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2020年10月02日

バスガイド

海外語学研修が中止になった代わりに、国内での研修旅行を行った。
そのため、久しぶりにバスガイドさんと出会うことができた。
私は、バスガイドの話が好きである。

滅多には出掛けられない土地でのバスガイドの話は興味深い。
私の知的好奇心をくすぐり、もっといろいろな話を聞きたくなる。

一方で、生徒たちはめいめいスマホで動画などを見ているのだ。
耳にはイヤホン。
おそらくバスガイドの話などうわの空だろう。

「バスガイドが話をしているのに、皆がイヤホンなどを付けてスマホを触っていていいのですか?」
と、事前に学年主任に言ってみたが、「寝る子もいるくらいだから、いいんじゃないですか?」、と全く価値観が合わない。その上、「音楽を聴いていると酔わない子もいるらしいですよ」、と来る。

さすがもと高校の先生。
私の常識がガラガラと崩れ去る。
私は旅行中、「もう私の居場所はないのかな…」、という思いが頻繁に湧いてきた。

さすがに、「生徒に教員全員の携帯番号を公開するとか、それを学校のホームページにまで載せて保護者にも便宜を図る」という案には断固反対したが、私もそろそろ限界に近づいている…。
若い学年主任を立てなければ、と思いつつも、価値観が違いすぎて、終始、心が揺さぶられるのだ。

「眠れない生徒がいるので、ガイドを控えてください」、と若い担任が添乗員に伝えたり、私と年齢の近い先生は、「ガイドがうるさいので、少し静かにして下さい」、と言ったりする。

これには私もぶったまげた。
「いい加減にしなさい」、という気持ちと共に、怒りに近い感情が湧いてきた。

「こうした人たちと一緒に仕事をするのは難しいのかな…」、とも思う。
違和感と嫌悪感が渦巻いて、引率の疲れがどっと大きくなった。

最終日、私は、ガイドのもとを訪ね声を掛けた。
「いろいろと不愉快な思いをさせてしまって申し訳ありません。」
と、謝ろうと思ったが、
「たくさんお話して下さったので、大変勉強になりました。ありがとうございました。」
と伝えるにとどめた。

フォローになったかどうかは怪しいが、勉強になったことは事実なので、素直にその思いを伝えたまでだ。

バスガイドは大変恐縮されていたが、私は少しすっきりした。
単なる自己満足なのだろうが、自己満足でいい…。

やはり「おかしい」のは私の方なのだろうか…。
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2020年09月30日

一斉休校のつけ

この春、安部前首相が、全国一律の一斉休校を発動した。
その知らせに、一時期喜んだ生徒もいたのだろうけれど、その期間が長くなるにつれ、親も子も、不安だらけになったはずだ。

緊急事態宣言が解除され、学校が再開されたが、コロナの感染者が一人でも出ると、学校は一斉休校になってしまう。
こんなことで良いのだろうか

ある私立中高一貫の校長先生が言う。
「私の学校は、たとえコロナの感染者が出たとしても、一斉休校にはしたくありません。」

すでに学校は、従前の教育活動が崩壊しているのだ。
「これ以上、破壊させないでくれ」、というのが学校としての切実な願いだ。

一斉休校のダメージは大きい。
学業的にも、精神的にも、家庭に大きな衝撃を与え、傷をつける。

学校行事が軒並み中止になり、かわいそうな生徒たちを励まそうと、サプライズで校庭から打ち上げ花火を上げたり、修学旅行の代わりに、学校に宿泊したり…、といろいろなイベントはあるが、それには変えられない大きなものを失ってしまった。

