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2020年09月23日
こんな練習でいいのかな
部活で野球の練習を見ていると、ふと、
「こんな練習でいいのな…。」
と、思う。
野球部を始めたばかりの頃は、私も勉強しまくって、どんどん野球の知識が増えていたが、最近はそれも怠り、なんだか過去の貯金で指導している感じもする。
併せて、当初は高校野球が隣で練習していており、ベテランの重鎮監督が指導していたので、その目も気になり、「適当な練習はできないな…」、「こんな練習では笑われるな…」などと意識したものだ。
新チームになり、最近はキャプテンが練習メニューを決めている。
私も、やりたいことがあるときは、それを差し置いて練習させるが、基本練習としては、まずまずのメニューになっている。
だが、試合数も少なくなっている昨今、彼ら選手たちのモチベーションに加えても、「このままでいいのかな…」、といいう疑問はよぎる。
やはり対外試合がないと、進歩が遅くなる。
大会でトーナメントで勝ち抜いていくチームは、一試合ごとにレベルをアップしていく。
試合での課題を、次の試合までに詰めていくからだ。
その意味では、短期集中の大会だと、それがやりにくい。
一方で、選手たちは、放っておくと、どんどん自己流になる。
ある意味、プロの選手たちは、それぞれが自己流なのだが、それは基本的な動きに裏付けされている上での各人のスタイルであり、そこに至るまでの多くの努力の結晶でもある。
だから、格好いいプロ選手の真似をしたところで、簡単にできるわけではないのだ。
「投げ方は、一人ひとり違うから、私は教えられない。」
今の高校野球の監督は、そう私に告げる。
確かに、人によって腕の長さや筋肉の付き方、体系などが違い、その人にあった適切な投げ方というのは、それこそ千差万別なのだ。
だからといって、一般的な指導を拒否するわけではないが、その本質までをに関わることは難しいということなのだろう。
私は、毎日彼らの日誌を見ている。
その中で、「今日の練習は充実していた」と書かれることがある。
毎日が同じメニューであっても、その充実感は日々違う。
だが、その充実感は、実は個人の、練習に取り組む「意識」から生まれるのだ。
つまり、いろいろと「意識」して練習する中に、その手応えと達成感が得られたときには。「良い練習だった」ということになるのだ。
だから、「やらされている練習」では上達はきわめて遅い。
その意味で、一人ひとりの意識を高めさせることが、我々教員(指導者)の仕事なのだろう…。
「こんな練習でいいのな…。」
と、思う。
野球部を始めたばかりの頃は、私も勉強しまくって、どんどん野球の知識が増えていたが、最近はそれも怠り、なんだか過去の貯金で指導している感じもする。
併せて、当初は高校野球が隣で練習していており、ベテランの重鎮監督が指導していたので、その目も気になり、「適当な練習はできないな…」、「こんな練習では笑われるな…」などと意識したものだ。
新チームになり、最近はキャプテンが練習メニューを決めている。
私も、やりたいことがあるときは、それを差し置いて練習させるが、基本練習としては、まずまずのメニューになっている。
だが、試合数も少なくなっている昨今、彼ら選手たちのモチベーションに加えても、「このままでいいのかな…」、といいう疑問はよぎる。
やはり対外試合がないと、進歩が遅くなる。
大会でトーナメントで勝ち抜いていくチームは、一試合ごとにレベルをアップしていく。
試合での課題を、次の試合までに詰めていくからだ。
その意味では、短期集中の大会だと、それがやりにくい。
一方で、選手たちは、放っておくと、どんどん自己流になる。
