことだ。

これ以外にもさまざまな工夫があるが、それはまた別の機会に…。

2020年10月15日

授業の空き時間

「丹澤先生、先生は授業のない時間は何をしているのですか?」

なるほど、生徒から見ると私は暇そうに見えるらしい。
確かに、何をしているのかと言われると困る。

副担任の仕事は、始業前に終えてしまうので、毎日の授業の空き時間にあらかじめ予定を入れることはめったにない。

「もっと生産的な仕事をしなければ…。」
「情報は、アウトプットしてこそ自分のモノになるんだよ。」
「知識を智慧に変えるべく、思索を練らなければ…。」

などなど、分かっているが、ついつい怠惰に流され、惰性に走る。

「そういえば、大した仕事をしているわけではないな…。疲れて休んでいる時も多いな…。」
と、思ったが、その生徒にはあたかも仕事をしているかの返答をした。

なかなか鋭い質問であった。

教員(担任生活が長くなると、いろいろな突発的な仕事がやってくるので、ルーチン的な仕事は、いち早く尾原さえ、空き時間を作っておく必要がある。

私は、長らくそれを実践していたのだ。
ここに来て、担任や学年主任が外れた昨今、その時間がまるまる自由な時間になっている。

それこそ生産的な仕事をするチャンスだったはずなのだが、前述のように、怠けている。

細切れの時間でも習慣化すると、いつの間にか大きな成果を上げていることがある。
毎日5分でも、一つのことを繰り返し、年月が経てば、かなりの実績を得ることができるのだ。

「そろそろ怠惰な自分から脱却しないか。もう十分休養しただろう。心も癒えただろう。」

心の奥底からそんな声が聞こえてくる…。

一年くらい前に、『やること・手を打つこと・習慣化すること』という文書を作った。
それを久しぶりに開いて読んで見た。

なるほど、全然できていない。
つくづく自分は怠け者だな、と思う。

その「やること」一覧には、一日5分でもいい、という赤字が何カ所もあった。

もう一度、決意を新たにせねばなるまい…。

2020年10月14日

中間試験の点数

担当しているの中1の中間考査の成績が芳しくない。
私の学校では、代数と幾何と分けて授業を行い、試験も分けているが、どちらも、一桁近い点数の生徒を出してしまった。

生徒には、「試験は、自分の作品なのだから、隠すような点を取るな」、と言っているが、そのような点数を取らせたというのは、教えている私自身の責任でもある。

「少し気合いが足りなかったかな…」、と思う。
「もっと、情熱的に授業をしなくてはいけなかったかな…」、とも思う。

概して、授業担当者自信が、楽しく授業をしていないと、そのクラスの成績は振るわない。

そう振り返ると、私自身、このクラスの授業はあまり楽しくなかった。
中1でありながら、忘れ物は多いわ、宿題はやらないわ、それでいて授業中寝る。

私の指導の未熟さなのだろうが、この生徒たちは、どうも、今までの指導法ではだめなようで、私も試行錯誤しながらの授業になっている。

まだ10月半ばを過ぎてなお、中学生になりきれていけないようである。

授業は人間関係が強固になると、うまくいくので、そういう意味では、まだ彼らとの関係が構築できていないのだろう。

歳を取り、余りに幼く見える生徒との距離が大きくなったのかも知れない。
あるいは、私自身、新たに学び続けることを怠っているのだろう。

先日、生徒からの授業評価の高い先生方の研究授業があった。
何年かぶりに、私は選ばれなかった。
だからどうと言うことではないのだが、同じく毎回選ばれている社会科のM先生が、
「研究授業は、私に撮って新しいチャレンジの場です。」
と、言い放った。
さすがである。

学びを深めようと思えば、いくらでも深掘りできる。
見ている先生も、授業担当者もどちらも進化していく…。

どうやら私自身、このところ怠け者生活に陥っていたようである。

学び続けてこその教師、進化し続けてこその学校である。

自戒せねば…。

2020年10月13日

山が色づく

近隣の山の紅葉が最盛期を迎えた。
山に行く道は、平日でも混雑し、紅葉の見られる山の駐車場にはもはや入れない状態だ。
GoToトラベルの効果か、今年もたくさんの観光客が紅葉を見るために山を訪れているようである。

その様子はSNSなどで確認することはできるが、下界の学校からも、太陽の光の加減によっては、山が赤く染まっているのが分かる。

距離にして三十キロ弱。
「今年も、山が色づいたのだな…。」
と、季節の移ろいを感じる。

「ぼんやり、赤く染まった山を見ていたいな…。」
元来怠け者の私は、ふとそうした気持ちになる。

自動車で30分も走れば、そこは紅葉まっただ中。
おそらく今週あたりがピークだろう。
もちろん標高差があるので、高さを変えれれば、まだまだ楽しめるのだろうが、山並と共に見るのであれば、今が一番だ。

この地に住みつき、十年以上になるが、本気で赤く染まった山を見に行ったことはない。
休日は混雑で行けないだろうし、平日に出掛けることも困難だ。
遠足の下見がてら、午後から山に行き、たまたま紅葉に巡り会ったことはあるが、そのただ一回だけである。

そろそろ下界でも一部色づき始めている。
夏の暑さの頃が、ひどく昔のように思えしまう。

取り切れずに残っているグランドの草も、緑色から茶色に代わりつつある。
茎と根が残っているので、ここまま放置することができないので、結局それらも抜かねばならない。

子供たちに真っ赤に染まった山並を見せたら、どんな風に思うだろう。
多少はむしゃくしゃしている生徒でも、少し心が落ち着くのではないだろうか。
自然には、そういう力がある。
だからこそ、遠足などで学校外に出掛ける意味がある。