この衝撃は国民全体に波及し、今もなお、立ち直れずにいる。
もしかしたら、安倍前首相の退陣理由は、この全校休校なのかも知れない。

「インフルエンザ並みでいいと思うんです。インフルエンザの患者が一人出たくらいで、学校全体を休校にしますか?」

現状のコロナの感染力や状況を見ると、確かにその通りなのだろう。

学校が学校としての役割を果たすことができないまま、生徒たちを卒業させなければいけない状況にある。

人と人との関わりを希薄になった学校は、もはや学校ではない。

そもそも経済活動にしても、政府や自治体に自粛を強要する権利などない。
それこそ、国家社会主義のなせる技である。

自粛をすることで、本当に感染が防げるのかの検証もない。
ましてや、少額の保証金を配ったところで、各店舗には焼け石に水。
店じまいをせざるを得なくなっても、政府や自治体が責任をとることもない。

サバイバル時代を生き抜く術は、各人に委ねられているのだ。

政府屋自治体も破産寸前のはずである。

我々が教えるべきは、この時代を生き抜く術であり、人と人との温もりであり、自助努力によって、未来は拓けると信じる心を育てることであろう。

先日、地元のお祭りも中止になったという連絡が入った。

「いい加減にしなさい。祭りは御神事だぞ。」
私はそう叫んだ…。

2020年09月29日

おおいぬ座

おおいぬ座の一等星シリウスは、全天で一番明るい恒星である。正式は光度は−1.46等。
距離8.6光年と、地球からかなり近い距離にある星である。
星の色は青白。主系列星を見ても、若い星であると言える。

冬の星空に、ひときわ明るく輝くシリウスは、古代エジプトでも、豊穣の女神として知られ、ナイルの氾濫の予測にも使われていたという。
ギリシャ語では、「光り輝く者」、「焼き焦がす者」が語源とのことで、さすがにその明るさに古代人も、何らかの天意を感じていたのだろう。

今、冬の星座あたりには、明るい惑星がなく、まさに全天一の明るさを誇っている。

このところ、朝の犬の散歩時に見える冬の星座が綺麗だ。
冬の星座は華やかだ。
明るい星が多いということもあるが、一方で空気の澄んでいる時期に見える星々であり、なおさら輝いて見える。

ギリシャ神話では、神犬であったり、オリオンの番犬であったりするが、私は、犬たちと散歩しながら、おおいぬ座を見上げて、ふとほくそ笑む。

「ほら、空にも犬がいるよ…。」
私の犬たちは、地面ばかりを見ているので、星の存在には気づかない。
私は、散歩の途中に、ふと立ち止まり、夜空を見上げる。

ときおり流れ星が見えたり、ISSが飛んだりする。

そのたびに、犬たちは、私の足元でじっと待っている。

「この星空を、子供たちにも見せてあげなければ…。」
そんな思いが、強く湧いてくる。

宇宙を感じた人間は、ちっぽけな悩みだと吹き飛んでしまう。
星空にはそうした偉大な力がある。
一度でも満天の星を見た子供は、その人生が変わってゆくのではないだろうか。

今は、5時半には日の出なので、あっという間に空が白んでくるが、もうしばらくすれば、満天の星空を見ながら、犬の散歩を楽しむことができるだろう。

新聞配達のバイクが通り、あたりの農家の家には電気がついている。

「ほら、今日も星がきれいだよ…。」

犬たちは無反応だが、そこには当たり前の世界があった…。

2020年09月28日

体育のマラソン

体育のマラソン

体育の授業でマラソンが始まった。
校内の長い坂道を往復する。概ね2.5kmくらいである。
地区の駅伝大会がタイムレースになったので、その大会に出場する選手の選抜を兼ねるという。

今日は中2が走ったので、私は結果を聞いてみた。
すると、結果学年上位10以内は、すべて野球部かその助っ人だった。
さすがに走り込ませているだけはある。

前日、校内一位のT君が、「明日のマラソン、めんどくさい。雨が降って欲しい」、と言ったので、私は厳しく叱責した。

普段から運動をしている者が、そういうことを言ってはいけない。ましてや、一番早い人がそんなことを口に出してはいけない。そんなことを言ったら、運動の習慣がない人はどうすればいいのだ。やる気にならない人までの気持ちを高めさせるのが、日頃から鍛えている君たちの役割ではないか。