ある意味、プロの選手たちは、それぞれが自己流なのだが、それは基本的な動きに裏付けされている上での各人のスタイルであり、そこに至るまでの多くの努力の結晶でもある。
だから、格好いいプロ選手の真似をしたところで、簡単にできるわけではないのだ。
「投げ方は、一人ひとり違うから、私は教えられない。」
今の高校野球の監督は、そう私に告げる。
確かに、人によって腕の長さや筋肉の付き方、体系などが違い、その人にあった適切な投げ方というのは、それこそ千差万別なのだ。
だからといって、一般的な指導を拒否するわけではないが、その本質までをに関わることは難しいということなのだろう。
私は、毎日彼らの日誌を見ている。
その中で、「今日の練習は充実していた」と書かれることがある。
毎日が同じメニューであっても、その充実感は日々違う。
だが、その充実感は、実は個人の、練習に取り組む「意識」から生まれるのだ。
つまり、いろいろと「意識」して練習する中に、その手応えと達成感が得られたときには。「良い練習だった」ということになるのだ。
だから、「やらされている練習」では上達はきわめて遅い。
その意味で、一人ひとりの意識を高めさせることが、我々教員(指導者)の仕事なのだろう…。
2020年09月22日
水槽の魚たち
自宅の水槽の川魚が一匹になって厳しくなるので、釣り好きの中3のI君にお願いしたら、N君と一緒にこの連休に何十匹も捕ってきてくれた。
小さいのでよく判別できないが、カワムツやらウグイであろうと思われる。
私の家の裏には川があり、そこにはたくさんの釣り客がやってくる。
すでに渓流魚の禁漁期間になったが、今でも朝夕にはバス釣りとおぼしき彼らが竿を垂らす。
選集I君は、「何匹くらい欲しいんですか?」、と訪ねてきたので、「十数匹は居ないと、水槽が淋しい…」、と答えたところが、私が野球部の練習を見ている間に、川で釣ったり、すくったりして、自宅に戻ると、水槽は魚でいっぱいになっていた。
なかなか壮観である。
しかも、美しい。
ライトアップすると、何だかわくわくする…。
5センチにも満たない、小魚だが、元気よく水槽を泳ぎ回っている。
「人間の癒やしになれば、彼らも仕事をしたことにもなろう…。」
私は、魚たちを捕まえて、水槽で飼っていることを正当化する。
「丹澤先生、すごいもの捕ってきましたよ。見て下さい。」
Tシャツを即席の袋に変形したその中には、20センチほどの鮎が一匹。
「弱って居たので、手で捕ってきちゃいました。」
と、N君。
おそらく落ち鮎と思われる
「焼いて食べましょう。」
とI君。
早速、我が家のガスコンロのグリルで鮎を焼く。
私も一口食べたが、美味だった。
この地には、こんな自然の恵みがある。
本来捕ってきてはいけないのだろうが、そのまま命尽きるくらいなら、人の心を癒やす方がよかろう。
人はあの世から生まれ変わって、この世で生き、またあの世に帰って行くという。
この世は修行の場だから、不自由な世界。
あたかも、水槽の中を生きているようだと言う。
水槽を見ながら、「神様は、そんな気持ちで、私たち人間を見ているのだろうか…」、と思う…。
魚たちを大切に育てよう。
小さいのでよく判別できないが、カワムツやらウグイであろうと思われる。
私の家の裏には川があり、そこにはたくさんの釣り客がやってくる。
すでに渓流魚の禁漁期間になったが、今でも朝夕にはバス釣りとおぼしき彼らが竿を垂らす。
選集I君は、「何匹くらい欲しいんですか?」、と訪ねてきたので、「十数匹は居ないと、水槽が淋しい…」、と答えたところが、私が野球部の練習を見ている間に、川で釣ったり、すくったりして、自宅に戻ると、水槽は魚でいっぱいになっていた。
なかなか壮観である。
しかも、美しい。
ライトアップすると、何だかわくわくする…。
5センチにも満たない、小魚だが、元気よく水槽を泳ぎ回っている。
「人間の癒やしになれば、彼らも仕事をしたことにもなろう…。」