この地の秋は短い。
いつの間にか、彼岸花の葉が出てきた。
11月になれば霜も降りる。

紅葉が終われば、山には雪が降る。
そして長い冬山の季節になる。

だが、春は必ずやってくる…。

2020年10月12日

歯医者

奥歯が欠けて治療した部分に穴が開いたので、以前通っていた歯医者に電話するも、留守番電話になっていて全然つながらない。
業を煮やした私は、直接歯科医院を訪ねたら、6月末で閉院になっていた。

地元に人に聞いても、誰も理由を知っている人がいない。
どうやら突然廃業したらしい…。
院長が亡くなったという話も聞かないので、どうしたのだろう。

と言うわけで、近隣の別の歯医者を探して予約する。
約3週間ほど待っての初診療。

だが、選んだ歯医者が間違っていた。
初めは、院長が出てきて、「お宅の生徒さんは良い子ばっかりですね〜」などと、おだてるものだから、私は機嫌良く診察をうけていたのだが、途中から雲行きが変わった。

要は、「アマルガム治療を受けた歯が多数あるので、これを除去することから始めなくてはいけない」というのだ。

アマルガムとは、2016年3月までは普通に使われていた水銀を中心とした詰め物だが、その有害性からその後、しようが禁止されたものだ。
以前治療した私の口腔内には、これがたくさんある。

「削るとい水銀が飛び散りますので、これを除去する時は、病院を貸し切りにします。あわせて、私たちも防護マスクをして治療をします。一つ除去するのに2万円ほどかかります。これが8本あります。また、これまでどれだけ水銀が体内に沈着しているかを調べるための検査もしてもらいます。これはだいたい6万円です。また体内に水銀が沈着しないように、またそれを緩和するためのサプリメントもあります。これを数年間飲み続けてもらいます。これは月に数万円程度です。」
などとまくし立て、「ローンを組むこともできますよ」、ときた。

私の場合、少なく見積もって30万円以上かかる。
聴けば、保険外診療だそうだ。
どうりで院内が小綺麗で、いかにも高級な物が置かれているわけだ。

「あら、かぶせたものもさびていますね。取っちゃいましょう」、などと正常な歯も処理をし、結局私が治療し欲しかった歯には、簡易的にセメントでかぶせたにとどまった。
「痛み止めを出しておきますね…。」

受付では、「診察券どうしましょうか。一応渡しておきますね」、などと言われるも、私は次の予約を断った。

もうこの歯医者に通うことはできない。
「私は日本で二番目にアマルガム除去をしているんです。」
と自慢しながら話す院長。

そうした治療は、こんな田舎ではなくもっとお金持ちの多い東京の下町でやってくれ、と思う。

結果、再び歯医者を探すことになる…。

別の歯医者を予約するも、また3週間待ち。

学校に戻ると、私は早速養護教員にこのことを共有した。

ため息しか出ない…。

2020年10月10日

母親の寂しさ

「他のみんなも、そう言っていると聞いています。」
これが、彼女の常套句だ。
何かしら、自分の気に入らないことがあると、その根拠に「他の人」を使う。
子供はたいてい、「みんな言っているよ」、などと親をごまかすが、それがそのまま学校へのクレームに使われる。
具体的に誰なのかなどは、どうでもいい。
「みんながそう思っているのだから、これはおかしい」、という理論である。

残念ながら、みんなが思っていることが正しくないことは多いのだが、気持ちの収まらない人間にとっては、このことは重要なファクターなのだ。

母親は中高、大学時代の息子や娘たちの成長を喜びつつも、寂しさを感じている。
たとえ彼ら、彼女らが、親の手の届かないところに成長していたとしても。自分を超えられたとは決して思いたくはないのだ。
だから、どんなに成功しても、「何を言っているの? 私の子よ」、という具合。
それを祝福することは、親自身の精神的な成長が必要なのだ。

思春期の息子は母親の関わりをできれば避けたいと思う。
だから、母親から何か訪ねられても、いい加減に答える。
面倒になれば、適当に話を合わせる。
さらにしつこければ、ただただ返事をするだけになる。
だから、本心ではない場合もある。
しかし、母親は、その一言を学校にぶつける。
「息子もそう言っています…」、と。

要は、淋しいのだ。
子供が成長してゆき、自分から離れていくことに寂しさを感じているのだ。
子離れできない親、と言っては気の毒だが、残念ながらそのとおりなのであろう。

その寂しさから、「学校はどんな教育をしているのだ」、と訴えたくなるのは、分からないでもない。
だが、そうした反発する時期、離れている時期を経て、人は大人になっていくのだ。
世の母親は、それが理解できずに、苦しみ、寂しさにしがれている。

「私は母親よ。私を無視しないで。私の方を向いて!」
とばかりに、子供に執着してしまうのは、世の常ではあるが、それは不幸でもある。

よく考え見れば、親たちに「子育て講座」なる期間や機会はほとんどない。
だから、試行錯誤になるし、自分たちもそのように成長してきたことを忘れ、今現在に、心を乱してしまうのだ。

そんな視点で親の話を聞くと、「聞いてあげるだけでも、少しは気が晴れるのかな…」、と思う。
学校という場は、本来親たちへアドバイスする機関でもあるのだろうけれど、昨今はそんな余裕や、スキル、そして親たちも聞く耳を持っていないだろう。

私たち教師は、親子ともどもの成長を願って、そんな中で仕事をしている。




ファン
検索
<< 2023年09月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
丹澤三郎さんの画像
丹澤三郎
プロフィール
リンク集
おすすめ
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。