その指導が効いたかどうかは分からないが、今日の彼らは一生懸命走った。

たいてい、面倒がって何人かがだらだらと真面目に走らなかった姿を、私はこれまでにも何度も見ているからだ。

運動部ならば、体育の授業くらいは活躍して欲しいし、運動が苦手な人をも巻き込んで、スポーツの楽しさを教えて欲しいものだ。

先頭集団は10分もかからずに戻ってくるのだから、時間を持て余した彼らはコースを戻って、あとから来る人の応援をし始めた。

「歩くな、走れ!」
確かに、途中出歩くともっと辛くなるし、タイムはどんどん落ちる。
まさに、自分との戦いでもある。

「走るだけで楽しい」、と思える人は少ないのかも知れないが、それでも、走ることで体力は上がり、足腰も心肺機能も強化される。たいていの内臓疾患も改善に向かうようだ。

人間そんなに柔じゃない。

コロナの関係で市内駅伝やら地区のマラソン大会が中止になったので、彼らが走る機会は、体育のマラソンだけになってしまった。

「みんな上位で、なんか気持ちいいですね。」
T君が微笑む。

少し涼しくなって、まさにスポーツの秋なのに、中体連関係の大会だけは、相変わらず中止のまま。

将来、このツケは、いろいろ大きく影響するに違いない…。




2020年09月27日

Y先生嫌いです

近隣の高校の野球部員が合同講習会のため来校したので、その中のN中出身のH君に声を掛けてみた。
「今度、中学生がN校と試合するんだよ。Y先生だったろ?」
「はい。でも、僕、Y先生嫌いです…。」
Y先生は、野球に対してはとても熱心なのだが、その思いの強さが、一部の生徒には反発を招いているのだろう。

「N先生は、本当や優しくていい先生なんだよ。グランドに入ると人が変わるけど…。」
「そうなんですよ…。」
と、H君。

私はY先生とは、合同チームを組んだこともあり、よく話をした。
指導は厳しく、時に「やりすぎ」感もあるが、それでもチームを勝ちに導く指導と、技術はなかなかのものだ。審判技術もすばらしい。

一方で、卒業して2年してなお、「嫌い」のままであるのはどうだろう。

「所詮、教員なんてものはそんなものだ。良いも悪いも、彼らの成長期のほんの一時期、社会の厳しさを教えているにすぎない。」

そんな考えもあるだろう。
もしかしたら、卒業して何十年も経ったとき、どこかで、その先生の良さを発見することもあるかも知れない。

もちろん、記憶から完全に消え、あるいは封印するということもあるだろう…。

それでもH君が、好きな野球を続け、高校野球で頑張っているのは素晴らしい。
「好き・嫌い」は別にして、野球をY先生から教えてもらったことは事実だ。

スポーツの世界は、ある意味不条理なことが多い。
併せて、勝負の世界は命がけだ。
かつての武士の世であれば、負けることは『死』を意味する。
野球は『武士道』にも通じ、だからこそ『野球道』と言われたりもする。

一方で、アウトは『死』という言葉が使われる。

先日来校した、スリランカ人は、
「アメリカはベースボール、日本は野球。野球は日本の方が強いのです。」
と力説されていた。

Y先生の指導方針は、「嫌われること」を厭わない。
指導したことだって、忘れてしまうだろう。
それは私も同じだ。

「たとえ嫌われようとも、彼らの人生の糧になればそれでいい…。」
多くの教師たちは、そうした気概で日々格闘しているはずだ。




2020年09月26日

成功者の条件

スリランカから来日し、自己実現に成功している若者の講演を聴いた。
野球がしたくて日本にやってきて、甲子園に出たくて道を探し、結果、外国人として初めて甲子園で高校野球の審判員を務めた青年である。