私は、魚たちを捕まえて、水槽で飼っていることを正当化する。
「丹澤先生、すごいもの捕ってきましたよ。見て下さい。」
Tシャツを即席の袋に変形したその中には、20センチほどの鮎が一匹。
「弱って居たので、手で捕ってきちゃいました。」
と、N君。
おそらく落ち鮎と思われる
「焼いて食べましょう。」
とI君。
早速、我が家のガスコンロのグリルで鮎を焼く。
私も一口食べたが、美味だった。
この地には、こんな自然の恵みがある。
本来捕ってきてはいけないのだろうが、そのまま命尽きるくらいなら、人の心を癒やす方がよかろう。
人はあの世から生まれ変わって、この世で生き、またあの世に帰って行くという。
この世は修行の場だから、不自由な世界。
あたかも、水槽の中を生きているようだと言う。
水槽を見ながら、「神様は、そんな気持ちで、私たち人間を見ているのだろうか…」、と思う…。
魚たちを大切に育てよう。
2020年09月21日
グランドの草刈り
野球部の練習で外部のグランドの行くと、私は数十分間だが、雑草抜きをする。
一雨ごとに雑草は大きく成長するので、もはや人間の手で一本一本抜くというレベルではなくなっている。
そこで私は、長い柄の「三角草取り」を斜めにしながら、ささっと雑草を抜いていくのである。
外野は、グランド外の草は、刈払機で処理する。
幸い、今のところ高2のM君が、チップソーとナイロンコードを使い分けながら、広大な敷地の草を刈ってくれている。
彼はときおりグランドにやってきて、ひたすら草刈りをしている。
それを見ている地元の方は、
「あの草刈りをやっているのは誰だい?
と聞く。
私は、
「あの子は高校生です。農家の息子なので、草刈りが好きなんです…。」
と答えることにしている、
もちろん「好き」ではなかろうが、草ボウボウの状態で放置しておくのが嫌らしく、草が伸びた頃になると、さっと表れ、刈ってくれるのだ。
私もたまにやるが、すぐに疲れてしまうので、本当にありがたい。
草を刈らないと、どんどんボールが行方不明になってしまうので、定期的な作業は必要だ。
その上、使用料無料とは言え、借りているグランドなので、そのメンテナンスや手入れもきっちりやっておきたい。
近隣の方も、元気な子供たちの声が聞こえてくるのは、うれしいだろうし、応援もしてくださる。
田舎の集落はいい…。
「先日の甘唐辛子、おいしかったですよ。」
と、地元の方に声を掛けたら、「そうか、じゃあ、まだ採ってきてやるよ」、と、すぐに畑から袋いっぱい収穫して下さった。
グランドに一番近い家のご老人は、ときおり練習を見に来ては、「毎日来な…」と、声を掛けて下さる。
八十歳を超えたであろうと思われる方とは、会話は成立しないが、その思いは伝わってくる。
生徒たちに差し入れを持ってきて下さったことだってある。
過疎化が進む地域にとっては、子供たちの存在は宝なのだ。
日本ミツバチの巣箱を置いている地元の方も、「俺らは勝手に使っているけど、手入れしとけば、何も言われねぇ」、とときおり巣箱周辺を草刈りしてる。
「生徒たちの元気な声を絶やさないように、ここでの練習を続けていかなければ…」、と思うことしきりである。
だが、私のできる恩返しは何だろう…。
いつも、もらいっぱなしだ。
一雨ごとに雑草は大きく成長するので、もはや人間の手で一本一本抜くというレベルではなくなっている。
そこで私は、長い柄の「三角草取り」を斜めにしながら、ささっと雑草を抜いていくのである。
外野は、グランド外の草は、刈払機で処理する。
幸い、今のところ高2のM君が、チップソーとナイロンコードを使い分けながら、広大な敷地の草を刈ってくれている。
彼はときおりグランドにやってきて、ひたすら草刈りをしている。
それを見ている地元の方は、
「あの草刈りをやっているのは誰だい?
と聞く。
私は、
「あの子は高校生です。農家の息子なので、草刈りが好きなんです…。」
と答えることにしている、
もちろん「好き」ではなかろうが、草ボウボウの状態で放置しておくのが嫌らしく、草が伸びた頃になると、さっと表れ、刈ってくれるのだ。
私もたまにやるが、すぐに疲れてしまうので、本当にありがたい。
草を刈らないと、どんどんボールが行方不明になってしまうので、定期的な作業は必要だ。
その上、使用料無料とは言え、借りているグランドなので、そのメンテナンスや手入れもきっちりやっておきたい。
近隣の方も、元気な子供たちの声が聞こえてくるのは、うれしいだろうし、応援もしてくださる。
田舎の集落はいい…。
「先日の甘唐辛子、おいしかったですよ。」
と、地元の方に声を掛けたら、「そうか、じゃあ、まだ採ってきてやるよ」、と、すぐに畑から袋いっぱい収穫して下さった。
グランドに一番近い家のご老人は、ときおり練習を見に来ては、「毎日来な…」と、声を掛けて下さる。
八十歳を超えたであろうと思われる方とは、会話は成立しないが、その思いは伝わってくる。
生徒たちに差し入れを持ってきて下さったことだってある。
過疎化が進む地域にとっては、子供たちの存在は宝なのだ。
日本ミツバチの巣箱を置いている地元の方も、「俺らは勝手に使っているけど、手入れしとけば、何も言われねぇ」、とときおり巣箱周辺を草刈りしてる。
「生徒たちの元気な声を絶やさないように、ここでの練習を続けていかなければ…」、と思うことしきりである。
だが、私のできる恩返しは何だろう…。
いつも、もらいっぱなしだ。
2020年09月20日
聖職者の生き方
先日『サラメシ』というテレビ番組を見ていたら、若い牧師さんの生活が紹介されていた。
教会の二階に住み、毎日のお勤めや、日曜礼拝を行っている青年である。
その中で、彼は、
「私は主の代理で、お勤めをしています。畏れ多いことですが、魂としての喜びがあります。」
と言う。
これには脱帽である。
まさに聖職者だ。
そういう敬虔さが、信者を獲得し、さらに若者への感化も生まれるのだろう。
仏教、キリスト教、イスラム教、その他多くの諸宗教には、多くの聖職者たちがいるが、彼らのどのくらいの者が、こうした考えで聖務を行っているのだろうか。
「どのくらいの給料なのですか?」、というテレビ局のゲスな質問には、
「大卒の初任給よりは低いです。」
と、併せて、「年齢にかかわらず、一緒なんですけどね…」、とも…。
そして、「慎ましく生きれば、やっていけます」、と堂々と答えていた。
彼ら牧師たちは、教会に派遣されているので、一時期、止宿はしているが、しばらくすれば、また別の教会に派遣される。だから、個人としての持ち物も、必要最低限だ。
彼ら聖職者は、神に命を差し出しているのだ。
仏教的に言えば、仏に命を布施しているということになる。
給料が低いとか、自由な時間がないとか、行動が制限される、などというこの世的な価値観を超えて、神のために尽くしているのである。
そしてその姿が、人々に勇気を希望を与え、結果的に人々をも救っていることになる。
いつの時代にもこうした存在はいる。
決して目立つことはないが、すべてを捧げ、信仰に生きている人々である。
私も、そんな彼らと同じ世界に生きているにもかかわらず、少しわがままが過ぎたようだ。
思えば、与えられていることばかり。
思い返せば、不自由など、それほどない。
私自身の自戒を込めて…。
教会の二階に住み、毎日のお勤めや、日曜礼拝を行っている青年である。
その中で、彼は、
「私は主の代理で、お勤めをしています。畏れ多いことですが、魂としての喜びがあります。」
と言う。
これには脱帽である。
まさに聖職者だ。
そういう敬虔さが、信者を獲得し、さらに若者への感化も生まれるのだろう。