「夢を持つことは素晴らしいこと。その上で、その夢を実現するには、どうしたらよいかを考えに考えて、その方向に向かって努力する。そうすると、たとえ回り道であってあっても、必ず夢はかなうのです。」

そう流暢な日本語で語るその言葉には重みがあった。

こうした成功者に共通することは、陰で並々ならぬ努力を重ねていることである。
「夢が実現するまで、諦めない」という姿勢も人一倍だ。
しかし一方で、「私はこんな努力をしました」、と努力をひけらかすことはしない。
むしろ、人知れず重ねた努力を、夢が実現するまでの一過程として、努力とは思っていないのだ。

「絶対に夢を叶えるのだ」という強い意志があれば、日々のコツコツとした精進のモチベーションはなくならない。
それが、「当たり前のこと」であり、その「当たり前のこと」を「当たり前にする」というルーチンが、傍目には努力し続けた姿に見えるわけだ。

「自分が本当にやりたいことを見つけること。それを見つけられたら、誰にも負けないのです。そのやりたいことに向かっていく力は、他の人が何と言おうと、覆るものではありません。一見、不可能と思うことであったも、必ず解決の道があるし、実現する方法があるのです。それを探し、その道を歩むだけです。」

思えば、世の成功者たちは、皆同じなのだろう。

「努力即幸福」の境地にすら達している人もいる。

その対極にあるのが、私のような怠け者であるのだが、そんな私が、「成功のための努力論」を説いたたところで、あまり説得力はない。

ふと、「私が教師として子供たちに伝えられることはなんだろう」、と思う。

「常にポジティブであることも大切です。何があっても、良い方向に進むと考えるのです。そういう考えの中では、すべてが学びの材料。失敗などありません。」

たとえ失敗したとしても、それは教訓として学び、経験値として蓄積されていくのだから、次に同じ失敗はしないし、その失敗が、成功への道を歩むためのヒントにもなる、と言う。

中学生の総合的な学習の時間で講演と質疑応答を行ったが、誰が聞いても、「ためになる」話しであるに違いない。

まさに成功者の条件を目の当たりに学んだように思う…。





2020年09月24日

校歌に思う

最近、私の学校では「生徒総会」なるものが行われていない。

他校のように(?)、喧喧諤諤、部活予算を取り合うこともないし、生徒提案の学校改革案を生徒全員で議論するような場もない。

それが適切かどうかは別として、生徒主体の生徒会活動、部活動の発表の場は欲しい。
という訳で、「部活動理念共有会」という位置づけの生徒集会が行われた。

朝の時間に行うので、二日に分けての開催となる。

その最後に、「校歌斉唱」があった。
久しぶりの校歌ではあるが、私はふと、開校前の準備を思い出した。
それを思い出していると、何だか声に詰まり、今日は黙って生徒たちの校歌を聴いていた。

「校歌ができました!」
という知らせを聞いた私たちは大喜びした。
その歌詞で感動し、その曲で感動した。

そこで、「今日は、一日中、校歌を流しながら仕事をしましょう」、ということになり、その日は終日大音量で校歌が流れていた。

私は、歌詞を噛みしめるたびに、うるうるしてしまい、半分涙目で開校準備の仕事をしていたのを覚えている。

今から、もうずいぶん前のことである。

「あの頃の、初心を思い出さなければいけないな…。」
校歌を聞きながら、自らを省みる。

感動しながら、学校の仕事に携わっていた当時の情熱は、今は薄らいでいるのではないか。

歳をとったということもある。
この先の人生を意識し始めた、ということもある。

教育への情熱がなくなったとは言いたくはないが、『全身全霊』ではなくなっていることは事実だ。

「若い人も活躍できるようになってきたし、もう自分自身はいらない存在になっているのではないか…。」
そんな思いもよぎる。

「もうひと頑張りしないと、後悔するぞ!」
そんな心の奥底の声も聞こえてくる…。

そんな風に揺れながらも、毎日時は過ぎてゆくのだが…。





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