仏教、キリスト教、イスラム教、その他多くの諸宗教には、多くの聖職者たちがいるが、彼らのどのくらいの者が、こうした考えで聖務を行っているのだろうか。
「どのくらいの給料なのですか?」、というテレビ局のゲスな質問には、
「大卒の初任給よりは低いです。」
と、併せて、「年齢にかかわらず、一緒なんですけどね…」、とも…。
そして、「慎ましく生きれば、やっていけます」、と堂々と答えていた。
彼ら牧師たちは、教会に派遣されているので、一時期、止宿はしているが、しばらくすれば、また別の教会に派遣される。だから、個人としての持ち物も、必要最低限だ。
彼ら聖職者は、神に命を差し出しているのだ。
仏教的に言えば、仏に命を布施しているということになる。
給料が低いとか、自由な時間がないとか、行動が制限される、などというこの世的な価値観を超えて、神のために尽くしているのである。
そしてその姿が、人々に勇気を希望を与え、結果的に人々をも救っていることになる。
いつの時代にもこうした存在はいる。
決して目立つことはないが、すべてを捧げ、信仰に生きている人々である。
私も、そんな彼らと同じ世界に生きているにもかかわらず、少しわがままが過ぎたようだ。
思えば、与えられていることばかり。
思い返せば、不自由など、それほどない。
私自身の自戒を込めて…。
2020年09月16日
床磨きは心磨き
今年の私の掃除時間の担当は、食堂の廊下。掃除場所には一部配膳コーナーの床が含まれる。
そこに中1から中3までの生徒がやってきて、15分間掃除を行う。
私は、たいてい配膳コーナーの床を水拭きする。
給食の配膳を行っている関係上、床はかなり汚れてしまう。
ご飯粒を落とせば、黒く固まり、へらでそぎ落とさなければならないし、食べ物の汁が垂れたあとを、多くの人が歩くことになり、あらに汚れが広がってしまう。
そんな床を、両手に雑巾を置き、四つんばいになって、床を拭くのである。
なかなかの重労働だが、私はこの時間が好きだ。
さながら『作務修行』である。
「床を磨きながら、心を磨く」、ことを心掛ければ、それはもはや掃除ではなくなる。
自分の身の回りなかなかきれいにはできないが、せめて掃除担当の床くらいは磨きたいと思っている。一日のわずかな時間に、そうした思いで床に這いつくばる…。
そんな菅を見た古参の先生が、
「丹澤先生、そんなことまでされているのですか? ご苦労様です。」
と言われたこともある。
私は照れながら、
「いやぁ、私のできることはこのくらいですから…。」
と答える。
給食の業者も、
「先生、ありがとうございます。」
と、声を掛けて下さる。
「私が拭いているのだから、君たちもやりなさい」、などとは生徒に言おうとは思わない。
自然に、その姿が浸透すればいいし、私の思いは全く別の所ににある。
やってもやっても、なかなかきれいにならないのは、私の心が汚れているからなのだろう。
汚れた雑巾は洗って戻すが、これをさらに洗濯してきれいに洗い、また畳んで、次にまた使えるようにするのは、給食業者だ。本当にありがたい…。
「丹澤先生、雑巾が真っ黒になりますね…。」
それに気づけばそれでいい。
私はトイレの床であっても同じことをする。
心を磨くのが床磨きなのだ。
そこに中1から中3までの生徒がやってきて、15分間掃除を行う。
私は、たいてい配膳コーナーの床を水拭きする。
給食の配膳を行っている関係上、床はかなり汚れてしまう。
ご飯粒を落とせば、黒く固まり、へらでそぎ落とさなければならないし、食べ物の汁が垂れたあとを、多くの人が歩くことになり、あらに汚れが広がってしまう。
そんな床を、両手に雑巾を置き、四つんばいになって、床を拭くのである。
なかなかの重労働だが、私はこの時間が好きだ。
さながら『作務修行』である。
「床を磨きながら、心を磨く」、ことを心掛ければ、それはもはや掃除ではなくなる。
自分の身の回りなかなかきれいにはできないが、せめて掃除担当の床くらいは磨きたいと思っている。一日のわずかな時間に、そうした思いで床に這いつくばる…。
そんな菅を見た古参の先生が、
「丹澤先生、そんなことまでされているのですか? ご苦労様です。」
と言われたこともある。
私は照れながら、
「いやぁ、私のできることはこのくらいですから…。」
と答える。
給食の業者も、
「先生、ありがとうございます。」
と、声を掛けて下さる。
「私が拭いているのだから、君たちもやりなさい」、などとは生徒に言おうとは思わない。
自然に、その姿が浸透すればいいし、私の思いは全く別の所ににある。
やってもやっても、なかなかきれいにならないのは、私の心が汚れているからなのだろう。
汚れた雑巾は洗って戻すが、これをさらに洗濯してきれいに洗い、また畳んで、次にまた使えるようにするのは、給食業者だ。本当にありがたい…。
「丹澤先生、雑巾が真っ黒になりますね…。」
それに気づけばそれでいい。
私はトイレの床であっても同じことをする。
心を磨くのが床磨きなのだ。
2020年09月15日
校舎に入れない…
学校から連絡が入る。
生徒の一人が倒れたと言う。
私は、急いで急いで学校に向かい、さあ校舎に入ろうとすると、ある女性教員が立っていて、「丹澤先生は、校内に入れません」、と言う。
その女性教員とは確執がある。
以前、私の発言によって、深く傷つけてしまったようで、以来、口をきいてくれなくなった。
本当に必要な時だけ、感覚的には一ヶ月か二ヶ月に一度くらい、ちょっとだけ会話を交わす、という関係である。
以来、私自身も彼女のことが好きになれなくなった。
何となく母につくのである。
人を見下すような、そんな雰囲気すら漂っているように見えるのだ。
あたかも、「穢れてる」と言わんばかりだ。
確かに私は穢れている。
彼女のような、純粋さはないのだろう。
自分ががさつで、しばしば人を傷つけ、また、心のコントロールもできない未熟な人間であることはよく分かっている。「穢れている」ことくらい百も承知だ。
おそらく、私が穢れているから、校内に入ることを許さないのだろう。
純粋な生徒に、私を近づけたくないのだろう。
「生徒が倒れているんですよ。どうして私が入っちゃいけないんですか。」
私は激しく反発した。
それでも彼女は、かたくなに「だめです」と、私が行くことを拒んだ。
私は、さらに心が乱れた。
激しく抵抗し、制止を振り切り、教室へ駆け上がっていく…。
その途中で、目が覚めた。
目覚めても、状況がありありと分かる。
リアルな夢とは、こんな夢のことを言うのだろう。
「彼女と和解しなさい」、というメッセージか…。
それとも、「穢れているあなたの心をきれいにしなさい」、という警告か…。
嫌な夢を見た。
生徒の一人が倒れたと言う。
私は、急いで急いで学校に向かい、さあ校舎に入ろうとすると、ある女性教員が立っていて、「丹澤先生は、校内に入れません」、と言う。
その女性教員とは確執がある。
以前、私の発言によって、深く傷つけてしまったようで、以来、口をきいてくれなくなった。
本当に必要な時だけ、感覚的には一ヶ月か二ヶ月に一度くらい、ちょっとだけ会話を交わす、という関係である。
以来、私自身も彼女のことが好きになれなくなった。
何となく母につくのである。
人を見下すような、そんな雰囲気すら漂っているように見えるのだ。
あたかも、「穢れてる」と言わんばかりだ。
確かに私は穢れている。
彼女のような、純粋さはないのだろう。
自分ががさつで、しばしば人を傷つけ、また、心のコントロールもできない未熟な人間であることはよく分かっている。「穢れている」ことくらい百も承知だ。
おそらく、私が穢れているから、校内に入ることを許さないのだろう。
純粋な生徒に、私を近づけたくないのだろう。
「生徒が倒れているんですよ。どうして私が入っちゃいけないんですか。」
私は激しく反発した。
それでも彼女は、かたくなに「だめです」と、私が行くことを拒んだ。
私は、さらに心が乱れた。
激しく抵抗し、制止を振り切り、教室へ駆け上がっていく…。
その途中で、目が覚めた。
目覚めても、状況がありありと分かる。
リアルな夢とは、こんな夢のことを言うのだろう。
「彼女と和解しなさい」、というメッセージか…。
それとも、「穢れているあなたの心をきれいにしなさい」、という警告か…。
嫌な夢を見た。
2020年09月13日
最優秀賞
中3の文化祭の二日目の舞台は、やや元気に欠けた。
一日目の舞台からは、彼らの緊張感が伝わってきて、それがパワーにつながったが、今日の舞台はそうではなかった。
審査は今日なのだ。
私の見るところ、役者たちの演技にやや空回り感があった。
テンポ良く展開はできたが、随所にセリフミスもあった。
二日目の舞台は、どの団体もレベルアップしていたので、「これで最優秀賞を取れるかな…」、と思いながら、私は写真撮影に勤しんでいた。
昨日より良くなったところは、多少まとまりが良くなったことくらいだろう。
「R君、間違えちゃったね〜。」
と、主役級の生徒に声を掛けると、「気合いが入り過ぎちゃいました」、とのこと。
それでも上手かった。
舞台演劇の評価は、「脚本と役者の演技と、舞台の一体感、そしてテンポの良さ」、だ。
中3の劇は、これらはクリアしていた。
あとは、審査員次第。
プロ2人がどう評価するか、だが、幸い、結果は『最優秀賞』だった。
R君も最優秀演技賞、脚本も脚本賞を取れた。
大道具も、シンプルかつ必要最小限だった。
もちろん生徒たちは大喜び。
途中、いろいろなトラブルはあったが、結果良ければすべてよしだ。
「おめでとう!」
私は、素直に彼らを祝福する。
もっともっと磨けるのだけれど、文化祭ではこれで十分なのだろう…。
もちろん、他の団体の劇もよかった。
随所に光り輝く部分があった。
私の学校の生徒たちは、なかなかの芸達者だ。
この成功体験が、彼らのエネルギーになる…。
彼らの純粋さとエネルギッシュなパワーに、自然に泣けてきた。
だから生徒たちと関わるのは面白い。
一日目の舞台からは、彼らの緊張感が伝わってきて、それがパワーにつながったが、今日の舞台はそうではなかった。
審査は今日なのだ。
私の見るところ、役者たちの演技にやや空回り感があった。
テンポ良く展開はできたが、随所にセリフミスもあった。
二日目の舞台は、どの団体もレベルアップしていたので、「これで最優秀賞を取れるかな…」、と思いながら、私は写真撮影に勤しんでいた。
昨日より良くなったところは、多少まとまりが良くなったことくらいだろう。
「R君、間違えちゃったね〜。」
と、主役級の生徒に声を掛けると、「気合いが入り過ぎちゃいました」、とのこと。
それでも上手かった。
舞台演劇の評価は、「脚本と役者の演技と、舞台の一体感、そしてテンポの良さ」、だ。
中3の劇は、これらはクリアしていた。
あとは、審査員次第。
プロ2人がどう評価するか、だが、幸い、結果は『最優秀賞』だった。
R君も最優秀演技賞、脚本も脚本賞を取れた。
大道具も、シンプルかつ必要最小限だった。
もちろん生徒たちは大喜び。
途中、いろいろなトラブルはあったが、結果良ければすべてよしだ。
「おめでとう!」
私は、素直に彼らを祝福する。
もっともっと磨けるのだけれど、文化祭ではこれで十分なのだろう…。
もちろん、他の団体の劇もよかった。
随所に光り輝く部分があった。
私の学校の生徒たちは、なかなかの芸達者だ。
この成功体験が、彼らのエネルギーになる…。
彼らの純粋さとエネルギッシュなパワーに、自然に泣けてきた。
だから生徒たちと関わるのは面白い。